オセンタルカの太陽帝国

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伊豆にもかくれきりしたんの墓が。

2007年07月07日 20時08分38秒 | 伊豆の歴史

ついでなので、伊豆の大仁にある変なものの写真を、いくつか貼っときます。

これ、地元では「隠れキリシタンの墓」だと言われているものだそうです。
上部に刻まれている十字架からそうされているんだと思いますが、刻まれている文字は私にはさっぱり読み取れなかったです。
なにしろ分かりにくい位置で、人の家の裏というか、果樹畑の中とか、そういう感じだったので、長くいちゃいけないような気がして・・・・・・(私のいくじなしっ)

場所は、136号線の中島のミニストップの前の小道を狩野川方向に侵入し、すぐ見える工場の前にあるお宅の裏。私みたいに、必死になって探さなければ絶対に分からない位置にあります。

思ったより小さくて、しかもさりげなく紛れるように立っているので、言われても気付かないと思います。(他のお墓は切支丹のものではありません)。・・・ほんとに切支丹の墓か?とも思いますが、江戸時代にはこんな印は頼まれても刻みませんから、本物なんでしょうねぇ。

図書館にあった本には、「慶長12年に駿府の徳川家康が、伊豆の大久保長安に宣教師ヨハネ・ロドリゲスを派遣して、技術の伝授をさせているので、そのロドリゲス師となんらかの関わりのある墓かもしれないしそうでないかもしれない」みたいなことが書かれています。
伊豆と隠れ切支丹はなんともイメージが合わない感じがしますが(伊豆は人間の性格が楽天的すぎるので)、でもそもそもは伊豆はそういう土地だった(流人が隠れ住むところ)ということを考えると、あり得ることなのかも知れませんね。ただジュリアおたあのように(←隠れじゃありませんが)絶海の孤島に流してしまう気がします、徳川家は。
このお墓は元禄年間のものだそう。

ついでに見つけた変な道祖神
上の場所の近くの別の場所に、大量の墓石や庚申塔が集められている場所がありまして、「狩野川台風殉難供養塔」という碑もありましたので、台風を機にかき集められたのだと思いますが、そのひとつ。 ・・・・・これはなに?

続いて、大仁の繁華街の近くの水晶山にあるという、「大正天皇の鵜飼いの天覧の碑」。
なんでも大正天皇がまだ皇太子だった頃、ここに鵜飼いを見に来て(明治26年=14歳のとき)、そしてその後皇太子が天皇となったとき、記念のために町びとが碑を建てたのだそうです。大正元年・・・・ お岩の碑よりも古いわ。

・・・・これかな?
水晶山の裏側に回ると、ちびっこ広場という名前のゲートボール場があって、そこから見上げると川に面した付近に何か立っているのが見えるのですが、あまりにも高い位置にあって、何と刻まれているのかさっぱり読めません。これで合ってるのかな?


<裏側から見た水晶山>

岩山なので登ろうと思えば登れる感じですが、傾斜は急で、ちょっと危険を冒さなければならない感じです。なにより、ちびっ子広場に面して老人施設があり、そこに人がたくさんいるのです。気の弱い私は、あきらめました(^_^)

そんな誰にも見えないところに碑を作ったりして、何の意味があるのか!

改めまして(詩緒蘭さんに「水晶山は頂上まで登れる」と教えて頂いたので)、水晶山に行ってみました。明らかに民家につづいてそうな坂を登っていくと、普通の民家のお庭の中に鳥井が見える(-_-)。さすがにお庭に入り込むのは気が引けるので、困ってキョロキョロしていますと、お庭を回り込むように登っていく小道発見。「ほんとにこれ道なのか!?」というような踏み分け道をどんどん登っていきますと、突如石造構築物が。おおっ。

まるで城郭遺跡です。
そしてありました。展望台。思っていたより立派な物でした。なんかお洒落。

なぜか展望台の傍らには「神武天皇遙拝所」の碑。昭和2年建造。
錆びた鉄の細い梯子があって、この上に登る事ができます。

頂上から対岸の大仁金山を。良く見えます。すばらしいです。
黄金の放つ妖気は、、、、、 私には見えません。

頂上から見る狩野川の流れ。いいですね。長安の頃は水量は3倍です。
中腹の民家のところに、お稲荷さんの社があります。青い。

見た目は簡素ですが、鳥居は立派。(しかも2つある)。
この稲荷は「黄金浄清稲荷」(でしたっけ)といって、慶長13年に大久保長安の家族が幕府によって皆殺しにされたとき、大仁金山と大仁村の人々が、長安の霊を鎮魂するために建てたのだそうです。中には何があるんだろう?

で、江戸時代にはこの大仁の郷には旅籠が4軒あったそうです。中でも一番栄えたのが「本陣」と呼ばれた「江戸屋」。街道沿いじゃないのに本陣とはいかに?と思うのですが、場所は水晶山のすぐ近くにあります。水晶山から伊豆箱根鉄道の踏切を渡ったところ。残念ながら今は旅籠ではなく、菊池米屋さんとなっているのですが、目の前が一二三荘ですので、そっちの方が江戸屋さんと関係があるのかも知れませんね。
先の記事で述べたとおり、岩御前の祠も元は江戸屋の裏にあったのです。
で、現在菊池米店の前に、芭蕉の句碑が立っています。
かつて江戸屋で句会を開いたとき、たまたま松尾芭蕉もそこにいたようで、この句を詠んだのです。

「霧時雨 富士を見ぬ日ぞ おもしろき」

確かに富士山は伊豆のどこから見ても綺麗ですが、富士が見えるとそれだけで満足してしまう。他にも大仁には面白い物がたくさんあるのに。お岩の亡霊とか大久保石見の亡霊とか鵜とか鵜とか鵜の亡霊とか鮎とか水晶とか黄金とか。往時の大仁の趣深い様子が窺い知れます。石がまた富士山形になっているのがいいですね。

つづきまして、詩緒蘭さんに教えていただいた「大仁映画館の跡」。
大仁ホテルに行く途中だというので、えっちらおっちら坂を登っている途中、坂から下を見下ろして気付きました。映画館を取り壊して作ったマンションというのは、アレだ!
全然高台じゃなかったですね。早とちりした私が恥ずかしい。
それにしても、駅が賑わっていた当時はいい位置だったと思います。

つづきまして。松陰先生ご宿泊所。

大仁郵便局の壁にあります。
昔は、この郵便局の辺りには名主の杉村友右衛門の屋敷があり、安政元年に下田で捕縛され江戸に移される途上の吉田松陰が一泊だけここに泊められたのだそうです。
すると、その話を聞いた代官・江川太郎左衛門英龍がわざわざやってきて、吉田松陰と一晩親しく語り明かしたのだとか。…松陰はこのとき犯罪者ですよー。いいのか代官。
残念ながら「松陰と江川が出会って会談した」という話はこの家だけに伝わっている伝説だったそうで、ちゃんとした本にはそんな事実があったということは一切書かれていないのですが(松陰関係の本はあまり読んでないので知りませんけど)、「ほんとに太郎左衛門と寅次郎が語り合っていたとしたららどんな会話をしただろう?」とはファンとして興味が強く湧くところでございます。江川太郎左衛門は桂小五郎や大嫌いな佐久間象山繋がりで、吉田寅次郎の名前ぐらいは知っていたと思いますので。
安政元年というのは江川太郎左衛門が過労で死去する一年前です。
…というような、あまりに可能性に満ち溢れる歴史的遺跡なのに、現在は目立たない場所にその碑はあり、現地で知っている人もほとんどない。

<捜したけれど見つからなかった物>
吉田にあるという「蹴鞠屋敷」。
江戸時代にこの付近には蹴鞠が流行していて(なぜ江戸時代?)、たくさんの高貴な人々がここに集まって蹴鞠を練習し、時には大会も開かれたそうです。
さすが、サッカー王国静岡!
・・・でもその場所、有名みたいなのに見つけられませんでした。
そんなに入り組んだところにあるはずがないのですけど、多分看板とかは無いと思われるので、近くを通ってるけど気付かないだけ、なんだと思います。

続きまして。
平安時代のエロ僧侶・仁寛大僧正の碑。三福にあります。

仁寛阿闍梨は、後三条天皇の皇子だった輔仁親王の護持僧だったのですが、天皇集権性を目指していた後三条上皇は死ぬ前に、藤原氏の血を引いていた長男の白河天皇に危機感を抱き、白河の次は弟の輔仁親王に位を譲るように遺言した。白河は父にはそれについてちゃんと約束をしたが、約束を守る気などはなかった。白河の息子が堀河天皇に、さらにその息子が鳥羽天皇となる。怒った輔仁親王が白河上皇に対してクーデターを企んでいるという噂が立ち、実行犯として仁寛が捕まった。白河は彼を伊豆大仁に流した。輔仁親王は幽閉。政治生命を断たれた。これを「千手丸事件」という。
・・・・とウィキペディアにはかかれているのですが、
平凡社の世界大百科にはもっと簡潔に、「仁寛は女犯を犯した罪で伊豆に流された」と書いてあります(-_-)

伊豆大仁に流された仁寛はなぜかこの地で「愛というものの素晴らしさ」に目覚め、男女の肌と肌との触れ合いによる仏性の昇華を説き始めます。やがて5ヶ月後に「仁寛は岩山から身を投げて死んだ」という報告が都に届けられますが(その岩山とは、城山だとするものと水晶山だとするものの2説があるそうです。城山から飛び降りるのはすごく痛そうです)、仁寛を崇める人たちは伊豆の葛城山と城山を「愛の聖地」として讃える事となり、仁寛の教えは愛の宗教「真言立川流」としてどんどん成長していきます。この真言立川流は伊豆を中心にかなり浸透していったそうで、一時期は「真言宗徒の8割が立川流」で、鎌倉時代後期に後醍醐天皇を狂わした文観上人にそもそも立川流を伝授したのは、江間の北條寺の住職だったとか(-_-) ・・・ま、ほとんどが伝説にまみれているんですけど、現在伊豆長岡が“愛の町”となっていますので、半分は本当なんだと思います。天野遠景が出家後「蓮景」と名乗ったのも立川流の影響かもしれないし、ドクロ坊主・文覚も立川流の「髑髏本尊」と何かの関係があるのかもしれない。

参考;『仁寛と立川流』

その仁寛が配流された場所が、三福にある「三福庵寺」だったそうです。仁寛の死後、可哀想に思う人(もしくは熱烈な崇拝者)が庵寺跡に仁寛を悼む碑を建てたのだそうです。(墓ではありません)
場所は、大仁小学校と旭化成の工場の前の信号を狩野川方向に向かい、ひとつめの侵入路を南に入ってぐねぐね行った所。…と聞いて行ったのですが、自転車で10分ぐらい彷徨ってもさっぱり見つかりません。ようやく見当を付けたのが上の写真の場所。背の高い墓石のようなものが見えますが、あからさまに人の家の庭の中のような場所にあります。どうして大仁の史跡はこんな立地ばかりなんだっ。などと怯えていても始まりませんから、意を決してどこかのお宅の駐車場みたいな場所をグイグイと進んでいきます。するとまぁ、その先は公園みたいになっていました。なぁんだ、入っていい場所なんだったらちゃんと分かるようにそう書いといてくださいよ。

ここがお寺の跡だったんですねぇ。ここは高台で狩野川方面の低地を見下ろせるようになっておりまして、そして、ここからは岩山である城山がほんとに素晴らしく聳えて見える。ここで数ヶ月沈思をおこなっていたから、やがて仁寛はあそこから飛び降りたくなっちゃったんですねぇ。こわっ

ところで、この「仁寛の塔柱」の地元名が“豆塚”。
なにが豆なんだろう、と思うんですがもしかして淫猥な意味での「お豆」なのかな。いやだいやだ。

最後、狩野川沿いの白山堂にある「頼朝(らいちょう)塚」です。

頼朝と言っても源頼朝の事ではなく、平安時代の中頃に全国を行脚していた尊い「頼朝法師」(895~977、「来朝法師」とも)のことです。
この頼朝は「全国の霊地・聖地をすべて廻る」と発願し、何年も掛けて旅をしていたのですが、最後に訪れたのが伊豆の国でした。法師は見事大願を果たせた事に感謝の念を抱き、この場所に座って1000体の仏像を彫り、それを村人たちに配ったのだそうです。すべてを終えた頼朝法師は善光寺に向かって旅立ち、40年後に亡くなりました。
こんなところに座って1000体も仏像を彫る、この場所があまりにも狩野川に近いので「洪水が恐くなかったのか」と心配になってきてしまいます。でもこの付近を自転車で巡ると、家の片隅に小祠や道祖神を飾っているお宅が多い。他の地域では狩野川台風で流されてひとまとめにしている地域が多いのに。意外とここは流されない場所だったのでしょうか。(でも付近には、狩野川台風の時に流された人を何人も救ったという逸話を持つ塞神社の大楠があります)
やがてこの付近に住むようになった信心深い源頼朝は、この話を聞いて、なぜか「自分は来朝法師の生まれ変わりだ」と信じるようになったのだそうです。頼朝は法師ゆかりのこの地を何度も訪れ、村人と交わったのだそうです。やがて頼朝が山木を襲撃をして旗挙げしたことを聞いた村人は、かつてありがたい仏を1000体も彫って村人に与えてくれた来朝法師に感謝するために、付近で一番の大寺・久昌寺に、旗挙げ祈願の白旗を奉納したのだそうです。(江戸時代ぐらいまでこの白旗が残っていた)

とても綺麗に清掃されています。

コメント (10)
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