飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

聖人は微を見て以て萌を知り、……

2008年01月02日 17時12分55秒 | 教育論
自分の生活を振り返ってみるとなんと無駄の多いことかと反省することしきりである。
では無駄を省くにはどうしたらよいか。
それは「気づく」という心が大事なようだ。
中国戦国時代の思想家 韓非子の言葉に次のようなものがある。

聖人は微を見て以て萌を知り、端を見て以て末を知る。

物事はいきなり悪化することはありえない。
大きな問題や危険は、急に突然起こることはありえない。
小さなミスや些細なうっかりミスを見逃したり、そのままにしておくことにより、小さな失敗が積み重なり、大きな問題として表面化する。

小さな内なら簡単に対処できるし、解決もできる。
しかし、いったん大きくなった問題は自分だけでなく多くの人に迷惑をかけることとなる。
場合によっては命にかかわることもある。

学級のほころびも同じだ。
その小さな1ミリのほころびに気づけるかどうか、それも教師としての力量だ。
気づくことにより大変の前を知る。

気づいたことを迷うことなく優先的に処理できるようにしたい。
気づきを処理する中で、さらに気づきの感性が研ぎ澄まされるようになる。

そういう心を大事にしたい。

saitani
この記事についてブログを書く
« 志士は溝がくにあるを忘れず | トップ | 規則と規律 »

教育論」カテゴリの最新記事