三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【140年前、わが家近所での開拓屯田兵の暮らし】

2019年10月23日 07時04分24秒 | Weblog


住宅の取材というのは、必然的にその家での「暮らしぶり」に密着する。
どうしてこのような家になったのか、ということ。
言い換えれば、家というイレモノは暮らしのために存在すると思う。
いまで言えばまことに寒々とした140年ほど前の、
札幌市西区琴似での生きた暮らしぶりとの相関関係への想像力が
いつも求められるし、なるべく生き生きとした情景を思い浮かべたい。

この琴似屯田兵村は、わが家から1kmも離れていない距離。
歩いていけば7-8分の場所にあります。
地割りは基本的にそのままと言ってもいいほど。
これほど近い位置に日本人なら誰でも知っている歴史痕跡があることに
今更ながら気付かされている次第。
残存している「清野さん」の入居した屯田兵屋には、
ごらんのようなイラストまで掲示されているのでわかりやすい。
一番上にはクマさんが繰り返し集落を襲った様が描かれている。
この屯田兵村は200戸の集住として最初から1,000人単位の村落形成がされた。
この事実は、初期の北海道移住の困難への「対応策」だったと考えられます。
江戸期以来、散発的な「移住」「開拓」の試みはされたけれど、
やはり人間生活というのは、ムラという共同体の存在が大きいのだと思う。
縄文以来のこの列島での人間の営みでは、最低400人程度の集落が
基本生存要件を満たしていたとされています。人間というのは
集団・ムラのような共同体なくしては存在し得ない。鉄則なのでしょうね。
たぶん明治国家もいくばくかの試行錯誤の結果、
そうした人類的共通性に気付き、まずは移住のためのコアとしての
集落・ムラを造営したのだと思われるのです。
この琴似屯田兵村は1,000人規模であり、さらに「軍隊組織」でもある。
共同の危険姓に対して対応できるだけの基本組織だったと思う。
一番上にはクマさんの襲撃の様子がありますが、
実際にクマの襲撃で恐怖に陥れられた記録は北海道内で相当数に上っている。
屯田兵村は、そういった安全保障の基本で地域の「カナメ」を形成していた。
実際に周辺の集落にクマ駆除のために動員された記録が多数残っている。
クマ1頭を駆除すると現在貨幣価値で10万円弱の「報奨金」まで支払われている。
クマ撃ちの名人は弾丸3発で仕留められた、みたいな話も伝承している。
こんなくらしが主に東北の維新戦争敗残諸藩の旧士族によって営まれた。
そんななか、くらしが始まって1−2年後、西南戦争が勃発して
この屯田兵たちも仇敵・薩摩討伐の機会を得た。・・・



マンガ表現では、こんなくらしの句読点のような光景も。
夏場は集住の力もあって、比較的暮らしやすかっただろうけれど、
冬場の寒さへの「戦い」はいまの時代の想像を遙かに絶するものだった。
マイナス20度、30度といった寒冷気候に対して、
断熱の知恵もなく、ただ囲炉裏の暖だけで立ち向かう過酷さは
クマの恐怖の比ではなかっただろうと思います。
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