長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

ついに観た 梅雨どきだから この一品  映画『星砂の島、私の島 アイランド・ドリーミン』 の、はずが

2012年06月21日 22時38分18秒 | ふつうじゃない映画
 はいど~も~、こんばんは! そうだいでございます~。みなさま、今日も一日お疲れさまでございました~。

 いんや~もう、ジメジメのきわみですなぁ~。梅雨ですなぁ~、台風ですなぁ~!!
 もうここ数日は暑い日と肌寒い日の、か~りぺったか~りぺった(『ドリフ大爆笑』より)でねぇ。いずれにせよ湿度が高いのは共通なんですが、それに台風の影響がまざってくると「ズドドドドド!!」と、とてつもない勢いの雨と風が。体調的にも気分的にもモヤモヤっとしてどうにもよろしくありません。

 最近ちょっと、個人的には非常に気になるこんなニュースがありました。


「ポニョの景観」保護、鞆の浦工事中止へ 広島県知事
 (時事通信社 6月22日の記事より)

 宮崎駿監督のアニメ映画『崖の上のポニョ』の舞台のモデルとして知られる、瀬戸内海に面した景勝地「鞆(とも)の浦」(広島県福山市)の埋め立て・架橋計画について、同県の湯崎英彦知事が中止の意向を固めたことが22日、分かった。鞆地区の景観に配慮し、山側にトンネルを掘って橋の代替となる道路を整備する。知事は25日にも同市の羽田皓市長と会談した上で正式に表明する。

 鞆の浦は、江戸時代の石造り灯台や港湾施設が数多く残る景勝地。一方で道路が狭く、新たな道路整備が地域振興の課題となっている。
 このため、県は1983年に海の一部を埋め立て橋を架ける計画を立案。藤田雄山前知事時代の2007年に、計画具体化に向け埋め立て免許の交付手続きに入った。

 これに対し、景観保護を求める住民グループなどが反対運動を展開。2009年10月には広島地裁が、鞆の浦の景観について「国民の財産というべき公益」と指摘し、事業差し止めを命じた。
 広島県は判決を不服として控訴したが、その後、湯崎知事が当選。同知事が改めて推進派と反対派を交えて鞆の浦の町づくりについて話し合う協議会を発足させるなどして、計画の是非を再考していた。



 うおぉ、鞆の浦!! 私は現地には一度も行ったことがないし、現在の地区の不便さや、それを解消するために計画されていた橋が具体的にどのくらい景観をそこねる規模のものになっていたのかをまったく把握していないので、賛成か反対かのどちらかに属して意見を言うつもりは特にありません。
 特にないんだけど、無責任に言わせていただければ、鞆の浦の風景がこれからも残っていくというのは非常にうれしい!! いつか必ず行って、港から見渡す瀬戸内海のながめをこの目にとどめておきたかったんですよね。私にとってはかなりの高ランクで「生きているうちになんとしても行きたい聖地」なのであります、かの鞆の浦は。

 え? 『ポニョ』がおもしろかったからそんなに好きなのかって? ノン、ノン、ノン!

 この鞆の浦は、おそれおおくも、かの室町幕府第15代征夷大将軍・霊陽院足利義昭公(1537~97年)がにっくき織田信長に京を追放されたのち、天正4(1576)年2月から天正16(1588)年1月まで12年の長きにわたって滞在されていた土地だったのだァ!! これを「聖地」と呼ばずしてなにを「聖地」と呼ぶのでしょうか。

 ステキ……義昭公はいったい、何を想いながら眼前に広がる海を観ていたのかしら。その当時の風景がほぼ変わりなく今でも拝めるっていうんですから、これを現代も変わらないかたちで守り続ける意味は、ただ単に景勝地であるということ以上に大きな価値を持っているのです。

 だって、将軍がいたのよ!? ということはアナタ、いちお~当時の日本の「首府」だったのよ!! ヒィヤッホウ~。

 とは言ってもね、ちゃんと現実は見なきゃいけないわけでして、客観的に見れば義昭公在世中の「日本の首都」はあくまでも京のみやこ。その次にあがるのは信長の近江国安土や、豊臣秀吉の摂津国大坂(大阪じゃなくて、おおざか!)といった感じで、それにたいする義昭公の備後国(びんごのくに・現在の広島県東部)鞆の浦はくらべるべくもない寂しさがあることは事実です。

 ちょっと昔は「本能寺の変を決行した明智光秀の背後には足利義昭の影が!!」なんていう刺激的な新説も出てきていましたが、多くの論説が示すように、それが「意図的な古文書の誤読」による義昭公のもちあげすぎであることは言うまでもありません。要するに、権力的・軍事的バックアップをもぎとられた鞆の浦時代の彼が完全に「過去のひと」になっていたことは、これはも~ファンでも認めざるを得ない事実なのであります。哀しいけど……

 でも! いや、だからこそ!! 毛利家、島津家といった西日本の有力大名たちの「精神的よりどころ」として、自身の「征夷大将軍職」をガンとして手ばなさなかった鞆の浦の義昭公の姿は美しく、りりしいのです。「権力」は失っても「権威」は失わない。信長との争いに敗れ、泥まみれの屈辱にまみれてもプライドだけはにぎりしめて都を去っていく、その誇り高き哲学!
 これが将軍だ。あの覇王信長でさえもがついに滅ぼすことのできなかった将軍の生きざまなのだァ!!

 ……とは言いますけど、実は史実の織田信長は義昭公の追放後にもけっこう熱心に「和解」を目的とした交渉を申し入れており、人質としてぶんどった義昭公の長男を「第16代将軍」にする目的で大切に養育していたフシもありました。

 つまり、「革命的な政治意識を持った織田信長が旧態依然の室町幕府を滅ぼした!!」という手あかのつきまくった現代の常識は、「ヘソをまげまくった義昭公が将軍職をぜんぜん辞任しようとしなかったから結果的にそうなっちゃった。」というだけのなりゆきの産物だったのです。もう、ぐだぐだ!!

 これは別に私のオリジナルな歴史観でもないし、ちょっと調べればすぐにわかる話なのですが、いわゆる「革命児・織田信長」の歴史的偉業は、よくよく当時の史料を検証してみれば江戸時代以降にかなりオーバーに拡大解釈された、もしくは捏造されたものがほとんどです。「鉄砲三段撃ち」とか「巨大鉄甲船による大海戦」とか。

 じゃあ信長のなにがすごいのかといいますと、これはもう、「異常な運のよさ」と「デキた部下にめぐまれる人望のあつさ」としか言いようがありません。とにかく信長さんはすげぇ、信長さんについていけばなんかおもしれぇという、論理を超えたお祭り的なカリスマ性が時代をリードしていったのです。このチーマーみたいな高揚感!

 「信長のスピーディな決断が時代を変えた!」というのもよく聞く話ですが、ちょ~っと待ってくださいよ。
 今川義元はミラクルに討ち取っても今川家そのものは滅ぼさない。設楽ヶ原合戦(長篠合戦)で大勝しても武田家そのものの滅亡にはそのあと7年もかけている。あんなに苦労した本願寺顕如との大戦争も最終的決着は和睦で済ませている。そして義昭公の件だって、はっきし言って殺そうと思えば殺せた勢いだったのに丁重に「京からおひきとり願う」という下からスタイル。
 こんな人が、果たしてほんとに「果断な革命児」なんでしょうか。な~んか真逆の「石橋をたたいても渡らない注意深さ」が目立ちますよね。

 要するに織田信長は、肝心のところで何もしてないのに武田信玄や上杉謙信がバタバタおっ死んでいくというあたりに代表される「ミラクルラッキーボーイっぷり」こそがその本質で、なにかが起こったときに何も言わずに内心ビックラこいているうちに、信長以上にかしこい部下たちが「わからんのか? これはすべて大殿の計算のうちのこと!」とうまくフォローして、それを受けて「う……うん。そうよ。」とこたえるお人だったのではないでしょうか。ぶっちゃけた話、長期的な政治プランなんか、ない!! まわりが敵だらけでそんなの作ってるヒマなんかなかったから。

 私はそういう見方から、織田信長は奇跡的な運のよさと人望のかたまりと言える「カンピュータ人間」、つまりは現代の長嶋茂雄のようなお人だったんじゃなかろうかと思うんだな。神経質という部分はあったでしょうが、間違っても「頭がよさそうなイメージ」が最優先する人ではないはずなんだ。
 だもんで、織田信長を演じた現代の俳優さんの中で私が一番好きなのは、これはもう文句なしに NHK大河ドラマ『利家とまつ』での反町隆史さんです。バカっぽいのについてきたくなっちゃう何かがあるのね!

 ついでに言うと、我らが足利義昭公を演じた俳優さんの中で、勝手ながら私が最も「義昭公らしい!」と思っているのは、ちょっと古くなりますが大河ドラマの『国盗り物語』で義昭公を演じきっていた伊丹十三さんです。次にくるのは10年前くらいにテレ東かどっかの大型時代劇版の『国盗り物語』で演じていた相島一之さんかなぁ。

 ここはハッキリ言っときますが、私は平成に入ってから義昭公を演じた俳優さんのほとんどに不服です。例外はさっきの相島さんと大河ドラマ『秀吉』の玉置浩二さんくらい。
 あとはそろいもそろってボンクラぞろい……いや、これは俳優さんの力量というよりも脚本の中でのキャラクター造形が浅すぎアホすぎというところが問題なのでしょうが、足利義昭という人物をただの「権力が大好きなバカ殿」としか描いていない時代劇は作る価値も見る価値もないといってよろしいでしょう。そんなドラマ観るんだったらカラオケで100回『田園』唄ってたほうがましです。

 特にアナタ、大河ドラマ『功名が辻』の三谷幸喜。
 そんなオファーことわれよ。役者じゃない人間がしゃしゃって演じられるほど足利将軍は軽いポジションじゃねぇんだ。こ・と・わ・れ・よ!!


 まぁ~ともかく、そんな足利義昭公が12年間住んでいらっしゃった鞆の浦の景観が残されるという今回のニュース、これはもうまことによろこばしいことなのであります。

 ところでそんな義昭公が、その61年の生涯の中で、戦国時代もたけなわの全国津々浦々を流浪したという遍歴は実にすさまじいものがあり、誕生~6歳は親父の第13代将軍・足利義晴に育てられながら京、6~29歳は出家して大和国の興福寺、29~30歳は近江国の大名・六角承禎の保護下、30~32歳は若狭国を経由して越前国の大名・朝倉義景の保護下、そして32歳のときに美濃国で織田信長と会見していっしょに京にのぼって将軍就任、そのまんま32~37歳は京にいて信長とハデにケンカしたすえに決別し、37~40歳は河内国を経由して紀伊国に滞在、40~52歳がくだんの鞆の浦で、52~61歳は将軍辞職と出家をひきかえに京に戻って、あの信長でさえ手に入れることがかなわなかった「おだやかな余生」をおくることとなったのでした。最終的には「勝ち」でしょ!
 ということなので、義昭公の少年~青年期をぜんぶカヴァーする「坊さん時代」をのぞけば、鞆の浦の12年間はなんと「義昭公が一番長くおちついて生活していた時代」だったのです。よっぽど住みやすかったんでしょうか。将軍として京にいたのはたったの5年間だったんだぁ。

 あっ、そう言えば、歴史の教科書では戦国時代の前の時代、つまりは義昭公を15代目とする歴代の足利将軍がいた時代のことを「室町時代」と呼んでいるのですが、この語源は「足利将軍の居館&執政所(御所)が京の室町地区(現在の京都市上京区)にあったこと」によります。

 ところが、実はちゃんと足利将軍の御所が「室町にあった」のは、正確に言うと「3代将軍・義満~12代将軍・義晴」のあいだだけで、初代・尊氏は二条高倉、2代・義詮(よしあきら)は三条坊門、13代・義輝(義昭公の兄貴)は二条で15代・義昭公は烏丸(からすま)に幕府をおいていたのです。めんどくせぇ! あ、ちなみに義昭公のいとこにあたる14代・義栄(よしひで)さんは基本的に和泉国の堺にいて、まともに京に入ることさえかないませんでした。残念!!

 そういうことなんで、あの足利将軍家が君臨していた時代ぜんたいを「室町時代」と呼ぶのは、私としてはちょっと……え……


 ……あれ。なんの話してんの、わたし。


 え? 足利義昭? いやいや、今回はアイドルの出ていた映画の話がしたかったんであって……
 そうそう、瀬戸内海じゃなくてもっと碧(あお)いエメラルドグリーンのさぁ、南国の海がはえる作品のことについて語りたくって……あの~、足利幕府第15代征夷大将軍じゃなくて、今現在、栄光ある名門・モーニング娘。第8代リーダーをつとめていらっしゃるお方のういういしい姿がおがめるやつを観たっていう話でして……ちなみに足利家の第8代将軍は義政というそ~と~ヤバいお人で、徳川家の第8代将軍は暴れん坊だったわけで。


 いや~、いけませんな。沖縄の離島を舞台にしたアイドルの話がしたかったのに、瀬戸内海の鞆の浦を舞台にした将軍の話題でお熱が上がってしまいました。でも、これこそが『長岡京エイリアン』のしごくナチュラルなありかたなのです。ゆがみまくり☆


 ここは、しきりなおすか。


 ということで! 満を持して DVDを購入、ついに目の当たりにすることとなった伝説の「モーニング娘。6期メンバーが正式加入するかしないかのうちにとっとと出演することになった映画」こと、


『星砂の島、私の島 アイランド・ドリーミン』(2004年2月公開 監督・喜多一郎 主演・大多月乃)


 の詳しい内容については、まったじっかい~。

 梅雨だからこそ、カラッとした沖縄の海が観られる作品をね!

 それにしても、ヘンな映画……
コメント
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