写真は千利休が師匠の武野紹鴎から茶道を教えられたと伝わる茶室・実相庵。
大坂の陣や空襲で全焼してしまったモノを現代になって1961年に再建築したとか。
しかし建築当時の図面を参照しての再建築なので、
多くの知見が動員されたに違いなく、利休さんも見ていた建物ではないかと。
内部は非公開ということだったのですが、「利休好み」の茶室だったとされる。
「二畳台目の下座床の平面構成で、給仕口が開き戸となっている点と、
床の間の落掛に卒塔婆が嵌められて「卒塔婆の席」とも呼ばれる。
実際には手法・材料から利休の時代まで遡ることは出来ないようで、
後年に利休風の茶室を造ったのがその真相のようだ。
露地にある袈裟形の手水鉢は利休遺愛のもの。」っていう紹介がWEBであった。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/nansyuji.html
以前から住宅の歴史の中で、この「茶室・茶の間」という部位特定する名詞が
日本生活文化の定型になっていることに深く疑問を持ち続けてきた。
文化として建築と喫茶習慣がなぜ一体化し日本的デザインの究極になったのか、
さらにこういう「生活習慣文化」が、なぜ「家元制度」というようなカタチで
永く存続してきたのかも不思議だと、ずっと考えさせられ続けています。
わたし自身、家族の暮らしの中心としての「茶の間」畳敷き空間体験はある。
となりに台所があって、食に近接した「自由空間」というイメージ。
そこでわざわざ「茶を喫する」ことが主要な用途だったとは思われない。
そこにはテレビが端座し「見る娯楽」が定置され自動的に家族が寄り集まった。
茶の間と言うより共同幻想装置としてのメディアの場ではなかったかと。
もちろんそこには主にテレビの番組ガイド機能を果たしていた
「新聞」が常に参照可能なように広げられていた。
そのテレビ視聴の合間に、一定の思想傾向に基づいた新聞記事を読み
「そうか、知識を持つ人はみんな反政府でなければならないんだ」
みたいなそういう「一般性」が存在していたように思う。
ちょっと横道にそれたが(笑)、茶の間ではそういった時間が経過していた。
たまにはお茶を飲むこともあっただろうけれど、
それは単に水分補給ということであり、茶よりもジュースなどの
飲料に主役の座は移っていたと思われる。
なので、茶の間というコトバが茶室にルーツを持っているということに
その連関性がきわめて実感として薄い。
われわれの時代感覚では、茶の間からリビングへという移行はわかりやすく、
常識理解出来るけれど、茶室⇒茶の間という流れはイマイチ、実感がない。
さらに現代にいたって、テレビ視聴も個人的なものに移ってきて、
家族一緒にテレビを見る習慣も薄れつつある。
各人が個室的空間でWEBに接続している。空間として連続しているけれど
不連続な住宅空間が一般化してきている。
言って見れば「家族から個族」とでもいえる流れになってきている。
そういうとき、茶室・茶の間が定型住居指示代名詞としてあり続けるのか、
住宅デザインの核心テーマと関わるので、強い関心を持ち続けています。