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魔人の鉞

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陸軍にも早期講和派がいたが・・・

2014-07-13 17:39:21 | 第2次大戦

主戦論一枚岩だったとして評判の悪い陸軍内にも講和派がいたことを丹念に洗い出した、
『主戦か講和か-帝国陸軍の秘密終戦工作』 (山本智之、新潮社 2013年)。

陸軍も一枚岩ではなく、参謀本部戦争指導課を中心にした早期講和派や、中間派という
べき人たちがいた。早期講和派は少数だったが、中間派というべき軍中央や重臣らに
働きかけ、終戦に向けて多数派工作をすすめていきました。

著者は 「陸軍が主戦派、早期講和派、中間派と派閥が分かれたために、統一した見解
を取れず、人事的に主戦派を排除するのに多くの時間が費やされ、戦争の終結が遅れた
のである」 (228p) と総括しています。

しかし戦争指導課は数人の小所帯で早期講和派というほどの大きな勢力ではなかった
はずです。やはり最高指導部が終戦を決断し、主戦派の部下を従わせるべきだったと
思います。東京大空襲、フィリピン戦、沖縄戦と続く、民間人を巻き込んだ敗戦続き
にも拘わらず、ずるずると講和を引き延ばしたのは、主戦派のクーデターが怖かったと
一般には言われていますが、それを抑えるのが指導者でしょう。著者は梅津や阿南に
同情的ですが、私は甘すぎると思います。昭和天皇も優柔不断で、結局自分の命だけ
が惜しかったということでしょう。

また服部、辻、田中新一といった主戦派参謀がほとんど生き残っているのは実に許し
がたい。多くの若者と民間人をわざと犠牲にする作戦を主導しておいて、おめおめと
敗戦後も生き残るとは、人というべきです。そんな人たちが戦争を指導していた
し、最高指導部はそれを抑えられなかった。これでは靖国に祀られても浮かばれない
でしょう。
        (わが家で  2014年7月13日)

コメント
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