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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

モーツァルトハウスとドップラー効”菓”〜ザルツブルグを歩く

2019-08-09 | お出かけ

ザルツブルグでチャーターした女性ガイドは、アラベル庭園で、
石像の表す自然調和の意図を説明しながら、

「今の地球はどうですか?火、水、地、空が汚されていませんか?」

という質問に無理やり賛同させようとして、その手のアピールが大嫌いな
わたしとMKを内心ドン引きさせたものの、その後は彼女もプロらしく
空気を読んで、和やかに案内を続けていました。

このガイドが、ウィーンの男性ガイドと同じく、音楽の勉強に来て、
そのまま現地に住み着いてガイド業をしている人だったと知ったのは、
ツァーが終わって解散するとき、彼女がわたしたちに自分が歌った
CDをプレゼントしてくれたときのことです。

昨今の音大卒業生も経験を積むためにウィーンやドイツ、パリに
留学をするのでしょうが、現地のオケに就職するとかいうならともかく、
ずっとヨーロッパに住んで歌の修行、という人はあまりいない気がします。

彼女やウィーンのガイドさんが若かった頃は、まだまだ芸術に関しては
ヨーロッパ至上主義で他の選択肢がなかったということもあるでしょう。


歌手のアンネット・一恵・ストゥルナートはその中で唯一日本人として
ウィーン国立歌劇場の団員になれたという人ですが、それでも彼女は
オーストリア人に激しい人種差別といじめを受け続けたといいます。

カラヤンが彼女を認める発言をしてからは、虐めだけは収まったそうですが、
最も成功した例でもこんな茨の道だとわかっているのに、あえて、
オーストリアなどという土地で歌手になろうというのは、今時の日本人には
あまり魅力的なチャレンジだと思われていないということかもしれません。

わたしも、楽器、特にピアノやヴァイオリンなどの個人技はともかく、
ヨーロッパで東洋人が歌手として認められるのはかなりハードルが高いと思います。

日本人が主役を張れるのは、かろうじて蝶々夫人かミカドだけ、
というのが常識となっているヨーロッパでは、おそらく今後も
どんなに上手くても東洋人がオペラの主役になることはないでしょう。

「オペラレイシスト」のわたしに言わせると、これは差別でもなんでもなく、
オペラとはそういうものだからです。

歌舞伎や京劇に女性がいないように。宝塚歌劇団に男性が入団できないように。

その点、ダイバーシティをゆるゆるに配慮してしまったアメリカのミュージカルは、
「レ・ミゼラブル」のコゼットアフリカ系(両親はどちらも白人)が登場し、
冷静になって見ればその世界にめまいを覚えるようなところまで来ているわけですが、

まあ、これは観る方も

「何かの事情があってコゼットが黒人でも仕方がない」

という暖かい理解の目で鑑賞することをよしとしているという前提なので、
百歩譲ってよしとします。(よくないけどな)

しかし、わたしは来日したオペラに東洋人を無理やり混ぜてくる一部の
「謎の勢力」には
断固異議を唱えるものです。

例えばあなたが「椿姫」を観にいったら主演が金正日みたいな
チビデブ韓国人のアルフレードだったとしましょう(実話)。

それでもあなたは

「ヨーロッパ貴族を韓国人が演じるなというのは差別だ」

「金正恩似のシークレットブーツ男でもオペラの主役を演じる権利がある」

だからこのチケットに何万円も支払うことになんの痛痒も感じない、むしろ
金髪碧眼のゲルマン系を韓国人に演じさせるという既成の常識破壊に
喜んで出資しよう、わたしは人権侵害はいかなる場合も許さないから。
そう考えるわけですかね?

見た目の不自然さ以前に、

「そういうことに昔から決まっているから」

の一言でどんなポリコレも手を出せない世界があるのだとなぜ思えない?

さて、そんな話はどうでもよろしい。
ガイドさんが例の南京錠の橋を渡って最初に案内したのは、

「Mozart Gebursthouse」

と大きく書かれたモーツァルトの生家でした。

ここでモーツァルトは生まれ、ここが家族四人で手狭になって
川向こうのピンクの家に引っ越しするまで住んでいました。

入り口の脇にあるこの取っ手、なんだと思います?
モーツァルトの時代の「呼び鈴」(正確には違うけど)です。

どうするかというと、目当ての家の表札の下にある取っ手を
引っ張ると、鉄線が引っ張られることになります。

その鉄線は、目当ての家の窓をノックする金具に繋がっています。
窓がコンコンと鳴れば、それは誰かが来た印。

ここからモーツァルトハウスの見学が始まりました。
階段を上っていって、途中にあるブースでチケットを買います。

モーツァルトのお父さん、レオポルドをフィーチャーした特別展のお知らせ。
音楽家であり、マネージャーであり、先生であったレオポルド無くしては
天才モーツァルトはこの世に生まれなかったので注目しましょう、という企画です。

館内はほとんど撮影禁止ですが、展示室の外にある台所だけは
ガイドさんも撮影して構わないと教えてくれました。
ここでモーツァルト家の食事が作られていたようです。

中庭を覗き込んでみました。
おそらくビール瓶やゴミ箱以外は、モーツァルトが見た同じ光景。

館内には、見学するのに1時間はかかるほど資料が展示されていました。
当時のピアノ、楽譜、写真、絵画、家具や持ち物など。

全て館内では撮影が禁止されています。
しかし、いるんですよね。スマホで撮影する不届き者が。

(一人は中国人、一人は白人の中年女性)

わたしたちのガイドさんは、そういう人を見ると、
誰にでもわかるように

「ノーフォト!」

と手を振って注意していましたが、撮影するような人は
わかっていてやっているのですから、その時はやめても
彼女が後ろを向いた途端、平気でスマホを作動させるのです。

「今日はお行儀の悪い人が多いですね」

「そんなにしてまで撮って何がしたいんでしょうね」

話しながら先に進むと、何人かわかりませんが、観光客の小さな子供が
わたしが肩から下げているカメラを指差して、

「写真撮っちゃいけないんだよ!」

というようなことを注意してきました。

「Of course, I won’t.」

わたしは思わず英語で答えましたが、わかったかな?

最後に例によってモーツァルトグッズや楽譜グッズが
お土産用に置いてあるコーナーがあり、その近くにこんなかまくらのような
オーディオブースがありました。

足も疲れていたことだし、とガイドさんを含め全員で座って、

流れてくるモーツァルトに耳を傾けました。

「この曲、ご存知ですか」

ガイドさんが聞いてくるので、

「ピアノ協奏曲の23番イ長調ですね」

と答えると、彼女は自分の横にあったこの説明を見て

「すごい。当たってます!」

いやまあ、昔レッスンで弾いたことがあるし、普通に有名だし、
ある意味知っていて当然なんですが、彼女はえらく驚いてくれました。

モーツァルトハウスの後は街歩きです。
ザルツブルグも、ファサードを抜けていくと中庭にお店があって、
露店が出ていたりするので、それを冷やかしながら歩いて行きます。

ガイドさんが、「モーツァルトチョコレートの元祖」といったお店。
モーツァルトチョコレートはこのブルーの店が始めたそうです。

ここでわたしたちがアメリカ在住の知人(科学者)へのお土産に買ったのが、
ドップラーチョコレート。


クリスチャン・ドップラーがザルツブルグ出身であることを知りましたが、
ここではちゃんと

ドップラー・エフェクト(ドップラー効果)

に引っ掛けて、

Doppler Kon(Ef)fect

コンフェクトはドイツ語のお菓子ですから、あえて日本語でこじつけると

ドップラー効菓・・・

無理やりですね。すみません。

ヴォルフ・ディートリッヒ・フォン・ライテナウという名前は
日本では知られていませんが、ザルツブルグの大司教で建築家で、
王家の血筋を引いたサラブレッドで、結構なワルでした。

ローマで贅沢三昧の日々を過ごしたのちザルツの大司教になった彼は、
聖職者でありながら(いや、聖職者だからかな)妾を囲い、
彼女との間にできた子供を住まわすために、前回ご紹介した
「ドレミの歌」のミラベル宮殿というのも建てたり、もっさりしていた
田舎町に過ぎなかったザルツブルグのをイケイケにかっこよくした張本人です。

というわけでこのお菓子屋さんは、

「ヴォルフ・ディートリッヒ煉瓦」

というザルツの有名人シリーズを販売しています。

ところで、「第三の男」のハリー・ライムは、ボルジア家ではなく、

「ヴォルフ・ディートリッヒは悪政をしたが、そのおかげで
ザルツブルグの街はこのように整備され美しくなったのだ」

といえば、もう少し賛同されたし、ついでに学があるアピールできたかもしれませんね。
でも、そもそもこの人のことを誰も知らないか。

 

続く。



ザルツァッハ川の「愛の南京錠」〜ザルツブルグを歩く

2019-08-08 | 軍艦

さて、ザルツブルグに到着し、ホテルザッハに投宿したわたしたち、
夕暮れのザルツブルグを散歩してみることにしました。

今いるアメリカもそうですが、オーストリアも夏の日没は遅く、
だいたい9時前にようやく夕暮れになるという感じです。

昼間の観光客のざわめきも消えて、広間の人影はまばら。

わたしたちもMKがこのくらいの時、ヨーロッパを連れ回しましたが、
残念ながら現在の彼にはほとんど記憶がないそうです。

ただ、パリで地下鉄の移動が辛かった(階段しかなかったりする)ことや、
興味のない美術館で退屈したというネガティブな思い出はあるようで。

記憶になくとも、小さいうちに子供にいろんなものを見せて
それを原体験にしてあげたい、という思いで、世界の親は
こうやって子供連れでいろんなところに旅行にいくわけです。

荒ぶる馬の石像と恋人たち。

ホテルのテラスから見るザルツァハ川は、橋や川岸の遊歩道の
ライトアップに浮かび上がり幻想的です。

崖の上の変な建物は、今ザルツっ子に大人気の絶景レストラン。

それはともかく、この橋桁が一本しかなく、しかもそれがどうみても

歪んでいる

のにわたしたちは不安を覚えました。
大丈夫なのかこれ。

あけて翌朝、楽しみにしていたホテルザッハの朝ごはん。
保温された銅のフライパンに麦が敷き詰められ、
「10分卵」と称するゆで卵が並んでいます。

一つとってみたところ、10分卵の正体は固茹で半熟半々くらいでした。

小さなお客さま用のワゴンもございます。
色とりどりの食器、動物をかたどったパン、ハムや卵は
子供にも手が届く高さにセットしてある心配り。

驚いたのは、朝ごはんなのにケーキが出されていたこと。
フルーツケーキ、クグロフ、そして・・・・、

ザッハトルテがっ・・・・・!

「朝からザッハトルテ食べるとは・・・」

「今朝も食べた人がすでに何人もいる・・・」((((;゚Д゚)))))))

建物の壁に打たれた杭の下には、

調査マーク
破壊、損傷、または除去することは禁じられています!
通達:
ザルツブルク治安判事
Vermessugsamt

とプレートがありました。
最後のは判事のお名前かしら。

さて、この日はガイドをお願いしてザルツブルグツァーをしました。
ロビーで待ち合わせたガイドさんは、ウィーンの民族衣装を着た女性。
午前中歩き回る予定なのにヒールのサンダルを履いていたのでびっくりです。

わたしはもちろん、履き慣れたスニーカーという万全の体制で臨んでおります。

ホテルから出てすぐのところに、ピンクのモーツァルトハウスがありました。
モーツァルトの生家は市街地の中心にあって、「モーツァルトハウス」として
中に資料が展示されているのですが、こちらは外から見ただけ。

生家が手狭になったのでモーツァルトが17歳の時にこちらに引っ越し、
家族四人で住んでいたのですが、母親が5年後亡くなり、
姉は結婚し、モーツァルトはウィーンに引っ越してしまったので、
父親のレオポルドが一人で住んでいたそうです。

そういえば映画「アマデウス」では、ウィーンの喧騒の中、
夜遊びして放蕩の生活をしているモーツァルトの元に、ザルツから
父ちゃんが現れると、音楽が急に暗く、険しくなり、息子は父に怯える、
という演出があったのを思い出します。

モーツァルトの家のすぐ近くに、これも有名人の住居がありました。

なんと、クリスチャン・アンドレアス・ドップラーの生家です。
1803−1853とありますが、ドップラーがそんな昔の人だったとは。

ドップラー効果というものは誰でも知っていますが、ドップラーが
どこの人でいつそれを発見したか、案外知らないんじゃないでしょうか。
もしかしたらわたしだけ?

ちなみに彼がドップラー効果を数式にしたのは1842年のことです。

蛇足ですが、ドップラー効果は、オランダ人の学者バロットが証明しました。
1845年、列車に乗ったトランペット奏者がGの音を吹き続け、
それを絶対音感を持った音楽家が聞いて音程が変化したことを確認したのです。

その音楽家の名前は歴史に残らなかったんでしょうか。

「ドップラーの両親は隣がモーツァルトの生家だと知ってたんでしょうか」

「もちろん知って借りたと思いますよ」

ザルツブルグというところは本当に偉人を多出しています。
ザッハホテルの隣、橋のたもとにあるこの家ですが、誰の家だと思います?

ヘルベルト・フォン・カラヤン 1908−1989。
カラヤンの生家です。

前庭には指揮をするカラヤンの青銅像があります。
2001年にチェコの彫刻家、アンナ・クロミイが制作したものです。

遠目にもちょっとシワ多すぎね?って思うんですけど。

ツァーの途中、ビルの外壁を掃除している業者がいました。
石の壁が多いザルツブルグでは、外壁は高圧の水で汚れを落とすんですね。

ちょっと立ち止まって見てしまいましたが、スプレーを当てたところは
嘘のように綺麗になっていきます。

ツァーで最初に案内されたのは、ミラベル宮殿の庭園。
ここを有名にした映画が、これでした。

「サウンド・オブ・ミュージック」

この画像は、ウィーンからアメリカに行く飛行機の機内で放映していた
同映画の画面を撮影したものです。

家庭教師のマリアが子供たちと「ドレミの歌」を歌うシーンですね。

この階段の上で、ガイドさんは、わたしに

「指を一本立ててポーズをとってください」

と言って、無理やり写真を撮らせました。
自分の写真をほとんど残していないわたしですが、

「ここでは恥ずかしくても、いい思い出になるんです!」

と強調されて、ついやってしまいました。(写真自粛)

庭園の隅に、入浴中という設定の半裸の女性像がありました。
これがこの庭園の主、ザロメ・アルト。

なんと当時の司教が愛人を囲うために建てたのがこの宮殿だったのです。
愛人の像なのでこんな艶かしい意匠にしたということでしょうか。

壁面をすべて蔦が覆い隠してしまっています。

肩や頭に乗せた鳥の口から水が噴き出しているという・・。
昔の水芸みたい。

「ニシカワフミコさんって知ってます?」

聞き覚えがないので知りませんと答えましたが、ニュース女子に出ている
西川史子さんのことだったかもしれません。

「あそこで結婚式をあげたんですよ」

「昔はこんな立て札、なくても誰も入らなかったんですが、
中国人が増えて(はっきりとそう言った)写真を撮るために
皆が芝生に入るようになったので、仕方なく最近立てられました」

その口調は、わずかながら苦々しげでした。

向こうに見えている白いドームはメッシュになっており、
昔は中で鳥が飼われていたということです。

ミラベル宮殿は現在市役所として普通に使用されていますが、
普通の市役所のように結婚式を挙げることができます。

西川さんはここで式を挙げ、あの宮殿のようなお城で披露宴をしたのかもしれません。

ここでまたしても、結婚した時には、この「天使の階段」に立ち、
二人で写真を撮るのだと強く説得され、仕方がないのでTOと撮ってもらいました。

庭園の藤棚?の前でガイドさんが立ち止まります。

「サウンド・オブ・ミュージック」に出てきた撮影場所です。

「ドレミの歌」のシーンですね。
フリードリッヒとかいう男の子が走ってきます。

さて、その後、ホテルの部屋から見えていた橋を渡って行きました。
ザルツァハ川の河原は京都河原町鴨川沿い状態です。

普通の鍵もありますが、わざわざそれ用に作られたハート型のもの、
二人の名前を刻んだものなどがぎっしりと。

今いるピッツバーグでも、気づけば街のあっちこっちに錠前がかけてあります。

わたしは全く知らなかったのですが、日本にもすでにこの「流行」は
伝播してきていた(しかもいつの間にか終わっていた)らしいのです。

Love Lock

英語ではラブロック、フランス語はカデナ・ダモール、
それなりにロマンチックですが、我が日本では

「愛の南京錠」

というそうです。
よりによって「南京錠」・・・・・・(´・ω・`)

流行り物にはすぐ飛びつく日本であまり爆発的人気にならなかったのは
このネーミングのせいだと思うがどうか。

「美しき青きドナウ」という曲の題名ではありませんが、とにかく驚いたのは
ザルツァハ川の水は翠。翡翠の翠です。

流れも速く、水を滔々と湛え、水上交通で流通の要となったというのがわかります。

皆さんは一度くらい、ウィーン土産に「モーツァルトチョコレート」なる
丸くて美味しくないチョコレートを見るか貰うかしたことがあるでしょう。

ガイドさんに言わせると、あのほとんどは「偽物」なのだとか。
何が本物で何が偽物なのか、その基準がわからないんですが、
モーツァルトチョコレートの元祖はここではないらしいです。

どうでもいいですが、まあ、確かなのは「名物に旨い物なし」ってことです。

それにしても、この美化されたモーツァルトと一緒の謎の美女、だれ?

戦後、ここにもアメリカ軍が進駐しましたが、その時にこの地産の人形を
米軍兵士が気に入って、競うように買い求めて子供の土産にしたため、
小さい時にこれが家にあった、という記憶のある年配のアメリカ人は結構いるのだとか。

冒頭写真はザルツブルグの目ぬき?通りであるゲトライデ通り。

この商店街の看板は、昔から装飾的な鉄細工のものを
通りに向かって見せるように出す習わしです。

これはマクドナルドの看板ですが、ゲトライデ通りに出店する際、
随分反対の声もあったというので、マクドナルドは恐縮し、
周りの雰囲気を壊さないように、ひときわ立派な、しかし象徴である
「ゴールデンアーク」はとっても控えめにした看板を作りました。

しかし、蔦が装飾されたガチョウの首が咥えるゴールデンアークの月桂樹、
その根元には王冠をかぶったライオン、色々盛り込みすぎてわけわからんことに。

案の定、ザルツブルグっ子にはこの盛りだくさんな真鍮看板、
「やりすぎだ」とバカにされているんだとか。

・・・ドンマイ、マック。


続く。

 

 


ボーイング B-29 スーパーフォートレス「エノラ・ゲイ」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-08-06 | 航空機

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ザッハホテルで戴くザッハトルテの恐怖〜ザルツブルグ滞在

2019-08-04 | お出かけ

ウィーンから車で休憩と「アドブルー」なる窒素材の補給をしながら
約4時間でザルツブルグにたどり着きました。

こちらが本日のお宿でございます。
ホテル・ザッハ・ザルツブルグ。

ナビが指し示すザルツブルグでのホテルの入り口は、
一流ホテルという割にはこじんまりした構えです。

旅行企画者曰く、今回ウィーンでリーズナブルなホテルにしたのは、
ザルツブルグでこのザッハに泊まることになっていたからでした。

一極集中型、一点豪華主義と言うやつですね。

ロビーもそれほど広いというわけではありませんが、その真ん中に
人の背丈より高い花器がそびえ立っております。
フラワーアレンジメントの気合いの入り具合がいかにも五つ星のロビー。

昔はきっと、もっと重厚な天鵞絨張りの椅子が配されていたのでしょう。
オープン以来、政治家や各界の有名人がこのロビーに姿を表しました。

特に、ザルツブルグ音楽祭の期間中は、このホテルに、綺羅星のような
名だたる演奏家が宿泊してきたはずです。
ホテルのすぐ隣が生家であったという、ヘルベルト・フォン・カラヤンも勿論。

ロビーの上部は天井までの吹き抜けになっており、しかも天井は
ガラス張りの灯り取り仕様になっています。

いつのことかは知りませんが、この写真で見える左の窓のない部分、
つまり最上階は後から増設した部分だということなので、その時に
思い切って屋根をサンルームのようにしてしまったのに違いありません。

改装前はきっともっと室内は暗かったと思われます。

わたしたちが今回宿泊したのは、改装前の最上階になります。
右奥に今荷物が運び込まれています。

部屋の前から見た同じ場所。
この上階の部屋は、「カール・ベームルーム」とか、「カラヤンルーム」とか、
そういう名前のついた「特別室」ばかりだそうです。

もしかしたら、その名前の本人が泊まった部屋なのかもしれません。

ホテル内の壁紙はモーツァルトの自筆楽譜をデザインしたもの。

グランドフロア(日本の一階)にはこのような会議用の部屋もございます。

そしてこちらがわたしたちが泊まった部屋でございます。
広くはありませんが、とにかくインテリアがゴージャス。

ただし、ここに家族三人が無理やり泊まることになったため、
三つ目のベッドはメインの足下にくっつけて置いてありました(笑)

インターネットのスピードは残念ながら極遅で、部屋ではPCはできませんでした。

なんと、部屋にはウェルカムフルーツと、支配人からのお手紙。

一人一つづつ、名物のザッハトルテが用意されていました。
いうまでもないですが、ザッハトルテはホテルザッハーの創業者の父が
もともと菓子職人で、そういうチョコレートケーキを作っていたので、
ホテルを開業した息子がホテルの名前を冠して名物にしたというものです。

「明日の朝10時からティールームでザッハトルテを食べる予約入れたんだけど」(´・ω・`)

「わざわざ予約しなくてもここにあるじゃない」

「キャンセルする」(´・ω・`)

「じゃインペリアルトルテを持ってきたから今夜は食べ比べだ!」

「おー!」

部屋の中を点検すると、さすがは一流ホテル、アメニティの充実半端なし。

あとで使ってみて驚いたのは、シャンプー、リンス、ボディソープ、
ボディローション、その全てがチョコレート味?だったこと。

チェックアウトの際には皆トランクに入れて持って帰りました。

洗面台に一輪刺しに入れて飾ってあった見事な薔薇。

そして窓からの眺めです。
昔のホテルなのでバルコニーに出る扉は大きくないのですが・・。

バルコニーに立つと、思わず歎声が漏れました。
目の前は、ザルツブルグの資源を国内に輸送する役割を担ってきた
重要な水上運送の要、ザルツァハ川です。

で、わたしたちのこの部屋なんですが、

あとで外に出てから、

「もしかしてわたしたちの部屋って、ザッハーって字の下?」

「ど真ん中じゃない?」

「いやー、そんなはずは・・・バルコニー、丸かったっけ」

そんな会話をしておりましたが、結局赤丸のところだったことが判明しました。

いやー、なんかすごい部屋をアサインしてもらったみたいで悪いわー。

実はわたしたちがザルツブルグを去った次の週には、かの有名な
ザルツブルグ音楽祭が行われ、それこそザッハーホテルはVIPで満室となるので、
その直前ということで比較的空いていて、こんな部屋にしてもらえたのでしょう。

部屋から見える橋には、なにやら遠目にきらきらひかる鍵が、
それこそ無数に取り付けられているのが見えます。

タピオカミルクティー並みにごく最近のブームなんだそうですが、
橋に恋人同士で鍵をつけて、恋愛成就を願うのだとか。

部屋のバルコニーから見た、ザ・ザルツブルグな眺め。
そういえば、「サウンド・オブ・ミュージック」のザルツブルグのシーンは
ちょうどこの角度から見る景色で始まっていましたっけ。

アドブルー騒ぎで昼食を食べ損ねたので、ルームサービスを取ってみました。
バーガーは冗談のようですが「ザルツバーガー(Salzburger)」と言います。

ザルツブルグにeをつけると、普通に「ザルツブルグ人」のことですが、
ハンバーガーのburgerでもあるので、当地ではシャレで英語読みしてバーガー、
これをご当地食として売っているのです。

もともとハンバーガー(hamburger)って、ハンブルグが語源なわけですし。
ペテルスブルグにペテルスバーガー、ザクセンブルグにザクセンバーガー、
アウグスブルグにアウグスバーガーフライブルグに以下略、
という風に、現在ではほとんどの土地にあっても不思議じゃないね。

ザッハーホテルのザルツバーガーは大変美味しかったですが、
MKは「佐世保バーガーの方が美味しかった」と言い切っておりました。

問題は下のスープです。
なんだか色が不穏な濃さだと思いませんこと?
これを一口啜ったTO、途端に

「辛っ」

続いてMK。

「辛っ!」

わたし。

「かっらー!辛いわこれ!」


とにかく辛い。塩辛いのです。

「いやー、これ何かの間違いじゃないのかな」

あまりに辛いので、つい人を呼んで何かの間違いではないか、
と聞いてみたのですが、

「当ホテルのスープはお味を濃いめにしてあります」

とのこと。
納得いかないままに三口だけ食べ後を残して持って帰ってもらいました。

シェフが奥さんと喧嘩して家を出てきていると料理が辛いとか言いますが、
そういうレベルではなく、度はずれに辛かったです。

まさか、ザルツブルグのザルツは「塩」という意味だから・・・?


三人でバーガー1個、スープ一口ずつをお腹に入れて、そのあとは
町歩きにいき、帰ってきてから本格的に夕食をとりました。

当ホテルのメインダイニングということで、一応気を使って
TOなどジャケットを着て行ったのですが、通されたのはテラス席で、
周りの人たちはおしゃれではあるけれど半ズボンとか(笑)

一流ホテルといえども、夏のアウトドアではカジュアルになるんですね。
で、それはいいんですが、困ったのがハエの多さ。
食事をしている間、止まりに来るハエを払うのに、ずっと手をひらひらさせて
動かしていないといけないという・・・・。

日本やアメリカの一流と言われるホテルなら、なんとかハエが出ないように
根本から衛生状態を改善するとかしそうなんですが。

この滞在で、文化の重みはともかく、衛生とか清潔とかいうことになると、
ヨーロッパは
決して我々が満足するような状態ではないと知ることになりました。

パリで十分そのことは身にしみていたのですが、ドイツ語圏なので
清潔好きの民族性に期待していたんですがねえ。

あらためて(トイレの歴史を考えても)世界一清潔なのは日本だと確信したものです。

そしてお料理。
さっきのスープの件があったので、嫌な予感がしていましたが、
例えばこのトビコをあしらったサラダなども少し、いやかなり辛めでした。

デザートは取らず、夜、部屋に戻って、ザッハトルテ一つを三人で食しました。
最初に食べたTO、

「甘っ」

続いてMK、

「甘っ!」

わたし。

「あっまー!甘いわ!」

いやー、日本人には甘すぎと聞いていましたが、ここまでとは。

「もういらない」

「もう結構です」

「勘弁してください」(泣)

ここまで言われるザッハトルテって。

この小さな塊で大騒ぎしていた日には、ロビーで売っていた
このワンホールザッハトルテはどうなる。

「これ全部食べたらただにしてあげるって言われたら食べる?」

「食べない」

「お金あげるって言われたら?」

「多分相当もらわないと無理」

ここまで言われるザッハトルテって一体。

そこで、ガイドさんにオススメしてもらったインペリアルトルテですよ。

同じようにチョコレートケーキとマジパンを積み重ねてカットし、
それにチョコレートをかけて仕上げているのですが、
こちら、特にガイドさんの奥様オススメのラズベリー味のトルテは、
羊羹のように2ミリくらいの厚さに切っていただくと、
特に甘くないお茶と一緒に食すとなかなかのものでした。

が、これでも一つ丸々食べるのは、普通の日本人には少し辛いと思われます。

「日本人はよく”甘くなくて美味しい”なんて言いますけどね。
お菓子はもともと甘いもんなんですよ。
甘いのが嫌いならお菓子なんて食べなきゃいい。

だいたい、甘すぎ甘すぎって言うけど、何でも砂糖で味付けして、
甘くて仕方がない日本料理を食べているくせにねえ」

ウィーンのガイドさんは日本人の「甘いもの嫌い」に苦言を呈していましたが、
いや、ザッハトルテの甘さははっきり言ってそういうレベルじゃないっす(笑)

 

続く。


アド・ブルーって何?〜ウィーン-ザルツブルグ車の旅

2019-08-03 | お出かけ

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ルフトバッフェの敗北 ドイツ軍航空機史〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-08-02 | 航空機

さて、前回に続き、第二次世界大戦から終戦までのドイツ航空機史を
軍事分野に限って解説するシリーズ、続きです。

ミソニアン航空宇宙博物館別館、スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターの
キュレーターによる解説を翻訳したものを中心にお送りしています。

 

ロシア戦線にあるAユンカースJu52輸送

スターリングラードでドイツ陸軍がソビエト軍に包囲されたとき、
ゲーリングはヒトラーにルフトバッフェが人員輸送することで
戦線が維持できると断言した。

三ヶ月の間千単位の種類の輸送機と爆撃機がスターリングラードに飛び、
陸軍に物資の輸送を行い続けた。

しかしながら、天候や事故、そしてソ連の戦闘機の銃撃などで
(おそらく女性を含む狙撃兵の攻撃も)兵力は磨耗し、
1943年2月2日にはそれも限界に達した。

およそ10万人の生き残った兵士たちがソ連軍に囲まれることになったのだ。

 

メッサーシュミットBf109の生産ライン

帝国防衛 (Defending The Reich)

1944年の初頭までにルフトバッフェは連合国空軍からの防衛にかかりきりでした。
米英の爆撃機隊にはかなりの喪失がもたらされましたが、
アメリカに新たに導入された長距離エスコートファイター(護衛戦闘機)は、
逆にドイツ側に大打撃を与えました。

(このエスコートファイターとは、時期的にいうと、
ロッキードP-38ライトニングではないかと思われます)

その年の春までには連合国軍はヨーロロッパ全土の制空権を確立し、
このことがノルマンディ上陸作戦の成功の決定的な要因となりました。

Dデイの後の数ヶ月で、前線のルフトバッフェの戦闘機隊は事実上壊滅しました。

イギリス海峡沿いのレーダーサイトはロイヤルフォースの戦闘機に指示を与え、
そのためドイツの夜間戦闘機は効果を上げることができませんでしたし、
連合国軍は燃料工場を重点的に狙ってきました。

たちまち燃料不足はルフトバッフェのオペレーションに困難をきたし、
次世代のパイロットを訓練する余裕すらなくなってきたのです。

連合国軍の爆撃にが激しくなり、ドイツの航空産業は戦闘機の製造を
減らすしかなくなり、外国人労働者を一部採用して費用を安く上げるなどしました。

ジェット機や他の先進的な武器は地下や窪地などで工場を移し、
しまいには強制収用所の囚人を労働者として使うしかなくなっていたのです。

 

Gun Camera Footage Luftwaffe FW 190 & Bf109 / Me109 Fighters Shot Down WW2 GSAP Newsreel

 

左はここSFUHセンターに世界で唯一の機体が展示されている、
アラドのAr 234 Ar 234 ブリッツ、ジェット爆撃機。

右はこれも日本の「橘花」と並べてお話ししたメッサーシュミットの
Me262ジェットファイターです。

そして、Me163コメート、ロケット推進戦闘機です。(≧∇≦)
30ミリ砲を搭載しており、相手が低速の爆撃機だったりした場合には
大変有効だったということです。

右側の写真は、航空機製造に従事させらていた「スレイブレイバー」(奴隷労働者)
製造中の機体を守るため地下に置かれていた製造工場の様子。

閉所&暗所恐怖症の人にはおすすめしません。

フォッケウルフ Ta152 H 高高度偵察機

当時にして世界最速のプロペラ推進高高度爆撃機。

こんな状況でも単体としてみれば画期的だったり革新的だったり、
超高速だったりする飛行機をどんどん開発できるんですから、
ドイツ人が自国の技術力に過信していたとしても仕方ありますまい。

ハインケルHe162 ”人民の戦闘機”Volksjäger

戦闘機のことをドイツ語で「イエーガー」(jäger)というらしいのですが、
そういえば同じ名前の伝説のパイロットがアメリカにいましたよね。

チャック・イエーガーは若き日にイギリスに派遣され、それこそ
ドイツ軍の「イエーガー」とどんぱちやりあっております。

彼は音速を破る前に、戦闘機パイロットとしてドイツ機を11機と半分撃墜した
エースでもあり、
メッサーシュミットのMeBf109を1日に5機撃墜しているほか、
Me262シュワルベの初撃墜という記録も持っています。

この写真のフォルクスイエーガーは見るからに変なものを背負っていますが、
なんとこれ、単発ジェットエンジン(BMW製)です。

連合国の止まらない攻撃を少しでも食い止めるため、
ゲーリングとシュペーアのコンビが「国民の戦闘機」を計画し、
試験段階では905km/hというとんでもない速度を記録しました。

実戦にも配備され、何機かを撃墜したという記録もあるのですが、
配備された46機のうち13機が瞬く間に墜落したり撃墜されて、しかも
30分しか飛行できないという特性のため、時間切れで二人が帰還できず死亡、
という結構大変な飛行機だったようです。

が「フォルクス」とつけただけあって、ドイツはこれを急造し、
600機くらいを配備する予定だったようです。

もしこれが実際に配備されていたら、確かに連合国は苦労したでしょうが、
ドイツ側にも未熟なパイロットの犠牲がかなり出たであろうと予想されています。

まあ、こういう武器に頼るしかなかったというのが、ドイツがもう
いろんな意味で敗戦に直面する時期に来ていたという証拠でしょう。

特攻に頼るしかない状況だった敗戦直前の日本を思わせるものがあります。

 

 

敗北

1944年の終わりには、連合国の爆撃は事実上ドイツの燃料工場を壊滅させ、
交通網を完全に麻痺させてしまっていました。

航空機製造のための設備はそれでも建造を続けていましたが、
燃料の絶望的な不足と、ルフトバッフェにはもうまともな搭乗員は残っておらず、
それは連合国の攻撃以上に深刻な問題だったのです。

ドイツ戦闘機部隊は1945年の1月1日、最後の大掛かりな攻撃を西部で行いました。
それによって200機もの航空機が失われましたが、効果は僅少でした。

ドイツ軍の前線での崩壊に伴って、生き残ったルフトバッフェの部隊は
混乱のまま再配備され、彼らの航空基地になだれ込んでくる連合国を
劣勢の中迎え討たねばならなかったのです。

まだドイツの支配下にある地域に避難できなかった航空機は、
破壊または放棄されました。

そして、ドイツが降伏したのは1945年5月8日。

かつては最強と言われたドイツ空軍の残党は、すでに
ドイツ全土に散り散りになってしまっていました。

壊され放置された ユンカース Ju88

地上航空員は連合国軍に囲まれたと知ると、侵攻してくる前に
とくに最新式だった航空機を破壊し、飛べないようにしてしまいました。

破壊されたユンカースのJu88Gは、時速630kmを誇り、終戦まで
夜間戦闘機としては無敵といわれていました。

Me262戦闘機の野外組み立て場

工場が爆撃の対象になり、メッサーシュミットの最終的なMe262の組み立ては
こんなところで行われていました。

飛行機はできるとここからアウトバーンをタキシングして部隊に配備していたのです。
これはアメリカ軍の侵攻部隊が1945年4月に撮った写真です。

アメリカに向かうドイツ航空機

以前ここでもお話ししたことがある「ワトソンの魔法使い」こと
ワトソン大佐とそのチームが集めたルフトバッフェの飛行機は
1945年7月、HMS「リーパー」に載せられ、ニューアークに向かいました。

そのうち7機が海軍の飛行テストを受けるためにフェニックスリバーに、
残りは陸軍の評価を受けるためライトフィールドに分配されています。

 捕獲したMe262とドヤ顔で写真を撮るワトソン大佐

アメリカ軍に任命され、アメリカに持ち帰るドイツ機を集める仕事をした
テストパイロットでもあるハロルド・ワトソン大佐。

彼のチームは「ワトソンの魔法使い」と呼ばれ、多くのドイツ製
戦闘機を操縦してシェルブールに集め、そこから本国に送りました。

きっとテストパイロット的には楽しい仕事だったろうと思います。

スミソニアン博物館の倉庫@パークリッジ

各地で評価を受けテストされたあと、ドイツの捕獲機は、スミソニアンが
希望を出した機体のみの倉庫まで輸送されてやってきました。

かつてダグラスの工場があったオヘアフィールドのパークリッジに
格納されたドイツ機の写真です。

それらはメリーランドへの倉庫移転を経て、今ではその全てが
ここスティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターで展示されています。


 


 

 

終わり。