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三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【土壁と高断熱、壁構造からみえてくるもの】

2016年11月20日 07時58分29秒 | Weblog


日本の木造技術の歴史に対して大きなリスペクトを持っています。
古民家や古建築を見るときには、やや背筋が伸びる思い。
わたしたちの先人が苦闘してきたその叡智が、
こういった土壁の構造には凝縮されているのだと思っています。
ひるがえって、現代の北海道が発祥になって生み出されてきた
高断熱高気密技術の合目的性もまた、
柱と梁で建築を構成するというトラディショナルな工法のままに
現代世界最前線の建築工法として生き延びさせてきたものとして
きわめて誇らしいと考えています。

筑波大学名誉教授の安藤邦廣先生から、
竹小舞+土塗り壁という壁の工法は、応仁の乱をはじめとする
戦乱の状況、絶え間ない破壊と焼失という木材資源の乱獲状況のなかで、
「手間はかかるが、より省資源の工法として」生み出されたと教えられました。
それまでの板倉のような工法では壁に大量の木材が入れ込まれたが、
それに対して土壁では、東アジア米作地域には
ほぼ無尽蔵に自然繁茂している竹と、植物繊維で下地を作って
これもまったく無尽蔵である土を塗り固める工法が採用された。
これで壁造作の資源量が大幅に削減されたとされていました。
ただ、その分だけ壁造作には人手がかかったけれど、
それは戦乱の結果、流動化が促進された労働力があったとのこと。
この壁造作は素人でも可能な技術だったので一気に普及したのでしょう。
それまでの竪穴に比べれば、はるかに「文化的」な住宅が土壁住宅だった。
やはり木材資源の乱伐が極限まで至っていたとも言われます。
今、日本の山・森林資源はそれほど利用されず豊かな緑をみせているけれど、
歴史的には日本の山々は、むしろ禿げ山っぽい風景を見せていた。
応仁以来戦乱によって木材需要が盛り上がった京都北山には
30年で成木になる杉がさかんに植林され「北山杉」になった。
土壁の一変種と言える数寄屋、その極例ともいえる茶室建築では
山に植林する際に発生する間引き材、ごくほっそりとしたそれを
これ見よがしに構造材として利用して、簡素の美、文化にまで昇華させた。
土壁工法には、そういった民族歴史的経緯があるという。
結局は日本人の「省資源」の知恵が生み出した工法。

一方で現代のわれわれが生み出してきた「高断熱高気密工法」。
こちらは、暮らしようの大変化のなかで家の中で消費せざるを得ない
「エネルギー」を抑え込む基本要素技術として大発展した。
応仁の乱の頃には、資源が枯渇する一方、地方の農業生産・開発が進み、
人口もそれにつれて伸張期にあたっていたから、
多手間型の住宅生産システム技術が発展したけれど、
わたしたちの時代ではやはり条件が違うのだと思う。
国土の森林はたしかに未利用で放置されているけれど、
他の産業生産力が飛躍的に発展増大し、人手不足が大きな問題になっている。
そしてCO2の地球的極限状況が迫ってきているなかで、
エネルギーの極小化が、最重要発展要請として時代が希求している。
手間をも省力化させた「省エネ」な工法へと変化してきている。
明治の時代には弱肉強食の帝国主義争闘の世界の中で
生き延びていく方向として、富国強兵があったけれど、
今の時代はたぶん、この省エネ・省CO2が人類緊喫の課題だろうと思う。
ただ、このテーマには明瞭な生き方・目標が見えて来づらい。
どうもそんな気分の中にいまあるように思われます。
手業の感じられる土壁に比較すると、ややのっぺりとした印象の
現代住宅の壁構造に、そんな思いを感じております。
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【エネルギー・人口減少とひとの未来生存戦略】

2016年11月19日 08時11分06秒 | Weblog


さて北海道の地域戦略研究機構である道総研の
建築研究本部というのが、北総研の本来的な位置付けです。
写真の鈴木大隆氏は、住宅の省エネがその専門と見られていますが、
氏にお話を伺うと、その本来の任務としての
北海道の「地域未来戦略」の研究者としての側面が、もうひとつ
大きな研究テーマであることも理解出来るようになってくる。
当誌の連載エッセイの〆切のこともあって(笑)、ここ2日ほど、
仙台・札幌と氏の講演に平行して取材しておりましたが、
とくに昨日の北海道大学での講演では、その側面が明確に見えていました。
もっとも、氏の恩師である鎌田紀彦先生からは、
「役人になってきたなぁ」というような印象を言われるとのこと。
なんですが出版人として、住む人・一般庶民の立場で見ていると、
むしろ地域の中でそこに暮らす人のエネルギー問題、人口減少社会問題、
そういうなかで地域と人々はどう生き延びていくべきか、ということは、
まことに根源的なテーマで面白く刺激的だと思います。

写真上は、北海道全域の「土地利用」のマクロ的把握。
どういった未来研究にあたっても、現状がどうであるかの把握は大前提。
わたしどものような門外漢には、こういうマクロ認識からして面白い。
こういう土地利用の現実があって、それぞれについて、
今後のエネルギー縮減型の社会構造を描いていくときに、
どうすればコンパクトでサスティナブルな社会を創造できていくか、
そういう切り口になっていくものと思われます。
きのうのフォーラムは、基本的には工学部・建築のなかでの
「都市計画」的な領域のみなさんが参集されていて、
やや一般人の「生活感」というよりは、社会的なニーズにどう対応するか、
というスタンスでの論議が展開されていました。
当面する世界の最大の問題としてのCO2増加というきびしい現実があり、
それをいかにコントロールし、人口減少がもたらす社会変化のなかでも
この地に暮らすひとびとがどうやったらシアワセに生きていけるか、
そういう方向性を探っていくということであります。
したがって、こういう土地利用状況と、今後予測できる人口減少のなかで、
「地域」としての集合と拡散をさまざまに考えていくという方向性になる。
聞きながら、そもそも「都市計画」と一般人の暮らしの感覚とは、
ある懸隔があるものだと感じ続けておりました。
こうした方がエネルギー的には合目的的であるとか、
CO2削減の観点からは、こうすることがマストというような論議なんですが、
それは大いに共感できるとして、そのような方向性に向けるには
現状の人間社会は、どういう経済的生存を計画していったらいいのか、
そういった内面からの問いがずっと沸き上がってきておりました。
省エネとか、省CO2は大いに共感するとして、
そのような未来社会は、そこでどのように人間が生きていくか、
そのときの仕事、生き方はどういう姿になっていくのか、
環境要因から必然化する省エネ省CO2的な社会構造の中で
普通の人々が、ごく普通に生きていくための生存戦略の視覚が
なかなか難しいと素朴に考え続けていました。
まだ生煮えの感想ですが、このテーマ、掘り下げたいとも思った次第です。
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【花鳥風月もだしがたし秋爛漫】

2016年11月18日 07時24分23秒 | Weblog


さて3日間にわたったいわき・仙台への出張を終えて
きのう深夜に札幌に帰還いたしました。
とくにきのうは、興味深いセミナーが東北電力さんの主催で開かれ、
北総研の鈴木大隆さんと函館の渋谷建設・渋谷さんの講演は
どちらもたいへん面白いテーマ構成でしたので、
追って、内容をご報告させていただきます。

ということで、慌ただしい日程を過ごしていたわけですが、
季節はまことに極彩色のきわみのような美を見せてくれております。
ふとした瞬間にも、四季変化の美が襲ってくる(笑)。
時間に追われながらもそういう景観が足を止めさせ、魅入っていかざるをえない。
でも時間がないので、束の間、写真を取るくらいしか出来ない。
きのう朝、仙台駅近く中心街のホテルから、わが社事務所への通り道、
仙台市若林区の「新寺小路緑道」を歩いておりました。
この道は、仙台での通り道では時間がない中では
たいへん有意義に四季変化を感受させてくれる散策路。
おりから乱舞する落葉が風に吹かれてザワザワとした踏み音を返してくれる。
さらにモミジの見事な紅葉が、お寺の庭につい引き込み誘ってくる(笑)。
目の前で、緑道から見事なモミジの中に引き込まれていくひとを見て
なんとも、ため息の出るような思いをさせられました(笑)。

日本という国土は、世界の中でも山の多い火山列島地形、
そしてアジアモンスーンのヒマラヤからの偏西風が通り抜けていって
ある高緯度という条件から、明瞭くっきりとした四季変化を持つ。
縄文の、あるいはそれ以前の石器時代からの定住によって、
この四季の輪廻が、この地に生きる人びとの心象風景に大きく関わった。
まわりを海に囲まれ、その上多雨な気候から、
「水に流す」という不思議な寛容性を育んだように思うし、
多様に移り変わっていく四季は、花鳥風月という心象の基本を作ったように思う。
そのなかでも、北海道という国土を得たことは、
その花鳥風月のスパンを大きく拡大させてもきたのだろう。
南北東西に長い国土の中で、多様な四季変化が同時進行し、
それがひとつの共通意識文化圏を構成していることから、
生々流転、輪廻転生といった感受性を育んできたに違いないと思っている。
時折、足を止めてじっくりと風土の呼吸感に身を委ねていたいと
そんな「もだしがたい」気分に襲われますね。
本日はちょっとテーマひと休みでした、明日からは住宅ネタ、閑話休題(笑)。
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【数寄屋と高断熱高気密、木造技術の交点】

2016年11月17日 06時27分27秒 | Weblog


写真は青森市の工務店・林工務店さんの現場でのもの。
北海道と青森は隣県だけれど、
その仕事ぶりの大きな違いに気付かされた。
というのは、北海道の住宅を取材しているときには
まずこういった「手仕事」ぶりに出会うことは少ないからです。
1枚目の写真はこれはてっきり
手の込んだ建具屋さんの仕事だと思って見ていました。
繊細な木組み格子をもった和室の引き戸なのですが、
その上、夏の涼やかな風通しのために、
葦を編んだすだれのような造作が全面に施されている。
こういった夏の暮らしへの繊細な配慮に満ちた建具文化自体、
北海道の現代住宅ではほとんど見られなくなっている。
そもそも「建具屋さん」という職種自体も既製品に置き換わっている。
そういった手仕事を見る機会も少なくなっている。
という感覚を持ったので、優秀な建具屋さんですね、と
印象をお話ししたら、いや、これは造作大工の仕事ですと言われた。
2枚目の写真の手の込んだ階段手すりも示されて、
こういった手仕事の専門職大工さんを自社スタッフで持っているという。
北海道の工務店との彼我の距離感にあらためて気付かされた次第。

こういった木造住宅のディテールでの技術力が
工務店の大きなベンチマークであるという感覚の世界。
さすがに和の伝統継承の職人集団としての工務店とは、
こうしたディテールの仕事をさりげなくこなしきる技術力が
大きな「差別化」に繋がってくるという木造文化が感じられた。
そこには、木を造作する技術という部分での誇らしい文化性がある。
そのことは大いに気付きになったのですが、
現代の生活文化の中で、こうした技術はストレートに
いまのユーザーに訴求するのだろうかという感覚に襲われた。
こうした技術力は、繊細な「数寄屋建築」的な世界では
大いに競争力を持った技術には違いがないけれど、
より切実な木造技術と言える「高断熱化」という部分とは志向性が違う。
ただ、林工務店さんは高断熱高気密技術では最先端の工務店。
その木造技術の異なる志向性のなかで努力されているのだと
改めて気付かされたと言うことなのです。
たぶん、1枚目の建具仕事などは、当然のように夏冬で
建具のしつらいを入れ替える生活文化がその基底にあるのだと思います。
わたしの子どもの頃、もう50〜60年前のことですが、北海道でも
たとえば「畳の表替え」ということが、行われてもいた、
そういったきわめて「日本在来」的な生活文化を追想させられました。
言ってみれば、数寄屋と高断熱高気密という異なる技術評価軸。
本州以南の工務店さん、作り手のみなさんには
こういった技術伝承的な部分が随伴していることに静かな驚きと、
やや距離感はありながらも、リスペクトも感じた次第です。
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【震災時、木造仮設大量実現の福島住宅行政】

2016年11月16日 07時04分02秒 | Weblog


きのうは日本でも唯一の、なかばオフィシャルな工務店企業の全国組織、
JBNの全国大会が、福島県いわき市で開催されました。
ことしで9回目の大会で、わたし自身は数回参加していますが、
東北での開催、日頃からお世話になっているエコビレッジ・和田社長が
全国大会のホスト役ということで、取材を兼ねての参加であります。
JBNは、国交省などの国の行政機関とのパイプ役として
工務店企業が意見具申するとき大きなパワーを持っています。
はじめての東北地区での開催に当たって、東日本大震災、
それももっとも厳しい原子力災害に見舞われた福島県の
対策の最前線とも言えるいわき市で開催されたのです。
こういった全国組織大会では、交通の利便性がより優先されるのですが、
今回に限っては、このような象徴性が優先されたと言うことで、
総会の中では何度も「交通の不便な」という枕詞が交わされていました。

っていうような次第でしたが、
きのうの講演では、もと福島県の住宅行政の中核であった
佐々木孝男さんの講演を聞くことが出来ました。
氏は現在は福島県を退職され、「ふくしま建設住宅センター」の
理事長を勤められています。
氏は、震災直後の時期にわたしどもが発行した
東日本震災からの住宅復興ボランティア情報誌で、
福島県の木造仮設住宅の実現経緯についてインタビューさせていただいた。
これまでも震災毎に、なぜか地域工務店は災害仮設住宅建設から
オミットされて、プレハブ協会のみが受注主体になって来ていた。
その不合理な状況に大きな風穴を開けて、
福島県では木造の仮設住宅を大量に実現させたのです。
インタビューでは、地域工務店との協同による地域起こし的な
住宅施策に福島県は大きくカジを切ってきていた経緯が示され、
その大枠の推進構造を活かして踏み切ってきた状況がうかがえました。
あの時期の生々しい状況が再度思い起こされた次第です。
わたし自身、ああいった状況の現場にいたことがまざまざと思い起こされた。
福島県の沿岸地域を取材や訪問していて、
その現場感覚をもう一度、呼び覚まされたような気が致しました。
その後も福島県住宅行政としては進化を続けられていて、
2枚目の写真のように災害公営住宅建設応募について地域工務店に対し、
その「提案内容」について受注した事業者と各社の「獲得点数」を
前者についてはHPで、後者についても各社宛に明示し続けているとのこと。
その「選択基準」も明示しているとのことで、
公明性の確保と、地域工務店の自律的技術向上支援を両立させている。
全国の地方公共団体の中で、北海道を別にすれば、
たいへん目的的な地域工務店支援活動を行っていると思いました。
講演後、佐々木氏と懐かしくお話しさせていただきましたが、
北海道からの工務店グループからも共感が広がっていました。
たいへん有意義なお話しを聞くことが出来ました。
今後にぜひ活かしていきたい地方公共団体の動きだと思います。
住宅をよくするには、建て主利用者と、作り手だけではなく、
行政担当者サイドの意識変化も不可欠なのだと思われます。
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【幕末明治の日本人社会群像】

2016年11月15日 05時33分59秒 | Weblog


きのうにひきつづき、「坂の上の雲」読中(?)感想です。
士農工商体制に基づく徳川幕府体制を倒したエネルギー主体は
結局、各藩の士族階級が主体だったことで、
作られた明治国家は、その層が主導した「上からの社会改造」政権だった。
「世に出た」人物の成り上がり過程もそれが基礎になっている。
その構成実体、人物像を作者・司馬遼太郎さんは、丹念に描くけれど、
その描写の断片断片に、驚く瞬間がある、その2つについて。
ひとつは、明治初年当時、いわゆる明治の元勲とか政府要人などの
「著名人」人物の写真が今日の芸能人並の「ブロマイド」ネタであったという。
わたしも古建築などを探訪するときに床の間に飾られた書が、
明治の元勲が書いたものだ、みたいなのに出会うことがある。
今日の政治家を基準に考える思考と、この時代の隔絶感を抱かされる。
そしてもうひとつ、明治国家の予算で軍事支出が5割を超えることも
常態的であったという事実。
これは不勉強で、司馬さんの指摘に不意を突かれ呆然とさせられた。
こういったふたつの事実を重ね合わせてこの時代を見る必要があるのだと。

明治になって、荒れ狂っていた帝国主義の国際社会に
ようやく漕ぎ出し始めたとき、少年国家・日本の社会のありようが、
まざまざと見えてくるように思われた。
前半に主に出てくる俳句の革新者・正岡子規という文学者も、
旧藩の武士階級から出て、その社会体制の大きな庇護の中から
はじめは「末は博士か、大臣か」という目的テーマのハッキリした
非常に強い「上昇志向」、なんとか欧米という坂の上の雲に向かってという
目標意識が無条件に設定された中で、そこから文化という
脇道にスライドしていくけれど、後の日露海戦での
連合艦隊の作戦参謀を務めた秋山真之との交友など、
〜羸弱(るいじゃく)な基盤しか持たない近代国家としての日本を支えるために、
青年たちが自己と国家を同一視し、自ら国家の一分野を担う気概を持って
各々の学問や専門的事象に取り組む明治期特有の人間像<Wikipedia>〜
として描かれている。
今日の社会とはまったくちがう、主には他変的要素、
帝国主義各国による中国への露骨な利権獲得競争という
東アジアを席巻した状況の進展のなかにこうした人物群像の生き方もある。
やはり幕末から明治とは、ロシアとの基本的な対峙関係を抜きにしては
この時代は考えようがないことが深く実感される。
この時代の予算はほとんどが海軍建設に使われ、
それも対ロシア海軍を仮想敵として国富を傾けて行かざるを得なかった。
しかし、高々100年の以前にはこういう環境条件のなかを
わたしたちの父祖は生きてきたということ。
ひるがえって思いが深まってくる次第なのであります。

<写真は20年前くらいの北欧視察時の住宅例>
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【トランプのアメリカの転換と「坂の上の雲」】

2016年11月14日 10時11分56秒 | Weblog
本日は、読書中間感想文(笑)、であります。
わたしは大多数のひとと同じように、
日本の近現代史については、高校までの教育では学んでいません。
70年前の敗戦という破局を経て、日本人は
そこに至ったプロセスを学ぶことにすら、
ある禁忌を課してきたことのひとつの表れが、こういった
事実上の教育「制度」であることは、厳然たる事実でしょう。
その根拠の大部分は、アメリカによる事実上の長期的占領継続、
冷戦以降も続いたアメリカによる世界戦略のなかで、
その軍事的プレゼンスを国内に受容し続けなければならなかった。
そのことは「属国」と言われてもやむを得ない状況ではあるけれど、
逆にアメリカの軍事力・抑止力の傘の下で、自らの国家戦略とか、
そのための防衛戦略などについて本格的掘り下げをしなくて済んできた。
日本人はそのようないわば真空状態に長くいるけれど、
今回のトランプのアメリカ大統領当選は、再度、現在の国際関係の中で、
日本がより自立的な動きをせざるを得ない状況に向かう、
その象徴的な号砲のように思われます。

そんな経緯から、司馬遼太郎さんの著作のなかでも気の重かった
「坂の上の雲」を読み進めています。
とにかく長い。全8巻の大長編、Kindle版でも5,400円という大作。
明治の開国、その経緯からさらに日露戦争に至る
帝国主義争闘真っ盛りの東アジアと世界の情勢の中での、
日本の「国家戦略」について、司馬さんの目を通して読み進めております。
近年、日露戦争とは第0次世界大戦であったという論が
語られるそうですが、まさに剥き出しの帝国主義戦争のなかで、
日本人が生きた軌跡、その群像について
直接の自分の血のつながり、脈絡のような思いも沸き立ちながら、
まるで首から上の腫瘍について考えるような思いがしてきている。
トランプさんとは、基本的にアメリカのホンネがより強く訴求されてくる
そういった政権であろうと思われる今、
冷静な「国家戦略」、国として、地球市民としての生き方を
日本人と社会に迫られるのではないかと思います。
先人の知恵、思いを大いに汲み取って行かねばなりませんね。
それとやはり、近現代史はきちんと教育すべきでしょうね。
これからを生きていく上で、近しい過去を正直に学べないというのは、
基本において狂っている事態だと思います。
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【8-9世紀北関東豪族居宅の「氷室」跡】

2016年11月13日 08時29分32秒 | Weblog


北関東栃木県市貝町から出土した8-9世紀の「豪族居宅」。
時空遙かな「取材」であるのですが、興味が深く沈殿しております。
わたしは、住宅を「取材する」ということを仕事にするようになってから、
生活ぶりとかに対する感受性をなるべく磨いていきたいと念願しているのですが、
そういった興味は、現在の住宅にばかり向くとはならない。
はるかな昔日のことを思い起こさせてくれる古民家とか、
古建築、さらにはどうしても「遺跡」の類にもその興味が深まるのですね。
まぁ一種の職業的な環境の成せる技なのでしょうか。
こういった古住居遺跡からの生活痕跡に強く惹かれるものがあります。

で、この「豪族居宅」の主は、墾田永代私財法によって
「土地私有」が公的に認定されるようになってから急速に開発された
いわば開発領主の富を表す居宅であり、多くの建物が建築され
擬制的に「郡司」国衙とも類似した建物群の配置計画となっています。
主屋には威信を表す「四面庇」をもつ建築が建てられ、
同時に数十人規模の食膳を整えうる「大型食堂」建築などもある。
たぶん、初期荘園的な豪族、「富豪の輩」と史書に表記された人々の
生活ぶりがそこから立ち上ってくるような印象がある。
この時代の稲束は、それ自体が貨幣であって、
それを大量に収納させていた高倉建築が林立してもいる。
律令民は過酷な収税から逃れたくて、流民となったとされるのですが、
たぶん空間地理的に「移動」したのではなく、
公地ではない、こうした私有の墾田の方に「まだましだ」と
公民から私的隷属民へと積極的に身分移動して行っていた状況が見えてくる。
公民としてワケのわからない「国家」に搾り取られるよりも
いっそ、顔も素性もよく知っている墾田の「旦那」、お館の私有民に吸収された。
いつの時代にも「格差社会」はドンドンと進展する現実があったと。
そんな時代の実相が、こういった遺跡発掘・研究から立ち上ってくる。

写真の発掘跡は、「氷室」跡だとされていました。
この遺跡の発掘に当たられた日本考古学学会員の
中村信博先生から教えていただいたのですが、
地面を掘り込んで、その底には周辺から採掘される鹿沼石のような素材が
敷き込まれて、「透水性」が確保されていたそうです。
で、その穴倉に「氷」を入れ込んで貯蔵させていたとされていました。
「では、その氷室はいまの冷蔵庫のような利用だったのですか?」とわたし。
「いや、どうもかき氷のように氷自体を食べていたようです」とのこと。
かき氷って、暑い時期にはたしかに涼を満たしてくれるものですが、
それがこの地で1200年前に食べられていたというのです。
その氷も、河川交通を使って日光山系あたりから運んできたモノか、
あるいは、いまでも技術伝承の残る製氷を近在で行ったものか、
定かではないけれど、いずれにせよ、そのような嗜好品的高級食が
1200年前前後に行われていたということの証拠だそうです。
そういった食事が、宴会などのシメのデザートとして振る舞われる光景を
想像してみると、まことに刺激的であります。
たぶん、このまま公地公民で得体の知れない「国家」にいるよりも
この私有地の農業奴隷・私有民になったほうが楽しいぞ、と勧誘されたか、
それとも「富豪の輩」がわが世の春と宴の暮らしを楽しんだのか、
まことにリアリティが迫ってきた次第であります。
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【大谷翔平を育成する日ハム・栗山監督の挑戦】

2016年11月12日 08時07分55秒 | Weblog
きのうのメキシコとの国際野球試合。
わがチームの大谷翔平君は3番DHでの出場。
4打数2安打2四球という成績だったのですが、
第1打席での2塁打は、左打者のレフトライン際への打球でした。
同じ時間帯に、NHK(たぶん北海道ローカル)では、
日ハム指揮官の栗山監督へのインタビュー番組。
久しぶりの両方のチャンネルをあちこち、という野球少年的愉しさ。
なんでも、栗山監督が大谷クンの打者としての才能に惚れ込んだのが、
高校野球試合でのレフトフェンス直撃のライナー打球だったという話。
それとよく似た打球ラインを見せてもらっていたので、
ふむふむそういうことなのか、と面白く話を聞いておりました。
栗山さんは評論家として活動していたときにこの打球を見て
「大谷クンは打者としても世界一になれる」と確信したのだそうです。
栗山さんが初めて大谷クンと接触したのは2011年震災直後1カ月くらいだった。
当時の大谷クンの相方の捕手の少年の家が岩手沿岸で被災し、
家族が行方不明ということで心配しているという頃とのこと。
その後、縁があって日ハムの監督になり、大谷クンの交渉権を得て
いきなり大リーグに挑戦したいと考えていた大谷クンに
はじめはニッポンプロ野球で育成されてからの方が成功確率が高いことを
理路整然と説いたのだそうです。
日ハムがこのとき用意した説得のためのレポートは話題にもなったけれど、
結局大谷クンはクレバーにこの説得を受け入れて
わがチームの「育成」に身を投じてくれた。

番組では、いまの大谷クンの現状について
栗山監督のコトバがあって印象的だった。
「打者としては、イメージの理想に対して6〜7割のレベルに達しているけれど、
投手としては、かれ大谷翔平のポテンシャルに対しては20%程度」
とあくまでも厳しい辛口の評価を与えていた。
そんな監督の評価を知ってか知らずか、
その後の同時進行の試合の方では、平凡な1塁ゴロだったけれど、
相手1塁手が強打を警戒して深く守っていて、捕球したけれど
投手の1塁カバーに一瞬の遅れが出て、足の速さで内野安打をゲット。
そこから対左投手であるのに、すぐに2塁に鮮やかな盗塁を決め、
味方の進塁打で3塁に進んで、次打者のボテボテの1塁ゴロで
難なくホームインを決めてしまっていた。見事な走塁。
二刀流とよく言われているけれど、
その上に足もずば抜けたアスリートであることを知らしめた。
たぶん、調査に陣取っている大リーグスカウト陣に、
まったく新たな才能も見せつけたに違いありません。
メキシコの監督も、この走塁をきのうの最大の敗因として語っていた。
番組では、ソフトバンクの王さんが福岡ドームで敵陣・栗山監督の処に
わざわざやってきて「すごい宝物を預かって大変だね」とねぎらってくれたという
心の通い合うエピソードも語られていたけれど、
日本の野球が生んだ無限大の可能性が、さらに羽ばたいてくれることを
もと野球少年として、真摯に願わずにはいられません。
頑張れ、大谷クン! がんばれ北海道日本ハムファイターズ!

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【自分の体の使い方をミスする・・・高齢化】

2016年11月11日 07時35分24秒 | Weblog
本日はまことに情けないことを書きます。
人間はそれぞれに自分が使うカラダを持っている。
そのカラダは生きてきた年齢分、使い続けているので、
自ずとその使用法、外界との臨界認識は自然に備わっているものです。
ごく当たり前のことですね。
ところが、最近、ごく些細なことで右手の小指を傷めてしまった。
出張に出るためにその準備として、旅行バッグに荷物を入れるべく
いろいろなことを考えながら、作業していて、
使い慣れているはずのその旅行バッグのファスナー部分に
この右手小指を衝突させてしまった。
ファスナー部分なので、その下にはポケット状の収納スペースがある。
体技的訓練、日常動作として、普通にモノをもって、
「滑り込ませる」可能限界認識からは、「十分に可能」と判断して
そのように動作したのが、結果として小指が小激突して、
衝撃痛を負ってしまったのであります。
ようするに体動作の限界認識に於いて、
判断基準をすこし変更させる必要が出てきた、高齢化対応が
求められるようになって来たということなのでしょう。

こういうのは、その現実を認識して深く思いを致させられる。
目がなかなか見えずらくなってくるとか、
動作の敏捷性がゆっくりとしてきたとか、いわゆる高齢化が
こういった体動作のこまかな部分にまで及んできているのだと
それこそ「痛感」させられた。
で、人間は他の動物と違って、手型の発展をしてきた生物。
多くの動物は「口型」であるのに対して、人に於いて手は決定的な器官だと。
言い換えれば、手は人間の体動作のなかでも
原始からかなりの「鍛錬」と経験を積み重ねている最重要な器官。
その基本利用に於いて、こういった失策をすることに驚かされた。
なんとも、情けないと加齢を思わされた次第であります。
写真は、10月20日前後の写真(左)といま現在11月10日の状態。
事件があった日が10月4日でした。
まぁかなりの衝撃ではあったけれど、外観的には出血などはごくわずかで、
小指の右側、爪の右側境界部分が一番衝撃を受けたようで、
事件後2週間程度の時点(写真左側)ではやや膿を持った状態。
このころは、炎症感も強く持っていて、外科にでも行くべきか、
と思案しておりましたが、体感的には「そこまでは必要ない」と思い、
そのまま放置して今日まで来て、いまはほとんど痛みはない状態。
わたしは、まだまだ爪の伸び方は早いほうで
やや爪が浮き上がった状態でもあるようでしたが、
内出血の状態も徐々に緩和してくるにつれて、爪の浮き上がりも
落ち着いてきているようであります。
ということで、全治1カ月以上ということのようで、
病院のお世話にならずに、自然治癒ということになってきていますが、
体の使い方、より注意深くしていかねばと、情けない決意をしている次第。
小事は大事と肝に銘じております。
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