北海道庁は少し前まで「試される大地」というキャッチフレーズを
アピールしていました。
けっこう反響があったように記憶していますが、
北海道は開拓初期のはじめから確かに「試され続けてきた」のは事実。
写真上は開拓当時一般的に建てられていた小屋、もしくは簡易な住宅。
だいたいこのように萱葺き・草屋根というのが常識的な建て方だった。
こういった屋根の建物に対して開拓使としてはどうも批判的で
その後、下の写真の「琴似屯田兵屋群」を始原の「公共住宅」として
建設したときには「柾葺き」の屋根としたのですね。
いわば開拓使初源の「住宅政策」であったように思われます。
江戸期には都市住宅に対して間口の広さによる税負担を基本政策にして
火災延焼の危険防止のため屋根を瓦葺きにさせたりしている。
この北海道開拓・札幌本府創設に当たって、測量などの作業進行で
まずは「街割り」を行った。で、大量動員された一時的「出稼ぎ」労働者たちの
簡易な草屋根「小屋がけ」が、かれらの退去後放置されていて
ほかの永住的な建物に対して火災延焼の「火だね」になっていたので
強制撤去させるのが目的で「御用火事」まで仕掛けたといわれる。
たぶんこのようなプロセスから北海道の「住宅政策」は始まっていった。
初源的な官の政策としては合理的大量生産の屋根問題だったかと思える。
柾屋根というのは、薄くスライスした木板片を屋根に張っていく工法。
草屋根が繊維質で空気を内包したストロー状の萱などを使うのに対して
いわば紙のように処理した板材で被覆させる工法。
北総研の建築研究者・高倉さんからの情報では、
「開拓使は、明治4年にシングルマシン(柾板の製造機)をアメリカより購入し、
器械柾を製造し始めます。」との情報が寄せられた。
草屋根がいかにも自然的な非大量生産的なつくられようであって、
そういった自然環境依存型ではなく、機械的な合理的均質性を優先させたのだ。
開拓使としては最初期の最大政策は定住人口増の推進だったから
その生活基盤である住宅については、まずは大量生産志向で
プレファブ的な志向を強く持っていた可能性がきわめて高い。
「シングルマシン」による製材がどの程度のコストだったかは不明ですが、
草屋根のように、どっかから調達する「粗雑」なつくられ方は良しとしなかった。
琴似屯田兵屋は明治7年に一気に200戸ほどが建設されたので、
この住宅を「モデル住宅」事始め的に仕掛けたように思われる。
ただし、当時北海道に滞在していたアメリカのもと農務次官ケプロンは
「薄紙のような」というように表現している。
すでに北米の寒冷気候に対して住宅の気密断熱の重要性に気付いていた北米人には
初源の開拓使の「住宅政策」に奇異の念を抱いていたことがうかがえます。
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