飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

正面の理、側面の情、背後の恐怖

2023年06月06日 16時07分19秒 | 教育論
子供から信頼され、尊敬される教師とはどんな教師だろう。
よく、子どもたちに言われた。
「先生はこわいけど、おもしろい」
一般的に、子どもたちはよく言う。
「友達みたいな先生がいい」
気持ちは理解できるが、本当にそれがいいのかという疑問をいつも持っていた。
教室なかで、大人はただ一人、教師だけである。
そのほかは同年代の子供達である。
教師は指導する立場であり、子どもたちは指導される立場である。
子どもたちは、教師からの様々な指示や指導によって活動や論理的思考を行い、持てる力を発揮しながら成長していく。
この事実を否定することはできない。

ある先生の主張。

力による指導。
この言葉をきいて良い印象をもつ教師はいないかもしれない。
また、現代においては否定されることも多い。

力に頼る指導とは、体罰、脅迫なども含まれる。
脅迫とは。
相手に恐れの気持ちをいだかせるようにしてある行為を強制すること。
ある行為を人にさせるため、脅しつけること。
辞書的には、以上のように定義される。
大きな声で指示を出したり、怒気をはらんだ声で指示をしたり、ぐっとにらみつけたり、罰をちらつかせたりすることはすべて脅迫の範疇になる。

これはあってはならない指導として、どこの学校でも禁止されている。
力によらない指導を求められているのだ。
これは当然のことであることはわかる。
力に頼る指導はしないほうがいい。

しかし、指導のある一面を切り取った場合ではないかと考える。
教育の現場では、すべてのできる事はある状況下の中で起こり、その中で指導が行われる。
そして、その指導の結果がある。
その状況は複雑に人間関係がからみあい、どんな状況下で起こったことなのかによっても結果が変わってくる。
結果を求められないのならまだしも、我々はある程度の結果は常に求められている。

もちろん暴力、暴言は論外だが、時に「力に頼った指導」を行うこともある。
そうしなければならないこともある。
その現実を見ずして、全否定することは、必ずどこかに歪みを生むようになる。

中坊公平氏の言葉。
「正面の理、側面の情、背後の恐怖」
にあるように、理と情と怖は、人を動かす3要素。

松下幸之助も、本田宗一郎も、稲盛和夫も、怒るときには烈火のごとく怒ったという。
そこには紛れもなく、怖れがあった。
怖れがあるから、理も情も生きる。

人を率いる教師。
その教師には、理も情も必要なことは理解できる。
しかし、それだけでは不十分だと考えることは間違いだろうか。
背後に怖れが見えることは必要なことではないか。

以前の学校では、問題が行動があって、教師がいないところでも、子供が次のように言えば、エスカレートすることはなかった。
「やめないと、先生に言うぞ。」
いじめがあっても、けんかがあっても、ずるをしてもこのことばを言えば、子どもたちは心にブレーキをかけることができた。
それは、教師がもつ怖れの存在をどの子も認識していたからだ。
今の学級はどうだろう。

その教師のとって必要な要素を頭から否定して、子どもたちのリーダーとなり統率していくことができるのだろうか。

教師が子どもたちのとって怖れの存在ではなくなった理由は、世の中やとりまく環境が学校現場を萎縮させていることも大きな要因ではあると思うが。

saitani





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