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長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

完全なる門外漢からみた大奥妖怪奇譚 ~映画『モノノ怪 火鼠』 啓後の段~

2025年04月10日 23時07分28秒 | ゲゲゲの鬼太郎その愛
≪前回の記事は、こちら!≫

 ハハハイみなさまどうもこんばんは! そうだいでございます~。
 新年度が始まって1週間が経ちましたが、みなさまどんな感じでしょうか? 楽しくやっていけそうですか?
 私はもう、若くはないというところを小ズルく前面に押し出しまして、適度に汗をかく程度に頑張らせていただいております。中年層の特権だ~!!
 でも、私の経験則で行きますと、そんなにいい感じで一年間やっていけるわけがないんですよね……必ずどこかのタイミングで仕事の数が増えることになっちゃうんだよなぁ! ゴールデンウィーク明けか、お盆休み明けか……それとも、もっと早い桜舞い散るころ~!? いつ肩を叩かれるかと、戦々恐々としながらノンビリしております。今を楽しまねば!!

 いや~、いよいよ始まりましたね、『ゲゲゲの鬼太郎 私の愛した歴代ゲゲゲ』!
 ま、要するに単なるよりぬき再放送ではあるわけなのですが、1968年から6期にわたって続く悠久のアニメ版『ゲゲゲの鬼太郎』の全536エピソードの中からの傑作セレクトということで、ヘタしたらふつうの本放送よりも見ごたえのある至福の番組になることは確実のようであります。すっげ~!! これ、いつまで放送してくれるんですかね。
 毎週のエピソードのセレクターも面白いですよね。第1回は、今回のオープニング主題歌を担当する Adoさんセレクトのアニメ版第5期第4話『男!一反もめん』ということで、トップバッターが高山みなみ鬼太郎の第5期なのかい!と意外に思った向きもあるのかも知れませんが、内容は非常にスタンダードな「純真無垢な子どもが異界に出遭う」パターンの傑作で、ほんとに Adoさんが選んだのか疑いたくなってしまうくらいに「わかってる」選出だったと感じ入りました。これ、第2回以降もハードル高くなるぞ~!
 しかも、この『男!一反もめん』って、ご本人自体はシルエットでしか出てこないけど、我らが自称妖怪総大将ぬらりひょんサマ(演ずるは言わずもがなの青野武老師!!)ご登板の壮大なるプロローグ的エピソードなんですよね! つくづくわかってんなぁ~ Adoさん!! 若いのにやりおるわい。
 ファンとしましては、やっぱり「自分がセレクトするならどのエピソードか?」を妄想するのも楽しいですよね。不遜ながら私も考えてみますと、まず我が『長岡京エイリアン』で企画にするほど大好きなおぬら様と猫娘のメインエピソードを永久欠番として除外した上で考えますと(青野ぬらりひょんの出演してるエピソードは第3期・5期関係なく全話セレクトです)、う~ん、やっぱり第4期第84話『怪奇!人食い肖像画』(1997年8月放送)になりますかね。でも、あれも猫娘がけっこう重要な役割を担ってたか。あと、青野老師がぬらりひょんじゃないんだけどニセ鬼太郎を嬉々として演じておられた第4期第95話『妖力泥棒!釜なり』も楽しかったなぁ。総じて私は第4期が多くなりますかね。


 ままま、こんな調子で鬼太郎関連の話ばっかりしてると、あっという間に字数が埋まってしまいますので、ちゃっちゃと今回の本題に入っていきたいと思います。妖怪は妖怪でも、今回はこっちのほうなの!

 というわけで、現在絶賛公開中の最新アニメ映画『モノノ怪 火鼠』を観た感想でございます。

 前回にもさんざんくっちゃべりましたが、ここからはほんとに、純粋に『火鼠』だけを観た人間の感想になりますので、他の TVシリーズ版『モノノ怪』や映画版の前作『唐傘』にからんだ前情報や伏線はまるで感知していない駄文になることを承知の上でお読みくださいますよう。熱烈なファンの方は、わたくしめの勉強不足を怒らずにおおらか~な御心で、ひとつ!

 まず、映画の内容にいく前に、今回の映画のメインゲスト妖怪となった「火鼠」についての基本情報を確かめてみましょう。


妖怪「火鼠」とは……
 火鼠(ひねずみ、ひのねずみ、かそ)は、中国大陸で伝承される怪物。「火光獣(かこうじゅう)」とも呼ばれる。
 中国大陸の南の山の、「不尽木(ふじんぼく 不灰木とも)」という燃え尽きない木の火の中に棲んでいるとされる。火鼠の毛を織物にすると、焼けば美しさを永久に保つことのできる布「火浣布(かかんふ)」になるといわれるが、これは鉱物性繊維の石綿(アスベスト)のことを指していると思われる。

 晋代以後(3世紀後半以降)の地理書『神異経』によれば、南方の火山(4世紀の怪奇小説集『捜神記』にみえる崑崙の「炎火之山」のこと)は長さ四十里あり、不尽木を生やしている。不尽木は一日中燃えており、雨で消えることもなく、その火の中に火鼠が住んでいる。火鼠の重さは百斤(約250kg )、毛の長さは二尺余り(約50cm弱)で絹糸のように細い白い毛であるといい、トラやホッキョクグマなどの大型哺乳類ほどの大きさがあることになる。火鼠に水を注げば死ぬので、その毛を織って布にすると、汚れても火で洗えば(焼けば)雪のように白い色に戻る火浣布になるという。
 また、火鼠は現在でいう南シナ海北部の海南島からトンキン湾、北ベトナムにかけての地域にいたとも言われる。その他に、火鼠の生息地を「西域の火州」とする説もあり、これは現在でいう新疆ウイグル自治区のウイグルのトルファン市周辺を指し、これはヴェネツィアの冒険家マルコ=ポーロ(1254?~1324年)がアスベストの採掘を見聞したという地域と一致する。

 このように火鼠の伝承が語られる一方で、『本草綱目』の著者である明帝国の本草学者・李時珍は不尽木を木類でなく石類と認識しており、、マルコ=ポーロも火浣布が採掘鉱物のアスベストであることを実見しており、火鼠の毛織物説を否定していた。

 火鼠は日本においては、10世紀中期に編纂された辞書『和名類聚抄』で和名を「ひねずみ」と音写して伝えられ、江戸時代の1712年に成立した百科事典『和漢三才図会』では、中国の本草書『本草綱目』(1596年刊)の説明記事が日本語訳されていた。

 また、日本で10世紀中期までに成立したという物語小説『竹取物語』の中では、主人公のかぐや姫が求婚してきた右大臣・阿倍御主人(3番目の求婚者 635?~703年に同名同職の人物が実在している)に出す難題として「火鼠の皮衣(かわごろも、かわぎぬ)」を所望している。これが、中国に伝わる火浣布と同じものと推定されていることが多い。
 ただし、『竹取物語』で求められたのは皮衣すなわち毛皮であり、火鼠の毛を織った布である火浣布とは厳密には異なる。また、阿倍御主人が中国・唐帝国の商人から購入した毛皮は紺青色の偽物であったが、先述したように中国伝承の火鼠の体毛は白いとされる。


 ……とまぁ、こんな感じの妖怪なんですって、火鼠って。
 つまり、中国伝承の中の火鼠は、日本の妖怪のようにわりと全国各地に出没の言い伝えが残っている存在ではなくて、東アジアのある特殊な地域に棲んでいる伝説の動物という存在なのですね。なので、本来は今回の『モノノ怪』のように人間の怨念に反応してポッと生まれるようなものではないということなんですな。つまり、本作に登場する妖怪はあくまで「中国にいるらしい火鼠に似たなにか」というモノなのでしょう。
 実際、ホッキョクグマくらいの大きさという点は似通っているかも知れませんが、中国の火鼠は身体が白いんですもんねぇ。なんか、『ガンバの大冒険』のノロイみたいなイメージですね。こえぇ!!

 そうそう、火鼠って、妖怪としては日本ではあんまり話題に上ってこない存在だし、確か水木しげる先生も描いたことはなかったんじゃないかなと思うのですが、昔話が好きな人だったら、けっこう『かぐや姫』で聞きおぼえのある名前ではあるんですよね。
 そうか~、「火鼠のかわごろも」って、要するにアスベストのことだったのか。日の本からはるかに遠く離れた中央アジア産のそうとうに稀少な鉱物なわけなので、もしかしてかぐや姫、それを知ったうえで阿倍右大臣にオーダーしてた……? なかなかの性格ですね。


 それはそれとしまして、とりあえず映画『モノノ怪 火鼠』を観たわたくしの感想を述べさせていただきますと、


『モノノ怪』シリーズの魅力も限界もよくわかる、非常にわかりやすいチュートリアルみたいな作品。


 という感じでございました。難解っていうことは全然なく、一見さんにもとっても優しい内容だったのですが、それだけに、なんかお年寄り向けの定番時代劇を観てるような予定調和感もあったような……これは、「三部作の真ん中なので、このくらいでひとつ。」という、人気シリーズの余裕のあらわれなのか?

 そんな言い方をしちゃうと批判的な印象が強くなってしまうのですが、いやいや、面白かったんですよ。特に今回は映画館の大スクリーンで観ましたからね、見ごたえのある『モノノ怪』シリーズ独特の映像美と世界観が楽しめる70分間ちょいでした。
 思えば、私がかつて千葉のアパートで観た TVシリーズ版は、古いテレビのちっちゃな画面で、しかも30分枠の CMぶつ切り、さらには視聴してる私も夜中で眠いし、ながら観してたしで、世界観をだいぶ理解しにくくしてしまう悪条件が重なりまくっていました。そもそも TVシリーズ版だって、エピソードは30分枠を2~3話で完結という体裁だったのですから、物語のボリュームとしては今回の映画版三部作のスケールとさほど変わってないんですよね。
 やっぱり、かなり濃厚な世界観の中でテンポよく物語が進んでいく『モノノ怪』シリーズは、結末まで休憩なしで突っ走っていく短距離型の映画スタイルが最適なのではないでしょうか。今回の『火鼠』を観て、私はしみじみそう感じました。

 本編の内容に入りますと、ヒロインというか、女性キャラクターの造形が活き活きとしていたのが良かったと思いました。特にメインのふきの方とぼたんの方あたりの人物像が、ちゃんと呼吸して怒りもすれば泣きもする生身の人間としての「厚み」を持っていたのが素晴らしかったです。キャラクターデザインも、アニメらしくなく肉々しいというか、しっかり脂肪も体重もあるリアリティがあったのが良かったですね。そこがかえって、時代劇らしくない現代っぽさのある『モノノ怪』オリジナルのファンタジー世界を強調している要素にもなっていました。あんなナイスバディな江戸人、いなかったでしょうし。

 ただ、物語の本筋はといいますと、そういった最先端のビジュアルとは正反対に、非常に古典的な「情念のお話」になっていたことがミソなんですよね。ここを良いととるのか、物足りないととるのか。それが問題なのよ!

 他のエピソードをほとんどまともに観たことのない私が言うのもおこがましいのですが、今回のお話や『モノノ怪』シリーズの概要情報を見る限り、どうやらこのシリーズで語られている「モノノ怪」という存在は、現実世界の日本でよく使われている「もののけ」とは、意味が微妙に重なっていない部分があるような気がします。おおかたは同じ意味のようなのですが、指す範囲がより狭くなっていますよね、モノノ怪のほうは。

 すなはちモノノ怪とは、人間の怨念が自然界にいにしえから存在している怪異「あやかし」の力を得て、元となった人間でさえ制御不可能な暴走状態となった災害現象と解釈できるようです。これって、私たちの世界でいう妖怪よりも、むしろ「怨霊」に近い人為的存在なのではないでしょうか。
 だからこそ、薬売りの持つ文字通りの伝家の宝刀「退魔の剣」がモノノ怪を断つためには、モノノ怪の形(事件の状況)と真(事件発生の経緯)と理(事件の原因)を把握して、モノノ怪を生んだ人間の心情を理解して鎮める必要があるのでしょう。そして、薬売りは人間発祥のモノノ怪を鎮めることはできても、人間以前から地球に存在しているあやかし自体を討伐することはできないのです。
 要するに、薬売りは事件を解決する探偵であり、人間の無念を供養する宗教者であり、火事を消す消防士でもあるのですが、刃物や銃や暴力の危険性とか、火が燃えたりする現象そのものをこの世から抹消することはできないというスタンスなのではないでしょうか。あくまでも、起きてしまった事件に対処するだけで、起きるかも知れない悲劇を未然に防ぐことはできないという無力感もあるんですね。薬売りさんも大変なのねぇ。

 ま、こういうことを考えてみますと、この『モノノ怪』シリーズの限界のようなものもうっすら見えてきてしまうわけで、本作で起きる事件は、薬売りが解決できるかぎりは全て「人間に原因がある」ということになり、しかもそれはほぼ100%「過去に起きたトラブルの被害者」の恨みの怨念が起こしているという、けっこうガッチリ固まったフォーマットがあるということになるのではないでしょうか。

 これはけっこ~……フィクション作品のシリーズとしては不便じゃない? 『金田一少年の事件簿』ではないですが、たいていの事件の犯人が、過去にかなりひどい目に遭っているという犯行動機があって、事件解決の終盤になると絶対に犯人のつらい身の上話を吐露する回想パートがあるという流れがパターン化しているのって、それが好きな人だったら『水戸黄門』みたいに「これこれ!」みたいな感じで楽しめるのでしょうが、少なくとも私は今回の『火鼠』1コ観ただけでおなかいっぱいかな、という気がしました。特に今回は「忖度」とか「中絶の強要」とかいう、非常に腹立たしいトピックがはびこる事件でしたので、なおさら不快度数が増したのもあると思います。

 不快というのならば、今回の事件で、本人の意思ではないながらも結果的に火鼠を生む環境を作っていた、ふきの方の父(権力者に忖度して中絶を勧めた)や兄(一族の繁栄を望み妹に大奥にい続けるよう懇願した)が一切おとがめなしになっていたのも、鑑賞後に「あれ? あいつらは笑顔でエンディングでいいのかな……」という感じで気になりました。
 いや、これに関してはおそらく、「薬売りが火鼠を退治していなかったら次の被害者になっていた」という解釈もできるので、決して父と兄が火鼠に許されていたというわけでないことはよくわかるのですが、結果として2人は無傷で助かっているので、印象としては「権力を持っていない人はオール免罪」みたいな理屈になっているような気がして、それは火鼠の気持ちにかなってはいないのでは?という気になってしまうんですよね。
 ここらへんの「弱々しく見える人は善人」というわけのわかんない思考停止な記号って、よくある古臭~い時代劇の、借金の取り立てに遭う長屋のおとっつぁんと娘の危機を黄門さまチームは救うけど、そもそも父娘がそんなにひどい目に遭うことになった社会構造はスルーして次の宿場町へGO♪ みたいなご都合主義を連想させるような気がして、なんかイヤなんですよね。

 でも、だからといってふきの方の父や兄も平等にぶっ殺されちゃったら、薬売りの立つ瀬もないビターな惨劇になっちゃいますから……ただ男である以上、今後も2人がふきの方の心情を理解できないままな可能性もあるような気はするので、チョーさんの哀感あふれる名演に惑わされずに、あの父の「そもそもの原因はお前!」な始末の悪さは忘れないでいたほうがいいかと思います。なんつうか、クリスティの『カーテン』のあの人みたいな含みのある人物造形なんですよね。そういう人が、いちばんこわい。

 あと、全く別の点で違和感を覚えたこととしては、薬売りがスーパーマンすぎて、大奥警護広敷番・坂下が許可しようがしまいが簡っ単に大奥に入り込める存在になってしまっていることがありました。別に赤外線センサーが張ってあるとか、どの廊下にも警固番がいるとかいうわけでもないだだっ広いお屋敷なんだから、大奥御年寄ぼたんの方の発行した手形がどうとか全然関係ないじゃん、あんなの! そんな感じだったので、クライマックスにいく手前で坂下が「いっけぇえ~!! 薬売り!!」とか大上段に叫んでも、そんなもん坂下の気分の問題でしかないので、まるで盛り上がらないのです。あそこでダメって言っても、薬売りは行ってたでしょ。

 坂下と言えば、野原ひろしと銭形幸一警部(もちろんファッションセンスは『 PartⅢ』版!)と『一休さん』の蜷川しんえもんさんを足して3で割ったような彼の憎めないキャラクターも、後半にいくにつれて、「そんなに過去の『すずの方』事件を知ってたんだったら、なんでそんなに純真無垢な傍観者ヅラしてられんの……?」という違和感が増してきて、そのキャラの明るさがむしろその心理状態をわかりにくくしている気がしました。どうしてそんな職場でのうのうと働き続けてられるんだろう……彼もまた、火鼠が生き延びていたら犠牲者になっていたか。

 あと、もうひとつ! これはほんとに気になった。
 私が本作を観ていちばん違和感を覚えてしまったのが、この『火鼠』の中ではろくなセリフの一つもない等身大パネル同然の存在感だった、この世界の大奥の主についてのことでして、作中では彼の呼び方が「天子さま」となっていたのです。ててて、天子とな!!

 こいつぁまた、大きくでたな!! 現実世界の日本史における大奥と言えば、やはりなんと言ってもその主は徳川江戸幕府の征夷大将軍こと「将軍さま」であるわけなのですが、この『モノノ怪』の世界における大奥の主は「天子さま」、つまり一国の王、日本史でいえば「みかど(天皇)」に直結した称号を持つ人物になっているのです。やんごとなさすぎだろ……
 これは相当に意図的な改変ですね……将軍じゃなくて天子さまということは、この『モノノ怪』の世界が、単に美術イメージを拡大解釈した時代劇というわけではなく、明らかに現実の日本と違う歴史的経緯をへて出来上がったパラレルワールドであると宣言しているも同然の呼称であるわけなのです。

 なにゆえ、江戸の将軍さまではいけなかったのか。これはおそらく、「武力で日本を平定する権力者」というだけでなく、作中でも大奥の一角にアマテラスやスサノオっぽい神々を描いた柱を持つ宗教施設があったり、なんか半裸でうろうろしてるシャーマンっぽい男女がいることからも、現実の日本史で京の天皇が堅持してきた「日本の宗教的・精神的絶対権威」というパワーさえも、『モノノ怪』世界の大奥の主が所有しているということを暗示しているのではないでしょうか。
 余談ですが、現実の徳川将軍家も、別に実利的な支配権力だけをもらえたらそれでいいですという武士らしい謙虚さを持っていたわけでは毛頭なく、日本史でも勉強したことのある「禁中ならびに公家諸法度」(1615年公布)や「諸宗寺院法度」(1665年制定)にあるように、権威の上でも天皇を超えるパワーを手に入れようとやっきになっていたことは明らかです。ただ、それが完全でなかったために1868年に王政が復古してしまったことは言うまでもありません。さすがは天皇家、250年も耐え忍んだ上で大復活とは、生命力がハンパない!!

 それはともかく、『モノノ怪』における天子さまが、何らかの形で江戸の徳川将軍よりも多角的な力を持った存在であるらしいことがほの見えてくることはいいのですが、それでも私が文句を申したいのは、そんなものすごそうな天子さまなのに、老中筆頭の大友らの発言から察するに、どうやら天下を手中に収める立場となってから、劇場版三部作の時点でたかだか「150年」しか経っていないという設定らしいということなんです。

 え! 150年!? たったの150年しか天下治めてないのに「天子さま」だなんて名乗ってんの!?

 それはいくらなんでもないでしょ……せめて1000年くらいは王さまやってくれないと。1.5世紀続いたくらいで「天子さまでござい」など、名前負けもはなはだしい。250年天下人を続けたのに「大君」どまりだった徳川将軍家の切なさを見習ってほしいですね。

 ままま、そこらへんのビッグマウスの源泉も、おそらく次作の『蛇神』で語られるかとは思うのでこれ以上はくどくど申しませんが、こうなっちゃうとだいぶファンタジックな歴史的背景が必要になるような気もしてしまうので、かろうじて日本の江戸時代とも解釈可能だった TVシリーズ版からかけ離れてしまうのはちと残念な気もしてしまうのですが、来年の最終作で、本作のエンディングどころではない「大花火」が打ちあがるのを、期待させていただきたいと思います。

 ちなみに蛇足となるのですが、具体的な歴史が意図的に語られない本作の中でもミョ~に具体的に「150年」という数字だけ明言されるのでいちおう比較してみますと、日本の江戸時代の開府150年すなはち西暦1750年(年号は寛延三年)の時点で大奥の主こと将軍だった人物は、第九代征夷大将軍・徳川家重(1712~61年 将軍在職1745~60年)でした。中村梅雀!! ついでに申しますと、1750年の時点では家重の父君である大御所・暴れん坊将軍こと徳川吉宗も存命しています。
 まぁ、徳川家とフィクション作品である『モノノ怪』の天子さまを比較してもせんかたない話ではあるのですが、一点だけ気になることとして、『火鼠』にもチラッとだけ登場した、天子さまの第一子を産んだ正室(演・種﨑キュアフレンディ敦美)の名前と、徳川家重の正室(のちの第十代将軍徳川家治の生母)の名前が同じ「幸子」であることは覚えておきたいと思います。徳川家正室の方は「こうこ」と呼んだらしいですが。

 だいたいにおいて、本作は権力者の「裏」の世界である大奥を舞台にしているのに、その裏を際立たせるために不可欠な存在である「表」の世界こと、大友たちの立ちまわる幕府の政治世界があまりにも語られなさすぎだと思うんです。クライマックスで大友は、「天子さまの天下を揺るがせないために自分は正しい判断をしたのだ!」と断言し、「諸大名の増長を抑えるためには天子さまのお家の血統も高貴であらねば」と豪語するのですが、具体的に大友が想定している敵対勢力であるはずの「諸大名」が1秒も画面に出てこないので、大友の発言にまるで説得力が生まれないのです。
 ああは言ってるけど、大友は江戸幕府の老中くらいの苦労をしているのか、室町幕府の管領くらいの立場なのか、はたまた鎌倉幕府の執権くらいのキツさなのか……そこらへんの難緯度設定がわからないと、大友の犯行(?)動機もいまいち伝わってきませんよね。ここらへんのさじ加減次第では、大友もまた時代の哀しい犠牲者だったという味わいが出てきそうなのですが、そこが不明なのは実に惜しいような気がします。『鎌倉殿の13人』の北条義時くらいの同情は買える可能性のあるキャラだと思うんだけどなぁ。でも、江戸の老中レベルだったらイージーモードだぞ! ぜいたく言うな!!


 そんなこんなの印象がありまして、私は今回の『火鼠』自体は非常に面白い作品だと感じたのですが、「このシリーズ、この展開以外にふり幅あるのかな?」という余計な心配も働いてしまったという次第なのです。まぁ、その真偽を確かめるためにも、来年の三部作最終作『蛇神』は絶対に観ますよ。それにしたって、なんで巳年の今年にやらないで来年なんだよう!! これには栄えある劇場版ラスボス格となった蛇神さまも肩をガックリ落としてしまいますね、肩ないけど。

 あ、最後にひとつだけ、本作を観てほんとに良かった点を。

 堀川りょうさんの中間管理職な老中・藤巻がすばらしかった! あの早口で小物感満載の高い声……おぉ、あの人間性の豊かさは、まさに生前の青野武老師の得意としたキャラクターではねぇか!!
 最高です……青野老師の後継者といえば『ちびまる子ちゃん』を例に挙げるまでもなく島田敏さんの一人天下かと思っていたのですが、まさかの堀川さんもこういう人物造形がお上手だったとは。伊達に35年も宇宙戦闘民族の王子(恐妻家ぎみの愛妻家)やってないなぁ!!

 そうそう、今回『火鼠』を観る前に、YouTube で流れていた出演者の堀内賢雄さんと堀川さんとチョーさんの宣伝用鼎談を観たのですが、堀川さん、時代劇が大好きなんですってね。さすがです、「好き」が演技にみなぎってます!

 それにしても、あのお3方、全員同じ「67歳」であられるのか……まだまだ私もオッサンだなんて言ってられねぇなぁ! がんばろ。


≪ちょっと気になっただけの蛇足≫
 私、この記事の中でさんざん「天子は天皇! 将軍じゃない!」と言っているのですが、実は、自分でそう言いながら、「あれ? そうじゃないかも……」と勝手に不安になってしまうような記憶がございまして。

 あの、私、確か中学生だった頃に学校の演劇鑑賞で、どこかの劇団の山形公演を観た記憶がありまして、それは「江戸時代のキリシタン弾圧に抵抗する人々」を描くお芝居だったのですが、その中で敵方となる幕府の侍たちが、しきりに「これは天子さまのご意向なのだ!」と主張していたんですよね……

 まぁ、九州かどこかの地方くんだりに来てダーティな仕事をする末端の人達なので、将軍と天皇を混同しているのかも知れませんし、あるいは命令の威光を高めるためにわざといっしょくたにしたのかも知れませんが、いずれにせよ、少なくともあのお芝居では、確かに江戸幕府と「天子さま」とを同義にしていたのです。記憶違いじゃないと思う……

 もしかしたら、その混同は劇団としての政治的意図があったのかも知れないし、そうだとしたらデリケートな問題なのですが、まぁ、そんな例外もあったと思い出しましたので、備忘のためにここに記しておきました。
 あのお芝居のあのセリフ、どういうことだったんだろ……?
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