goo blog サービス終了のお知らせ 

ロイス ジャズ タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

ウサギと住む家

2012年01月02日 | 徒然の記
先年の大地震の襲来では、家屋はガタガタに揺さぶられた。
「自宅はどこにありますか」
喫茶のお客からたまに問われるが、いま座ってジャズを聴いていた場所に建っていた旧住居を、喫茶の面積の分だけ庭を狭めて移動したことを、業界用語で『引きまえ』工事といっているようだ。
いちいち取り壊して、新築していてはものいりであるので有効利用した。
「誰があの床下にもぐっていくのか、様子をみていたが、俺だったぁ」
休憩の時、職人さんは缶コーヒーを飲みながら、工事の様子を縷々説明してくださった。
太田牛一は、1580年安土城建築の時、数千人で引いたロープが切れて、一個の巨大な石はズルッと予期せぬ方にすべったと信長公記に書いている。
現場でそれを見ていたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、手紙に、150人ほどが一瞬にして息がなかったと、事故の状況を書いている。
安土の坂を引いた大石は持ち上げてどこに使われたのか、捜してまだ見つかっていないことを考えて、天守閣の重量を支える礎石に地下に埋められているとか。
当方の鄙びた旧住居は、安土城と比べるほどでもないが、引きまえ工事も無事に、その後の大地震でもなんとかそのまま建っている。
ゆかにビー玉をおいてみた。
土台枠の支えに造った構造物は、がんばっているらしい。
地下にもぐって作業していただいた時の写真を見たが、母屋はこのうえに乗って、そこにウサギと住んでいる。
それを一般に、うさぎ小屋というのかもしれないが。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜光物体

2011年12月01日 | 徒然の記
空から見れば、海に横たわる東北の大地に三列の縦皺が走っている。
日本海に沿って出羽山地は標高2200mの鳥海山、中央の奥羽山脈に1600mの須川岳、太平洋側の北上山地に1350mの五葉山が横一列に尖ってそびえている。
先日の夜、国道343を海側から内陸に向かって車を走らせていると、山道に分け入ったころダケカンバ、ミズナラ、ケヤキ、アカマツ森林の深くに人知れず生息しているシカやイノシシが、わずかにちらりと姿を見せた。
ここにはクマやサルも野生し、夜遅くに車の途絶えた343国道を自由に横断している獣に突然遭遇して、ヘッドライトに反射する眼がピカッと発光している。
静かに移動している傍まで寄っていくと、それはシカの群れであった。
漆黒の森の入り口でじっと振り返ってこちらを見ているシカに、車はどのように映っているのか。このシカどもにとっては、森や林を分け入る舗装道路に高速で唸りながら夜道を突っ走る得体の知れない四輪の発光物体である。
ふだん固い路面を走るばかりで森に入ってくることはなく、離れて見ている分には危害がない。
だが今日、その動物は闇に停まってエンジンの唸りをやめ、あいかわらず二筋の強い光を目から放射しながら、じっとしている。
国道343は、山地に分け入る道の多くが、フクロウや、キツネや狸、アカシジミ蝶など動物昆虫の宝庫であり、11月の初旬には青い空に山容を染める紅葉がすばらしかった。
この道は、急いでいる人には曲がりくねった難儀な峠であるが、いったん野生に目を転じてのんびり走ると、静かな時間が流れている。
その数日あと、巖美渓に泊まったと申される5人の剣客が、ウエスタン16Aの轟音を堪能したそれぞれの感想をもらされながら、ROYCEでコーヒーを喫した。
あの、一時広告に載ったWE-16Aの健在ぶりをうかがっていると、クリプッシュ・ホーンとWE-16Aの二つの装置が渓谷の流れを挟んだ吊り橋のうえあたりに、ステレオになって深甚なる轟音が咆哮しているありさまを想像するのは一安心で、おもしろい。

☆日本の四季を花札に造った『任天堂』は1889年京都東山に創業された。いまはゲーム機器を主に従業員数5,000人の1兆円企業。2011年 東日本大震災の寄付義援金3億円。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋ふかし隣はなにを聴く人ぞ

2011年11月01日 | 徒然の記
石畳に並木の枯葉の舞うこのごろ、AL COHNとZOOT SIMSがフレッド・マイルス盤で枯葉を奏して楽しんでいる。
この盤は、ほんとうはもっと重量のある響きで、よそでは鳴っているのではないか。
東一番町から秋の絵はがきが届いた。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

涼しい風

2011年07月25日 | 徒然の記
すでに配達はしていないので過去形でいうと、市内のいろいろな所に届けさせていただいた。
そのうえ昔は暇になると、無印の車で酒粕まで積んで、北は競馬場の方角も遠征したことをお詫び申し上げる。
それでどこの誰がお酒好きか、職業上の秘密だが、よく覚えている。
むかし、校長先生をなさっていたかたが居て、お若い奥様がぽっくり先立ってしまわれた。
非常に心配していた或る日、日本酒を届けると、
「もらったワインがあるが、まだ飲めるものかみてもらいたい」
そういって奥からギフトの箱をもって
「いや、なにも用心して、長生きしようというわけではないが」
と、諧謔をろうされるのが一流である。
またあるとき、
「これは孫の、画廊の展示会の1枚だが」
と、見せてくださった絵はがきが、写真か絵か?にわかには区別のつかない秀逸な現代アートである。
「ほんとに、小さいときから画家と小説家にだけはならないように言っておいたのだが」
それとなく自慢をにじませていることを察知しなければ、商人は勤まらぬが、
絵を見ていて、マンハッタンの5番街に近代美術館があることを思い出した。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NikonFTN

2011年07月09日 | 徒然の記
いまの季節に隠然と世情を潤すあのボーナスを、当方もそういえば手にしていた記憶がある。
大部分が、山手線の秋葉の沼に吸い込まれてしまったが。
男子元服してはじめて白河の関をこえて江戸にいくと、あてがわれた鷹番の社員寮に居たのが京都人の先輩N氏で、二間の部屋に暮らしながら『ミンガス』の直立猿人をドーナツ盤で聴き、A・アシモフの話をするのを聞いた。
彼のような人物で、京都はうまっているのか、と思った。
ある年末に旅行した京都近郊の旅館で近所に菓子店を探し、小さな電球を灯すガラズ戸をガタピシ曳いて入った。
奥から娘さんが出てきて
「そのウインドウの菓子をいつ食べなはる、おつもり?」
――あした、関東に戻ってみやげにします。
「ほな、無理です」
あっさり断られて、アーン、彼女は奥に入ってしまった。
そのとき自動的に、懐かしくN氏のことが思い出された。女もそうなのか。
全国各地の出身者のいた鷹番寮だが、隣室の同期が大きな水槽に熱帯魚を飼い始めて、ブクブクが湿気でたまらんと困惑する同室がいるのに、何処吹く風の人物であったのがすばらしい。
絵を描いてみたりする彼は、日曜の皆が出払った或る日
「もしもし、ちょっと」と呼びに来た。
行ってみると、大きなバットに紺色の表面が光ったものが入っていて、
「いま作った水羊羹だけど、食べる?」
まもなくこの頃、大阪万博は始まって、世界中からそうそうたるアーチストが大挙して日本にやってきたので、心得のある人々は大忙しであったはず。
このころ憧れていたカメラはコンタックスとニコンFTNだが高価で手が出ず、そういえば頼まれたわけではないのに、寮の全員が何は無くとも一眼レフや大判カメラだけは自慢そうに持っていたのがおかしい。
最近、ニコンFTNを使ってみた。
露出もヤマ感でバラバラなのに、ラボはさりげなく良い色で仕上げるのがすごい。
具合のよい長椅子にいて、ちょっと午眠しようとゴルゴ13のマンガを床に落としたら、杉並のS先生から電話があって、ウエストレークのその後をお聞きした。
地下要塞のボンジョルノ・アンプは、いま海を渡って九州に行っている。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベクレルの雲

2011年07月03日 | 徒然の記
誰がベクレルの雲を見ただろう。
テレビが教えてくれた計測800ベクレルの一関と、かの発電所との距離は、直線にして約150キロである。
京でいえば桂川の右岸に嵐山があり、一関でそれに比肩する末広町から見た磐井川の対岸。この嵐山の頂上に、いまでは大きな運動公園があり、そこのスポットポイントの公式測定結果がたまたま800ベクレルでした、という。
テレビと新聞でそれを知って、途中の仙台よりもどこよりも、負けない高出力の近所に見える山頂に、誰も、どこ吹く風で暮らしているが、地形と気流のせいなのか、顔なしがバケツでかってに汲んできたのかわからない。
先日のこと浪江町から3人のオーディオ人がお見えになって、コンラッド・ジョンソンを鳴らしたそうであるが、災害のおさまった後のお話が想像を超えている。
「津波がコンクリートのオーディオルームの中をそっくり浚って持っていき、あとで帰ってみたら砂の中からアンプが出てきた」
呆然とされながら、どこか堂々としていた。
オーディオの再構築をはかるこの方々に、こちらのどのような言葉も気泡であるが、800ベクレルというまぶしい測定値を、謹んでご報告したい。
この運動公園の夜景を、堤防の傍の写真の大先生のお宅から眺めたことがある。
サーチライトのような強い光が山の上に見えて、風流もこれまでか、とご感想をたずねると、
「あそこに人がいる、という眺めが、一人住まいの晩を忘れさせてくれるのでね」
柿右衛門の茶碗に、玉露をゆっくり注ぎながら、意外な答えが返ってきた。
翌日の昼、800ベクレルの空気とはどういうものか、クルマを走らせて運動公園の坂道から下界の景色を眺めてみた。
天気は良いのだが、こころなしか、光はベクっておられる。

六月や 峰に雲おく 嵐山





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ようこそ、ドナルド・キーン氏

2011年07月01日 | 徒然の記
シーボルトが会いたがった日本人は、カラフト探検家の最上徳内であるが、先日テレビでドナルド・キーン氏が日本人になって日本に住むと申される番組を拝見して、放射能の只中に来る剛毅を感じた。
彼が自身の名前を日本漢字にした変換字は、人柄から伝わる柔和と対極の、怒った字が選ばれてあって、子供にその字を登録しようとするなら物議をかもすものであるが、反面あの字に厄払いさせようというのか、漢字の秘密が笑えて似合っている。
数年前のこと、母屋にそのキーン氏から年賀状が届いて、何かのいたずらかあり得ない事件にしらべてみると、年末に投函した年賀ハガキに『あなたの著作を読んでいます』と一行書いただけのことという。
すぐにいただいたキーン氏の年賀ハガキには、たどたどしいあの縦文字で『お手紙を嬉しく拝見しました』とあったが、あのころからしもじもに気配りをみせて、忙しい日本人になる練習を始めていたのか。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜行列車

2011年05月01日 | 徒然の記
あれは小学生のある日、近所の遊び仲間が集まって言っている。
「今夜初めて、急行の夜行列車が通るんだって」
テレビのない暇な時代に話はすぐ広まって、晩御飯のあと蚊除けの団扇とロウソクを手に集まった。
薄暗い国道の町家並みを、瀬戸物店の側の水害用の船の置いてある細道から裏に抜けて、田んぼの稲の伸びている暗闇の向こうに、音だけでも聞こうと遠く線路が走るあたりに目を凝らして待っていた。
夜空に星が輝いて、カエルの声がうるさく大合唱している、人の顔もよく見えない夜の七時過ぎ、蚊を追うウチワをバタバタさせて待っていると、突然にゴーッと音が聞こえ、青森から東京に向かう夜のC62急行は、黄色い窓明かりをマッチ箱くらいの大きさに何両も連ねて、銀河鉄道の絵のように流れていった。
先日の震度6の日は、東京青森間を新幹線が初めて猛スピードで駆け抜けた記念の日で、さっそうと北に走ったというのに激震にみまわれて、しばらく終着点に停泊したまま、しかし運良く脱線もなく5月の連休に復旧した。
松島T氏は申されている。
「仙台の店舗の水道もやっと復旧しましたので、あすから営業しようと思います」
松島にあるご住居を気にはなっていたが、オーディオ装置は奇跡的に無事で、道向かいの公民館に、100人ほどの方が避難生活しておられるそうである。
松島T氏は、オンライフからマランツ7に変えてせっかくラインに繋いだ話であったのに、いま使用のプリは、こんどはアルテック純正と聞いて、はてな、と思った。
するとあんのじょう、迫SA氏のアルテック牙城を訪問したのが運の尽きで、そこにあったプリの音に、耳が目覚めてしまったと、どこか遠慮しながらも嬉しそうである。
当方は黙って、けしからん、と思った。
せっかくマランツを棚に飾る会を画策しているのに、である。
そのせいかどうか、ズート・シムスの演奏も、きょうはよそよそしく聴こえるのがおもしろい。
いつか訪問させていただいて、アルテックA-7がオール純正のラインによって、マリリン・モンローの『虹の彼方に』をアルテックが唄っているところをぜひ拝聴してみたいと、モンローのボーカルをあれこれ想像した。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Over the Rainbow

2010年12月24日 | 徒然の記
342号線を金流川と並んで走りながら、五線譜に見立てた電線を雀がゆっくりオクターブ跳ね上がると、それがジャズでは『虹の彼方に』である。
アーチストの得意にしている名曲を、この日サラボーンで聴いたが、ついフロントガラスの視界が宙に浮いて、気を取り直す。
となりに座っている人の名前を間違うのも人騒がせになるが、豊臣秀吉はどの人も同じ名にしてもらったというのは、なぜか。
そのとき、雲の切れ間から風景に光が差して、一関と広域合併のおえた花泉は以前のうららかな景色を広げ、虹の彼方にという曲は似合っていた。
方向音痴はよくないので、紙に十文字を書いて中心に一関を置いてみる。
西端に須川岳を置くと等距離に東端が室根山。十文字の北に平泉を置くと、等距離に南が花泉になる。ぐっと視界を広げ、北に100キロ離れると岩手県庁のある盛岡で、南に100キロ離れると宮城県庁の仙台があると、地図に書いてある。
この花泉には、平地のあちこちに大きな池があって、農業用水がプールされた水面がのんびりと光っている。
水鳥が遊んで、釣りをしてはいけません、と立札のあるのは、隠れた釣りの穴場になっているのであろう。
子供が釣りをしているのは、字が読めないからではなく、誰も楽しみを知って、まあいいか、と一応立札は禁止しているのだが。
日がさし込んだ路上を滑るように一台の車とすれ違った。途中に、おいしいおそば屋さんがあったはずである。
さて、帰り道にコースを離れ、真空管で鳴らされているイタリアの名器を聴かせる店で珈琲を呑んだ。
とてもインテリジェントなこの店内で、ふと耳を澄ますと、なななんと、サラボーンが鳴っている。
帰りに、カウンターでジャケットをみせていただくと、非常にめずらしいコレクシヨンで驚いた。
応対の女性はハリウッドのヘプバーンそっくり、長身のマスターはイギリス紳士のような人であった。
ラジオのニュースで、八幡平の雪の停電のことを言っているが、先日お見えになった八幡平市のご夫婦は、「ことしはまだ雪が一回です」と、オーディオ・チェック・CDを取り出し、「ぜひ」と申されるのだが、本格的なことは川向こうにお願いするのが良いでしょう。
とても堅実な印象の、その御仁の部屋で鳴らす装置はどのような音がしているのか想像すると楽しい。
日立の名器ギャザード・エッジにウーハーはエレクトロボイスの30Wが鳴っていたりして。
そういえば同じ日、女性がジャズを聴きに登場した。
すわ、亀甲占いか。
単身赴任中というそのひとは、「先日、ケイコ・リーのライブを聴きましたが、はじめて都会的なフィーリングを眼の前に圧倒的!良かったわ」と感心されていた。
あとで思うに、ジャズ喫茶に登場した、薙刀の道場破りであったのかもしれぬ。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋深し

2010年10月31日 | 徒然の記
一番町から秋のハガキが届いた。
関ガ丘の哲人が、文化祭の帰りに珈琲を喫すると、ウインドウズ95の最近の調子をご報告くださった。
当方もWIN.OS-2のハードデスクのパリパリ読み込む音を鳴らして笑った。
最近手習いの麻雀で、六十年に一度あるかないかといわれる東南北が各三牌と、発二枚がドラで、リーチつもってしまったので、このゲームはもはやこれまでか。
ちょっと新しいあそびをさがそう。
秋の紅葉に一瞬雪の降ってしまった須川岳を観光に行くべきか考えるが、
麓の路傍の売店に、キノコや栗やリンゴが並んでいるという。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

SS氏の須川岳

2010年10月01日 | 徒然の記
Royceのあるところから周囲を365度見回して、一番遠くにあって高い山が須川岳である。
丑寅の方角から45度にあるその高い山の、頂上から下界を見渡すとき、どんな気分になるかな。
腸をこわして3ヶ月絶食したあのとき、病院のベッドで考えたのはタンノイではなく、カツ丼であったことは内緒だが、やはり、その場に立たなければ人間はわからない。
SS氏は、半切に引き伸ばした写真を、アタッシュケースから取り出しながら、先日のバカラデキャンターのことを、「あれはすばらしかった」と申された。
琥珀色の中身のことを、申されているのかもしれない。
写真は、須川山頂から眺めたROYCEの方角が、絶好の写真日和に写されて、中腹にあの神秘の昭和湖が見えた。
須川岳という被写体について、以前から多くの写真家が挑戦されているが、一関では白川義員氏に迫るKS氏の存在がある。
当方は、SS氏も必ず須川岳を撮っていると考えて、その日の来るのを心待ちにしていたから、内心非常に喜んだ。
10枚ほど拝見した限りにおいてのべれば、KS氏の肉薄する迫力の作風と違って、双方ベストアングルでありながら、おだやかな構図と遠近感がSS氏の画面に広がっている。
ジャズに例えれば、KS氏がブルー・ノート、SS氏はimpulseということになろうか。
そこで、コーヒーを喫しながら、撮影にまつわるさまざまを伺ったのであった。
きょうの昼食は、到来モノの島原素麺をいただいた。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッシー・アイアン

2010年09月21日 | 徒然の記
小さな庭で恐縮だが、マッシー・アイアンを四.五回素振りし、一日をはじめる。
ゆっくりからだが回転して、青い空が見えると、松の木に巨大な蜘蛛が巣を広げているのが見える。
水戸のタンノイ氏が再び登場したのはついこのあいだ、夏のはじめのことだが、これまで小学校に勤務の傍ら、オーケストラでトロンボーンをたしなむとうかがっていた。
「中学の勤務もまもなく終わります」
このたびは若干の進展を申されて、小さな異動があったのか。
当方の記憶に一部加筆がおこなわれ、御婦人と一関に来た際には、タンノイを聴くあいだ別行動になるという細部はそのままに。
ところで水戸の客に、そのとき静かな同伴の御仁がいた。
「わたしは、いつも農地に出て野菜畑を耕しています」
どこか気さくで開放的に、嬉しそうな人であった。
「あなたは、このあいだまで校長先生だったでしょ」
水戸のタンノイ氏は一言、微笑んでまたタンノイのジャズを聴いた。
高清水町のT社長の申されていた、娘さんのために自宅の増築をしたいと電話のあった校長先生や、江刺國のジャズ好きな校長先生のことが、続いて思い出された。
みなそうとうな、剣術使いであることが偲ばれる。
シェリーマンの『234』にあるME AND SOME DRUMSの、理屈抜きにすさまじいスティックさばきが、集中豪雨のようにタンノイのまえで飛沫を飛ばしているのを聴いて、タンノイも豪勢なトランスのアンプをほしがっているのか。
トランスを組み立てる仕事人は、それに加えてトランス性能に重要な要点があると話しておられたが、先日、房州の佐久間駿氏が造る「コンコルド」のテレビ映像を見て、『直熱管アンプ放浪記』のどこにも書かれていなかったハンバーグ・メニューを食べてみたいと思う。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

COLLECTORS ITEMS盤

2010年08月15日 | 徒然の記
これは持っていた方がよいです、とセレクトカッテイングされたものが、『家蔵盤』である。
マイルスCOLLECTORS ITEMS盤の特異な点は、56年にマイルスのミュート・トランペットとロリンズのテナーサクスが饗宴した、最後の記録になった盤であるが。
最後の意味をどう理解したらよいのか、このあとも彼等は長命ですごい演奏をあちこちでやっているのを皆知っているが、ニューヨーク地下鉄でたびたび側を走ったはずなのに、二度と録音セッションしていないのが妙だ。
そのことが場合によっては、カインド・オブ・ブルーだって、コルトレーンではなく、ロリンズがやっていたとしたらどうなのか、頭の隅において、いろいろ考えると、ますます寡黙になってしまう。
おそらく、その秘密の一端は1956年のこのニューヨークスタジオ演奏にあるはずでないか、ところが当方は、じっさいにこの『コレクターズ・アイテム』をタンノイで聴くとき、ほかの曲に注意が跳んでしまっているのがいけません。
その曲こそ、マイルスが文句をつけたモンクの作曲になる名曲『ROUND ABOUT MIIDNAIGHT』だが、まだまだすばらしい演奏がどこかに眠っているのではないか、と思いつつ、マイルスとパーカーとロリンズが53年にセッションしたものだけに、なにがどうなっているのか、注意深く耳をかたむけるわけである。
そのさい、一家言あるお客の、猛烈に入れ込んだ解説などを聞かされることもあって、どうにもそれがおもしろい。
自由に話してもらってごらんなさい。皆、流石のことを言っているのは、タンノイでジャズなんか聴いて、まったく。と、当方をあなどっているのか、うらやんでいるのか謎だが、自由に申してくださっているときの、いぶし銀の輝きが剣客揃いだ。
そういえば先日、北上から千葉に仕事で拠点を移している御仁が現れて、あの例のコンクリートの本屋さんで、超マニアックなオーディオ人のご健在のその後をきくことが出来たが、部屋のコーナーホーンが鳴らすROUND ABOUT MIIDNAIGHTをしばらく想像した。
いつかぜひ、聴きたいものである。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サブルーチン

2010年08月08日 | 徒然の記
子供世界にも、ルーティーンワークはある。
昨日から明日に向けて小学生がこなすメインルーチンは、だいたいの想像がつこうというものであるが、ふとこの8月8日に、プログラム言語的にサブルーチンについて、思い出してみたのが次のようであった。
小学校から帰ると、一番手前に立ててある『杉浦茂』のマンガを読み、次に近所の養豚小屋の親子の成長ぶりを見にでかけ、その家の人に声をかけられ、捕ったばかりのまむしの切り身を七輪で焼いた物体を、滋養になるから食べろと言われることもある。
子供なので拒めず、食したその味は、淡白な煮干しに似ていた。
つぎに子供の集団が遊んでいるところに出会うと、ガキ大将は、子供なのにみょうに見識と度量があって、しばらく入れてもらっていると、隣の区のガキ大将とたまたま出会ってしまって、こちらの大将も長い竹竿を構えて、道の中央で一対一で渡り合うのだが、そこは大将であるから互いに真剣なようでいて、あうんの呼吸で戦いは適当に終わってやれやれだ。
その竹竿は、桶屋さんが道の脇に束ねていたものだが、それでこんどは、桶屋の親方が道端に茣蓙を敷いて、鉈をあやつって長い青竹が細い紐になるのをしばらく見せてもらって、つぎに新築現場があれば、しばらく作業を見ていると「やってみるか?」と釘とかなずちを渡されたりする。
その間のことは、こちらは全くの無言でよく、時の赴くままのサブルーチンである。
次に、運よく御茶屋の親父さんの釣りの成果である磐井川支流のフナや鯉がタライに泳いでいるところを見て、次にお菓子屋の工場のアズキあんが忙しく水桶の篭でつぶされているところを見て、ときに水飴を割りばしにさして「ほれ」と、もらったりする。
つぎに杉の木の側の池の、魚や亀の状態を見て、麻屋さんの長い通路で、機械仕掛けがロープをガラガラ縒っているところを見て、状況が許せばさらに遠征し、各地の鳩小屋を見に行ったりする。
白壁の土蔵が並んだところには、土鳩が何匹も巣をつくって出入りしていたが、あまりに高いので、糞の汚れだけの隙間に、飛んできた鳩が、さっと入って行くのをみて満足しなければならない。
そのような日常のあるとき、家が銭湯をやると言い出して、たちまち田んぼが埋め立てられて、いわゆる瓦の乗った銭湯の建物が出現した。
長い鉄製の煙突を直立させるとき、大勢の男女の工人が、何方向からもロープを綱引きのようにして立ち上げ、てっぺんには西洋の剣のような避雷針がついていた。
その銭湯の裏側に『釜場』と称する内燃機関があって、そこが新しく重要な立ち寄りさきに加わった。
『釜場のおじさん』と呼ばれる人は、柔らかな人なのか堅い人なのか、こちらと同じようにまったくしゃべらず、地面を掘り下げた位置に半身を置いて、いつも湯釜の火加減を真剣に、潜水艦の機関室のようなパイプの走ったメーターをにらんでいる。
その無口な釜場のおじさんが、たまに捕ってきたスズメを、新聞紙にくるんで、やかんの湯をザーツとかけると、竈の炎に放り込んでいる。
適当な呼吸で火箸で取り出されると、焦げたズズメの身が湯気を立て、当方にどう?と合図がある。
すこし目をそらすと釜場のおじさんは、黙って食べ始める。
するとたまに、壁の向こうでドンドン!と叩く音がして、遠くで「ぬるいぞ!」と声がすることもある。
それは人気のないその場所に気配として押し寄せる観客の「成駒屋!」という掛け声と言えなくもないが、釜場のおじさんは、オッという感じで、いそいで竈の扉を開くと、赤い炎に向けて薪を放り投げる。
まれに左奥に行って、小さな戸を開き、たんたんと湯場の様子を見ることもあるが、そこはたしか女湯のはずである。
一瞬の出来事の、無表情の姿勢を、業務中の高度な威厳というのかもしれない。
当方は、釜場の出来事に満足して外に出ると、次に、新らしくできた肉屋さんの前を通る。
親に言いつかって、肉を買ったときにくわしく様子を見たが、おおきな冷蔵庫の中からギューッとドアが音を立てて、取り出された肉塊を、偉丈夫の白衣のご主人が、細く長い包丁を日本刀のように静けさを湛えて、みごとに肉片が切り取られてゆくのを見た。
肉屋の白衣のご主人も、まったく何も言わず、当方に黙ってそれを包んで渡す、静かな世界であった。
夜になると、二階の窓が開かれて、ご子息の非常に張りのあるなめらかな唄が歌われるのが記憶にあり、都会風の新しい時代を彩る景色に感じたものだが、しばらく後になってお会いした時にそれを話すと、思いのほか恐縮されていたのが解せないが、できればもういちど、ちゃんと正座して聴いてみたいものである。
コンピュータ言語では、メインルーチン、サブルーチン問わずすべての処理単位は関数を定義する形で記述されるが、あの世界にあっては主としてキンダー関数である。
床のuesugiアンプが、笑っているようだ。


☆ NikonFTN



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロン・カーターのMY PRINCE WILL COME

2010年06月15日 | 徒然の記
80年代に、2800円したカセットテープも、いま購入すれば300円と書いてある。
そのころの為替レートで勘案すると100円かもしれない。
これをナカミチの縦型デッキで聴いてみた。
ケニー・バロンのピアノが遠慮がちにポロポロンとやって、J・デジョネットのドラムスがシュン・シュンとやっているバンゲルダー・スタジオのコマーシャル録りだが、やはりそこはロン・カーターである。
一緒にコマーシャル録りしたウイスキーを片手に、一杯やろうといっているロン・カーターのポスターがまぶしい。
この80年代のころ、われわれの日常はどうだったか?
そこに、いまは独立されて事務所を構える御仁が入ってきた。
二枚の見積書を並べ、こちらの選択を待っている相当な手際の良さだ。
「明細については、本店のウエブサイトでご確認くだされば、幸甚です」などと言いながら、説明書発送は極力省略するように、訓令されているのであるそうだ。
――あの、わざわざ来ていただいて嬉しいが、外交と事務所の来訪とどちらが多いのでしょう?
「85パーセント、わたしがそとに出掛けて営業します。事務所に来る人は、まず、いませんね」
ロン・カーターは、すかさずベースの運指を多彩に変化させて、人々が、その後の夏や風雪にくりかえした記憶を一瞬のまぼろしのように弾き流した。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする