『メキシコの大地に消えた侍たち 伊達藩士・福地蔵人とその一族の盛衰』(2004年 新人物往来社)
大泉光一(1943年~)
国際関係論学者、青森中央学院大学教授。インスティトゥート・デ・エストゥディオス・ウニベルシタリオス経営大学院准教授。
長野県諏訪市に生まれ、宮城県柴田郡大河原町で育つ。2006年『支倉常長 慶長遣欧使節の真相 肖像画に秘められた実像』で和辻哲郎文化賞受賞。
危機管理、国際テロなどが専門だが、支倉常長について長く研究をしており、「支倉は伊達政宗により徳川幕府打倒のために派遣された」という説を唱えている。
おもな著書
『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』(1999年 中公新書)
『伊達政宗の密使 慶長遣欧使節団の隠された使命』(2010年 洋泉社歴史新書y)
『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」 ヴァティカン機密文書館史料による結論』(2017年 文春新書)
近世の日本とメキシコの関係史まとめ
天文十八(1549)年
八月
イエズス会宣教師フランシスコ=ザビエル(43歳)、日本にキリスト教を伝える。
1553年
薩摩国出身の日本人キリシタン・ベルナルド(日本名不詳)、ポルトガル王国コインブラに渡りイエズス会に入会する(のちに司祭、日本人初のヨーロッパ渡航者)。
1564年
十一月
スペイン王国領メキシコ副王ドン・ルイス=デ=ベラスコ=マルケス=デ=サリナス侯爵(30歳)、ミゲル=レガスピに東南アジアのフィリピン諸島の征服を命じる。
ミゲル=レガスピ、フィリピン諸島冒険の経験のあるアンドレス=デ=ウルダネータを伴い5隻の艦隊(乗組員380名)を率いてメキシコ・ハリスコ州ナビダ港から遠征に出発する。
1565年
六月
ミゲル=レガスピとアンドレス=デ=ウルダネータのフィリピン遠征艦隊、フィリピン諸島セブ島に到着し征服を開始する。
アンドレス=デ=ウルダネータ、フィリピン遠征軍から離れ乗組員200名を率いて太平洋を航海し、黒潮に乗って日本列島の房総半島・犬吠埼を発見する。
九月
アンドレス=デ=ウルダネータ率いるガレオン船、アメリカ大陸のカリフォルニア海岸に到着する。
十月
アンドレス=デ=ウルダネータ率いるガレオン船、スペイン王国領メキシコのアカプルコ港に帰還する(マニラ・ガレオン航路の確立)。
1570年
六月
ミゲル=レガスピのフィリピン遠征軍、フィリピン諸島のルソン島マニラを占領する。
1571年
三月
ポルトガル国王、日本人の奴隷売買を禁止する勅令を発するが、実効性は薄かった。
五月
スペイン王国領メキシコのフィリピン遠征軍、ルソン島マニラを拠点としてフィリピン諸島を征服する。
1585年
一月
ローマ教皇グレゴリオ十三世(83歳)、日本におけるイエズス会以外の宣教師によるキリスト教布教を禁止する小勅書を発布する。
1586年
十一月
ローマ教皇シクスト五世(65歳)、フィリピン諸島のフランシスコ会をメキシコ管区から独立させ、日本・中国と合わせた「大聖グレゴリオ管区」とする。
天正十八(1590)年
七月
豊臣秀吉(54歳)、関東大名・北条家の相模国・小田原城を陥落させ関東地方を制圧する。
豊臣秀吉、甥・豊臣秀次を総大将として奥州平定軍五万を東北地方に送り諸大名の臣従をうながす。
東北大名・伊達政宗(23歳)、豊臣秀吉に臣従する。
八月
陸奥国大名・葛西左京大夫晴信(56歳)、豊臣秀吉に臣従しなかったために豊臣家武将・木村伊勢守吉清の攻撃を受け没落する。
葛西家家老・福地対馬守安通、豊臣軍に敗れ討死する(43歳 福地蔵人の縁者とみられる)。
木村伊勢守吉清、葛西家の旧領30万石を所領する。
十月
木村伊勢守吉清の所領(葛西家旧領)で、吉清の施政に反抗する領民が一斉蜂起する(葛西大崎一揆)。
天正十九(1591)年
八月
伊達政宗(24歳)、陸奥国葛西旧領で発生した一揆を鎮圧し、首謀者20名を桃生深谷に集めて処刑する(その中に葛西家家老の福地家の縁者もいた)。
文禄元(1592)年
太閤・豊臣秀吉(56歳)、朱印船貿易制度を制定する。
五月
スペイン王国領フィリピン・マニラ総督ゴメス=ペレス=ダスマリニャス(73歳)、スペイン国王に対日本人暴徒のためのマニラ防衛兵増員を要請する。
慶長元(1596)年
九月
太閤・豊臣秀吉(60歳)、土佐国浦戸港に漂着したスペイン船「サン・フェリペ号」の積荷を没収する(サン・フェリペ号事件)。
十二月
太閤・豊臣秀吉、「サン・フェリペ号事件」に関連した示威行為としてフランシスコ会宣教師26名を長崎・西坂で処刑する(二十六聖人殉教)。
慶長三(1598)年
七月
スペイン王国のフランシスコ会宣教師ジェロニモ=デ=ジェズース=デ=カストロ、島原半島口之津から日本に入国し畿内地方に潜伏する。
八月
太閤・豊臣秀吉、京・伏見城で死去(62歳)。
十一月
豊臣家大老・徳川家康(55歳)、潜伏していたフランシスコ会宣教師ジェロニモ=デ=ジェズース=デ=カストロを伊勢国で捕縛し京・伏見城に召喚する。
徳川家康、宣教師ジェロニモにスペイン王国領メキシコと徳川家の通商条約の締結交渉を依頼する(提示条件はフィリピン~メキシコ航路上の日本港の使用許可)。
慶長八(1603)年
六月
スペイン王国のフランシスコ会宣教師ルイス=ソテロ(28歳)、フィリピンからガレオン船「サンティアゴ号」で日本に入国し徳川家領内(伏見・江戸・駿府)での布教活動を開始する。
1606年
スペイン王国領フィリピン・マニラの在留日本人約1500名、日本人水夫がスペイン人に殺害された事件によって暴徒化する。
1607年
一月
ポルトガル国王、インド副王に日本人奴隷の解放を命ずる。
七月
スペイン王国領フィリピン・マニラの聴訴院、スペイン国王に「日本人は傲慢で凶暴な性格の持ち主である。」と報告する。
慶長十三(1608)年
二月
スペイン王国領フィリピン・マニラ、在留日本人の暴動を受けて日本人のマニラ追放を決定するが、実効性は薄かった。
六月
ローマ教皇パオロ五世(55歳)、1585年の教皇グレゴリオ十三世の小勅書を無効とし、日本における全カトリック修道会のキリスト教布教を許可する小勅書を発布する。
八月
ドン・ロドリゴ=デ=ビベロ(44歳)、フィリピン臨時総督に就任し、江戸幕府との外交関係の改善をはかりマニラ暴動で逮捕した日本人を全員釈放する(日本とフィリピンとの関係の改善)。
大御所・徳川家康(65歳)、フィリピンとの貿易港として相模国浦賀を選定し、外交顧問のオランダ人・三浦按針(43歳)を派遣して洋式船の建造を開始する。
慶長十四(1609)年
九月
前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴ=デ=ビベロ(45歳)、ガレオン船「サンフランシスコ号」にてメキシコに帰還する途上で台風により座礁、日本の房総半島・上総国大多喜藩領岩和田海岸に漂着する。
十二月
前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴ=デ=ビベロ、京・伏見城で大御所・徳川家康(66歳)に謁見し、日本メキシコ間の通商交易協定の提案を受ける。
慶長十五(1610)年
一月
大御所・徳川家康(67歳)、宣教師ルイス=ソテロ(35歳)を対メキシコ大使として親書を託すが、前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴ=デ=ビベロ(46歳)はソテロを好まず大使を宣教師アロンソ=ムニョスに交代させる。
六月
大御所・徳川家康、前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴ=デ=ビベロのメキシコ送還を目的とする、京と大坂の商人と町人23名で編成した「田中勝介使節団」を乗せた小型帆船「サン・ブエナベントゥーラ号」(120トン)を浦賀から出航させる。
十月
宣教師ルイス=ソテロ(35歳)、出羽国米沢城で伊達政宗(43歳)に謁見する。
十一月
前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴ=デ=ビベロと田中勝介使節団を乗せたサン・ブエナベントゥーラ号、スペイン王国領メキシコのアカプルコ港に到着する。
十二月
田中勝介使節団、スペイン王国領メキシコ副王ドン・ルイス=デ=ベラスコ=マルケス=デ=サリナス侯爵(76歳 ロドリゴ=デ=ビベロの伯父)に謁見する。徳川家康の日本メキシコ通商交易協定案、財政難を理由に却下される。
田中勝介使節団、メキシコ市内のフランシスコ修道会「サン・アウグスティン修道院」に滞在する。
田中勝介ほか5名、メキシコ市内のサンフランシスコ教会にてカトリックの洗礼を受ける(勝介の霊名はフランシスコ=デ=ベラスコ)。
慶長十六(1611)年
三月
スペイン王国領メキシコ副王ドン・ルイス=デ=ベラスコ=マルケス=デ=サリナス侯爵(77歳)、メキシコ艦隊司令官セバスティアン=ビスカイノ(63歳)を答礼大使とする江戸幕府への答礼使節団を乗せたサンフランシスコ号を出航させ、田中勝介使節団17名も随行する(3名がメキシコ残留)。
メキシコに残留した田中勝介使節団のルイス=デ=ベラスコとフアン=アントニオ(どちらも日本名不詳 関西地方出身の商人か)、メキシコ副王ドン・ルイス=デ=ベラスコ=マルケス=デ=サリナス侯爵の召使となり(フアン=アントニオは侯爵の衣装係)、メキシコ副王の任期を終えた侯爵と共にスペイン王国に渡る(日本人初の大西洋横断)。
六月
メキシコ艦隊司令官セバスティアン=ビスカイノを答礼大使とする答礼使節団、日本の浦賀港に到着する。
セバスティアン=ビスカイノ、江戸城の将軍・徳川秀忠(32歳)に謁見する。
七月
セバスティアン=ビスカイノ、駿河国・駿府城の大御所・徳川家康(68歳)に謁見する。
江戸幕府、セバスティアン=ビスカイノに伊達政宗(44歳)の仙台藩領三陸海岸の港湾測量を依頼する。
スペイン国王フェリペ三世(33歳)、日本人司祭ペドロ=アントニオ=デ=荒木を含めたフランシスコ修道会宣教師12名を日本に派遣する。
十月
フランシスコ会宣教師ルイス=ソテロ(37歳)、伊達政宗と会談し伊達家領内での布教活動の許可を得る。
十一月
セバスティアン=ビスカイノ、仙台藩・青葉城で伊達政宗に謁見し、三陸海岸の港湾測量の依頼とメキシコとの通商条約締結に関する協議を行う。
慶長十七(1612)年
三月
大御所・徳川家康(69歳)、江戸幕府の直轄地である江戸・京・駿府でのキリスト教信仰を禁止し、キリシタンの家臣23名を追放する。
六月
大御所・徳川家康、メキシコに対して貿易は望むがキリスト教の布教は許可しない方針を親書で示しセバスティアン=ビスカイノ(64歳)に託す。
八月
江戸幕府、五ヶ条のキリシタン禁制令を全国に発布する(八月六日令)。
九月
宣教師ルイス=ソテロ(37歳)、江戸幕府のスペイン王国宛親書をたずさえ伊達家家臣・支倉六右衛門常長(41歳)らと共に幕府の建造した「サン・セバスティアン号」で浦賀港から出航するが同日夜に難破し渡航は失敗する。これを機に、徳川家康のメキシコ貿易への意欲とルイス=ソテロへの信用は失われる。
セバスティアン=ビスカイノの乗るサンフランシスコ号、浦賀港を出港し日本近海の「金銀島」の探索を行うが発見できず。
十月
セバスティアン=ビスカイノのサンフランシスコ号、暴風雨により損傷し浦賀港に寄港する。
ビスカイノ、サンフランシスコ号の修理と渡航の資金援助を江戸幕府に求めるが明確な返答を得られず、徳川家康への謁見もできず。
仙台藩主・伊達政宗(45歳)、ビスカイノらのメキシコ帰還を全面支援する協定を結び、仙台藩に招く。
慶長十八(1613)年
この年、スペイン王国にてルイス=デ=ベラスコ=マルケス=デ=サリナス侯爵の衣装係だった日本人フアン=アントニオに子フアン=デ=パエス誕生か。
三月
仙台藩主・伊達政宗(46歳)、セバスティアン=ビスカイノ(65歳)と江戸幕府船奉行・向井将監忠勝(30歳)の協力を得て、月ノ浦にてガレオン船「サン・フアン・バウティスタ号」(500トン)を建造する。
六月
徳川幕府、江戸からのキリシタン追放を開始し、フランシスコ会宣教師ルイス=ソテロ(39歳)も捕縛され火刑の宣告を受ける。
七月
仙台藩主・伊達政宗、捕縛されたルイス=ソテロがメキシコ渡航に必要不可欠な人間であると江戸幕府に説得し、助命と釈放に成功する。
八月
ルイス=ソテロ、江戸を発ち仙台に到着する。
九月
伊達政宗、セバスティアン=ビスカイノと共に家臣・支倉六右衛門常長(42歳)やフランシスコ会宣教師ルイス=ソテロ、江戸幕府から船奉行・向井将監忠勝の家臣ら約180名で編成した「慶長遣欧使節」を乗せたサン・フアン・バウティスタ号を月ノ浦港から出航させる(うち日本人は約140名、その中に19歳の仙台藩士・福地蔵人もいた)。
※この時、ソテロは昨年に江戸幕府から預かったスペイン王国宛親書も保管しており、伊達家大使だけでなく日本国大使の立場にもなれるように工作していた。
十二月
ビスカイノ、支倉常長ら慶長遣欧使節団を乗せたサン・フアン・バウティスタ号、スペイン王国領メキシコのカリフォルニア半島メンドシノ岬サカトゥラ港に到着する。
大御所・徳川家康(70歳)、十五ヶ条のキリスト教禁止令を発布し日本国内でのキリスト教信仰と外国人宣教師の布教活動を禁止する。
伊達政宗、江戸幕府のキリスト教禁止令に形式上は従いながらも実質的な弾圧は行わず黙殺する。
慶長十九(1614)年
一月
セバスティアン=ビスカイノ(66歳)や支倉六右衛門常長(43歳)ら慶長遣欧使節団を乗せたサン・フアン・バウティスタ号、スペイン王国領メキシコのアカプルコ港に到着する。
三月
支倉六右衛門常長ら慶長遣欧使節団、メキシコ市に到着し、スペイン王国領メキシコ副王ドン・ディエゴ=フェルナンデス=デ=コルドバ=マルケス=デ=グアダルカサール侯爵に謁見する。
メキシコ副王グアダルカサール侯爵、慶長遣欧使節団のうち主要約20名をスペイン王国に派遣することを決定し、残る約120名はアカプルコ港のフランシスコ会修道院に滞在することとなる。
四月
メキシコ市のサンフランシスコ教会にて、慶長遣欧使節団の日本人のうち42名が洗礼を受け、すでに受洗していた64名が堅信の秘跡を受ける(支倉の家臣である仙台藩士・福地蔵人は受洗せず)。
五月
支倉常長やフランシスコ会宣教師ルイス=ソテロ(40歳)ら慶長遣欧使節の主要約20名、メキシコ市を出発してスペイン王国に向かう(福地蔵人はメキシコに残留したとみられる)。
六月
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、ベラクルスのサン・フアン・デ・ウルア港から大西洋に出港する。
七月
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、キューバ島ハバナ港に到着する。
八月
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、キューバ島ハバナ港からスペイン王国に向けて出港する。
十月
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、スペイン王国南部のサン・ルカール・デ・バラメダに到着する。
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、スペイン王国最大の商業都市・南部アンダルシア州都セビリア市に到着する。
十一月
キリシタン大名・高山右近重友(62歳)と盟友の元丹波国亀山城主・内藤ジョアン忠俊(64歳)、その娘ルチアと忠俊の妹ジュリア(47歳)、江戸幕府の命によりスペイン王国領フィリピン・マニラに追放される。
大坂冬の陣、開戦。
十二月
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、スペイン王国の首都マドリードに到着するが、日本の一大名の使節という扱いとなり形式的な待遇を受ける。
元和元(1615)年
一月
支倉常長(44歳)やルイス=ソテロ(41歳)ら慶長遣欧使節の主要約20名、スペイン王国国王フェリペ三世(36歳)に謁見する。
支倉常長、伊達政宗のスペイン王国との通商条約締結と伊達家領内でのキリスト教布教許可をフェリペ三世に提示するが判断を保留される。
二月
支倉常長、マドリードの王立跣足会女子修道院付属教会で洗礼を受ける(霊名フェリペ=フランシスコ)。
支倉常長、スペイン王国「サンティアゴ騎士団」への加入を望むが却下される。
宣教師ルイス=ソテロ、慶長遣欧使節のローマ教皇への謁見の許可をフェリペ三世に申請する。
キリシタン大名・高山右近重友、スペイン王国領フィリピン・マニラで死去(63歳)。
四月
大使サンタ=カタリナと慶長遣欧使節のメキシコ残留組約120名(江戸幕府船奉行・向井将監忠勝の家臣も含む)を乗せたサン・フアン・バウティスタ号、スペイン王国領メキシコのアカプルコ港から日本に向けて出港する。
フェリペ三世、支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名のローマ教皇への謁見を許可する。
五月
ローマ教皇庁、宣教師ルイス=ソテロによるキリスト教の日本布教の可能性の説得に強い疑問を持つ。
大坂夏の陣、開戦。
六月
マドリードでの慶長遣欧使節の宿泊先となっているサン・フランシスコ修道院、使節団の乱暴狼藉と長期の逗留による財政逼迫をスペイン王国に訴える。
八月
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、ローマに向けてスペイン王国首都マドリードを出発する。
サン・フアン・バウティスタ号の大使サンタ=カタリナ、日本の浦賀港に到着するが徳川家康・秀忠父子には謁見できず冷遇され帰国の途に就く(事実上のスペイン王国との国交断絶)。
サン・フアン・バウティスタ号で帰国した江戸幕府船奉行・向井将監忠勝の家臣、江戸幕府に支倉常長ら伊達家家臣のスペイン王国への交渉内容に関する疑惑(伊達家独自の外交交渉の可能性)を報告する。
十月
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、ジェノヴァ共和国を経由してローマに到着し、教皇パオロ五世(63歳)に謁見する。
教皇パオロ五世、慶長遣欧使節を歓待するが、支倉らの主君・伊達政宗がキリスト教信者でないことを理由に(スペイン王国からの要請もあり)伊達家との通商条約締結には応じず。
十一月
支倉常長の小姓・小平外記、ローマの聖ヨハネ大聖堂で洗礼を受ける(霊名パオロ=カミルロ=シピオーネ)。
支倉常長や小平外記ら慶長遣欧使節、ローマ市民権証書を授与される。
十二月
支倉常長、サンタ・マリア教会で堅信式を受ける。
元和二(1616)年
一月
支倉常長(45歳)やルイス=ソテロ(42歳)ら慶長遣欧使節の主要約20名、ローマを出発してスペイン王国首都マドリードを目指し帰途につく。
四月
慶長遣欧使節に参加していた伊丹ペトロ宋味と野間フランシスコ半兵衛、使節から離脱しスペイン王国バレンシア州アリカンテ港に滞在する(その後の消息は不明)。
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、スペイン王国首都マドリードに到着するが六月にサン・フアン・バウティスタ号で日本に帰国するよう命じられる。
大御所・徳川家康、死去(74歳)。
六月
支倉常長、伊達家との通商条約締結の返答が得られていないとして日本帰国を拒否し、セビリア近郊のフランシスコ会ロレト修道院に寄寓する(使節の内15名は先に帰国させ、側近5名と共にとどまる)。
スペイン王国、伊達家への返答は保留したまま支倉常長らに強制国外退去を命じる。
七月
支倉常長ら、セビリアを発ちメキシコへの帰国の途に就く。
八月
伊達政宗(49歳)、支倉常長ら慶長遣欧使節を帰国させるために、重臣・横沢将監吉久と宣教師サンタ=カタリナら約200名を乗せたサン・フアン・バウティスタ号をスペイン王国領メキシコに向けて浦賀港から出航させる。
九月
支倉常長ら、スペイン王国領メキシコのメキシコ市に到着する。
1617年
二月
伊達家重臣・横沢将監吉久と宣教師サンタ=カタリナを乗せたサン・フアン・バウティスタ号、スペイン王国領メキシコに到着する(船体はかなり破損し、船員の半数は洋上で病死していた)。
1618年
四月
支倉常長(47歳)やルイス=ソテロ(44歳)ら慶長遣欧使節の主要約20名、新任のフィリピン総督ドン・アロンソ=ファハルドと共にサン・フアン・バウティスタ号でスペイン王国領フィリピンに向けてアカプルコ港から出航する。
六月
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、新任のフィリピン総督ファハルドと共にスペイン王国領フィリピンのマニラ港に到着し、サン・フランシスコ・デル・モンテ修道院に寄寓する。
スペイン王国領フィリピン総督ファハルド、オランダ艦隊の攻撃に備えるフィリピン沿岸防衛の目的でサン・フアン・バウティスタ号を買い上げる(のちオランダ艦隊との砲撃戦でマニラ沖に沈没)。
元和六(1620)年
セバスティアン=ビスカイノ(72歳)、メキシコ市からメキシコ・ハリスコ州のアバロス村の領地へ一族と共に移住する(この時、ビスカイノに従って福地蔵人も移住したと思われる)。
慶長遣欧使節団から残留した仙台藩士・福地蔵人(25歳)、アウアカトラン郡のアルカルデ・マジョール(群奉行)であるアロンソ=サンチェス=エンシオを代父として洗礼を受ける(霊名ルイス=デ=エンシオ)。
ルイス=福地蔵人、カトリックに改宗してメキシコでの結婚の権利を獲得し、スペイン人とメキシコインディオの混血女性(メスティーサ)であるカタリーナ=デ=シルヴァと結婚する。
八月
支倉常長(49歳)や横沢将監、ルイス=ソテロ(46歳)と別れフィリピンから出航し、日本の長崎港を経由して仙台に帰国する。
支倉常長、帰国後に一族郎党をキリシタンに改宗させる。
十月
伊達政宗(53歳)、慶長遣欧使節を徳川家康の主導によるものであると弁明し、江戸幕府から支倉常長らの帰国許可を得て伊達家への責任追及を回避する。
十二月
伊達政宗、江戸幕府に呼応し伊達家領内でのキリスト教弾圧を開始する。
元和八(1622)年
五月
メキシコに残留した元田中勝介使節団のルイス=デ=ベラスコ(日本名不詳)、スペイン海軍から除隊しメキシコに戻る。
七月
伊達家家臣・支倉常長、死去(52歳)。
八月
宣教師ルイス=ソテロ(48歳)、フィリピンを出航して日本の薩摩国に潜入するが捕縛され、長崎・大村に収監される。
元和九(1623)年
八月
徳川家光(19歳)、江戸幕府第三代征夷大将軍に就任する。
十月
将軍・徳川家光、江戸で翌十一月にかけてキリシタンの大量処刑を断行する。
寛永元(1624)年
二月
ルイス=デ=ベラスコ=マルケス=デ=サリナス侯爵の日本人召使フアン=アントニオ、スペイン王国からメキシコに渡りグアダラハラ市に定住する。
伊達政宗(56歳)、仙台藩広瀬川でイエズス会宣教師ディエゴ=デ=カルヴァリョ(46歳)らを「水籠めの刑」で処刑する。
三月
江戸幕府、スペイン王国との交易を全面禁止し、国内在住のスペイン人を追放処分とする。
八月
スペイン王国領フィリピン・マニラのヤコボ朝長(42歳)とトマス西六左衛門(34歳)、ドミニコ会に入会し司祭となる。
宣教師ルイス=ソテロら、長崎・大村で火刑に処される(49歳)。
1628年
セバスティアン=ビスカイノ、メキシコ市にて死去(80歳)。
十二月
スペイン王国領フィリピン・マニラのルチア内藤、アジア初の女子観想修道院「聖クララ会修道院」に日本人として初めて入会する。
1631年
十一月
メキシコ・グアダラハラ市の日本人住民フアン=アントニオ、セバスティアン=ビスカイノ司令官の息子ドン・フアン=ビスカイノから黒人奴隷フアンを買い取る。
寛永十(1633)年
二月
江戸幕府第三代征夷大将軍・徳川家光(28歳)、第一次鎖国令を発布し、全ての日本人キリシタンと海外に5年以上居住した日本人の帰国を禁じる。
1634年
五月
ルイス=福地蔵人(39歳)、スペイン人実業家フランシスコ=デ=レイノソの出資を受けグアダラハラ市で小売業経営を始める。
寛永十二(1635)年
江戸幕府、第三次鎖国令により日本人の海外渡航を全面禁止する。
寛永十三(1636)年
メキシコ軍総司令官ドン・ロドリゴ=デ=ビベロ子爵、死去(80歳)。
五月
伊達政宗、死去(70歳)。
寛永十四(1637)年
十月
肥前・肥後国境で島原の乱が発生する(翌十五年二月に終結)。
1638年
日本人フアン=デ=パエス(25歳 日本名不詳)、ルイス=福地蔵人(43歳)の娘マルガリータ=デ=エンシオ(18歳)と結婚する。
フアン=デ=パエス、義父ルイス=福地蔵人のもとで中古衣料販売を始める。
寛永十六(1638)年
七月
江戸幕府、ポルトガルとの交易を禁止し、ポルトガルの支援を受けたイエズス会の活動も禁止する。
寛永十七(1640)年
ルイス=福地蔵人(45歳)の娘婿の日本人フアン=デ=パエス(27歳)、メキシコ・グアダラハラ市郊外のサポパン村のコレヒドール(代官)に就任する。
三月
伊達家藩士・支倉勘三郎常頼、キリシタン禁制を破った罪により所領没収のうえ切腹を命ぜられる(42歳)。常長の次男・権四郎常道、キリシタン信仰の罪を逃れ逃亡し消息不明となる。
1642年
五月
グアダラハラ市郊外タパティア村の日本人アウグスティン=デ=ラ=クルス(日本名不詳 慶長遣欧使節団のひとりだった可能性が高い)の死去に際し、友人のルイス=福地蔵人(47歳)が遺言執行人となる。
1643年
ルイス=福地蔵人(48歳)、独立して事業家となる。
ペドロ=フェルナンデス=デ=バエサ(40歳)、グアダラハラ市聴訴院長(市長)に就任する。
1645年
ルイス=福地蔵人(50歳)、グアダラハラ市聴訴院長ドン・ペドロ=フェルナンデス=デ=バエサ(42歳)の後援を得て、中国人移住者フランシスコ=デ=カスティリョと共同出資しグアダラハラ市とその近郊でのヤシ酒の独占販売を始める。
1650年
サポパン村コレヒドールのフアン=デ=パエス(37歳)、闘牛飼育販売業と銀取引業、サトウキビ製糖業を開始する。
十月
ルイス=福地蔵人(55歳)、グアダラハラ市聴訴院長ドン・ペドロ=フェルナンデス=デ=バエサ(47歳)の不正蓄財汚職事件の法廷で証言を行う。
1654年
六月
サポパン村コレヒドールのフアン=デ=パエス(41歳)、グアダラハラ市のメトロポリタン大聖堂のマジョールドモ(執事)に就任する(死去まで)。
1655年
二月
グアダラハラ市聴訴院長フェルナンデス=デ=バエサ、死去(52歳)。
1666年
九月
もと仙台藩士のルイス=福地蔵人、メキシコ・グアダラハラ市で死去(71歳)。
寛文八(1668)年
六月
支倉勘三郎常頼の嫡男・常信、父の切腹により28年間断絶していた支倉家を再興させる。
1675年
十二月
日本人商人フアン=デ=パエス、病気療養先のテピケ村で死去(62歳)。
≪まだ全部できてませ~ん≫
大泉光一(1943年~)
国際関係論学者、青森中央学院大学教授。インスティトゥート・デ・エストゥディオス・ウニベルシタリオス経営大学院准教授。
長野県諏訪市に生まれ、宮城県柴田郡大河原町で育つ。2006年『支倉常長 慶長遣欧使節の真相 肖像画に秘められた実像』で和辻哲郎文化賞受賞。
危機管理、国際テロなどが専門だが、支倉常長について長く研究をしており、「支倉は伊達政宗により徳川幕府打倒のために派遣された」という説を唱えている。
おもな著書
『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』(1999年 中公新書)
『伊達政宗の密使 慶長遣欧使節団の隠された使命』(2010年 洋泉社歴史新書y)
『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」 ヴァティカン機密文書館史料による結論』(2017年 文春新書)
近世の日本とメキシコの関係史まとめ
天文十八(1549)年
八月
イエズス会宣教師フランシスコ=ザビエル(43歳)、日本にキリスト教を伝える。
1553年
薩摩国出身の日本人キリシタン・ベルナルド(日本名不詳)、ポルトガル王国コインブラに渡りイエズス会に入会する(のちに司祭、日本人初のヨーロッパ渡航者)。
1564年
十一月
スペイン王国領メキシコ副王ドン・ルイス=デ=ベラスコ=マルケス=デ=サリナス侯爵(30歳)、ミゲル=レガスピに東南アジアのフィリピン諸島の征服を命じる。
ミゲル=レガスピ、フィリピン諸島冒険の経験のあるアンドレス=デ=ウルダネータを伴い5隻の艦隊(乗組員380名)を率いてメキシコ・ハリスコ州ナビダ港から遠征に出発する。
1565年
六月
ミゲル=レガスピとアンドレス=デ=ウルダネータのフィリピン遠征艦隊、フィリピン諸島セブ島に到着し征服を開始する。
アンドレス=デ=ウルダネータ、フィリピン遠征軍から離れ乗組員200名を率いて太平洋を航海し、黒潮に乗って日本列島の房総半島・犬吠埼を発見する。
九月
アンドレス=デ=ウルダネータ率いるガレオン船、アメリカ大陸のカリフォルニア海岸に到着する。
十月
アンドレス=デ=ウルダネータ率いるガレオン船、スペイン王国領メキシコのアカプルコ港に帰還する(マニラ・ガレオン航路の確立)。
1570年
六月
ミゲル=レガスピのフィリピン遠征軍、フィリピン諸島のルソン島マニラを占領する。
1571年
三月
ポルトガル国王、日本人の奴隷売買を禁止する勅令を発するが、実効性は薄かった。
五月
スペイン王国領メキシコのフィリピン遠征軍、ルソン島マニラを拠点としてフィリピン諸島を征服する。
1585年
一月
ローマ教皇グレゴリオ十三世(83歳)、日本におけるイエズス会以外の宣教師によるキリスト教布教を禁止する小勅書を発布する。
1586年
十一月
ローマ教皇シクスト五世(65歳)、フィリピン諸島のフランシスコ会をメキシコ管区から独立させ、日本・中国と合わせた「大聖グレゴリオ管区」とする。
天正十八(1590)年
七月
豊臣秀吉(54歳)、関東大名・北条家の相模国・小田原城を陥落させ関東地方を制圧する。
豊臣秀吉、甥・豊臣秀次を総大将として奥州平定軍五万を東北地方に送り諸大名の臣従をうながす。
東北大名・伊達政宗(23歳)、豊臣秀吉に臣従する。
八月
陸奥国大名・葛西左京大夫晴信(56歳)、豊臣秀吉に臣従しなかったために豊臣家武将・木村伊勢守吉清の攻撃を受け没落する。
葛西家家老・福地対馬守安通、豊臣軍に敗れ討死する(43歳 福地蔵人の縁者とみられる)。
木村伊勢守吉清、葛西家の旧領30万石を所領する。
十月
木村伊勢守吉清の所領(葛西家旧領)で、吉清の施政に反抗する領民が一斉蜂起する(葛西大崎一揆)。
天正十九(1591)年
八月
伊達政宗(24歳)、陸奥国葛西旧領で発生した一揆を鎮圧し、首謀者20名を桃生深谷に集めて処刑する(その中に葛西家家老の福地家の縁者もいた)。
文禄元(1592)年
太閤・豊臣秀吉(56歳)、朱印船貿易制度を制定する。
五月
スペイン王国領フィリピン・マニラ総督ゴメス=ペレス=ダスマリニャス(73歳)、スペイン国王に対日本人暴徒のためのマニラ防衛兵増員を要請する。
慶長元(1596)年
九月
太閤・豊臣秀吉(60歳)、土佐国浦戸港に漂着したスペイン船「サン・フェリペ号」の積荷を没収する(サン・フェリペ号事件)。
十二月
太閤・豊臣秀吉、「サン・フェリペ号事件」に関連した示威行為としてフランシスコ会宣教師26名を長崎・西坂で処刑する(二十六聖人殉教)。
慶長三(1598)年
七月
スペイン王国のフランシスコ会宣教師ジェロニモ=デ=ジェズース=デ=カストロ、島原半島口之津から日本に入国し畿内地方に潜伏する。
八月
太閤・豊臣秀吉、京・伏見城で死去(62歳)。
十一月
豊臣家大老・徳川家康(55歳)、潜伏していたフランシスコ会宣教師ジェロニモ=デ=ジェズース=デ=カストロを伊勢国で捕縛し京・伏見城に召喚する。
徳川家康、宣教師ジェロニモにスペイン王国領メキシコと徳川家の通商条約の締結交渉を依頼する(提示条件はフィリピン~メキシコ航路上の日本港の使用許可)。
慶長八(1603)年
六月
スペイン王国のフランシスコ会宣教師ルイス=ソテロ(28歳)、フィリピンからガレオン船「サンティアゴ号」で日本に入国し徳川家領内(伏見・江戸・駿府)での布教活動を開始する。
1606年
スペイン王国領フィリピン・マニラの在留日本人約1500名、日本人水夫がスペイン人に殺害された事件によって暴徒化する。
1607年
一月
ポルトガル国王、インド副王に日本人奴隷の解放を命ずる。
七月
スペイン王国領フィリピン・マニラの聴訴院、スペイン国王に「日本人は傲慢で凶暴な性格の持ち主である。」と報告する。
慶長十三(1608)年
二月
スペイン王国領フィリピン・マニラ、在留日本人の暴動を受けて日本人のマニラ追放を決定するが、実効性は薄かった。
六月
ローマ教皇パオロ五世(55歳)、1585年の教皇グレゴリオ十三世の小勅書を無効とし、日本における全カトリック修道会のキリスト教布教を許可する小勅書を発布する。
八月
ドン・ロドリゴ=デ=ビベロ(44歳)、フィリピン臨時総督に就任し、江戸幕府との外交関係の改善をはかりマニラ暴動で逮捕した日本人を全員釈放する(日本とフィリピンとの関係の改善)。
大御所・徳川家康(65歳)、フィリピンとの貿易港として相模国浦賀を選定し、外交顧問のオランダ人・三浦按針(43歳)を派遣して洋式船の建造を開始する。
慶長十四(1609)年
九月
前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴ=デ=ビベロ(45歳)、ガレオン船「サンフランシスコ号」にてメキシコに帰還する途上で台風により座礁、日本の房総半島・上総国大多喜藩領岩和田海岸に漂着する。
十二月
前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴ=デ=ビベロ、京・伏見城で大御所・徳川家康(66歳)に謁見し、日本メキシコ間の通商交易協定の提案を受ける。
慶長十五(1610)年
一月
大御所・徳川家康(67歳)、宣教師ルイス=ソテロ(35歳)を対メキシコ大使として親書を託すが、前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴ=デ=ビベロ(46歳)はソテロを好まず大使を宣教師アロンソ=ムニョスに交代させる。
六月
大御所・徳川家康、前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴ=デ=ビベロのメキシコ送還を目的とする、京と大坂の商人と町人23名で編成した「田中勝介使節団」を乗せた小型帆船「サン・ブエナベントゥーラ号」(120トン)を浦賀から出航させる。
十月
宣教師ルイス=ソテロ(35歳)、出羽国米沢城で伊達政宗(43歳)に謁見する。
十一月
前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴ=デ=ビベロと田中勝介使節団を乗せたサン・ブエナベントゥーラ号、スペイン王国領メキシコのアカプルコ港に到着する。
十二月
田中勝介使節団、スペイン王国領メキシコ副王ドン・ルイス=デ=ベラスコ=マルケス=デ=サリナス侯爵(76歳 ロドリゴ=デ=ビベロの伯父)に謁見する。徳川家康の日本メキシコ通商交易協定案、財政難を理由に却下される。
田中勝介使節団、メキシコ市内のフランシスコ修道会「サン・アウグスティン修道院」に滞在する。
田中勝介ほか5名、メキシコ市内のサンフランシスコ教会にてカトリックの洗礼を受ける(勝介の霊名はフランシスコ=デ=ベラスコ)。
慶長十六(1611)年
三月
スペイン王国領メキシコ副王ドン・ルイス=デ=ベラスコ=マルケス=デ=サリナス侯爵(77歳)、メキシコ艦隊司令官セバスティアン=ビスカイノ(63歳)を答礼大使とする江戸幕府への答礼使節団を乗せたサンフランシスコ号を出航させ、田中勝介使節団17名も随行する(3名がメキシコ残留)。
メキシコに残留した田中勝介使節団のルイス=デ=ベラスコとフアン=アントニオ(どちらも日本名不詳 関西地方出身の商人か)、メキシコ副王ドン・ルイス=デ=ベラスコ=マルケス=デ=サリナス侯爵の召使となり(フアン=アントニオは侯爵の衣装係)、メキシコ副王の任期を終えた侯爵と共にスペイン王国に渡る(日本人初の大西洋横断)。
六月
メキシコ艦隊司令官セバスティアン=ビスカイノを答礼大使とする答礼使節団、日本の浦賀港に到着する。
セバスティアン=ビスカイノ、江戸城の将軍・徳川秀忠(32歳)に謁見する。
七月
セバスティアン=ビスカイノ、駿河国・駿府城の大御所・徳川家康(68歳)に謁見する。
江戸幕府、セバスティアン=ビスカイノに伊達政宗(44歳)の仙台藩領三陸海岸の港湾測量を依頼する。
スペイン国王フェリペ三世(33歳)、日本人司祭ペドロ=アントニオ=デ=荒木を含めたフランシスコ修道会宣教師12名を日本に派遣する。
十月
フランシスコ会宣教師ルイス=ソテロ(37歳)、伊達政宗と会談し伊達家領内での布教活動の許可を得る。
十一月
セバスティアン=ビスカイノ、仙台藩・青葉城で伊達政宗に謁見し、三陸海岸の港湾測量の依頼とメキシコとの通商条約締結に関する協議を行う。
慶長十七(1612)年
三月
大御所・徳川家康(69歳)、江戸幕府の直轄地である江戸・京・駿府でのキリスト教信仰を禁止し、キリシタンの家臣23名を追放する。
六月
大御所・徳川家康、メキシコに対して貿易は望むがキリスト教の布教は許可しない方針を親書で示しセバスティアン=ビスカイノ(64歳)に託す。
八月
江戸幕府、五ヶ条のキリシタン禁制令を全国に発布する(八月六日令)。
九月
宣教師ルイス=ソテロ(37歳)、江戸幕府のスペイン王国宛親書をたずさえ伊達家家臣・支倉六右衛門常長(41歳)らと共に幕府の建造した「サン・セバスティアン号」で浦賀港から出航するが同日夜に難破し渡航は失敗する。これを機に、徳川家康のメキシコ貿易への意欲とルイス=ソテロへの信用は失われる。
セバスティアン=ビスカイノの乗るサンフランシスコ号、浦賀港を出港し日本近海の「金銀島」の探索を行うが発見できず。
十月
セバスティアン=ビスカイノのサンフランシスコ号、暴風雨により損傷し浦賀港に寄港する。
ビスカイノ、サンフランシスコ号の修理と渡航の資金援助を江戸幕府に求めるが明確な返答を得られず、徳川家康への謁見もできず。
仙台藩主・伊達政宗(45歳)、ビスカイノらのメキシコ帰還を全面支援する協定を結び、仙台藩に招く。
慶長十八(1613)年
この年、スペイン王国にてルイス=デ=ベラスコ=マルケス=デ=サリナス侯爵の衣装係だった日本人フアン=アントニオに子フアン=デ=パエス誕生か。
三月
仙台藩主・伊達政宗(46歳)、セバスティアン=ビスカイノ(65歳)と江戸幕府船奉行・向井将監忠勝(30歳)の協力を得て、月ノ浦にてガレオン船「サン・フアン・バウティスタ号」(500トン)を建造する。
六月
徳川幕府、江戸からのキリシタン追放を開始し、フランシスコ会宣教師ルイス=ソテロ(39歳)も捕縛され火刑の宣告を受ける。
七月
仙台藩主・伊達政宗、捕縛されたルイス=ソテロがメキシコ渡航に必要不可欠な人間であると江戸幕府に説得し、助命と釈放に成功する。
八月
ルイス=ソテロ、江戸を発ち仙台に到着する。
九月
伊達政宗、セバスティアン=ビスカイノと共に家臣・支倉六右衛門常長(42歳)やフランシスコ会宣教師ルイス=ソテロ、江戸幕府から船奉行・向井将監忠勝の家臣ら約180名で編成した「慶長遣欧使節」を乗せたサン・フアン・バウティスタ号を月ノ浦港から出航させる(うち日本人は約140名、その中に19歳の仙台藩士・福地蔵人もいた)。
※この時、ソテロは昨年に江戸幕府から預かったスペイン王国宛親書も保管しており、伊達家大使だけでなく日本国大使の立場にもなれるように工作していた。
十二月
ビスカイノ、支倉常長ら慶長遣欧使節団を乗せたサン・フアン・バウティスタ号、スペイン王国領メキシコのカリフォルニア半島メンドシノ岬サカトゥラ港に到着する。
大御所・徳川家康(70歳)、十五ヶ条のキリスト教禁止令を発布し日本国内でのキリスト教信仰と外国人宣教師の布教活動を禁止する。
伊達政宗、江戸幕府のキリスト教禁止令に形式上は従いながらも実質的な弾圧は行わず黙殺する。
慶長十九(1614)年
一月
セバスティアン=ビスカイノ(66歳)や支倉六右衛門常長(43歳)ら慶長遣欧使節団を乗せたサン・フアン・バウティスタ号、スペイン王国領メキシコのアカプルコ港に到着する。
三月
支倉六右衛門常長ら慶長遣欧使節団、メキシコ市に到着し、スペイン王国領メキシコ副王ドン・ディエゴ=フェルナンデス=デ=コルドバ=マルケス=デ=グアダルカサール侯爵に謁見する。
メキシコ副王グアダルカサール侯爵、慶長遣欧使節団のうち主要約20名をスペイン王国に派遣することを決定し、残る約120名はアカプルコ港のフランシスコ会修道院に滞在することとなる。
四月
メキシコ市のサンフランシスコ教会にて、慶長遣欧使節団の日本人のうち42名が洗礼を受け、すでに受洗していた64名が堅信の秘跡を受ける(支倉の家臣である仙台藩士・福地蔵人は受洗せず)。
五月
支倉常長やフランシスコ会宣教師ルイス=ソテロ(40歳)ら慶長遣欧使節の主要約20名、メキシコ市を出発してスペイン王国に向かう(福地蔵人はメキシコに残留したとみられる)。
六月
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、ベラクルスのサン・フアン・デ・ウルア港から大西洋に出港する。
七月
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、キューバ島ハバナ港に到着する。
八月
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、キューバ島ハバナ港からスペイン王国に向けて出港する。
十月
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、スペイン王国南部のサン・ルカール・デ・バラメダに到着する。
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、スペイン王国最大の商業都市・南部アンダルシア州都セビリア市に到着する。
十一月
キリシタン大名・高山右近重友(62歳)と盟友の元丹波国亀山城主・内藤ジョアン忠俊(64歳)、その娘ルチアと忠俊の妹ジュリア(47歳)、江戸幕府の命によりスペイン王国領フィリピン・マニラに追放される。
大坂冬の陣、開戦。
十二月
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、スペイン王国の首都マドリードに到着するが、日本の一大名の使節という扱いとなり形式的な待遇を受ける。
元和元(1615)年
一月
支倉常長(44歳)やルイス=ソテロ(41歳)ら慶長遣欧使節の主要約20名、スペイン王国国王フェリペ三世(36歳)に謁見する。
支倉常長、伊達政宗のスペイン王国との通商条約締結と伊達家領内でのキリスト教布教許可をフェリペ三世に提示するが判断を保留される。
二月
支倉常長、マドリードの王立跣足会女子修道院付属教会で洗礼を受ける(霊名フェリペ=フランシスコ)。
支倉常長、スペイン王国「サンティアゴ騎士団」への加入を望むが却下される。
宣教師ルイス=ソテロ、慶長遣欧使節のローマ教皇への謁見の許可をフェリペ三世に申請する。
キリシタン大名・高山右近重友、スペイン王国領フィリピン・マニラで死去(63歳)。
四月
大使サンタ=カタリナと慶長遣欧使節のメキシコ残留組約120名(江戸幕府船奉行・向井将監忠勝の家臣も含む)を乗せたサン・フアン・バウティスタ号、スペイン王国領メキシコのアカプルコ港から日本に向けて出港する。
フェリペ三世、支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名のローマ教皇への謁見を許可する。
五月
ローマ教皇庁、宣教師ルイス=ソテロによるキリスト教の日本布教の可能性の説得に強い疑問を持つ。
大坂夏の陣、開戦。
六月
マドリードでの慶長遣欧使節の宿泊先となっているサン・フランシスコ修道院、使節団の乱暴狼藉と長期の逗留による財政逼迫をスペイン王国に訴える。
八月
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、ローマに向けてスペイン王国首都マドリードを出発する。
サン・フアン・バウティスタ号の大使サンタ=カタリナ、日本の浦賀港に到着するが徳川家康・秀忠父子には謁見できず冷遇され帰国の途に就く(事実上のスペイン王国との国交断絶)。
サン・フアン・バウティスタ号で帰国した江戸幕府船奉行・向井将監忠勝の家臣、江戸幕府に支倉常長ら伊達家家臣のスペイン王国への交渉内容に関する疑惑(伊達家独自の外交交渉の可能性)を報告する。
十月
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、ジェノヴァ共和国を経由してローマに到着し、教皇パオロ五世(63歳)に謁見する。
教皇パオロ五世、慶長遣欧使節を歓待するが、支倉らの主君・伊達政宗がキリスト教信者でないことを理由に(スペイン王国からの要請もあり)伊達家との通商条約締結には応じず。
十一月
支倉常長の小姓・小平外記、ローマの聖ヨハネ大聖堂で洗礼を受ける(霊名パオロ=カミルロ=シピオーネ)。
支倉常長や小平外記ら慶長遣欧使節、ローマ市民権証書を授与される。
十二月
支倉常長、サンタ・マリア教会で堅信式を受ける。
元和二(1616)年
一月
支倉常長(45歳)やルイス=ソテロ(42歳)ら慶長遣欧使節の主要約20名、ローマを出発してスペイン王国首都マドリードを目指し帰途につく。
四月
慶長遣欧使節に参加していた伊丹ペトロ宋味と野間フランシスコ半兵衛、使節から離脱しスペイン王国バレンシア州アリカンテ港に滞在する(その後の消息は不明)。
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、スペイン王国首都マドリードに到着するが六月にサン・フアン・バウティスタ号で日本に帰国するよう命じられる。
大御所・徳川家康、死去(74歳)。
六月
支倉常長、伊達家との通商条約締結の返答が得られていないとして日本帰国を拒否し、セビリア近郊のフランシスコ会ロレト修道院に寄寓する(使節の内15名は先に帰国させ、側近5名と共にとどまる)。
スペイン王国、伊達家への返答は保留したまま支倉常長らに強制国外退去を命じる。
七月
支倉常長ら、セビリアを発ちメキシコへの帰国の途に就く。
八月
伊達政宗(49歳)、支倉常長ら慶長遣欧使節を帰国させるために、重臣・横沢将監吉久と宣教師サンタ=カタリナら約200名を乗せたサン・フアン・バウティスタ号をスペイン王国領メキシコに向けて浦賀港から出航させる。
九月
支倉常長ら、スペイン王国領メキシコのメキシコ市に到着する。
1617年
二月
伊達家重臣・横沢将監吉久と宣教師サンタ=カタリナを乗せたサン・フアン・バウティスタ号、スペイン王国領メキシコに到着する(船体はかなり破損し、船員の半数は洋上で病死していた)。
1618年
四月
支倉常長(47歳)やルイス=ソテロ(44歳)ら慶長遣欧使節の主要約20名、新任のフィリピン総督ドン・アロンソ=ファハルドと共にサン・フアン・バウティスタ号でスペイン王国領フィリピンに向けてアカプルコ港から出航する。
六月
支倉常長やルイス=ソテロら慶長遣欧使節の主要約20名、新任のフィリピン総督ファハルドと共にスペイン王国領フィリピンのマニラ港に到着し、サン・フランシスコ・デル・モンテ修道院に寄寓する。
スペイン王国領フィリピン総督ファハルド、オランダ艦隊の攻撃に備えるフィリピン沿岸防衛の目的でサン・フアン・バウティスタ号を買い上げる(のちオランダ艦隊との砲撃戦でマニラ沖に沈没)。
元和六(1620)年
セバスティアン=ビスカイノ(72歳)、メキシコ市からメキシコ・ハリスコ州のアバロス村の領地へ一族と共に移住する(この時、ビスカイノに従って福地蔵人も移住したと思われる)。
慶長遣欧使節団から残留した仙台藩士・福地蔵人(25歳)、アウアカトラン郡のアルカルデ・マジョール(群奉行)であるアロンソ=サンチェス=エンシオを代父として洗礼を受ける(霊名ルイス=デ=エンシオ)。
ルイス=福地蔵人、カトリックに改宗してメキシコでの結婚の権利を獲得し、スペイン人とメキシコインディオの混血女性(メスティーサ)であるカタリーナ=デ=シルヴァと結婚する。
八月
支倉常長(49歳)や横沢将監、ルイス=ソテロ(46歳)と別れフィリピンから出航し、日本の長崎港を経由して仙台に帰国する。
支倉常長、帰国後に一族郎党をキリシタンに改宗させる。
十月
伊達政宗(53歳)、慶長遣欧使節を徳川家康の主導によるものであると弁明し、江戸幕府から支倉常長らの帰国許可を得て伊達家への責任追及を回避する。
十二月
伊達政宗、江戸幕府に呼応し伊達家領内でのキリスト教弾圧を開始する。
元和八(1622)年
五月
メキシコに残留した元田中勝介使節団のルイス=デ=ベラスコ(日本名不詳)、スペイン海軍から除隊しメキシコに戻る。
七月
伊達家家臣・支倉常長、死去(52歳)。
八月
宣教師ルイス=ソテロ(48歳)、フィリピンを出航して日本の薩摩国に潜入するが捕縛され、長崎・大村に収監される。
元和九(1623)年
八月
徳川家光(19歳)、江戸幕府第三代征夷大将軍に就任する。
十月
将軍・徳川家光、江戸で翌十一月にかけてキリシタンの大量処刑を断行する。
寛永元(1624)年
二月
ルイス=デ=ベラスコ=マルケス=デ=サリナス侯爵の日本人召使フアン=アントニオ、スペイン王国からメキシコに渡りグアダラハラ市に定住する。
伊達政宗(56歳)、仙台藩広瀬川でイエズス会宣教師ディエゴ=デ=カルヴァリョ(46歳)らを「水籠めの刑」で処刑する。
三月
江戸幕府、スペイン王国との交易を全面禁止し、国内在住のスペイン人を追放処分とする。
八月
スペイン王国領フィリピン・マニラのヤコボ朝長(42歳)とトマス西六左衛門(34歳)、ドミニコ会に入会し司祭となる。
宣教師ルイス=ソテロら、長崎・大村で火刑に処される(49歳)。
1628年
セバスティアン=ビスカイノ、メキシコ市にて死去(80歳)。
十二月
スペイン王国領フィリピン・マニラのルチア内藤、アジア初の女子観想修道院「聖クララ会修道院」に日本人として初めて入会する。
1631年
十一月
メキシコ・グアダラハラ市の日本人住民フアン=アントニオ、セバスティアン=ビスカイノ司令官の息子ドン・フアン=ビスカイノから黒人奴隷フアンを買い取る。
寛永十(1633)年
二月
江戸幕府第三代征夷大将軍・徳川家光(28歳)、第一次鎖国令を発布し、全ての日本人キリシタンと海外に5年以上居住した日本人の帰国を禁じる。
1634年
五月
ルイス=福地蔵人(39歳)、スペイン人実業家フランシスコ=デ=レイノソの出資を受けグアダラハラ市で小売業経営を始める。
寛永十二(1635)年
江戸幕府、第三次鎖国令により日本人の海外渡航を全面禁止する。
寛永十三(1636)年
メキシコ軍総司令官ドン・ロドリゴ=デ=ビベロ子爵、死去(80歳)。
五月
伊達政宗、死去(70歳)。
寛永十四(1637)年
十月
肥前・肥後国境で島原の乱が発生する(翌十五年二月に終結)。
1638年
日本人フアン=デ=パエス(25歳 日本名不詳)、ルイス=福地蔵人(43歳)の娘マルガリータ=デ=エンシオ(18歳)と結婚する。
フアン=デ=パエス、義父ルイス=福地蔵人のもとで中古衣料販売を始める。
寛永十六(1638)年
七月
江戸幕府、ポルトガルとの交易を禁止し、ポルトガルの支援を受けたイエズス会の活動も禁止する。
寛永十七(1640)年
ルイス=福地蔵人(45歳)の娘婿の日本人フアン=デ=パエス(27歳)、メキシコ・グアダラハラ市郊外のサポパン村のコレヒドール(代官)に就任する。
三月
伊達家藩士・支倉勘三郎常頼、キリシタン禁制を破った罪により所領没収のうえ切腹を命ぜられる(42歳)。常長の次男・権四郎常道、キリシタン信仰の罪を逃れ逃亡し消息不明となる。
1642年
五月
グアダラハラ市郊外タパティア村の日本人アウグスティン=デ=ラ=クルス(日本名不詳 慶長遣欧使節団のひとりだった可能性が高い)の死去に際し、友人のルイス=福地蔵人(47歳)が遺言執行人となる。
1643年
ルイス=福地蔵人(48歳)、独立して事業家となる。
ペドロ=フェルナンデス=デ=バエサ(40歳)、グアダラハラ市聴訴院長(市長)に就任する。
1645年
ルイス=福地蔵人(50歳)、グアダラハラ市聴訴院長ドン・ペドロ=フェルナンデス=デ=バエサ(42歳)の後援を得て、中国人移住者フランシスコ=デ=カスティリョと共同出資しグアダラハラ市とその近郊でのヤシ酒の独占販売を始める。
1650年
サポパン村コレヒドールのフアン=デ=パエス(37歳)、闘牛飼育販売業と銀取引業、サトウキビ製糖業を開始する。
十月
ルイス=福地蔵人(55歳)、グアダラハラ市聴訴院長ドン・ペドロ=フェルナンデス=デ=バエサ(47歳)の不正蓄財汚職事件の法廷で証言を行う。
1654年
六月
サポパン村コレヒドールのフアン=デ=パエス(41歳)、グアダラハラ市のメトロポリタン大聖堂のマジョールドモ(執事)に就任する(死去まで)。
1655年
二月
グアダラハラ市聴訴院長フェルナンデス=デ=バエサ、死去(52歳)。
1666年
九月
もと仙台藩士のルイス=福地蔵人、メキシコ・グアダラハラ市で死去(71歳)。
寛文八(1668)年
六月
支倉勘三郎常頼の嫡男・常信、父の切腹により28年間断絶していた支倉家を再興させる。
1675年
十二月
日本人商人フアン=デ=パエス、病気療養先のテピケ村で死去(62歳)。
≪まだ全部できてませ~ん≫
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます