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長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

世界よ、これがハリウッドの風呂敷たたみだ ~映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』~

2024年10月28日 09時35分08秒 | ふつうじゃない映画
 え~みなさまどうもこんにちは! そうだいでございまする。
 いやぁ、なんだかんだ言っても、いよいよ秋めいてまいりましたね。今度の週末に私、福島県の土湯温泉に泊まりに行く予定があるんですが、紅葉はどうかなぁ。今月の頭に山梨まで車で往復した身としては、隣県の福島行きなんか気楽なもんにも思えちゃうんですが、なんにしろ遠出にはなるので、くれぐれも安全運転に心がけたいものです。よその県の温泉は、やっぱりワクワクするなぁ! 山形県内の温泉地ももうちょっとでコンプリートよ。待っててくれ、瀬見温泉!!

 ほんでもって今回は、秋にドバドバッとつるべ打ちになった「個人的に見たい映画・ドラマ」の中でも特に気になっていた、この作品でございます。ついに日本にも上陸しましたね!


映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』(2024年10月公開 138分 ワーナー・ブラザース)
 『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』(原題:Joker: Folie à Deux)は、アメリカのスリラー映画。DCコミックスの『バットマン』シリーズに登場するスーパーヴィラン・ジョーカーを描いた2019年の映画『ジョーカー』の続編。前作に続いてトッド=フィリップスが監督し、ホアキン=フェニックスが主演するほか、ハーレイ・クイン役でレディー・ガガが出演する。
 タイトルの「Folie à Deux(フォリ・ア・ドゥ)」はフランス語で「二人狂い」という意味で、一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有する精神障害のことを指す。
 製作費2億ドル。アメリカ本国では R指定、日本では R15指定だった前作と異なり PG12指定での公開となる。

あらすじ
 前作『ジョーカー』で発生した連続殺人事件の2年後。
 アーカム・アサイラムで解離性同一性障害と診断されたアーサー=フレックは、音楽セラピーで出会ったリーと名乗る女性と打ち解ける。ハーヴェイ=デント検事補によるアーサーの責任能力を問う裁判が始まる中、リーはアーサーの子を妊娠したと告白する。


おもなキャスティング
アーサー=フレック …… ホアキン=フェニックス(50歳)
 かつてスタンダップコメディアンを目指していた元大道芸人であり、2年前に連続殺人を犯した男。脳の障害のため、自分の意思に関係なく突然笑いだしてしまう病気を患っている。

ハーレイ(リー)=クインゼル …… レディー・ガガ(38歳)
 アーカム・アサイラムの音楽セラピーに参加していた女性。アーサーと出逢い恋愛関係となる。

ジャッキー=サリヴァン …… ブレンダン=グリーソン(69歳)
 アーカム・アサイラムの看守。囚人たちを虐待し、アーサーを玩具にして散々な目に遭わせる。

メアリーアン=スチュワート …… キャサリン=キーナー(65歳)
 アーサーの弁護士。死刑回避のために2年前の連続殺人事件をアーサーの精神病の悪化による二重人格から起こったとして弁護し、責任能力の有無をめぐってデント検事補と争う。

ハーヴェイ=デント …… ハリー=ローティ(28歳)
 アーサーを起訴するゴッサムシティの新任地方検事補。アーサーを死刑にしようと精神面の問題を争点に責任能力の有無でスチュワート弁護士と対立する。

パディ=マイヤーズ …… スティーヴ=クーガン(59歳)
 獄中のアーサーにインタビューする人気テレビタレント。

ヴィクター=ルー博士 …… ケン=レオン(54歳)
 デント検事補が裁判に召喚した、アーサーの精神鑑定医。

リッキー=メリーネ  …… ジェイコブ=ロフランド(28歳)
 アーカム・アサイラムの若い囚人。アーサーに心酔している。

ハーマン=ロスワックス …… ビル=スミトロヴィッチ(77歳)
 アーサーの裁判の裁判長。

ゲイリー=パドルズ …… リー=ギル(?歳)
 2年前にアーサーの元同僚だった大道芸人。

ソフィー=デュモン …… ザジー=ビーツ(33歳)
 2年前にアーサーが恋愛関係にあると妄想していた、シングルマザーの元隣人。

デブラ=ケイン …… シャロン=ワシントン(?歳)
 2年前にアーサーを担当していた民生委員。

若い囚人 …… コナー=ストーリー(?歳)


おもなスタッフ
監督 …… トッド=フィリップス(53歳)
脚本 …… スコット=シルヴァー(?歳)、トッド=フィリップス
製作 …… トッド=フィリップス、ブラッドリー=クーパー(49歳)
音楽 …… ヒドゥル=グドナドッティル(42歳)
撮影 …… ローレンス=シャー(54歳)
制作・配給 …… ワーナー・ブラザース・ピクチャーズ


 あ~、もう5年前のことになるんですかぁ。あの、R指定でありながら日本でも異様な熱狂を持って受け入れられた前作『ジョーカー』の、ほぼ同じスタッフ&キャスト陣による正統どストレートな続編であります。

 ええ、当然観に行きましたよ、私もおおそれながら DCコミックスファンだし、ジョーカーファンだし、ハーレイ・クインファン(ただし全身タイツ時代)でもありますからね。これは劇場に行かないわけにはいかないでしょ!

 前評判が決定的に悪い映画を観に行くっていうのは、つらいもんですね……まぁ、ファンだからかまやしないんだけどさ。

 私が観たのは、本作が日本公開されてから3回目の週末で、アメリカ本国での公開から見ると4回目の週末にあたるタイミングだったのですが、ネット上ではアメリカ公開の時点でかなり批判的な意見が多く、興行的にもかなり期待はずれな勢いになっているとのことです。
 実際、私が夕べ山形の映画館で観た時も、夜8~9時からの最終上映回だったことをさっぴいても10人いるかいないかのお客さんだったので、内容うんぬん以前の問題で「失敗」と言わざるを得ない結果を築きつつあるようですね……でも、お客さんの中にかなり硬派な、「どんな映画でもいいよ、俺たち愛し合ってるから!!」な雰囲気の、歩くたんびに全身がガッチャガチャ鳴るようなレザージャケット&チェーンまみれカップルがいたのには、なんだかほっこりしてしまいました。その心意気や、よし。

 ままま、そんな前評判はどうでもいいんですよ。要は観た私がどう感じたかなんだもんね! それで実際に観てみたわけなんですが、その感想はと言いますと、


こんなにきれいに前作の風呂敷たたみに終始した続編があっただろうか……もはや新作ですらない!?


 という感じでございました。いや、地続きもなにも、雰囲気から何からぜ~んぶ前作そのまんま!

 映画の長い歴史の中で、大ヒットした前作を強く意識して、「前でやらなかった新たな方向性で対抗しよう!」と舵を切った作品というものは、それこそ山のようにあります。『エクソシスト2』(1977年)しかり『エイリアン2』(1986年)しかり『ターミネーター2』(1991年)しかり……時系列的に遡って主人公役の俳優を代える手法を採った『ゴッドファーザー PARTⅡ』(1974年)もそうですし、ティラノサウルスをアメリカ本土の街中で大暴れさせた『ロストワールド ジュラシック・パーク』(1997年)もそう。そして、3代目ジョーカーことヒース=レジャーを唐突にぶっこんで来た漢クリストファー=ノーラン監督の『ダークナイト』(2008年)も、大成功した続編映画の枠に入れて良いのではないでしょうか。ちなみに、私がいちばん好きな続編映画は、『時の翼にのって ファラウェイ・ソー・クロース!』(1993年)です! うをを、ナタキンさま~!!

 そういった鼻息の荒い面々と比較しますと、今回の『 For リア充』……じゃなくて『フォリ・ア・ドゥ』が、いかに異質な映画であるかがよくわかるのではないでしょうか。
 こ、この作品、オレがオレがと前に出るがっつき感がまるでない! ていうか、劇中の盛り上がりシーンがことごとく、前作の名場面の流用じゃないか!! 新規撮影されたシーンはぜ~んぶ地味! ド派手なはずのミュージカルシーンも、ぜんぶ地味!!

 信じられない……いやホント、この映画、前作の制作費(約5500万ドル)の3~4倍のお金をかけて撮られてるんですよね? え……どこ? どこにそんなにお金がかかってんの!?

 これ、たぶんあれなんじゃない? 自分のことを全然描いてくれない前作を観てイラっときた本物のジョーカーがハリウッドに乗り込んできて、フィリップス監督をパンツいっちょにしてロッカーに押し込んだ挙句にメガホンを執って作った映画なんじゃない? 絶対にそうだよ! それで制作費の大半を持ち逃げしちゃってんだよ!!
 なんか、そういう筋のお話、ハーレイ・クイン(全身タイツ時代)とポイズン・アイヴィーが主人公のスピンオフコミックにありましたよね。あの時はバットマンが駆けつけて2人をとっちめてくれていましたが、今回は来てくれなかったか……『ザ・バットマン』の続編の撮影で忙しいのかな?

 地味だ……ほんと地味なんです、この映画。
 だいたい、ミュージカルシーンが収監中のアーサーの脳内妄想であることは明らかですし、物語の後半の舞台が法廷なんですから、地味なのはシナリオの時点でわかっていたはずなんですが、それを全く変えずにドドンッとまんま映像化してしまったその信じられないまでのクソ度胸は、さすが前作で「ジョーカーが全然出てこないジョーカー映画」を撮ったフィリップス監督といった感じなのですが、やはり今回ばかりは大方の支持は得られていないようで……でも、ギャンブルってそういうもんよね。

 本作は徹頭徹尾、前作で5人を殺害したという罪状で収監中のアーサーのその後を描く内容になっており、過酷ながらも前作よりはいくらか精神的に平穏な獄中生活を送っていたアーサーに、彼のファンと名乗る謎の女リーが現れたところから、アーサーの中に封印されつつあった狂気「ジョーカー」が再び胎動を始める……といった内容になっております。

 そういう感じなので、ほぼ全編にわたってお縄になっている状態のアーサーが、前作の「マレー=フランクリン・ショー」で見せたような完璧な状態の犯罪道化師に戻ることができるはずもなく、定番の赤い焼いもルックを見せてくれるのは冒頭のアニメか、物語のはしばしでのミュージカルシーンだけとなっております。現実の法廷で着ていたのは、赤に近い地味な赤茶色のジャケットでしたよね。

 でも、あの能天気なアニメ開幕のあとに出てくるアーサー役のホアキンさんのガリッガリの上半身のインパクトは、やっぱりCG とかでは絶対に出せない凄絶なオーラをまとっていますよね。作品の出来不出来関係なく、ホアキンさんがあの身体に戻ってくれたってだけで、劇場でお金払って観る価値はあると半ば強引に納得させられちゃいますからね。また命削ってるよ、この人……だって、『ジョーカー』のあとに、あの『ボーはおそれている』で、年齢相応のだるんだるんな中年体型になってから、また今作でこうなってるんでしょ!? 頭おかしいって!

 先ほども申したように、この作品は前作以上のカタルシスを!といったような野心は全くなく、ただひたすらに、殺人者となってしまったアーサーを断罪し、アーサーの信奉者となったリーをはじめとする多くのゴッサムシティの若者たちに冷や水をぶっかけて「目ェさませ!!」と一喝するような、まるで前作でアーサーをカリスマ犯罪者に祭り上げた風呂敷を「すんませんでした……」とたたんで片付けるかのような処理作業に終始している、ただこれだけの138分間なのでございます。
 それはまぁ、そうですよ。個人的な感情で衝動的に犯罪をおかした人間が前作であそこまで世界的に受け入れられたというのは、アメコミの超有名な悪者キャラがウケたとは全く別の現象で、確かに異常な事態ではありました。そのフィーバーに対して何らかの危機感をいだいたフィリップス監督が、まるで庵野秀明監督のように「いやあの、落ち着いてください。」と真摯に応対したのが、この『フォリ・ア・ドゥ』のクソがつくほど真面目な姿勢につながったのかも知れません。

 ですので、そういう意味で言うのならば、本作はこれまでに世に出たどの続編映画よりもマジメで、まごころに満ちた「風呂敷たたみ映画」なのかも知れません。ホアキンさんの完璧な役作りも、ゲイリーを演じたリー=ギルさんを筆頭として再び集まった前作キャスト陣の真剣さも、前作と全く矛盾せず、前作が生んでしまったアーサーの心の中の怪物をきれいに「成仏」させる、理想的な続編の誕生に寄与していたと思います。「浄化」じゃなくて「成仏」なところが哀しいですが……

 ただ、今回こういった気持ちいいくらいの「発つ鳥跡を濁さず」映画を目の当たりにしてしまった観客の多くの心に去来したのは、


きれいに収まったらいいってもんでも、ないんだな……


 という、どっちらけな感情だったのではないでしょうか。例えばあなたがどこかの観光地に旅行に行ったとして、おなかをけっこう空かせて入ったこじゃれたリストランテで、味は神業的においしくてもひと口サイズのお通しみたいなスイーツとよくわかんない味のハーブティーだけ出されて1800円って言われたら、う~んってなるじゃないですか。今食べたいのはマックの油ぐじゃぐじゃで味おおざっぱな Lサイズセットなんだけどなぁ~みたいな!?

 かつて江戸の昔の人々は、

白河の 清きに魚も 棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき 

 なんて狂歌を詠みましたが、純度100%、前作尊重度100% の『フォリ・ア・ドゥ』のこれじゃない感って、これに通じる部分も少なからずあるのではないでしょうか。いや、そのストイックな姿勢に文句はないんだけどさ、もちっと冒険してもいいんじゃない?みたいな。

 冒険というのならば、今作のミュージカルパートの多用と、それにともなうハーレイ・クインへのレディー・ガガの起用という手が充分すぎるほどの冒険じゃないかという意見もあるかとは思うのですが、作中にこれでもかというほどに音楽が流れていたのは前作から何も変わっていない傾向ですし、そこも、オリジナル版の歌手や演奏のオンパレードだった前作に比べて今作ではホアキンさんかガガ様のボーカルだけになっているので、むしろ今作の方が地味になってしまったという悪手だったのではないでしょうか。だいたい、音楽セラピーで出逢ったからってそれ以降ぜんぶミュージカル妄想になるって、アーサーってどんだけ純粋なんだって話なのですが……ま、アーサーですから。

 本作におけるハーレイ・クイン(こちらもバットマンサーガのハーレイとは別人だという意見もあるのですが、便宜上統一します)の役割も、結局は原典のハーレイほど狂った人間ではなく、それなりの自立性を持った正常な判断のできる女性だったという感じなので、最後も「そりゃそうなるわな。」といった感情しか湧かず、ごくごくフツーのヒロインでしかなかったな、という印象でした。本作のタイトルの「二人で狂う」って、アーサーとリーのカップリングじゃなくて、冒頭のアニメで示された通りにアーサーと内なるジョーカーのカップリングだったんですね。アーサー無惨……

 やっぱり、ハーレイ・クインはジョーカーに輪をかけて狂ったキャラでないといけませんやね。蛇足ですが、私が一番好きな映像作品上のハーレイ・クインは、やっぱり TVドラマシリーズ『ゴッサム』でフランチェスカ=ルート・ドットソンさんが演じていたハーレイ(女優さんで言うと通算4代目)です。あの左右で上下反対になっている顔のメイクが最高に狂ってますよね……出番が少なかったのが残念!

 やっぱり、今作のミュージカル導入は悪手だったとしか言えないのではないでしょうか。
 なぜならば、前作では映画の内容と全く関係の無いシナトラやジミー=デュランテの滋味あふれる歌声と、この映画の空気感を象徴しているとしか言えないヒドゥル=グドナドッティルの激重な音楽とのムチャクチャな温度差がアーサーの心理状態のグッチャグチャ感を体現していたのに、今作では映画の雰囲気を充分にくみ取ったホアキンさんやガガ様のボーカルになっている分、グドナ音楽にわりと近い質感に歩み寄っちゃってるんですよね。これでは、前作で発揮された「緊張と緩和」の効果はきいてきませんよ! 全体的にのぺーっとした空気の変わらなさを助長する一因になっちゃった。


 このように、今回の『フォリ・ア・ドゥ』は、どうやらフィリップス監督が「作品の面白さ」をそっちのけにして前作の火消し&後片付けに心血を注いでしまったがゆえに、ほぼ確信的につまらないことが必定になってしまった「なるべくしてなった失敗作」としか言えないような気がします。でも、こういう失敗さえもフィリップス監督の想定内である可能性は高いので、とにもかくにもこんな悪だくみにホイホイ2億円をつぎこんでしまったワーナーはんには、もはやご愁傷さまと声をかけるしかありませんやね。そもそも、「ジョーカー出る出る詐欺」で世界中からお金をしぼり取った作品の続編なんですから、これは空から色が生まれ、そしてまた色が空へと還ってゆく自然の理なのではないでしょうか。南無阿弥陀仏……

 でも、今作でほんとのほんとにジョーカー役からは卒業となったホアキンさんは、本当に身体をいたわってほしいです。ジョーカーを映画で2作も演じるという前人未踏の偉業、よくぞやり切ってくださいました(『ジャスティス・リーグ ザック=スナイダー・カット』のジャレッドジョーカー再登板はカウントしません)……もういい! あと、あなたはもうやんなくていいから、若いバリー=コーガンくんに任せてください!! まだキャメロン=モナハンくんの線も諦めてはいませんけどね!

 いや~、ほんと、変な映画だったな……ここまで振り切っちゃってたんなら、バットマンサーガに色目をつかったハーヴェイ=デントの登場とか「若い囚人」のラストシーンでの挙動とか、いっそのことやらなきゃよかったのにね。ていうか、前作のブルース=ウェイン、どこ行った!? チベットでニンジャ修行してんのか、それともウチで全身タイツの手もみ洗いでもしてんのかァ~!? HAHAHA☆
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これが戦後か……ほろにが過ぎる和製フィルム・ノワール ~映画『狼』~

2024年10月21日 23時02分16秒 | ふつうじゃない映画
映画『狼』(1955年7月 128分 近代映画協会)
 『狼』(おおかみ)は、近代映画協会制作の映画。白昼に強盗事件を起こす五人の男女を通して、貧窮する弱者を追い詰める会社組織の残虐性と人間性の弱さを描く犯罪映画。
 監督・脚本の新藤によると、本作は神奈川県金沢八景付近の国道で実際に起きた郵便車襲撃強盗事件を元にしており、事件の犯人グループも貧窮した男性3名、女性2名の生命保険勧誘員だった。
 新藤は、知人の生命保険外交員に取材して脚本を完成させ、乙和信子や浜村純らのキャスティングも決まり、1954年6月から映画制作を再開させていた映画会社・日活での制作が決定した。しかし、当時の日活の大株主に生命保険会社があったことから本作は撮影直前に制作中止となり、新藤はその他にも生命保険会社による企画中止を求める圧力などを受けながらも、自主製作で本作を完成させた。

あらすじ
 暑い夏の午後、日本刀と猟銃で武装した五人の男女が郵便自動車を襲った。五人は、元銀行員、脚本家、元自動車組立工、そして子どもを抱えた戦争未亡人ふたり。
 窮乏により家庭は崩壊寸前となり、最後の頼みの綱として生命保険の勧誘員となった彼らが見たのは、さらに絶望的な戦後日本の現実だった。生きるため、家族を救うため、追い詰められた人々はついに犯罪の牙をむく。

おもなスタッフ
監督・脚本 …… 新藤 兼人(43歳)
製作 …… 絲屋 寿雄(46歳)、山田 典吾(39歳)、能登 節雄(47歳)
音楽 …… 伊福部 昭(41歳)
制作 …… 近代映画協会

おもなキャスティング
矢野 秋子  …… 乙羽 信子(30歳)
矢野 義登  …… 松山 省二(現・政路 8歳)
吉川 房次郎 …… 菅井 一郎(48歳)
吉川 たか  …… 英 百合子(55歳)
吉川家の居候・高橋 …… 下元 勉(37歳)
三川 義行  …… 殿山 泰司(39歳)
三川 文代  …… 菅井 きん(29歳)
藤林 富枝  …… 高杉 早苗(36歳)
原島 元男  …… 浜村 純(49歳)
原島 智子  …… 坪内 美子(40歳)
東洋生命新宿西部支部桜部長・橋本 …… 小沢 栄太郎(46歳)
東洋生命新宿西部支部梅部長・町田 …… 北林 谷栄(44歳)
東洋生命新宿支社長・神森     …… 東野 英治郎(47歳)
東洋生命新宿支社西部支部長    …… 御橋 公(60歳)
東洋生命丸ノ内本社営業部長    …… 清水 将夫(46歳)
郵便車の輸送員・岡野 …… 柳谷 寛(43歳)
山本 秀夫    …… 信 欣三(45歳)
洗濯屋の主人   …… 左 卜全(61歳)
押し売りの男   …… 高原 駿雄(32歳)
春日 さゆり   …… 曙 ゆり(?歳 当時の松竹歌劇団スター)
和田医師     …… 宇野 重吉(40歳)
踏切の警官    …… 下條 正巳(39歳)
十二号室の看護婦 …… 奈良岡 朋子(25歳)
病院の事務員   …… 佐々木 すみ江(27歳)




≪すっごく……重たいです。本文マダヨ≫
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ハリウッドへの名刺がわり? ヒッチコック第2のデビュー作 ~映画『海外特派員』~

2024年10月13日 13時19分19秒 | ふつうじゃない映画
 どもども、みなさんこんにちは! そうだいでございます~。
 秋ね……秋はなんだかんだ言っても忙しい季節なのよね。暑いのがおさまったかと思ったら、もう一年もおしまいが近づいて来てるわけで。今年も悔いの残らないように頑張らねば!

 そんでま、今回はヒッチコック監督の事績をたどる企画なのでございますが、前回の『レベッカ』に続きまして、アメリカのハリウッドへやって来た新展開の第2作でございます。
 現在での知名度でいうと『レベッカ』や他の有名作には劣っちゃうかも知れませんが、これもこれで重要作なんすよ!


映画『海外特派員』(1940年8月公開 120分 アメリカ)
 『海外特派員』(原題:Foreign Correspondent )は、アメリカ合衆国のサスペンス映画。アルフレッド=ヒッチコック監督のアメリカ・ハリウッドにおける2作目の作品である。

 1939年3月にアメリカに移住したヒッチコックは、翌4月からハリウッドの映画プロデューサー・デイヴィッド=O=セルズニックの映画会社セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズに所属した。翌年1940年3月の『レベッカ』の完成後、セルズニックはしばらくプロデューサーとしての活動を停止し、契約した俳優や監督を他社に貸し出す方針をとったため、ヒッチコックも1944年まで他の映画会社に貸し出されて映画を制作することとなった。
 『海外特派員』は独立系映画プロデューサー・ウォルター=ウェンジャーの映画会社に出向して制作した作品で、1940年3月に脚本が完成し同年夏まで撮影が行われたが、製作費はそれまでのヒッチコック作品の中で最高額の150万ドルとなった。本作は、第二次世界大戦の開戦直前のロンドンに派遣されたアメリカ人記者がナチスのスパイの政治的陰謀を突き止めるという物語であり、大戦への不安を抱いていたヒッチコックは、この作品で明確にイギリスの参戦を支持し、エンディングではアメリカの孤立主義の撤回を求める戦争プロパガンダの要素を取り入れた。
 本作は同年8月にユナイテッド・アーティスツの配給で公開されると成功を収めたが、その一方でイギリスのメディアからは、祖国の戦争を助けるために帰国しようとせず、アメリカで無事安全に仕事を続ける逃亡者であると非難された。なお、実際に第二次世界大戦が開戦したのは本作公開の前年1939年9月3日だった(イギリスとフランスによるナチス・ドイツへの宣戦布告)が、アメリカ合衆国が参戦するのは翌年1941年12月7日(ハワイ時間)の日本軍による真珠湾攻撃まで待たなければならなかった。
 第13回アカデミー賞の6部門にノミネートされた(作品賞、助演男優賞アルベルト=バッサーマン、脚本賞、撮影賞、美術賞、視覚効果賞)。

 オランダ人外交官ヴァン・メア卿を演じたドイツ人俳優アルベルト=バッサーマンは英語を全く話せなかったため、全てのセリフを音で覚えて演じた。
 新聞コラムニストのロバート=ベンチリーはステビンズ役を演じるにあたり、自分のセリフを自ら考えることを認められた。
 ヒッチコック監督は、本編開始12分35秒頃、ロンドンで主人公のハヴァーストックがヴァン・メア卿と初めて出会う場面で新聞を読みながら歩く通行人の役で出演している。
 日本では1976年9月に劇場公開されたが、それ以前にも TVでたびたび放映されていた。


あらすじ
 第二次世界大戦前夜の1939年8月中旬。ニューヨーク・モーニング・グローブ紙のパワーズ社長は、事件記者ジョン=ジョーンズに「ハントリー=ハヴァーストック」のペンネームを与え、ヨーロッパへの海外特派員としてイギリス・ロンドンに派遣した。
 ジョーンズの最初の任務は、昼食会でオランダの外交官ヴァン・メア卿にインタビューすることだった。ハヴァーストックはヴァン・メア卿とタクシーに相乗りして戦争が差し迫っている社会情勢について質問するが、ヴァン・メア卿は言葉を濁す。昼食会に出席するとハヴァーストックは、会議の手伝いをしていた、司会を務める万国平和党党首のスティーヴン=フィッシャーの娘キャロルに夢中になってしまう。フィッシャー党首は、講演する予定だったヴァン・メア卿が急用により欠席したと発表し、代わりにキャロルに講演をさせた。
 続いてパワーズ社長は、万国平和党の会議に出席するヴァン・メア卿を取材させるため、ハヴァーストックをオランダ・アムステルダムに急行させる。ハヴァーストックはヴァン・メア卿に挨拶をするが、なぜかヴァン・メア卿はハヴァーストックのことを憶えていない。すると突然、カメラマンを装った男が隠し持っていた拳銃でヴァン・メア卿を射殺してしまった!

おもなキャスティング
ジョン=ジョーンズ(ハントリー=ハヴァーストック)…… ジョエル=マクリー(34歳)
キャロル=フィッシャー   …… ラレイン=デイ(19歳)
スティーヴン=フィッシャー …… ハーバート=マーシャル(50歳)
スコット=フォリオット   …… ジョージ=サンダース(34歳)
ヴァン・メア卿       …… アルベルト=バッサーマン(72歳)
ステビンズ記者       …… ロバート=ベンチリー(50歳)
クルーグ大使        …… エドゥアルド=シャネリ(52歳)
殺し屋のローリー      …… エドマンド=グウェン(62歳)
パワーズ社長        …… ハリー=ダヴェンポート(74歳)

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(41歳)
脚本 …… チャールズ=ベネット(41歳)、ジョーン=ハリソン(33歳)、ジェイムズ=ヒルトン(39歳)
製作 …… ウォルター=ウェンジャー(46歳)
音楽 …… アルフレッド=ニューマン(39歳)
撮影 …… ルドルフ=マテ(42歳)
編集 …… オットー=ラヴァーリング(?歳)、ドロシー=スペンサー(31歳)
製作 …… ウォルター=ウェンジャー・プロダクションズ
配給 …… ユナイテッド・アーティスツ


 はいっ、というわけでございまして、『レベッカ』から半年もしない同年夏に公開された、まったく別方向の現代サスペンスアクション大作『海外特派員』の登場でございます。

 時代設定は現代でありながらも、第二次世界大戦が近づいている気配を意図的に排除してノーブルな身分の家にわだかまる謎に迫る純粋なサスペンス作だった『レベッカ』の反動であるかのように、本作は当時の国際情勢を思いッきり反映させた作品となっております。
 いや~、これ、『レベッカ』よりも予算を多くかけてる作品だったんだ!? とは言っても『レベッカ』の製作費はおよそ130万ドルだったそうなので、そうそう違いはなかったようなのですが。ほぼオールスタジオ撮影のコスプレものは、そんなにお金かかんないのかな。

 あの、実はこの作品は当時のヒッチコック作品にしては長めの120分ということで(『レベッカ』よりは短い)、いつものように後半用に視聴メモをつづっておりましたら文字数がだいぶかさんでしまいましたので、こっちの感想総論のほうはちゃっちゃといきたいのですが、かいつまんでまとめますと、

細かいところのテクニックだけが光っている凡庸な政治キャンペーン映画

 ということになりますでしょうか。

 確かに、まるで別人の監督作品のようにおとなしいロマンス大作だった『レベッカ』に比べると、「破天荒な主人公」「キャラの濃いおてんばヒロイン」「派手な殺人シーン」「目まぐるしいカッティングのアクション」「世界的に有名な名所を舞台にした展開」、そして「出演者に風邪ひかせる気満々の荒波プールセット撮影」といった感じに、本作はこれまでのヒッチコック監督諸作で培われてきたトレードマークみたいな定番の展開が目白押しとなっていまして、『レベッカ』よりもこっちのほうがハリウッドに対しての「わたくしこういうものです」的な名刺の役割を果たしていたのではないかと思えてきます。もちろん相応に面白くはあったのですが『レベッカ』はまさに借りてきたネコのようなアウェー感が満載でしたから、その直後に公開された本作の「ここは得意技でいくゼ!」感がよけいに増してくるのかもしんない。

 映画の内容についての詳しいことは視聴メモのほうで語らせていただきますが、本作はハリウッドの大物プロデューサーで当時のヒッチコックの雇い主でもあったセルズニックが、他の映画会社にヒッチコックを職人監督として貸し出すという、ヒッチコックにとっての「武者修行時代(1940~47年)」の最初を飾る作品です。
 そのため、どうやら本作の脚本などにヒッチコックやその妻の脚本家アルマはタッチしていなかったらしく(『レベッカ』の製作とも並行していたし)、正直言って今までのヒッチコック作品ではそんなに感じてこなかった「セリフシーンのかったるさ」「伏線のようで別に本筋にからんでこない余計な情報やジョークシーン」「急に性格が変わる登場人物」といった違和感が目立つ、冗長な凡作になってしまっています。
 なんというか、今までのヒッチコック流に作っていたら90~100分くらいに収まっていたのでは?という作品が120分になっちゃってるって感じなんですよね。
 おそらく、この冗長さの原因としては、まさに当時現在進行形で起きていた世界戦争をダイレクトに扱う作品ということで、本筋だけで物語を進めていくと作品のテイストが重苦しくなるんじゃないかという危惧があったから、少々サービスしすぎになっても笑えるシーンやロマンス成分を多く添加しようという意図があったのではないかと思われます。
 でも、それらがあんまり本筋にからんでこないから、ただひたすらに上映時間を長く感じさせてしまう蛇足になってるような気がするんですよね。例えば主人公の先輩にあたる記者ステビンズの言動は、確かに有名なコメディ作家がセリフを自作して演じているだけあって面白くはあるのですが、彼がいなくても映画は全然問題なく成立するという不思議な「浮き感」があるんですよね。まぁ、面白いぶん1984年版『ゴジラ』の武田鉄矢よりも数千倍マシですが。

 それに加えて、やはり当時アメリカが戦時下でなかったとはいえ、本作は明らかにアメリカ国民へ「ヨーロッパを救え!」と強く訴えかけるメッセージ性を含んだ政治的作品ですので、さんざん破天荒だった主人公が最後の最後で人が変わったように真面目な戦時記者になってロンドン空襲の模様を実況し続けるという姿は、「自分らしい生き方よりも、お国のための滅私奉公!!」と説教されているような印象が残ります。かなりエンタメ映画らしくない違和感が観終わった後に襲ってくるヘンな作品なんですよね。そういう意味で、やっぱり本作は実質的に戦争映画なのかもしれない。

 ただ、ここがさすがヒッチコックというところなのですが、「雇われ仕事だから今回は流していこう」で終わらず、「やるなら必ずハリウッドの次の仕事につながる爪痕を残す!!」という意気込みを込めて、いくつかのシーンでかなりインパクトの強い画を残しているのです。
 雨のアムステルダムで突如発生する大物政治家の暗殺シーンからの路面電車アクション、巨大なオランダ風車の中にある歯車だらけの迷路のような敵アジト、高さ10m からの俳優飛び降りをワンカットで見せるトリック映像、そしてクライマックスの旅客機不時着からの荒波海難……
 そういった派手な画づくりに関しては、本作のヒッチコックの腕はやはり最高を更新し続けており、多少の整合性の齟齬は無視してでもイメージの鮮烈さを優先させる映像モンタージュ、ローテクとハイテクを総動員させて観客をあっと言わせるワンカット撮影へのこだわりは、2020年代の今観ても充分に面白いセンスの輝きを見せてくれます。特にクライマックスの海難シーンは、スクリーンプロセスで背後に映した実景の海と手前のプールとで荒波の立て方とカメラの揺れ方を完全に一致させているので、本当に海の中で撮影しているような臨場感がハンパありません。ここらへんの、過去作品での実績を確実に超えていく当時のヒッチコックの成長指数はものすごいですね!

 こういったわけなので、本作は確かに「必ず観るべき作品!」とまでもいかないのですが、ヒッチコックという稀代の天才の「現在映像化できることと、これから映像化したいこと」を確実にまとめた、名刺のようなプロモーションビデオのような作品になっていたのではないかと思います。単なる政治キャンペーン映画にとどまっておらず、ちゃんと当時のヒッチコックにとって有意義な仕事になっている、しているというのが素晴らしいですね。

 意味のない仕事など、ない! 転んでもただでは起きないヒッチコックの野望と心意気を垣間見せる作品です。2時間はちと長く感じるかも知れませんが、おヒマならば、ぜひ~。


≪毎度おなじみ視聴メモでございやすっと!≫
・世界全体で見ると軍人、民間人あわせて8000万人もの命が犠牲となった人類史上最悪の災厄「第二次世界大戦」の真っ最中に公開された本作なのだが、やけに軽快で明るい音楽で始まるのが逆に薄気味悪い。NHK の『映像の世紀』オープニングみたいなド深刻な感じじゃないのね……当時の時点ではまだ戦時下ではないというアメリカの余裕と「対岸の火事」感がなんとなく伝わってくる。
・のっけから思いきり能天気なデザインの新聞社ビルのミニチュアのズームアップで始まるのが、いかにもヒッチコックらしい。『レベッカ』での重厚なミニチュアの使い方とは、えらい違いである。
・本作の時間設定は映画公開の丸1年前の1939年8月ということで、あえて第二次世界大戦の開戦直前というギリギリのタイミングになっている。アメリカから見た世界大戦前夜という疑似ドキュメンタリー的な体裁である。
・アメリカの新聞社の剛腕ワンマン社長パワーズは、偏見忖度なしの体当たり取材でヨーロッパ情勢を伝えてくれる海外特派員を探し、最近おまわりさんをぶん殴ってクビになりかけているというモーレツはみだし記者ジョーンズに白羽の矢を立てる。パワーズ社長はジョーンズに、オランダの宰相ヴァン・メア卿のインタビューを指令するが、ジョーンズは「それよりヒトラーに直接聞いたら一発でしょ?」と放言してパワーズを絶句させてしまう。とんでもねぇ野郎だぜ……赤塚不二夫のマンガに出てくるような猪突猛進キャラである。
・パワーズはジョーンズに、ヴァン・メア卿につながる重要人物として、アメリカで戦争反対の平和団体を主宰しているスティーヴン=フィッシャー氏を紹介する。ここでフィッシャーを演じるのが、かつてヒッチコック監督のイギリス時代の監督第12作『殺人!』(1930年)で名探偵ジョン卿を演じたイギリス俳優のハーバート=マーシャルである。なんと10年ぶりの出演なのに、外見が全く変わっていないのがすごい。知的でノーブルな身のこなしは健在ですね。
・独身で身も軽いジョーンズは、パワーズから直々に「ハントリー=ハヴァーストック」という海外特派員としての偽名ももらい、フィッシャーと共に海路イギリスの帝都ロンドンに赴くこととなる。
・ロンドンに到着したジョーンズは、ロンドン赴任歴25年のベテラン記者ステビンズと接触する。ステビンズを演じるロバート=ベンチリーはアメリカでかなり有名なユーモア作家で、副業としてコメディアンや俳優も演じていたという才人タレント。自分のセリフは全部自製ということもあって、演技の質が周囲と明らかに異なっていて身軽だし、セリフもいちいちジョークが入っていて面白い。ちなみに、その「ベンチリー」という名前からピンときた方も多いかと思うが、このロバート=ベンチリーは、あの『ジョーズ』の原作小説の作者であるピーター=ベンチリー(1940~2006年)のおじいちゃんであり、ロバートの息子でピーターの親父であるナサニエルも小説家であるという筋金入りの作家家系の長である。ピーターはこの映画公開の3ヶ月前に生まれているので、ロバートはこんなやる気のなさそうな顔をしておいて、撮影中に初孫に恵まれたようである。おめでとうございます!!
・ジョーンズがヴァン・メア卿と初接触するシーンで毎度おなじみのヒッチコック監督のカメオ出演がでてくるのだが、今作では顔が真正面からがっつり映っており、おまけに2カットたっぷりおがめるので、ヒッチコックの生涯を扱うドキュメンタリー番組でもしょっちゅう紹介される非常に有名な出演シーンだと思われる。はっきり見えるどころか主人公のジョーンズより手前にいるくらいなので、主演のジョエル=マクリーもいい気分ではなかったのでは……
・ジョーンズは一般市民のふりをしてヴァン・メア卿に突撃取材を試みるが、ジョーンズの手の内を完全に見透かしているヴァン・メア卿はあいまいな返答に終始して見解をはぐらかす。ヴァン・メア卿を演じたドイツ人俳優バッサーマンは当時英語がからっきしダメだったそうなのだが、音で覚えて無理やり発音したというたどたどしさが、逆に非英語圏の老政治家としてリアルでいい感じである。バッサーマンも実際にナチス・ドイツのために亡命を余儀なくされた俳優さんなので本作には格別の想いもあったのではないだろうか。大戦勃発を止められそうにない老体の悲哀が全身からにじみ出ている名演である。
・ロンドンで開催されたフィッシャー会長主宰の平和団体の資金集めパーティに出席するジョーンズだったが、そこでフィッシャーの愛娘である本作のヒロインことキャロルと出逢う。本作で全体的に言えることなのだが、「山高帽をしょっちゅう忘れるジョーンズ」だとか「ラトビア語しか話せない外国人と話す羽目になる」だとか「キャロルをフィッシャーの娘だと気づかずに口説こうとするジョーンズ」だとかいうコミカルな設定はふんだんにあるのだが、それらがあまり本筋に絡んでこないのでどうにもかったるく感じられてしまう。2時間ということでやや長い作品だし、世界大戦を扱う重めな展開もあるのでおもしろシーンを足したかったのだろうが、あんまり功を奏してないような気がするんだよなぁ。
・キャロルに一目ぼれしたジョーンズが持ち前の猪突猛進っぷりで彼女に口説きメモを14枚も送るくだりはいいのだが、その内容に2020年代から見ると完全にセクハラでアウトになるメッセージもあるので、なんだかジョーンズに対する好感度が全くあがらない。ジョーンズを論破するつもりでとうとうと語っているキャロルの舌鋒も全く効かないというジョーンズのにやけ顔も、ふつうに気持ち悪く見えてしまうのがイタい……
・お話はロンドンから一転してオランダの首都、雨のアムステルダムへと移る。ここで非常にインパクトの強いヴァン・メア卿(?)暗殺劇が展開されるのだが、暗殺者が発砲したその瞬間から、まさに水を得た魚のようにカット割りとスピード感がぐっと上がって面白くなるのが、さすがはヒッチコックといったところ。発砲した次の瞬間に顔面血まみれで苦悶の表情を浮かべるバッサーマンの顔が映るモンタージュ的なカット技法は、よくよく考えれば物理的にあり得ない流れなのだが、論理よりも印象重視で画づくりをしていくヒッチコックの職人哲学が象徴されているシーンである。はじまったはじまった~!!
・アムステルダムでの大捕り物ということで、ジョーンズが非常にごみごみした路面電車のすき間をぬって暗殺犯を追跡するくだりもとってもスリリングで素晴らしい。時間は長くないが、ヒッチコックのアクション撮影センスの高さもうかがえるくだりである。
・映画ならではのご都合主義で、ジョーンズが暗殺犯を追うためにヒッチハイクした車が偶然にキャロルと海外特派員フォリオットが乗る車だったということで、3人は暗殺犯の逃走車を追うこととなるが、暗殺犯の車はいかにもオランダらしく巨大な風車が立ち並ぶ小麦畑の中で忽然と姿を消してしまう。ここは世界的な名所を作中に多く取り入れるヒッチコックらしいロケーションでけっこうなのだが、わりとすぐに暗殺犯消失のトリックがばれてしまうのがもったいない。でも、どう考えても隠れる場所はそこしかないよね……こんな手に瞬時にだまされるオランダの警察がダメすぎ……そりゃ世界大戦もおっぱじまるわ。
・暗殺犯たちのアジトで「本物のヴァン・メア卿」に出会い、アムステルダムで殺されたヴァン・メア卿が実は本物と瓜二つの偽物で、暗殺自体が本物の誘拐をカモフラージュするための狂言であったことを知るジョーンズ。でも、偽物が射殺されたこと自体は本当に発生した殺人事件になるので、誘拐を隠すためにわざわざそっくりさんを仕立てあげて殺すというやり方は、あまりにも全方位でリスクが高すぎてやる意味が全然ない計画のような気がする……いやほんと、なんでそんな回りくどいことすんの!?
・巨大な歯車がかみ合い回転し、複雑な梁や柱が入り組んだ中に細く急傾斜な階段や小部屋が配置されている風車の内部セットは非常に魅力的なのだが、ジョーンズのコートの裾が歯車に巻き取られる以外にこれといって印象的なシーンにつながっていないのが、かなりもったいない。江戸川乱歩とか宮崎駿ごのみのいいロケーションなのに!
・アムステルダム署の刑事を名乗る男たちがホテルのジョーンズを尋ねるが、ジョーンズは彼らが自分の命を狙っている殺し屋だと察知し、部屋の窓から壁づたいに別の部屋に逃げる。スリリングな展開だが、逃げ込んだ先がたまたまキャロルの部屋で、ジョーンズがバスローブ姿だったがためにそこにいた中年婦人に2人が関係を勘違いされてしまうというコミカルな脱線が、ちょっと興をそいでしまう。どんなシーンでもユーモアを忘れないエンタメ精神はいいのだが……単純にまだるっこしい。
・ジョーンズがニセ刑事たちに命を狙われるホテルはアムステルダムであるはずなのだが、その前のロンドンのパーティのシーンで会ったラトビア人の紳士や中年婦人がキャロルの部屋にいるので、この場所がオランダなのかイギリスなのかがわかりにくく混乱してしまう。些細なところではあるのだが、ちと不親切。
・ジョーンズは得意の口八丁手八丁で純真無垢なキャロルをいとも簡単に手玉に取り、おまけにホテルのフロントやルームサービスを総動員させて自分の部屋に電話で呼び出す奇策で、部屋にいる殺し屋たちをかく乱させる。ジョーンズの調子の良さが発揮されるいいシーンだが、バカ正直にシャワーを浴びてると思い込み、いつまでもジョーンズを待っている殺し屋たちがかわいそうに見えてくる。昔話『三枚のお札』のやまんばかお前らは!
・確かにジョーンズはキャロルに初対面から一目ぼれだったので結婚まで視野に入れて猛アタックするのはわからん話でもないのだが、キャロルもまたそれを受け入れて一も二もなく「私も結婚したい♡」と応えてしまうのが、あまりにもご都合主義的すぎて愕然としてしまう。キャロル、自分なさすぎ! ロンドンのパーティでのジョーンズの印象、最悪だったんじゃないの!? ちょっと、話がうまくいきすぎである。
・当時の撮影技術的にやむを得ないことなのかも知れないが、車を撮影する時に窓ガラスに撮影カメラやスタッフが反射して思いきり映り込んでいるのが、なんちゅうか……非常に味わい深い。そこは見ないフリしてネという暗黙の了解が、その頃は観客との間にあったのかな。
・だいたい映画の中盤くらいのタイミングで、暗殺犯チームの中にいたハイネックシャツの男クルーグを介して「本作のラスボス」が誰なのかが見えてきてしまうのが、ちょっと早すぎるような気がする。う~ん、まぁ、キャスティング的にこの人以外にラスボス役を張れる人もいなさそうなので予想はついてしまうのだが、これももったいないよなぁ。
・手回しのいいクルーグは、ロンドンに戻ってきたジョーンズを始末するために殺し屋ローリーを呼び出して護衛と称してジョーンズに同行させる。しかし、ロンドンの名所であるウェストミンスター大聖堂の聖エドワード塔(高さ90m)の最上部展望台からジョーンズを突き落そうとしたローリーだったが、あえなく返り討ちに遭い(よけただけ)自分が転落してしまうのだった。ダメだこりゃ……
・この殺し屋ローリー、温厚そうな小柄のおじさんという外見は殺し屋らしくなくて非常によろしいのだが、肝心の殺しのテクニックが「観光客が途切れたタイミングを見はからって相手を突き落とす」という、一体どこにプロの腕が必要とされるのかさっぱりわからないしろうと感丸出しなものなので、なんでクルーグがわざわざ召喚したのか大いに疑問符が残る。やつは「ロンドン殺し屋人材センター」の中でも最弱……ま、引退してたみたいだし、なまってたのかな。
・「実は最初からフィッシャーが怪しいとにらんでた」という非常に都合の良い素性を明らかにしたフォリオット記者の推測によれば、フィッシャー達がヴァン・メア卿を拉致したのは重要な国際条約の極秘内容を聞き出すためだという。それなら確かにヴァン・メア卿を生きた状態で連れ去る意味も分かるのだが、それでも「偽物を仕立てて暗殺されたように見せかける」工作をする理由にはならない。単にヴァン・メア卿が自分の意思でオランダから国外亡命したように見せかけるだけでいいのでは? でも、まぁそれじゃあ盛り上がらないもんね。ヒッチコックらしい~!
・フォリオットは、フィッシャーに揺さぶりをかけるために娘キャロルを誘拐したと見せかける作戦を思いつき、ちょうどキャロルの心を射止めているジョーンズに「数時間でいいからキャロルを連絡のつかない所に連れてってくれ」と頼む。しかし、キャロルを騙すことに異常な嫌悪感をいだくジョーンズは、フォリオットの策に加担することを頑固にこばむ。こやつ、この世界危急存亡の時にいきなり生真面目な硬派紳士ぶりやがって! どっか映画でも観に行ってデートしてこいって言ってんだっつーの!! フォリオットの恋のキューピッドとしての心の叫びが聞こえてくるようである。融通の利かねーヤツ!!
・ジョーンズの拒絶にもフォリオットは動じず、裏からキャロルを「このままジョーンズがロンドンにいれば第2第3の殺し屋に狙われる」とたきつけ、逆にキャロルからジョーンズを連れてどこかに雲隠れするように根回しをするのであった。フォリオット、なかなかやりますねぇ! キャロルが誘拐されたというていでいながら、実は誰よりも(勘違いした)キャロルが主体的に姿を消しているという逆転現象も、いかにもヒッチコック映画らしくて面白い。
・首尾よくキャロルと共にロンドンから離れ、ケンブリッジのホテルに部屋をとったジョーンズだったが、「キャロルを騙している」という罪悪感から彼が部屋を別々にとったことを知ったキャロルは、自分を愛していないとさらに勘違いをして憤慨し、一人でロンドンのフィッシャー邸に帰ってきてしまう。フォリオットふんだりけったり! けっこういいとこまでいってたのにぃ。
・キャロルの狂言誘拐の件はうまくいかなかったが、記者らしい根気強さでフィッシャーが動くのを待っていたフォリオットは、ついに車で移動したフィッシャーの尻尾を掴んでヴァン・メア卿の監禁されているアジトの特定に成功する。フォリオットの主人公そっちのけの地道な活躍が非常に頼もしい。でも、ヒッチコックごのみの画にはならないんだよなぁ。ここが堅実な脇役のつらいところである。
・別にお金をかけなきゃいけないカットでもないのに、フィッシャーがアジトの階段を上ってヴァン・メア卿のいる部屋に行く流れを、階段とドアを作った吹き抜けセットとクレーンカメラでワンカット撮影にしているミョ~な大盤振る舞いになっているのが印象的である。この数秒のためにわざわざセットを組むとは……さすが、ヒッチコック史上最高額(当時)の予算作品! お金のかけ方にためらいがない。
・国際条約の極秘情報を白状させるために拷問を受けるヴァン・メア卿だったが、老体であることもあって強い照明とやかましい音楽に長時間さらさせるというソフトなものがメインであり、肉体的な拷問は画面の外で行うという処理が行われている。でも、拷問を受けて意識がもうろうとしているヴァン・メア卿を演じるバッサーマンの演技が非常にうまいのでかなり見ていられない陰惨なシーンになっている。やっぱり映画でグロを直接描く必要なんて全然ないんだな。要は観客の想像力をかきたてる腕次第ってことよぉ!
・ヴァン・メア卿の自白に耐えられなくなったフォリオットは敢然とクルーグ一味に立ち向かい、窓ガラスを割って4階の高さ(約10m)から地上に飛び降りる大立ち回りを演じる。ここでもヒッチコックの映像演出の冴えはピカイチで、落下するのは人形で、1階のレストランテラスのサンシェードに落ちた瞬間にフォリオット役のジョージ=サンダースに入れ替わり、生身のジョージが破れたサンシェードから出てきて地上に着地するという映像トリックが一瞬のワンカットに投入されている。現代から見るとバレバレなマジックではあるのだが、スクリーンで一瞬だけしか見えない映画館の観客はそうとう驚いたのではないだろうか。ほんとに役者が落ちるジャッキー=チェン方式もいいけど、こっちもこっちで味があっていいね!
・かくて1939年9月3日、イギリスとフランスがナチス・ドイツに宣戦布告し第二次世界大戦は開戦してしまう。しかしその直前になんとか空路アメリカへ発つことに成功していたフィッシャーだったが、同じ飛行機に乗ったジョーンズとフォリオットの手配でいずれアメリカで逮捕されることを知り、ついに観念して娘キャロルにヴァン・メア卿拉致監禁の真相を告白する。だが、曲がりなりにも悪の組織のトップであるはずなのに、わりと簡単に今までしてきたことを間違いだったと断罪して反省してしまうのが、ちょっと自分がなさ過ぎる気がする。いや、もっと自分のやってきた悪行に自信を持ってだね……
・本作のクライマックスは、ジョーンズやキャロル、フィッシャーにフォリオットが乗り合わせた旅客機がナチス・ドイツの駆逐艦に海から砲撃されるという、戦争映画でもけっこう珍しいシチュエーションだと思うのだが、ロンドンからアメリカに向かっている飛行機を砲撃するナチスの軍艦がいる海域って、具体的にどこ……? いくらなんでも、そんなサスペンス映画にもってこいな危険地帯、開戦直後にあったんかね。
・今回は飛んでる飛行機の中だから関係ないかと思ってたら、さすがは海と波が大好きなヒッチコック監督、無理やり飛行機を大西洋に不時着させて、セットにじゃぶじゃぶ水を流し込む海難アクションを最後に思いッきりブチ込んでくれる。ここらへんの「なんとしても出演者たちを溺れさせてやる」という執念の演出は、殺意さえ感じさせるくらいである。そして、機内を一瞬で埋める荒波、あっという間に迫ってくる天井の恐怖といったら、もう……『タイタニック』の数百倍は怖い大迫力の海水描写である。
・本作のエピローグは、空襲下のロンドンに駐留し続けてキャロルと共に本国アメリカに必死に大戦への参戦を訴えかけるジョーンズの姿と、高らかに流れる『星条旗よ永遠なれ』で締めくくりとなるのだが、キャロルとその父フィッシャーの真摯な生き方を見て心を入れ替えたとはいえ、序盤であんなに破天荒だったジョーンズが、ちょっと機械的なくらいに働きまくる模範的戦時記者になっているのは違和感がある。当時アメリカはまだ参戦していないのでプロパガンダではないのだが、やはりどこか国家のために自分を捨てることを推奨しているようで、何かしらの不安を感じてしまう終幕なのであった。う~ん。
・ちなみに、ナチス・ドイツによる史実のロンドン空襲は1940年9月7日から始まっているので、本作での描写はそれを想定した架空の展開であるということになる。でも公開の翌月に現実のものになってるんだから、そうとうに確率の高い未来予想だったんだろうな。なんというギリギリ感!
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70点、70点、うっさい!! ~映画『傲慢と善良』~

2024年10月11日 23時28分39秒 | ふつうじゃない映画
 へへへ~いどうもこんばんは! そうだいでございます~。

 いやぁ、先日ついに敢行してしまいました、山形~山梨の1泊3日往復車旅、片道500km!! 去年から始めている個人的な年1ビッグイベントだったのですが、今年は夏ではなく秋にチャレンジしました。
 ほんっとうに、心の底から! 生きて帰って来ることができてよかったな、としみじみ痛感しております……今年もすばらしい旅になったのですが、がっつり風邪ひいちった……
 これはやっぱり、今年のゴールデンウィークに山形の米沢市で行われた「上杉まつり」の川中島合戦再現イベントで上杉軍の足軽になった身でいながら、武田勝頼と因縁の深い新府城跡をのこのこ探訪してしまったがための祟りなのでありましょうか……いや、単にケチって高速使わずに一般道で行って疲れただけか。
 正直、行った初日の山梨のお天気は、一日中のぐずぐず雨という最悪のコンディションだったのですが、雨の中おとずれた新府城跡や武田八幡宮は非常にムード満点で絵になっていました。く、熊の気配がめっちゃ怖かった……
 宿泊した南アルプス市・芦安温泉の宿も、昭和中期の大型旅館の雰囲気を今に伝える、率直に言うと複数回の増築による通路のカオスな迷宮化が最高なところでございました。露天風呂に入ろうとしたんですけど、宿泊棟の1階に降りてから外通路を通って別棟に行って、そこから2階に上がってまた外回廊を通って露天風呂って、あんた……昔ながらの旅館は、高齢者に当たりが異常に厳しい! 歳とってからゆっくり泊まろうったってそうはいかないから、足腰が元気なうちに行っとけ行っとけ!
 帰りの日は一転しての好天だったのですが、「長野ナンバーのドライバーさんの交通法規順守の徹底ぶり」を身に染みて感じながら、結局まるまる一日かかって深夜に山形に到着いたしました。もうちょっと早く到着する算段だったのですが……大きな声じゃ言えませんが、制限速度で走る車って、山形じゃそんなに多くは、ね……ゴニョゴニョ。
 なぜか去年から始まった山梨県への温泉旅行、元気だったらぜひとも来年もやってみたいです。でもこれ、ほんとに体力をゴリゴリに削りますんで、体調管理には十二分に気をつけて、また1年これを楽しみにして生きていこうと思います。山梨、ほんとに楽しい!

 さてさて、それでここ数日、久しぶりに体調が最悪な日が続いてダウン(しながら働いて)いたのですが、やっとなんとか快復して余裕が出てきましたので、ようやく、かねてから観よう観ようと思っていた映画を鑑賞してまいりました。

 いやほんと、ここんところ『箱男』あたりから観なきゃいけないと思ってるエンタメ作品が渋滞しちゃってて! 早くひとつひとつ消化していかなければ……船越さんの『黒蜥蜴』2024も、録画はしたけどまだちゃんと観てないのよ……今年の秋はほんとに忙しい!! なんだかんだ言って師走までこんな感じになりそう。


映画『傲慢と善良』(2024年9月27日公開 119分 アスミック・エース)
 映画『傲慢と善良』(ごうまんとぜんりょう)は、辻村深月による長編恋愛ミステリ小説『傲慢と善良』(2019年3月刊)の映画化作品。原作小説は2019年度ブクログ大賞・小説部門大賞を受賞し、2024年10月時点で累計部数100万部を突破している。

あらすじ
 仕事も恋愛も順調に過ごしてきた青年・架。しかし長年付き合った彼女のアユにフラれてしまったことをきっかけにマッチングアプリで婚活を始める。そこで出逢った、控えめで気の利く女性・真実と付き合い始めるが、1年が経っても結婚には踏み切れずにいた。
 そんな折、架は真実からストーカーの存在を打ち明けられる。そしてある夜、「架くん、助けて!」と恐怖に怯える真実からの電話が。真実を守らなければと決意し、架はようやく真実と婚約するが、その矢先に真実が突然、姿を消してしまう。
 両親や過去の見合い相手を尋ね、真実の居場所を探す中で、架は知るよしもなかった真実の過去と噓を知るのだった……


おもなキャスティング
西澤 架 …… 藤ヶ谷 太輔(37歳)
 東京生まれの東京育ち。国産クラフトビールの製造販売業社長。容姿端麗で女性経験も豊富。かつての彼女である6つ年下のアユ(三井亜優子)は理想の相手だったが、早く結婚して子供を持ちたいと望むアユの願いを先延ばしにした結果、振られて別の相手と結婚された過去がある。30歳代後半になってからマッチングアプリに登録して婚活を始め、大勢の女性と会う中で真美と知り合ってなんとなく交際を始めたものの、心のどこかでアユを引きずっている。学生時代からの友人の美奈子に真美と何% くらい結婚したいかと聞かれて「70% 」と答える。

坂庭 真実 …… 奈緒(29歳)
 東京都内の英会話教室で働く事務員。
 群馬県前橋市に生まれ育った。2人姉妹の次女。大人しく自分の意見を主張するのは苦手。利発で大学進学を機に上京した姉(岩間希美)と違い、高校から地元の女子校に進学し、そのままエスカレーター式に系列女子大へ進学。卒業後は母の勧め通り群馬県庁の臨時職員として働いた。進学や就職については母親・陽子の影響が強く、自らで深く考えたことはなかった。大学の同級生や県庁の同僚が次々と彼氏を作り結婚していく中、真美は特に彼氏ができることもなく過ごす。母親のはからいで地元の県会議員夫人・小野里が運営する結婚相談所の世話になることになったが、相手の欠点ばかりに目が行ってしまい結婚には至らなかった。その後、いつまでも自分を子ども扱いする両親に耐え兼ね、実家を出て姉を頼り上京した。

美奈子 …… 桜庭 ななみ(31歳)
 架の大学時代からの友人。仕事ができ美人で気も強く、要領よく生きてきた女性。架との付き合いも長く、遠慮なく意見を言う。架に、過去に架の彼女だったアユと比べて真美に対して70点の気持ちしかないのなら結婚すべきではないと忠告する。

岩間 希実 …… 菊池 亜希子(42歳)
 真実の姉。母親・陽子の束縛を嫌い大学進学を機に実家の前橋から上京し、今は結婚して一児の母となっている。何かにつけて母親の言いなりである妹・真美に対していら立つこともあるが、真美をなにかと気に掛けている。

坂庭 陽子 …… 宮崎 美子(65歳)
 群馬県前橋市に住む、真実と希実の母親。自分の価値観を真実に押し付け、真実を何かと束縛しようとする。

坂庭 正治 …… 阿南 健治(62歳)
 群馬県前橋市に住む、真実と希実の父親。妻・陽子の言うことに大きく反対はせず、真実と希実の子育てを任せてきた昔気質な性格。

小野里 …… 前田 美波里(76歳)
 群馬県前橋市の県会議員の妻。結婚相談所を運営している。真実の母・陽子に依頼され、真実にお見合い相手を紹介する。

高橋 耕太郎 …… 倉 悠貴(24歳)
 真実が九州地方の七山市(架空の都市)で知り合う災害ボランティアのリーダー。

よしの …… 西田 尚美(54歳)
 七山の飲み屋「FUNNY NANAYAMA 」のママ。真実を居候として受け入れ面倒を見る。

架の親友・大原 …… 小林 リュージュ(35歳)
 大学時代からの架の親友。電子機器部品の卸業を経営している。40歳近くになっても未婚の架を心配している。

美奈子の親友・梓 …… 小池 樹里杏(30歳)

真実の見合い相手・金居 …… 嶺 豪一(35歳)
 群馬県前橋市で電子機器メーカーに勤めるエンジニア。2児の父。

真実の見合い相手・花垣 …… 吉岡 睦雄(48歳)
 群馬県高崎市で歯科医院に勤める独身男性。

真実の地元の友達・泉 …… 里々佳(29歳)
 真実の中学校時代の友達。前橋で偶然、真実と金居に出遭う。

三井 亜優子 …… 森 カンナ(36歳)
 かつて架の交際相手だった女性。


 きたきたきた~! 我が『長岡京エイリアン』いとしの辻村深月先生の小説を原作とする映画作品のご登場でございます。

 辻村先生は、畏れ多いことに私とほぼ同年代の方なので、どうしても「日本小説界の若手ホープ」という印象が離れないのですが、気がつけば辻村先生も今年でデビュー20周年を迎えるという押しも押されもせぬベテランとなり、それにともない、先生の小説作品を原作とする映像作品もかなり多くなってきました。でも、今でも「映像化!」という知らせを聞くとドキッとしてしまうんですけどね。やっぱりファンにとっては気になる話題というか……本質的に小説とは全く別の作品と割りきるべきなんですけどね。

 ざっとまとめてみますと、今回の『傲慢と善良』(以下、映画版は『ゴー善』と略)も含めますと、辻村先生の小説作品はこれまでに「TV 単発ドラマ1作(『踊り場の花子』)」、「TV 連続ドラマ4作(『鍵のない夢を見る』など)」、「実写映画5作(『ツナグ』『太陽の坐る場所』『朝が来る』『ハケンアニメ!』、『ゴー善』)」、「アニメ映画2作(『大長編ドラえもん のび太の月面探査記』『かがみの孤城』)といった形で映像化されています。いや~、気がつけばこんなにみごとな花ざかり。

 これらの諸作は、それぞれ制作スタッフが全く違う作品だし別々の味わいがあるわけなのですが、共通しているのは「出演俳優にかかる真剣勝負度の圧がすごい」ということではないでしょうか。

 これはもう、原作小説の生々しいまでの「登場人物が身を切ってる感」が、辻村ワールドならではの味わいにして魅力の核心というところが関係しているとしか言えないでしょう。つまり、辻村作品を原作とする以上、どうしてもそれに取り組む俳優の皆さんも、通りいっぺんに台本に書かれた役を演じるというだけでなく、俳優である以前に一人の人間として、嘘偽りのない「過去の自分」をありありとさらけ出した上で演じなければならない覚悟を要求されるからだと思うのです。若き日にこれからどうやって生きていこうかと悩む鬱屈とした自分、他人とのコミュニケーションに苦慮する自分、プロとして生きていくための覚悟を決めた瞬間の自分、こういう生き方で良いのかと道の途上ではたと立ち止まる自分……
 お話の面白さもさることながら、多くの人々の心をむんずと鷲掴みにする辻村ワールドの魔力の本質は、登場人物たちのそういった苦悩を通じて、読んでいる人に自身の過去を、大人になってとんと忘れ去ってしまっていた自分自身の姿、その時の空気のにおいや体温の高揚、肌の汗ばみまでをも鮮烈によみがえらせるような記憶喚起力にあると思います。まさに魔力! そして、それを引き起こす対象となっているのが小説の読者だけでなく、小説を原作とした二次作品の出演者にさえ波及しているというのが、映像作品の「真剣度」を異様に高めてしまう要因なのではないでしょうか。
 なんか軽いノリで辻村作品を映像化している例も観たいような気もするのですが、なかなかね……それはそれで原作ファンの反応が怖いような気もしますよね。読者も真剣そうだな~、辻村ワールドって! 私はどうなのであろうか……

 さてさて、そんなこんなで今回の『ゴー善』なわけなのですが、当初、あの長編小説『傲慢と善良』が映画化されると知った時、私は「また難しい作品を……大丈夫かな?」という不安が先に立ってしまいました。
 なぜなら、『傲慢と善良』は大部分が「いなくなった人を探す」お話であり、ただひたすらに「いない人の思い」を想像する旅に出る男の姿をロードムービー的に追う形式になっているからです。当然、最終的に男は相手にたどり着いて物語は終わりを迎えるのですが、その路程で殺人事件のような衝撃的な展開があるわけでもないし、いない人の過去に関しても、ぶっちゃけそんなに異常な出来事があったわけでもありません。

 ふつうなんです! この物語に登場する人物たちは、主人公の男女を含めて、み~んなごくふつうの人生を送っている人ばかりなのです。

 でも、この「ふつうの人生」の中でつまびらかにされていく人間同士のすれ違い、軋轢、対立、羨望、さげすみ、愛憎の濃密さときたら……ここ! この、死ぬほど大変なことでもないんだけど、地味にボディに効いてくるような細かい起伏が延々と続く人生のディティールを異様に高い解像度で描写しているところが、原作小説のものすごいところなんですよ! そうそう、ふつうに生きるって、こういう風にとてつもなく辛くて大変で、それでもたま~にステキな出逢いもあるからやめられないことなんだよなぁと、しみじみ感じ入ってしまうんですよね。

 この原作小説を読み進めていくと、タイトルにある「傲慢」と「善良」とは、別に対立する関係にあるものでもないし、作中で言及されてもいたジェーン=オースティンの長編小説『高慢と偏見』(1813年)のように、明確に超えるべき壁として立ちはだかる話でもないらしいことがわかってきます。つまり、登場する架と真実は、性別も家族環境も生き方もまるで違う者同士でありながら、自分自身の心にいつの間にか、しかもかなり昔から強固な価値観を持っており、それこそが表裏一体の関係にある「傲慢 / 善良」という共通の何かであることが明らかになってくるのです。そして、おそらくこれは、この小説に登場する人物全員どころか、読者も含めた現代日本人すべてに多かれ少なかれ根ざしているものなのではないか、という気配が次第ににじり寄ってくるという、何か、今まで日常生活の中でごくふつうに見えていたものが、ある瞬間から異様な違和感のある何かに見えてしまうような不気味な黙示録作品。それが小説『傲慢と善良』であると思うのです。
 私、この小説の読後感にいちばん似た感覚のあった作品って、コーエン兄弟の映画『ノーカントリー』(2007年)なんですよね。お話は終わるけど、提示された「なにか」の気配は消えないという、この異物感。

 もちろん、この小説における架と真実のお話は、ひとつの物語として終わりはするんですが、現実世界にいる私達の「傲慢と善良」はどうなっているのか、この小説を読んだことで何かしらの変化は起きたのか、それとも何も変わらずに心の中に存在し続けるのか……小説の中から辻村先生が読者に押しつけがましく直接呼びかけるような文章は一文も無いのですが、こういう問いかけを球速160km 台で投げかけられているような気がしてくるのが、たまらない! でも、ここまでドカドカッと読者の心の柔らかいところに入りこんでくる人もそうそういないような気がするからこそ稀有な存在なのです、小説家・辻村深月って。家族よりも家族、母ちゃんよりも母ちゃん!! ちょっ、勝手に開けんなって!!

 ともかく、この小説『傲慢と善良』は、非常に読み応えのある作品ではあるのですが、その面白さが、果たして映像作品になる時に「伝わりやすいものなのか」というと、私はかなり難しいと感じたんですよね。しかも、登場人物同士が会話するパートとほぼ同じかそれ以上の分量で、主人公の回想や心中思惟が物語の大部分を占めているのですから、セリフに頼らない相当にハイレベルで繊細な演技力も主人公の2人には要求されるわけで。これを映画化とは……こりゃ大変な難物ですぞ!

 ほら~、ここまで字数を割いといて映画になった『ゴー善』の話にじぇんじぇん入ってないよ! ちゃっちゃと観た感想を言っときましょう。映画のほうの『ゴー善』についての私の感想は、


後半が全然ちがう話になっとるが……原作小説に挑戦した勇気はたたえたい。


 というものでした。面白く観ましたよ!

 そうなんですよ。映画『ゴー善』は、物語の中盤から展開と設定が、原作小説とだいぶ違ったものになっているのです。
 ざっくり言ってしまうと、失踪した真実のおもむいた土地が、原作の宮城県仙台市ではなく、北九州地方の「七山市」という町に変更されています。これは架空の都市で、実際に撮影された地名で言うと佐賀県唐津市の七山地区となるようです。
 原作小説では、真実は仙台市で東日本大震災の復興ボランティアに従事するのですが、『ゴー善』ではおそらく、2017年7月の「九州北部豪雨」いらい毎年のように発生している豪雨災害の復興ボランティアに従事するために、真実は七山におもむいたようです。
 この変更自体は、映画の制作時期にかんがみて、より今現在リアルに災害が起こっている九州に舞台を移したのではないかと想像がつくわけなのですが、問題は、この七山で展開される真実と架との再会の経緯が、はじめからおしまいまで原作小説とまるで違うものになっているというところです。

 具体的に比較していきますと(以下、後半の展開に触れまくります。注意!!)、


≪原作小説の時間の流れ≫
1、四月。真実が失踪してから約3ヶ月後に架がひとつの「結論」に達し、失踪いらい更新が途絶えている真実のインスタグラム投稿の最終記事にコメントの形でメッセージを伝える。
2、ほぼ同じ時期に、仙台でボランティア活動をしていた真実が架のコメントを読み、いったんの返信をするが具体的な再会時期は保留する。
3、さらにほぼ同じ時期(真実が架のコメントを読む前日)に、ボランティアの高橋青年が真実をデートに誘う。
4、七月。宮城県東松島市にある JR仙石線の無人駅「陸前大塚駅」(実在)で真実と架が再会する。

≪映画版の時間の流れ≫
1、真実の失踪に関して架がひとつの「結論」に達し、真実のスマホにメールを送るが、真実は返信せず九州の七山市におもむく。
2、七山で暮らしてからも真実はインスタグラムの投稿を続けており、架も投稿をチェックしている。
3、真実が七山で暮らして2年後。真実が地元の地域振興課に「地元産クラフトビール」の開発を提言し、提携先として架の会社を紹介する。
4、ほぼ同じ時期に、ボランティアの高橋青年が真実をデートに誘う。
5、架が企画会議のために七山におもむき、その風景を見て真実が七山にいることに気づく。
6、七山の飲み屋「FUNNY NANAYAMA 」の店先で真実と架が再会する。


 このような感じになります。映画版は6、の後にもう一つの山場があってエンディングとなるのですが、そのロケーションは原作小説をかなり意識したものとなっていましたね。

 上の2バージョンを見比べてまず目立つのは、映画版の架の方が、あのエンディングを迎えるにしては行動が異様に受け身すぎるというか、2年間も何をやってたんだと不思議に思えるほど優柔不断な男に見えるという点ではないでしょうか。
 だって、どのくらいの頻度かは語られなかったのですが、連絡は途絶えているとはいえ、真実はインスタ更新してるんでしょ? しかも、どこに住んでるのかは語らないにしても風力発電の巨大タービンとか、みかんの木とかのヒントは写ってたわけだし……それをチェックしてるんだったら、普通は住所を特定して押しかけるくらいのこと、本気で結婚したいんだったらするんじゃないかな。まぁ、それに対して真実がどう反応するのかは別の話なわけですが。
 2年間ですよ、2年間。お互いピッチピチの20代前半でもなし、いつまでも若いわけでもないその時期に急がないということは、ほんとに架に原作小説のような真実への想いがあるのか?と疑ってしまうところがあります。それで結局、映画版はなんだか真実が「しょうがねぇから最後のチャンスを……」みたいにクラフトビール企画という救いの手を伸ばした感じになっちゃってるんですよね。

 確かに、原作小説のほうのクライマックスで真実は架に対して「この人は、とても鈍感なのだ。」という感慨を抱くのですが、映画版の架は、原作小説とは全く違う意味で鈍感としか言いようのない人物になっていると思います。それは……鈍感というか、「自分がない」のでは?

 あと、この現代に真実がインスタを続けているというのは、どう考えても話が「真実と架」だけに収まるには無理があるような気がします。映画に登場した人物の中でも、美奈子とか真実の母親とか小野里とか、架と同じかそれ以上の関心で真実の所在を追求しようとする可能性のある人物はいるような気がします。この状況で2年間、なにも起こらないはずがないでしょ……
 私はここらへんに、映画版の土壇場にきての整合性のなさを感じてしまうのです。な~んかリアリティがないし、架もカッコ悪い。映画オリジナルのこの「空白の2年間」が、原作小説の「濃厚過ぎる約半年間」とは全く比較にならないほど希薄なものになっているのですから。

 ついでに申しますと、架が真実のインスタ投稿にあった風力タービンの写真から七山に真実がいることに気づくという描写があるのですが、これも、田舎住まいの私からするとおかしいと言わざるを得ないというか……だって、あんな真っ白くてバカでかいタービン、海岸沿いの場所だったら日本海でも太平洋でも、日本全国どこにでもあるでしょ!? なんでそれが決め手になんの!? もっとみかん畑のある角度から見た風景とか、個性豊かなきっかけは別にあっただろう。
 何の特徴もない風力タービンを見ただけでそれをどこだと判断するなんて、人種も性別もわからないのに髪の毛が黒いだけでディーン・フジオカだと判断するようなものだと思うんだけどなぁ。

 余談ですが、私、先ほども申した通りに車で山形~山梨を往復したのですが、夜の9~10時ごろに新潟県の村上市で出くわした風力タービンの巨大な影が、めっっっっちゃ怖かったです……中央ハブのライトだけが灯台みたいに煌々と照らされていて、近づくと巨大なタワー部分が次第にぼーっと見えてくるという。周囲には歩行者はおろか車すらないし! デイヴィッド=リンチの世界みたいな雰囲気で最高でした。

 おそらく、映画『ゴー善』の一連の改変は、「みかんの木」の成長速度を考えて、真実と高橋が植えた苗木が育って花を咲かせるまで約2年かかるといったところから逆算してそういったタイムスケジュールになったのではないでしょうか。当然、小説と違って「絵」を大切にする映画なのですから、そういう判断があっても良いかとは思うのですが、問題は、その「2年間」という設定に、原作小説の「トータルでも約半年」の4倍も延びちゃってることに対する説得力充分なフォローが無かったということなのです。

 その結果、『ゴー善』の架は、真実を必死に探し出すこともせずに2年間も暮らし、それなのに真実からの助け舟をもらって再会できたかと思ったら、この期に及んで「結婚したいよう!」などと言い出す行きあたりばったりな男になってしまったのです。そして、それに対する真実の返答を受けての反応も、映画をご覧の通り、非常に受け身で消極的なものになっているのですから仕方がありません。原作小説『傲慢と善良』のクライマックスで、鈍感ながらも、というか鈍感であるがゆえの「凛々しさ」を見せてくれた架とは全くの別人と言わざるを得ないのではないでしょうか。
 映画『ゴー善』のクライマックスで、真実は原作小説と同じように、架が「70点(実際には70% )」と言ったことにこだわる問いかけをするのですが、『ゴー善』の真実がキレるべきなのは、もはやそんなことではないような気がしますよね……

 ともかく、映画『ゴー善』の後半部分は、原作小説『傲慢と善良』の架が見せてくれた一連の成長を、まるでナシにしてしまう改悪につながった部分が大きいと思います。第一、原作で真実が仙台に行ったのも、群馬での見合い相手の金居がそもそものきっかけであるという丁寧な伏線があったし、金居の発言から、災害復興支援ボランティアの現代日本におけるある種の精神的緩衝地帯、駆け込み寺という側面もきっちり描いている原作のほうが数段ディティールが細かくて面白かったと思うのですが……

 とまぁ、映画版の後半の展開について、私も見た直後は「どうして変えたのか理由がわからん!」とプリプリしながら映画館をあとにしたのですが、つらつら考えまするに、『ゴー善』は原作『傲慢と善良』におけるクライマックスの展開における「真実の受け身」感に多少の不満があったがために、逆に真実に言いたいことを言わせて架にアタックさせる選択肢を採ったのではないでしょうか。
 すなはち、『傲慢と善良』のクライマックスにおける架の、「傲慢 / 善良」の壁を突破する勢いを持った凛々しさあふれる言動には、解決しない現代日本にはびこる問題をあらわにした重い小説にさわやかな一陣の風のような奇跡的なハッピーエンドをもたらす効果がありました。それまでの架では言えなかった、できなかったことを表明する、新しい架への変身が高らかに宣言されていたのです。
 ところが、その反面で架の変身は果たして本当にその後も続いていくものなのか、単に真実との結婚という事案に関して意固地になって瞬間的な感情で言い出しただけなのではないか?という非常に意地悪な見方もできるわけで、フィクション小説ならではのきれいごとと取れなくもない甘い香りに満ちたエンディングになっているのです。当然、辻村先生もそのことを承知の上で、『傲慢と善良』の2人が選んだ未来が決してバラ色ではないということも言い置いているわけですが、そこには先生らしく「三波神社」のご加護も添えてくれています。

 おそらく『ゴー善』の選択したエンディングは、なんだかんだいって最終的には「白馬に乗った王子様」という非現実的なヒーローに変身してしまった架に救われるだけの受け身なヒロインになってしまった『傲慢と善良』の真実への反論として、最後の最後までなんの変身も見せず情けない存在のままで七山を去ろうとする架を強引に救い上げる「軽トラに乗った王女様」として、ヒロインはヒロインでもプリキュアのような行動力・主体性のある人間に変身した真実を描きたかったのではないでしょうか。だからこその『ゴー善』における脚本の改変と、演技力抜群の奈緒さんの真実役起用だったと思うのです。名前はキュアキャリイ(スズキ)でしょうか、それともキュアスクラム(マツダ)かな。

 なんとも明るい未来の見えない鬱然とした日本社会の影の側面を照射する続く展開の末にひらけるのは、決然たるヒーローとなった架がみちびく『傲慢と善良』の結末か、「70点ってなんじゃー!」と荒ぶるヒロインとなった真実がみちびく『ゴー善』の結末か。あなたは果たして、どちらのエンディングを選ぶでしょうか。

 要するに、「人間なんてそんなに簡単に変身できるものだろうか」とややシニカルに解釈し直したのが『ゴー善』の架像だったと思うのです。それもそれで一つの考え方かとは思うのですが、ちょっと『傲慢と善良』の架とは別人すぎるような気もしますよね。演じた藤ヶ谷さんがちと不憫……

 あとこれも言っておきたいのですが、辻村ワールドならではの共有世界システムで『傲慢と善良』以外の作品にも登場している「谷川ヨシノ」という重要人物が、『ゴー善』では名前こそ同じものの全く別人になっていたのは、やはりちと残念でした。
 いや、近所のみかん畑に顔を出しただけで真実に「なんで来たんですか!?」ってビックリされるって、どんだけ行動力が低いんですか……谷川ヨシノさんとは天と地ほど、サラブレッドとなめくじほどの差のあるお人になっていましたね。


 ま、そんなこんなでいろいろくだくだと申しましたが、今回の映画版『ゴー善』は、出演俳優の皆さんの演技こそ素晴らしかったものの(特に前田美波里さんが頭3つくらいズ抜けて最高でした)、やはり後半のオリジナル展開に首を傾げざるを得ない点があったことが引っかかってしまいました。原作小説に真っ向から別案を提示するのならば、作者の了解は当たり前のこととしても、原作に対抗しうる頑丈な別構造を持ったプランを練り上げてほしいですよね。キューブリック監督の『シャイニング』ほどとは申しませんから……

 あ、でも! チョイ役ながらもかなり重要な役に、あの映画『太陽の坐る場所』にも出演していた森カンナさんが出ていたのは良かったねぇ! 映像版の辻村ワールドの常連になるつもりなんですか、カンナさーん!? いい覚悟の決まり方ですね。


 いや~でも、「70点」って、そんなにぐじゃらぐじゃら言うほど問題のある点数なんですかね……と、人生のあらゆる局面において赤点を叩きだし続けておるわたくしが申しております。いいじゃん、70点! もちろん、人を評価する時に出すべき点数ではありませんけどね。
 70点、別にいいですよねぇ。『信長の野望』シリーズの武将でいったら「黒田長政」とか「細川忠興」、「秋山信友」とか「佐々成政」くらいのクラスでしょ。全然いいじゃん! 役に立ちまくりですよ。「藤堂高虎」もいいですよね、裏切りが怖いけど。

 私が大好きな足利義昭公なんか、最近の統率力はだいたい「20~30点」よ!? 生きてるだけでいいの!! それどころか、全体的な能力値が驚異の「ひとケタ~10点台」の今川氏真でだって、天下統一はできるんだぜ!!

 70点でうだうだ言ってる場合じゃないよ! 加点してけ加点してけ~!!

 そもそも論、ワケのわかんない心理テスト、滅ぶべし!! あんなん、根拠もなにも……なんだっけ、アレ、ホラ、エビとかカニみたいな、なんか今ふうの言い方の……アレがないんだからぁっっ。
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日本映画界の至宝たちが贈る!!「出てくる男みんなアホ」物語 ~映画『箱男』~

2024年09月20日 23時47分53秒 | ふつうじゃない映画
 どどどど~もこんばんは! そうだいでございます。
 いや~、今週末は山形も雨がひどくなるみたいで! 来週まで引っ張らないといいんですけどねぇ。やっぱり、最近の雨はいったん降り出すと時間自体はそう長くはないのですが降雨量がものすごいですよね。怖いんだよなぁ、アンダーパスとかあっという間に水浸しになっちゃいますから。

 今年もねぇ、秋は忙しくなるんですよ! それはもう、仕事もエンタメも。
 仕事はもう、毎年恒例の忙しさなので今さらなんでもないのですが、自分なりの楽しみという点では、去年の初夏に初チャレンジして満喫した山形~山梨片道500km の往復自動車旅を、来月初めにまたやる予定です。去年は山梨県の長野寄りにある北杜市内の名所をめぐって増富ラジウム温泉というそうとうな秘湯を堪能してきたのですが、今年はもうちょっと範囲を広げて秋の観光を楽しみたいと企てております。泊まる温泉も、たぶん去年に劣らない秘湯になるはずよ! まぁともかく、今回もくれぐれも事故らないように充分な休息を忘れず行って参る所存であります。
 その他の楽しみといえば映画と TVドラマなのですが、ついに来週27日から辻村深月先生原作の映画『傲慢と善良』(監督・萩原健太郎)が公開されますし、29日にはスペシャルドラマ『黒蜥蜴』( BS-TBS)が放送され、来月10月11日には映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』(監督・トッド=フィリップス)が、25日には映画『八犬伝』(監督・曽利文彦)が公開されるといった活況となっております。来月4日から公開される映画『ゲゲゲの謎 真正版』も、余裕があったら!

 そいでま、こういった秋のエンタメラッシュのトップバッターといたしまして、今日は東京公開から遅れること1ヶ月、ついに山形市でも公開される運びとなった、この作品を観た感想をつづりたいと思います! 楽しみにしてたのよぉ~、これ。


映画『箱男 The Box Man』(2024年8月23日公開 120分 コギトワークス)
 『箱男 The Box Man』は、小説家・安部公房(1924~93年)の長編小説『箱男』を原作とする映画作品。
 小説『箱男』は、「人間が自己の存在証明を放棄した先にあるものとは何か」をテーマとし、その幻惑的な手法と難解な内容のため映像化は困難と言われており、海外の映画界も映画化をこころみたが安部の許可が下りず、企画が持ち上がっては立ち消えの繰り返しとなっていた。
 最終的に1992年、安部から映画化を許可されたのは、1976年に8mm 映画『高校大パニック』でデビューし日本のインディペンデント映画界で活躍していた石井聰互(現・岳龍)だった。安部の没後、1997年に日本ドイツ合作映画としての製作が決定し、石井はドイツ北部の都市ハンブルクに安部医院の巨大セットを組んで撮影に臨んだ。しかしクランクインの前日に、日本側の撮影資金に問題が生じて撮影は突如頓挫し、撮影スタッフと永瀬正敏や佐藤浩市ら出演予定だった俳優たちは失意のまま帰国することとなり、1997年の映画化は幻の企画となった。
 それから27年の歳月が経ち、安部公房生誕100周年にあたる2024年。映画化を諦めずに2010年代から脚本家いながききよたかと共に脚本の制作に取り掛かっていた石井監督は、改めて『箱男』の映画化を実現させた。主演は1997年版と同じく永瀬となり、同じく97年版に出演する予定だった佐藤浩市も再参加し、その他に浅野忠信や、200名近いオーディションから抜擢された白本彩奈が参加した。
 本作は、2024年2月に開催された第74回ベルリン国際映画祭にてプレミア上映された。

あらすじ
 「箱男」のわたし自身が、箱の中で記録を書き始めることを表明する。
 運河をまたぐ県道の橋の下でわたしは、「箱を5万円で売ってほしい」と言った「彼女」を待ちながらノートをボールペンで書いている。万一わたしが殺されることがあった場合の安全装置のためである。一旦インク切れで中断し鉛筆で書き始めるが、字体は変わらない。わたしは「あいつ」と呼ぶ中年男に殺されるかもしれないと考え、ノートの表紙裏には、あいつが空気銃を小脇に隠しながら逃げて行った時の証拠のネガフィルムを貼りつけてある。
 1週間か10日ほど前、わたしは肩を空気銃で撃たれ、逃げる中年男の後ろ姿をフィルムに収めた。わたしは箱男になる前はカメラマンだったが、撮影の仕事を続けている内にずるずると箱男になってしまったのである。
 中年男が逃げていったその直後、傷口を押さえていたわたしの箱の覗き穴に、「坂の上に病院があるわ」と3千円が投げ込まれた。立ち去ったのは自転車に乗った足の美しい若い娘だった。その晩わたしが病院に行くと、ニセ医者(空気銃の男)と看護婦の葉子(自転車の娘)が待ち受けていた。看護婦に手当てをされながら麻酔薬を打たれ、いつの間にかわたしは箱を5万円で売る約束をしていた。看護婦は元モデルだという。
 自転車で来た彼女が、橋の上で1通の手紙と5万円を渡した。なぜ5万円も支払われるのかとわたしは訝り、箱を欲しがっているニセ医者がやってくるものと思っていたわたしはその真意が解せず、あれこれと考えを巡らす。
 夜中、わたしは病院へ向かった。病院の裏にまわって彼女の部屋の窓から話をしようと考えるが、部屋を鏡で反射させて覗くと、わたしとそっくりなニセ箱男の前で彼女は全裸になっていた。わたしはニセ箱男の出現を契機に、箱を捨てることを考え始めるが……

おもなスタッフ
監督 …… 石井 岳龍(67歳)
脚本 …… いながき きよたか(47歳)、石井岳龍
美術 …… 林田 裕至(63歳)
編集 …… 長瀬 万里(33歳)
音楽 …… 勝本 道哲(?歳)
特殊造形・特殊メイク …… 百武 朋(52歳)
エンディング曲『交響曲第五番 第四楽章』(作曲グスタフ=マーラー)


おもな登場人物とキャスティング(設定情報は原作小説に準拠)
わたし …… 永瀬 正敏(58歳)
 原作小説における表記は「ぼく」。
 箱男。元カメラマン。ダンボール箱をかぶって港に近いT市を放浪し、箱の中で記録をつけている。醤油工場の塀の近くで突然空気銃で肩を撃たれ怪我をする。戸籍の上では29歳だが本当は32、3歳らしい。3年間「箱男」を続けている。少年時代、わざわざ暗いところで活字の小さい本や雑誌を読み、自らすすんで近視眼になる。ストリップ小屋に通いつめて写真家に弟子入りし、カメラマンの仕事をしている内に「箱男」となった。

戸山 葉子  …… 白本 彩奈(22歳)
 看護婦見習い。貧しい画学生だが、個人経営の画塾やアマチュア画家クラブの連中を相手に絵画モデルをして生計を立てていた。2年前に中絶手術を受けるためにニセ医者の病院を訪れ、そのまま居ついた。その代わりにニセ医者と内縁関係にあった奈々は出ていった。

ニセ医者 …… 浅野 忠信(50歳)
 ニセの箱男。T市で病院を開業している中年男。昭和元(1927)年3月7日生まれ(誕生日の日付は原作者の安部公房の誕生日と同じだが昭和元年に3月7日という日付は存在しない)。独身。本来は医師見習いの看護師。太平洋戦争中は軍で衛生兵をしていた。昨年まで、医療行為のために名義を借用した軍医の正妻・奈々を看護婦として雇いながら同居し、内縁関係にあった。

軍医 …… 佐藤 浩市(63歳)
 太平洋戦争中に重病に倒れ、激しい筋肉痛を抑えるために麻薬を常用して中毒になっている。自分の名義をニセ医者に貸して病院を開設させ、自分の妻・奈々も内縁の妻にさせていた。常に目ヤニを硼酸水の脱脂綿で拭っている。映画版での苗字は「安部」。

ワッペン乞食 …… 渋川 清彦(50歳)
 箱男を目の敵にする老人の浮浪者。全身にウロコのようにワッペンやおもちゃの勲章をつけ、帽子にはケーキを飾るロウソクのようにぐるりと日の丸の小旗を立てている。投石と旗棹を武器として箱男を攻撃する。

刑事    …… 中村 優子(49歳)
刑事の上司 …… 川瀬 陽太(54歳)


原作小説『箱男』とは
 『箱男(はこおとこ)』は、小説家・安部公房が1973年3月に発表した書き下ろし長編小説。ダンボール箱を頭から腰まですっぽりとかぶり、覗き窓から外の世界を見つめて都市を彷徨う「箱男」の記録の物語。箱男の書いた手記を軸に、他の人物が書いたらしい文章、突然挿入される寓話、新聞記事や詩、冒頭のネガフィルムの1コマ、写真8枚(撮影・安部公房)など、様々な時空間の断章から成る実験的な構成となっている。都市における匿名性や不在証明、見る・見られるという自他関係の認識、人間の帰属についての追求を試みると同時に、人間がものを書くということ自体への問い、従来の物語世界や小説構造への異化を試みたアンチ小説(反小説)の発展となっている。

 『箱男』は、『燃えつきた地図』(1967年9月発表)の次に書かれた長編小説であるが、安部公房はその構想を「逃げ出してしまった者の世界、失踪者の世界、ここに住んでいるという場所をもたなくなった者の世界を描こうとしています。」と語り、それから約5年半、書き直すたびに振り出しに戻っては手間がかかり、原稿用紙300枚の完成作に対して、書きつぶした量は3千枚を越えたという。「箱男」の発想のきっかけとしては、浮浪者の取り締まり現場に立ち会った際、上半身にダンボール箱をかぶった浮浪者に遭遇してショックを受け、小説のイマジネーションが膨らんだと語っている。
 作中に登場する「ニセ医者」の発想については、戦争中の医者不足の時代に医者としての心得や技術をかなり持っていた「衛生兵」がいたことに触れ、自分のように医学部を卒業している者より、そういった経験を積んだニセ医者の方が実質的技量が上だったとし、現在では国家登録か否かで本物か贋物かを判断し、一般的にはニセ医者をこの世の悪かのように決めつけられるが、本物の医師の間でも大変な技術差があり、素人と変わらないいい加減な医師も多く、そういう免状だけの医師の方が危険で怖いと語りつつ、ある意味で一切のものが登録されていないダンボールをかぶった乞食である「箱男」と「ニセ箱男」の関係について、「とにかく本物と贋物ということが、実際の内容であるよりも登録で決まる。そういうことから、全然登録を拒否した時点で、何でもないということは乞食になるわけです。これが乞食でない限りは全部贋物になる。その贋物がいっぱい登場してくる、贋物と箱男の関係で、とにかくイマジネーションとしては膨らんでいったわけです。」と説明している。

 マンガ家の手塚治虫が、長編青年マンガ『ばるぼら』(1973年7月~74年5月 小学館『ビッグコミック』連載)の第2話『女と犬』において、主人公の耽美小説家・美倉洋介と登場人物との会話で『箱男』に言及している。その中で美倉は、「不条理のパロディー」、「人間には誰でも狂った反面がある……それが文明社会に飼いならされてモラルとか法律にしばられる。(中略)だが芸術家はそれが我慢ならんのですよ。(原文ママ)」と語っている。


 ……というわけでございまして、なんと四半世紀ぶりの完全映画化となった『箱男』を観た感想記でございます。やっと観れたよ~!

 まず、何と言っても私が大好きな女優の白本彩奈さんが、なんとまぁ永瀬正敏と浅野忠信と佐藤浩市という、現在の日本映画界におけるゴジラとラドンとキングギドラみたいな3大名優を相手に単身でヒロインに挑むという、キャスティング上のものすんごい話題も魅力的ですよね。モスラ~や!!
 しかも、その彩奈さまがなんと本作では初の……キャ~!!ということで、私の期待値はいやがおうにも上がってしまいました。東京公開からの約1ヶ月の長いこと長いこと!
 そういえば、おそらくこの『箱男』公開と歩調を合わせる形で、白本さんはつい最近に放送された TVドラマ『 GO HOME 警視庁身元不明人相談室』の第6話(2024年8月24日放送 日本テレビ)にもゲスト出演していたんですよね。これもいちおう観たんだけど、今度、我が『長岡京エイリアン』で必ずやる予定の『黒蜥蜴2024』の感想の時にでも一緒に触れましょうかね。立場上(行旅死亡人……)そんなに活躍はしないものの、ミステリアスで重要な役割でしたね~。

 そこらへんの話題はまず置いときまして、そもそも原作の小説『箱男』に関して思い起こしますと、私は本当にこの作品が大好きでして、中学時代には安部公房作品の中でも最初くらいの勢いで読んで、そこに横溢する謎と空想の世界に手もなくイチコロになってしまいました。
 反小説としての内容のシュールさに関しては言うまでもないのですが、この『箱男』って、かなりエロい小説だな~というインパクトが、当時うら若き小中学生だった私にはまずズンッときまして、余談ですがその頃の思春期そうだいに人生レベルのエロ衝撃を与えた三大小説といたしましては、この安部公房の『箱男』と小松左京の『日本沈没』と野坂昭如の『てろてろ』が挙げられます。三作中二作が変態系という、この呪われた出逢い……

 ただここではっきり申し上げておきたいのは、私が原作小説『箱男』を読んで脳みそをショートさせてしまったエロ部分というのは、実は今回の映画化で白本さんが演じていた葉子があれこれされたりしたりするパートではなく、まるまる映像化されなかった「Dの場合」という章段での、少年D と体操の女教師とのやり取りだったのでした。この2人、別に肉体的にどうこうということはしないのですが、女教師のトイレを覗こうとしたD が未然に見つかってしまい、逆にD の全裸姿を女教師が覗く罰を受けてしまうという挿話がものすんごくエロかったんですよね! これたぶん、少年D と当時の私がほぼ同年代だったから余計にいやらしく感じてしまったと思うのですが、この「覗く・覗かれる」という関係に生じるエロさを端的に表したこの章は、『箱男』の物語の中で相当に重要なファクターだと思うんですけどね。ただ……映像化すると箱男と葉子の本筋を侵食しかねないインパクトがあるので、カットして正解だったかもしれませんが。

 とにもかくにも、この『箱男』という物語を、今回の映画版だけ観て原作小説を読まないのはかなりの大損だと思いますよ! 大して長い小説でもないので、是非とも新潮文庫から出ている原作も読まれることをお薦めいたします。他の安部公房作品の『砂の女』や『壁』とかよりも、よっぽど読みやすいと思います。

 さて、それで今回の映画版なのですが、まず四半世紀を超えて執念の完成を果たした石井岳龍監督に関して言いますと、私が石井監督の作品を観たのは『ユメノ銀河』(1997年)と『五条霊戦記』(2000年)に続いて3作目で、映画館で観るのは初めてとなります。
 こんなていたらくなので、はっきり申して石井監督に関してはほぼ知らないと言って差し支えない不勉強ぶりなのですが、昔から伝説の監督という印象で名前だけは知っていたんですよね。
 もちろん、1997年の日独合作版の『箱男』が、なんだかわかんないけど直前で制作中止になったというニュースも、当時聞いたことはありました。確か、たぶん今回のバージョンで白本さんが演じた葉子の役を、当時、思春期の私にとっては「出てくればなんかエロイことになる」というイメージで有名だった女優の夏生ゆうなさんが演じる予定だったという情報もあって内心ワクワクしていたのですが、それが2024年になってリベンジされるとはねぇ。長生きしてみるもんだねい。

 それで、今回この『箱男』を観た肝心カナメの感想はと言いますと……


ロマンというにはアホらしすぎて……出てくる名優たち、みんなアホ映画!!


 ということになるでしょうか。
 いや~、これ……『天才バカボン』的映画ですよね? 笑っちゃうしかないキャラ設定と展開しかないよ……あの日本映画界の至宝たちが真面目に演じれば演じるほど、アホらしい!! すっごく贅沢な長編コント作品だこれ!
 かつて、生前の安部公房は石井監督に本作を「娯楽にしてくれ。」とだけ注文をつけたそうですが、石井監督は、その言を忠実に守ったのだ!! 映画流にひねったラストも含めて、これはみ~んなツッコミ待ち系お笑い映画なのですよ!

 原作小説の『箱男』は、まさしくこれ「実験小説」といったていで、主人公が箱男であるらしいことはわかるのですが、章段や挿話ごとに語り手や語り方もコロコロ変わりますし、意図的に登場人物たちの固有名詞である名前が使われないので( ABCD表記とか「彼女」とか)、一体その話をしている主体が誰なのか、いつの話をしているのかが曖昧模糊としてくる幻惑的な物語になっています。もちろん、それにしたって安部公房の世界は直接的に読者の五感に訴えかけてくる生々しい微細な描写が特徴的なので、物語への興味が薄れてしまうことはありません。お話の全体像はよくわからないものの、とりあえず目の前にある細部だけははっきりしているという近視眼的な世界は、まさしく安部公房ワールドの身上ですよね! 特に本作の場合は、箱男がいかにして、ごく普通の段ボール箱をカスタマイズして箱男の「肉体と内臓」にしていくのかを偏執的に解説する導入部の語り口が秀逸です。ほんとに箱男の箱を作ってみたくなっちゃう! 読んでいるだけなのに、箱男の汗まみれの肌と体臭がにおってくるような、絶妙にイヤな感覚に陥ってしまいますね。

 要するに、安部公房の迷宮的な世界は、確かに実験的ではあるのですが、その描写において実に映像的で理性的なカメラワークが機能しているので、決して「読みにくくはない」のです。そこが、現代でも彼の諸作がけっこう読み継がれているゆえんなのではないでしょうか。そして、とりわけこの小説『箱男』について言うと、文章の中にスライドショー的に挿入される安部公房自身が撮影した「街のスナップ写真」も、かの松本人志の創始した「写真で一言」に一脈通じるような、1990年代以降の「視覚イメージと言語のたはむれ」を先取りしている面白さに満ちています。内容的には小説にほとんどリンクしていないような写真ばかりなのですが、そのピンぼけ感が小説のシュールで幻想的な空気を100% 象徴しているんですよね。この戦場カメラ、もしくは盗撮カメラのような粗さがヤバいぞ!みたいな。この写真の一部は、映画版の冒頭でも使用されていますね。

 ここで小説版の魅力を語っているとキリがなくなってしまうのでここまでにしておきますが、今回の映画化で私が強く感じたのは、「小説」と「映画」との、あまりにも大きな「表現ジャンル」としての違いでした。本作は、一人の作者がつづる小説と、無数の人々が集まって作り上げる映画の違いがこれでもかというほどにはっきりした顕著な例になったと思います。でも、これは安部公房と石井岳龍というかなり個性的な才能が並び立ったからわかったことなのであって、どちらかがどちらかに呑まれる程度の能力しか持っていなかったら、成り立たない拮抗現象だったと思います。やっぱ、今回の映画化は幸せなことだったんですよ!

 具体的に見ていきますと、今回の映画版における100% オリジナルな要素は、物語の舞台が21世紀現代になっていることと、それにともない佐藤浩市が演じる軍医が旧日本陸軍でなく自衛隊の退役者で、海外に派遣されたときにハマったサボテン由来の麻薬成分の中毒者になっているというアレンジくらいだと思います。それ以外に関しては、ラストの箱男の導き出した実に映画的な「結論」を除いて、全体的にほぼ、原作小説の内容に即した流れやセリフを忠実になぞっています。

 それでも! 原作小説と映画版とでは、それぞれの印象がかなり違ったものになっているのです。
 それはすなはち、物語における主人公・箱男の占めるパーセンテージと言いますか、主観の割合の違いが原因だと思うんですよね。

 つまり、原作小説の主観視点は、コロコロ変わっているにしても三人称描写になるにしても、どうしても「一点から見た物語」であることに違いはありません。さらには安部公房一流の「感覚(特に嗅覚?)に訴えかける詳細な描写」が加わってくるので、つまるところ、「撮影者」がめまぐるしく交代していても、読者に提供されるカメラの性能はずっと変わらない安定感があるわけです。そこには、混迷を極める現代都市の中を段ボールひとつで生き抜く箱男のハードボイルド「でありたい」哲学に代表される、多分に格好の良い安部公房の語り口が通底しています。誰がその章段を語っているのだとしても、共通の匂いがあるんですよね。

 ところが! 映画版はいくら個性的な永瀬さんが強烈に箱男を演じたのだとしても、それ以外の肉体を有した共演者は厳然としてちゃんと実在しているのです。しかも、今回の場合は佐藤浩市やら浅野忠信やらという、黙っててもハンパない存在感がビンビンに伝わってくる当代一の名優ぞろい!! そして、そこにはさらに白本彩奈さまという、別ベクトルで強烈な「他者」までもが……
 映画版は、それが複数の俳優たちによって実現する「視点の乱立した世界」であることをはっきりと、冷酷に明示します。つまり、いくら永瀬さんが、その魅力的な低音ボイスで箱男の孤高性を謳い上げたのだとしても、はたから見たらうす汚れた段ボールの中に引きこもって、たま~に下から足をニョキッとはやして、かなりぶざまにバタバタバタ……と街中を駆けずり回り、空き地で同じく頭のおかしなワッペン小僧と「宿命の対決ごっこ」を繰り広げる「ちょっとアレな名物おじさん」としか思われていないという厳然たる事実が、客観的に提示されてしまうのです。箱男が空気銃のスナイパーを恐れていくら必死に疾走しようが、それが街の人々にカッコよく見えることは金輪際ない、この哀しさ……冒頭で、箱男と目が合った瞬間に、知らないふりをして去ってしまうかわいい娘さんがいましたが、世間の大半の人は箱男のカモフラージュ術にだまされて箱男を認識できていないのではなく、いるのは百も承知で関わるのがめんどくさいのでスルーしているのです。

 映画版は、箱男の役に「独特の孤高性を持っている人物」としてこれ以上ない存在感をはなつ永瀬さんを起用していながらも、それを取り囲むカメラワークやキャスティングに、かなり辛辣な「なにやってんだ、こいつ……」な醒めた視点を配置していると言えます。

 まず、ニセ箱男を演じる浅野忠信さんからして、永瀬さんと親和性が高いようでいて、実はその属性が炎と氷ほどに違う両極端な関係にあると思います。それはもう、石井監督の本作における浅野さんの使い方からして明白なのですが、浅野さんが饒舌になればなるほど彼の一般的によく知られたダンディズムはガラガラと崩壊し、その異様に重力の無い軽快なトークには、周囲の全ての人々をへへへっと小バカにしたような「かわいい悪意」がむき出しになってくるのです。つまり、浅野さん演じるニセ箱男が「ぼくも箱男になりたいんだよぉ~。」と言えば言うほど永瀬さんの箱男はイラっときますし、医院を経営して社会人として成り立っている男が、ホームレスそのものの箱男を「見下している」という余裕しゃくしゃくな態度がありありと露わになってくるのです。

 ここでちょっと重要なのは、浅野さん演じる医院の実質的運営者が医師免許を持っておらず、院長である佐藤浩市の軍医殿の名義を「借りている」人物であるという点で、この「限りなく本物に近い偽物」というアイデンティティが原作小説ではかなりクローズアップされているのですが、映画版ではこの辺りはあまり強調されません。先に言及されていたような「元衛生兵」氾濫の時代ではもはやないから強調しなかったと言えばそこまでなのですが、軍医殿の正妻「奈々」をニセ箱男が寝取って内縁の妻にしているという設定が、白本さんの葉子に吸収合併されて消えてしまっているのも大きいような気がします。
 ただ、この省略によって、映画版における浅野さんのニセ箱男が本物の箱男をつけ狙う理由が、ニセ箱男本来のヤドカリのように他者の属性を奪う「本物でない存在」にあるのではなく、単に上司である軍医殿が箱男に興味があるからそれにつられて取り憑かれていったという、やや自律性の無い感じになっているのは、ちと残念な感じがします。なるほど~、だからニセ箱男が完全な箱男になるあたりの説得力が物足りなかったのか。

 余談ですが、このニセ箱男の「正妻を寝取るイケメン間男」という立場は、奇しくも1970年代のある超有名なミステリ映画において、他ならぬ佐藤浩市っつぁんのお父様・三国連太郎が演じた役柄の立場でもありました。親の因果が子に報いってやつぅ!?

 そしてそして、私がさらに声を大にして言いたいのは、この映画版において永瀬さんの箱男をさらにアホらしい現実的で弱々しい存在に「堕天」せしめている存在として、浅野さん以上に大きな役割を担っているのが、誰あろう白本彩奈さまであるということなのです! ギャー彩奈サマ~!! 「卑弥呼さま~」みたいなニュアンスで彩奈サマ~!!

 本作の制作にあたり、石井監督は200名近いオーディションの中からヒロインに白本さんを抜擢したというのですが、私が観るに、白本さんを選んだ最大の理由は、彼女が有するたぐいまれなる美貌でもスタイルでも演技力でもなく、その天上天下唯一無二なる「まゆげの左右の段差」にあるような気がしてなりません。

 そう、白本さんのまゆげ! よく見ればわかります、白本さんのまゆげって、右眉の眉がしらが、常に左眉よりも「一段高い」のですよ!! 正面から見るとカタカナの「ハ」みたいな感じになっているのです。所ジョージさんではないですが、こういうふうに片眉が上がる表情って、目の前の物事を一歩引いた目線から分析しているような印象になりますよね。常に一定の距離を置いて世界を見ているわけです。

 くを~!! 石井監督もお目が高い!! 白本さんはもともとクールな美貌の持ち主でもあるわけですが、この神のみわざとしか言いようのないまゆげの段差によって、常に世の中の万物の本質を「ふ~ん、そうなんだ。」と見透かしているかのような「冷徹さ」をたたえているのです!! 全ての美学・哲学を粉砕する白本さんのまゆげの、メデューサの石化能力の如き「なにそれ、アホらし。」化能力!! これには、さすがの永瀬さんもかたなしってわけよぉ!!

 映画版での箱男 VS ニセ箱男の医院地下での大乱戦において、永瀬さんは浅野さんに対して「葉ちゃんって呼ぶんじゃねぇ!!」みたいな絶叫をしていて、それは撮影現場で生まれたアドリブだったそうなのですが、これはもう永瀬さんにジェラシーを生ませる言葉を浅野さんに言わせた白本さんの功績だと思います。というか、原作小説での戸山葉子は、全体的にあっちにフラフラこっちにフラフラと、その時近くにいる男になんとなくついていくような存在感の薄いキャラでした。ところが、映画版の葉子は白本さんというかなりはっきりした「肉体」を得たことで、永瀬さん、浅野さん、浩市っつぁんという3大怪獣を向こうに回して、「男って、なんでこんなにアホばっかなのかしら……」と冷めた目つきとまゆげで観察しているような「真に孤高な存在」となりえているのです。

 つまり、なんだかんだ言っても箱男を含む「男ども」は何かと言い訳をつけて「対決する相手」を探し、「ゲットしたいかわいこちゃん」を追い求める集団性の生き物であるという真理を白日の下に曝すのが、映画版における白本さん起用の最大の目的だったのではないでしょうか。
 作中、白本さんは確かにヌードもいとわない体当たりの演技で男だらけの作品世界に身を投じますが、彼女が「本心」までをも丸裸にする瞬間は一秒たりともありません。むしろ、自分の美しい肢体を前に確実に幼児退行する男どもを観察して、イジるだけイジって、飽きたら去って行く絶対的頂点捕食者なのです。白本さん、こんな役よくやりおおせましたね……大物や!!


 この映画『箱男』は、安部公房の原作小説を可能な限り忠実に映像化した作品であり、現時点の日本映画界における最高の逸材をそろえて対決させた理想的な精華だと思います。
 しかし同時に、本作はこれが石井岳龍監督のトレードマークなのか、登場人物たち(男どもォ!)の生き方が非常に生々しく子どもっぽく、社会に向けて着飾った衣服をかなぐり捨てて裸同士の泥んこプロレスを繰り広げるような、原作小説には無い熱気とアホらしさをおびた、実にオリジナルな大乱闘アクション映画でもあるのです。そして、そんな愛すべき乱痴気騒ぎの中心に立つのは、美神・彩奈さま!!

 ただまぁ、そう考えちゃうと、本作において一番盛り上がったところって、原作の理屈から離れてかなり自由にやっていた、序盤の箱男 VS ワッペン小僧の子どもの怪獣ごっこみたいな荒唐無稽なアクションシーンだったりもするんですよね……あそこはほんとにアホらしくて最高でした。段ボールを貫通する槍をどうやってつかむんだよ! そしてそのまま槍ごと箱男を持ち上げるワッペン小僧の魂の咆哮!! ここ、私の心の母である、あの名前を言うのさえ畏れ多い伝説のギャグマンガ家さんの世界のかほりをかぎ取った瞬間でした。いいな~、このアホらしさ。

 結局、男子は永久に女子のたなごころの上で、ホウキやちりとりを武器にしてわちゃわちゃたはむれているしか能のない生き物であるのか……

 「男子、ちゃんとしなさい!!」の一喝を心のどこかで待ちわびながら、今日も男どもは都会のジャングルで闘いを繰り広げてゆくのであつた。チャンチャン♪
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