三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

平泉という夢のあと

2007年02月13日 07時12分04秒 | Weblog

東北版のリプランを発行しはじめてから
当然ですが、東北各地を取材で訪れるようになり、
いきおい、東北の歴史に関心が向かっていきます。
北海道では最近、考古的な年代でのいろいろな発見がありますが、
やはり文字による記録が残された、手がかりのある歴史的事実の集積は乏しいので、
なかなか実感を伴って歴史を再構築しにくい。
そうした意味では、歴史的事実が明確な東北の歴史は
わかりやすく、実に興味深いものがあります。
簡単に言えば、東北って、ヤマト国家との緊張関係の歴史であって、
それも敗者の側の歴史ということが、わかりにくくしてきたということのようですね。
しかし、わかりにくいというだけであって
富の集積であるとか、そういう部分ではヤマト国家と
それほどの乖離のある存在ではなかったと思えるのです。
この写真は、平泉の中尊寺一帯の宗教施設群のなかにある 
能楽堂の全景写真ですが、権力の正統性の担保としての宗教施設に
これだけの建築を遺してきた経済力は、すごい。
ヤマト国家と東北の関係は、
比較的早くからその国家権力のなかに組み入れられていた宮城県以南の地域と、
平泉を中心とするような「奥六郡」以北地域との間で、
実に複雑な推移が展開してきたようです。
わかりにくさというのは、ヤマト政権の側からだけ見た歴史観では、
よく見えにくい事態の推移が主要にあった、ということを表しています。
平泉・奥州藤原氏の時代になると、
明確にヤマト朝廷国家とは一線を画したひとつの王権として成立していたといえます。
この平泉が滅ぼされたのは、関東に新制度国家を設立した関東武士団によってです。
この時期というのは、後の戦国時代以上に、権力争闘が熾烈であり、
本当であれば、日本にはいくつもの国家が存在しても不思議ではなかった
というような様相を見せていた時代だと思います。

奥州藤原氏というのも、自ら「俘囚の長」であると宣言していた、
ということですが、どうも感覚として独立国家を運営していたと自覚していたと思われます。
<俘囚>っていうことばは、ヤマト国家の側から東北北部に暮らす人々を
蔑んで呼んだ言い方なわけで、それをあえてこうして表現するというのは
そこに強い意志の存在を感じます。
ヤマト国家の側からは、律令制度での官位を与えたりして懐柔しています。
しかし、それに対して別に上京して臣下の礼を取った、というようでもないようです。
平家による宋との交易による、いわば貿易立国的な志向性、
一方で形骸化していたとはいえ、一応国家としての統治機構としての
律令体制を維持していたヤマト朝廷国家。
さらには、ヤマト国家の土地経済政策の破綻の結果、自立を志向した関東新国家、
頼朝を盟主と仰いだ関東武士団による独立の動き。
そしてこの平泉を根拠地とした奥州藤原氏の覇権成立地域。
ちょうど、関東新国家が武権として、全国制覇していく過程で、
こういうような政治状況が生まれていたようですね。
後の戦国期のような、覇権争奪という側面はそう大きくはない、
むしろ、それぞれが自立的な方向を志向していた時代のようです。

こういう時代は、普通に考えればそれぞれの独立国家による
外交関係と捉えた方が、よりわかりやすいし、当人たちも、
「日本」という統一国家意識というのは、特段強くなかったのではないかと思います。
藤原氏の「俘囚の長」という発言を、
歴史のなかでとらえたとき、そういう雰囲気を感じ取ることが出来ると思います。
っていうような、夢想を抱かせる平泉の建築群です。
久しぶりに、歴史のテーマでした。
コメント
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