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山形と最上義光の歴史1(1335~1582年)

2024年01月12日 10時58分58秒 | 日本史みたいな
『最上義光』                       2016年3月   伊藤 清郎   吉川弘文館人物叢書
『図説 日本の城郭シリーズ 第14巻 最上義光の城郭と合戦』2019年8月   保角 里志   戎光祥出版
『山形の城を歩く』                    2020年7月   保角 里志   書肆犀


建武二(1335)年
十二月
 鎮守府大将軍・北畠陸奥守顕家(18歳)、建武政権から離反した前鎮守府将軍・足利尊氏(31歳)を討つために陸奥国府・多賀城(現・宮城県多賀城市)で挙兵し兵5万で上洛を開始する。

建武三(1336)年
二月
 足利尊氏(32歳)、摂津国の合戦で鎮守府大将軍・北畠陸奥守顕家(19歳)に敗れ九州地方に逃れる。北畠顕家軍、陸奥国に帰国。
 足利尊氏の命を受けた足利家一門衆の斯波家長(16歳)、密かに陸奥国に下向し奥州総大将として斯波城(現・岩手県紫波郡)で挙兵し北畠顕家に対抗する(奥州管領のはじまり)。

建武四(1337)年
正月
 鎮守府大将軍・北畠陸奥守顕家(20歳)、足利方の斯波家長(17歳)の攻撃を受けて陸奥国府・多賀城を放棄し伊達郡の霊山城(福島県伊達市)に移転する。
八月
 鎮守府大将軍・北畠陸奥守顕家、吉野朝廷の後醍醐天皇(50歳)の勅命を受け兵3万を率いて上洛を開始する。
十二月
 奥州総大将・斯波家長(17歳)、相模国鎌倉で北畠顕家軍に敗れ討死(杉本城の合戦)。
 足利尊氏(33歳)、重臣の駿河国・伊豆国守護・石塔義房(?歳)を第二代奥州総大将に任命し陸奥国に下向させる。

暦応元(1338)年
五月
 鎮守府大将軍・北畠陸奥守顕家、和泉国石津合戦で北朝軍に敗れ討死(21歳)。
 南朝、北畠顕家の弟・北畠顕信(19歳)を陸奥介・鎮守府将軍に任命し陸奥国に下向させる。

承和元(1345)年
 室町幕府初代征夷大将軍・足利尊氏(41歳)、独断専行が目立ってきた奥州総大将・石塔義房を解任し、幕府引付衆の吉良貞家(?歳)と譜代武将・畠山国氏(?歳)の2名を初代奥州管領に任命して下向させる。

承和五(1349)年
九月
 室町幕府初代征夷大将軍・足利尊氏(45歳)、次男・足利基氏(10歳)を初代鎌倉公方に任命し、相模国鎌倉に下向させる(鎌倉公方のはじまり)。
 すでに鎌倉府執事として活躍していた上杉憲顕(44歳)、初代関東管領に就任し足利基氏を補佐する。

観応元(1350)年
十月
 室町幕府初代征夷大将軍・足利尊氏(46歳)と腹心である弟・足利左兵衛督直義(45歳)との対立が深刻化し戦闘状態に入る(観応の擾乱 ~1352年)。
 陸奥国も観応の擾乱の影響を受け、尊氏方の畠山国氏と直義方の吉良貞家、そして元奥州総大将・斯波家長の遺児・詮経と前奥州総大将・石塔義房の勢力が抗争する「四管領時代」となる。南朝方の鎮守府将軍・北畠顕信(31歳)も北朝の混乱に乗じて挙兵し、陸奥国府・多賀城を攻撃する。

観応二(1351)年
二月
 足利直義方の奥州管領・吉良貞家、将軍尊氏方の奥州管領・畠山国氏の陸奥国岩切城(現・宮城県仙台市宮城野区)を攻め落とし国氏を自刃させる。
 畠山国氏の遺児・平岩丸、陸奥国に定住し二本松国詮として勢力を保つ(二本松家のはじまり)。
十二月
 南朝方の鎮守府将軍・北畠顕信(32歳)、北朝方の陸奥国府・多賀城を攻略し奪回する。

文和元(1352)年
三月
 初代奥州管領・吉良貞家、南朝方の鎮守府将軍・北畠顕信(33歳)を破り陸奥国府・多賀城を攻略する。

文和二(1353)年
五月
 初代奥州管領・吉良貞家、南朝方の拠点・陸奥国宇津峰城(福島県中部)を攻略する。鎮守府将軍・北畠顕信(34歳)、陸奥国北部に亡命する(東北地方における南北朝騒乱の終結)。

文和三(1354)年
四月
 初代奥州管領・吉良貞家が死去し、嫡男の吉良中務大輔満家(?歳)が第四代奥州管領に就任する。
 前奥州総大将・石塔義房の三男・石塔左兵衛佐義憲(?歳)や元奥州管領・畠山国氏の遺児・二本松国詮が挙兵する。
六月
 石塔義憲の攻撃により陸奥国府・多賀城が陥落し、奥州管領・吉良満家、伊達郡(現在の福島県北部)の伊達家をたより亡命する。
 義父・足利直義を継いで室町幕府と対立する足利直冬(28歳)、石塔義憲を奥州管領(僭称)に任命する。
七月
 奥州管領・吉良満家、石塔義憲に反撃し陸奥国府・多賀城を奪回する。
 陸奥国の混乱を重く見た室町幕府初代征夷大将軍・足利尊氏(50歳)、幕府引付衆頭人・斯波家兼(47歳 斯波家長の叔父にあたる)を第五代奥州管領に任命し陸奥国中新田城(現・宮城県加美町)に下向させる(奥州管領は吉良満家と斯波家兼の並立状態に)。
十二月
 第五代奥州管領・斯波家兼、玉造郡(現・宮城県大崎市)の志栄山合戦で石塔義憲を討つ。

延文元(1356)年
六月
 第五代奥州管領・斯波家兼、死去(49歳)。
 室町幕府、斯波家兼の嫡男・斯波直持(30歳)を第六代奥州管領、次男・斯波兼頼(28歳)を初代羽州管領に任命する(大崎家と山形家のはじまり)。
 羽州管領・斯波兼頼、山形城(現・山形市)を建造し出羽国支配に着手する(現在の山形市・山辺町・天童市・鶴岡市を基盤とする)。
十月
 第四代奥州管領・吉良満家、死去(?歳)。

貞治五(1366)年
 奥州管領・斯波直持(40歳)、このころ姓名を「大崎」に改める。

貞治六(1367)年
 室町幕府第二代征夷大将軍・足利義詮(38歳)、譜代武将・石橋式部大輔棟義(?歳)を実質的な陸奥国守護に任命し下向させ奥州管領の補佐を命じる。

永和元(1375)年
 第六代奥州管領・大崎直持(49歳)、家督と奥州管領職を嫡男・大崎左京大夫詮持(?歳)に譲り隠居する。

康暦元(1379)年
六月
 初代羽州管領・斯波修理大夫兼頼、死去(63歳)。

明徳三(1392)年
 室町幕府、陸奥国・出羽国の支配権を鎌倉府に委任し、大崎詮持(?歳)の奥州管領職を廃止する。

応永六(1399)年
四月
 第三代鎌倉公方・足利満兼(22歳)、弟の足利満直(?歳)を陸奥国安積郡篠川(現・福島県郡山市)に、足利満貞(?歳)を陸奥国岩瀬郡稲村(現・福島県須賀川市)に派遣し陸奥国支配を強化する(篠川御所と稲村御所のはじまり)。

応永七(1400)年
 室町幕府、鎌倉府の陸奥国支配強化を懸念して鎌倉の前奥州管領・大崎詮持(?歳)を新たに奥州探題に任命し陸奥国に下向させる。
 この頃、斯波兼頼の嫡男・山形右京大夫直家(?歳)が継承していた羽州管領職も「羽州探題」に改称される。

応永八(1401)年
 陸奥国大名・伊達大膳大夫政宗(49歳)、第三代鎌倉公方・足利満兼(24歳)に対して挙兵し陸奥国信夫郡赤坂城(現・福島県福島市)に籠城する。

応永九(1402)年
 山形家、鎌倉府の命により伊達大膳大夫政宗(50歳)の籠城する赤坂城と刈田城(宮城県南西部)を攻撃する。

応永十七(1410)年
正月
 第二代羽州探題・山形右京大夫直家、死去(?歳)。後継は嫡男・満直(?歳)。

応永十九(1412)年
七月
 陸奥国大名・伊達兵部少輔氏宗(正宗の嫡男)、死去(42歳)。後継は嫡男・持宗(20歳)。

応永二十(1413)年
 陸奥国大名・伊達兵部少輔持宗(21歳)、鎌倉府に対して挙兵し篠川御所・稲村御所を攻撃して大仏城(現・福島県福島市)に籠城する。
 第三代羽州探題・山形満直、鎌倉府の命により奥羽地方の諸大名と連合して伊達持宗の大仏城を攻撃する。
八月
異説 第三代羽州探題・山形満直、死去(?歳)。後継は嫡男・満家(?歳)。

応永二十三(1416)年
十月
 前関東管領・上杉禅秀(?歳)、挙兵して第四代鎌倉公方・足利持氏(19歳)と関東管領・上杉憲基(25歳)を鎌倉から追放し鎌倉府を掌握する(上杉禅秀の乱)。
 室町幕府、山形満直ら奥羽地方の諸大名に鎌倉公方救援の指令を送る。

応永二十四(1417)年
正月
 室町幕府軍、鎌倉の上杉禅秀を追討し自害させる。

応永三十一(1424)年
八月
 第三代羽州探題・山形修理大夫満直、死去(?歳)。後継は嫡男・満家(?歳)。
異説 第四代羽州探題・山形修理大夫満家(?歳)、家督を嫡男・頼宗(?歳)に譲り長瀞城(現・東根市)に隠居する。

応永三十二(1425)年
異説 第四代羽州探題・山形修理大夫満家、長瀞城にて死去(?歳)。

貞享二(1430)年
異説 第五代羽州探題・山形右京大夫頼宗(?歳)、家督を弟・義春(?歳)に譲り隠居する。

永享十一(1439)年
二月
 第四代鎌倉公方・足利持氏(42歳)、関東管領上杉家との戦闘に敗れ自害し鎌倉府が滅亡する(永享の乱)。
 鎌倉府の滅亡後、下総国古河を拠点とする足利持氏の四男・足利成氏(当時2歳 のちの古河公方)と、室町幕府から伊豆国堀越に派遣された第六代征夷大将軍・足利義教(46歳)の四男・足利政知(当時5歳 堀越公方)との間で戦闘状態が続く(享徳の乱)。

嘉吉元(1441)年
二月
異説 先代羽州探題・山形頼宗、死去(?歳)。

嘉吉三(1443)年
三月
 第四代羽州探題・山形修理大夫満家、死去(?歳)。後継は次男・義春(?歳)。
 山形満家は長瀞城(現・東根市)に移転して死去しており、山形義春の兄弟から長瀞家がはじまる。

宝徳二(1450)年
五月
 羽州探題・山形義春(?歳)、庄内地方の清水城(現・鶴岡市)を攻めるが敗れ生け捕りにされる。
七月
 山形義春、清水城主・清水家との和議が成り解放される。

享徳三(1454)年
十二月
 第五代鎌倉公方・足利成氏(17歳)、関東管領・上杉憲忠(22歳)を鎌倉府で誅殺し上杉家との戦闘を始める(享徳の乱)。

康正元(1455)年
三月
 第五代鎌倉公方・足利成氏(18歳)、関東管領上杉家との戦闘を続けながら拠点を相模国鎌倉から下総国古河に移す(古河公方のはじまり)。

長禄四(1460)年
 室町幕府第八代征夷大将軍・足利義政(27歳)、羽州探題・山形右京大夫義春(?歳)と天童城城主・天童修理大夫頼勝(?歳 山形義春の伯父にあたる)に古河公方・足利成氏追討令を出す。

寛正三(1462)年
九月
 庄内地方の大浦城主・大宝寺淳氏(?歳)、室町幕府第八代征夷大将軍・足利義政(29歳)により出羽守に叙任される。

応仁元(1467)年
 庄内地方の大浦城主・大宝寺健氏(?歳 淳氏の嫡男)、山形城の山形義春(?歳)と会見する。

文明六(1474)年
三月
 第五代羽州探題・山形右京大夫義春、死去(?歳)。後継は弟・義秋(?歳)。

文明八(1476)年
 第二代羽州探題・山形直家の六男・成沢兼義の嫡男・満久(?歳)、出羽国比良台地(現・大蔵村)に清水城を建造する。

文明十一(1479)年
十一月
 奥州探題・伊達成宗(45歳 持宗の次男)、出羽国寒河江城主・寒河江為広(?歳)を攻めるが撃退される。

文明十二(1480)年
二月
 第六代羽州探題・山形右京大夫義秋、死去(?歳)。後継は、義秋の叔父・中野満基の嫡男・満氏(35歳 義秋の従弟にあたる)。
四月
 奥州探題・伊達成宗(46歳)、再び寒河江為広と戦闘するが菖蒲沼合戦で大敗し、伊達家重臣・桑折播磨守宗義、自害(?歳)。

明応三(1494)年
七月
 第七代羽州探題・山形治部大輔満氏、死去(49歳)。後継は満氏の嫡男・義淳(?歳)。

永正元(1504)年
七月
 出羽国寒河江城主・寒河江宗広、死去(?歳 寒河江為広の孫)。
 寒河江宗広の六男・孝広(2歳)が後継となるが、一族の内紛に乗じた羽州探題山形家と戦闘状態となる(郡中兵乱)。この戦乱により寒河江の慈恩寺、延焼する。
 出羽国寒河江地方の国人・白岩備前守満広(?歳)、白岩城(現・寒河江市)を建造する。
九月
 第八代羽州探題・山形左衛門佐義淳、死去(?歳)。後継は嫡男・義定(13歳)。

永正六(1509)年
八月
 奥州探題・伊達成宗の嫡男・尚宗(57歳)、出羽国寒河江家を支配下におく。

永正十一(1514)年
二月
 陸奥国大名・伊達稙宗(27歳 尚宗の嫡男)、出羽国大名・最上家の上山城(現・上山市)と長谷堂城(現・山形市)を攻略し家臣・小梁川中務少輔親朝を長谷堂城主におく。
 第九代羽州探題・山形修理大夫義定(23歳)、伊達稙宗の侵攻に備え山形城から中野城(現・山形市)に退避する。

永正十二(1515)年
 第九代羽州探題・山形修理大夫義定(24歳)、寒河江家の仲介により伊達稙宗(28歳)の妹を正室として迎え、伊達家との間に和議を結び山形城に戻る。

永正十七(1520)年
二月
 第九代羽州探題・山形修理大輔義定、急死(29歳)。後継者がおらず山形家はその後2年間内紛状態となる。
四月
 伊達稙宗(33歳)による傀儡化を危惧した最上家と上山城主・上山義房(?歳)、挙兵して伊達家と対峙する。
 伊達稙宗、山形・上山・天童・寒河江方面に侵攻し最上家の反伊達運動を弾圧する。

大永元(1521)年
 先代羽州探題・山形義定の弟・中野義建の孫・長松丸(のちの山形義守)が誕生する。
七月
 伊達稙宗(34歳)、出羽国高瀬山(現・寒河江市)に陣をしき寒河江家を威圧する。最上家も伊達軍に加勢する。
八月
 伊達稙宗、高瀬山の陣を解き撤退する。

大永二(1522)年
 中野長松丸(2歳)、山形家を継ぎ第十代羽州探題・山形義守となる。実質的な政治は先代・義定未亡人(伊達稙宗の妹)を通して伊達稙宗が干渉する。
 陸奥国大名・伊達稙宗(35歳)、陸奥国守護に就任する。
四月
 山形家の伊達稙宗による傀儡化に反対する成生十郎、中山朝勝、天童頼長、東根頼景が挙兵するが鎮圧される。

天文三(1534)年
 第十代羽州探題・山形修理大夫義守(14歳)、立石寺・日枝神社(現・山形市)を改修する。

天文十一(1542)年
六月
 陸奥国大名・伊達稙宗(55歳)を嫡男・晴宗(24歳)が襲撃する事件が発生し、伊達家中の内乱となる(天文伊達の乱)。
 第十代羽州探題・山形修理大夫義守(22歳)、伊達稙宗に加勢して出羽国置賜地方の晴宗派を攻撃する。
十一月
 山形義守、天文伊達の乱に乗じて置賜地方を制圧する。

天文十五(1546)年
正月
 第十代羽州探題・山形修理大夫義守(26歳)の嫡男・白寿丸(のちの最上義光)、誕生する。

天文十七(1548)年
九月
 陸奥国大名・伊達稙宗(61歳)、嫡男・晴宗(30歳)に家督を譲り丸森城(現・宮城県丸森町)に隠居する。伊達晴宗、拠点を出羽国米沢城(現・米沢市)に移す。

弘治二(1556)年
 陸奥国大名・伊達晴宗(38歳)、奥州探題に就任する。

永禄元(1558)年
 第十代羽州探題・山形修理大夫義守(38歳)の嫡男・白寿丸(13歳)、元服。室町幕府第十三代征夷大将軍・足利義輝(23歳)より偏諱「義」を賜り山形源五郎義光と名乗る。
三月
 出羽国白鳥城主・白鳥十郎長久(?歳)、上洛し山科蔵人頭言継(52歳)らと共に飛鳥井参議雅春(39歳)主催の蹴鞠会に参加する。

永禄二(1559)年
六月
 第十代羽州探題・山形修理大夫義守(39歳)、嫡男・義光に偏諱を賜った礼として京の将軍・足利義輝(24歳)に馬を贈る。

永禄六(1563)年
六月
 山形城主・山形義守(43歳)と嫡男・義光(18歳)父子、上洛し室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝(28歳)に拝謁し馬・太刀を献上する。

永禄七(1564)年
四月
 庄内地方の砂越城主・砂越也足軒(?歳)、越前国一乗谷城主・朝倉家と会見し親交を深める。

永禄八(1565)年
六月
 庄内地方の清水城主・清水義高(?歳)、鳥打場合戦で大宝寺軍に敗れ討死する。

永禄九(1566)年
四月
 出羽国庄内地方の大名・大宝寺家の筆頭重臣・土佐林禅棟(?歳)、清水城主・清水義氏(20歳)を降伏させる。

永禄十(1567)年
八月
 陸奥国大名・伊達輝宗(24歳)の嫡男・梵天丸(のちの伊達政宗)、誕生(生母は山形義光の妹・義姫)。

永禄十一(1568)年
四月
 越後国村上城主・本庄繁長(29歳)、越後国大名・上杉謙信(39歳)に対して挙兵し、出羽国大浦城主・大宝寺義増(47歳)も本庄繁長と同盟する動きを見せる。
九月
 大宝寺義増、上杉謙信からの圧力を受け本庄繁長から離反して上杉家に服属し、交換条件として湯田川地方の七日台城・石堂山城・藤沢城を破却する。

永禄十二(1569)年
閏五月
 大宝寺家、庄内地方の清水城・鮭延城に城番をおき支配する。

元亀元(1570)年
正月
 山形義光(25歳)、出羽国立石寺(現・山形市)に立願成就を祈願する。
五月
 山形城主・山形義守(50歳)と対立していた嫡男・義光、宿老・氏家尾張守守棟(37歳)の仲裁により和解する。
 山形義守、家督を嫡男・義光に譲り出家して栄林と号する。

元亀二(1571)年
八月
 大浦城主・大宝寺義氏(21歳 義増の嫡男)、重臣筆頭の土佐林禅棟(?歳)を誅殺する。

天正元(1573)年
 陸奥国大名・伊達輝宗(30歳)、密かに出羽国の天童家・白鳥家ら有力七国人との同盟関係を深める。

天正二(1574)年
 山形義光(29歳)、この年に織田信長(41歳)の斡旋により出羽守に叙任される。
正月
 山形栄林(54歳)、嫡男・義光と対立し中野城(現・山形市)で挙兵する(最上の乱)。
 陸奥国大名・伊達輝宗(31歳 山形栄林の娘婿にあたる)、山形栄林に加勢して挙兵し、輝宗の命により高畠城主・小梁川中務大輔盛宗(52歳 輝宗の義兄にあたる)、義光方の里見民部少輔の上山城を攻撃する。
 寒河江家、山形義光派に属するが伊達家の意を受けた天童家・白鳥家ら七国人に攻められ降伏、山形栄林派に属する。
二月
 山形義光、伊達領の川樋(現・南陽市)を奇襲して勝利する。
三月
 山形義光、伊達家と和睦し楢下(現・上山市)から伊達軍を撤退させる。しかし山形義光、伊達領の北条(現・南陽市)に夜討ちをかけ伊達家と再び戦闘状態に入る。
四月
 荒砥城(現・白鷹町)と畑谷城(現・山辺町)が山形義光に敵対して挙兵し、伊達軍と義光軍との戦闘が本格化する。
五月
 山形義光、父・栄林方の若木城(現・山形市)を攻撃し、江俣でも合戦となる。
 伊達輝宗、自ら米沢城から出陣し義光方の新地・仙石・楢下・中山に進撃する。
 伊達家家臣・亘理修理亮重宗(23歳 輝宗の従弟にあたる)、伊達輝宗の命を受け笹谷方面から義光領に侵攻する。
六月
 山形義光、上山新地の伊達陣に夜討ちをかける。
 伊達輝宗、荒砥城に陣を移すが、義弟にあたる陸奥国大名・芦名盛興(28歳)急死の報を受けて撤退する。
七月
 伊達輝宗、家臣・亘理修理亮重宗に刈田口からの義光領への侵攻を命ずる。
 出羽国の有力国人・寒河江家、栄林方から離反し山形義光に加勢する。
 伊達輝宗、再び自ら出陣し義光方の五百川(現・朝日町)と新宿(現・上山市)に侵攻する。
八月
 義光軍と伊達軍、国境の刈田口・笹谷峠で戦闘する。
 伊達輝宗、楢下に侵攻するが山形義光への総攻撃を断念し和平交渉を始める。
九月
 伊達輝宗、義光方と和睦し楢下から撤退する(山形栄林・天童家は戦闘を継続)。

天正三(1575)年 
三月
 山形出羽守義光(30歳)と父・山形栄林(55歳)、伊達輝宗(32歳)の仲介で和睦し栄林、山形城下の龍門寺に隠居する。
 山形義光、栄林との内乱中に伊達輝宗に寝返った上山城主・里見民部少輔(?歳)を誅殺する。

天正五(1577)年
五月
 山形出羽守義光(32歳)、長井地方に侵攻する。
七月
 谷地城主・白鳥十郎長久(?歳)、上洛して大名・織田信長(44歳)に拝謁し馬を献上する。
八月
 山形義光、上洛して織田信長に拝謁する。
十一月
 陸奥国大名・伊達輝宗(34歳)の嫡男・梵天丸(11歳)、元服して政宗と名乗る。

天正七(1579)年
 最上八楯の盟主である天童城主・天童頼貞、死去(?歳)。後継は嫡男・頼澄(12歳)。
七月
 大浦城主・大宝寺義氏(29歳)、織田信長に馬と鷹を献上する。

天正八(1580)年
四月
 天童家、山形義光(34歳)と対立し天童城を改修する。

天正九(1581)年
三月
 大浦城主・大宝寺義氏(31歳)、鮭延城(現・真室川町)を攻略し清水・新庄・古口地方に侵攻する。
五月
 谷地城主・白鳥十郎長久(?歳)、伊達家との親交を深める。
 山形義光(35歳)、天童家・東根家と戦闘する。

天正十(1582)年
二月
 大浦城主・大宝寺義氏(32歳)、新庄地方に侵攻し鳥越城(現・新庄市)と猿羽根城(現・舟形町)を攻略する。
六月
 京で本能寺の変が起こり織田信長(49歳)が自刃する。
七月
 山辺家、大宝寺義氏と同盟し山形出羽守義光(37歳)と戦闘する。
八月
 山形義光、この頃から砂越城(現・酒田市)の砂越家と同盟関係を結び庄内地方の情勢を探る。
 山形義光、陸奥国大名・大崎家に鮭延城の救援を要請する。
 大宝寺義氏、由利地方(現在の秋田県南部)に侵攻して秋田家と戦闘する。
 大宝寺義氏の一連の領地拡大政策に対する家臣団の反発が高まる。
九月
 山形義光、天童頼澄(15歳)の天童城を攻めるが撃退される。


後半へ続く。 うらら~、うらら~、うらうらら~♪≫

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