ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

モーツァルトハウスとドップラー効”菓”〜ザルツブルグを歩く

2019-08-09 | お出かけ

ザルツブルグでチャーターした女性ガイドは、アラベル庭園で、
石像の表す自然調和の意図を説明しながら、

「今の地球はどうですか?火、水、地、空が汚されていませんか?」

という質問に無理やり賛同させようとして、その手のアピールが大嫌いな
わたしとMKを内心ドン引きさせたものの、その後は彼女もプロらしく
空気を読んで、和やかに案内を続けていました。

このガイドが、ウィーンの男性ガイドと同じく、音楽の勉強に来て、
そのまま現地に住み着いてガイド業をしている人だったと知ったのは、
ツァーが終わって解散するとき、彼女がわたしたちに自分が歌った
CDをプレゼントしてくれたときのことです。

昨今の音大卒業生も経験を積むためにウィーンやドイツ、パリに
留学をするのでしょうが、現地のオケに就職するとかいうならともかく、
ずっとヨーロッパに住んで歌の修行、という人はあまりいない気がします。

彼女やウィーンのガイドさんが若かった頃は、まだまだ芸術に関しては
ヨーロッパ至上主義で他の選択肢がなかったということもあるでしょう。


歌手のアンネット・一恵・ストゥルナートはその中で唯一日本人として
ウィーン国立歌劇場の団員になれたという人ですが、それでも彼女は
オーストリア人に激しい人種差別といじめを受け続けたといいます。

カラヤンが彼女を認める発言をしてからは、虐めだけは収まったそうですが、
最も成功した例でもこんな茨の道だとわかっているのに、あえて、
オーストリアなどという土地で歌手になろうというのは、今時の日本人には
あまり魅力的なチャレンジだと思われていないということかもしれません。

わたしも、楽器、特にピアノやヴァイオリンなどの個人技はともかく、
ヨーロッパで東洋人が歌手として認められるのはかなりハードルが高いと思います。

日本人が主役を張れるのは、かろうじて蝶々夫人かミカドだけ、
というのが常識となっているヨーロッパでは、おそらく今後も
どんなに上手くても東洋人がオペラの主役になることはないでしょう。

「オペラレイシスト」のわたしに言わせると、これは差別でもなんでもなく、
オペラとはそういうものだからです。

歌舞伎や京劇に女性がいないように。宝塚歌劇団に男性が入団できないように。

その点、ダイバーシティをゆるゆるに配慮してしまったアメリカのミュージカルは、
「レ・ミゼラブル」のコゼットアフリカ系(両親はどちらも白人)が登場し、
冷静になって見ればその世界にめまいを覚えるようなところまで来ているわけですが、

まあ、これは観る方も

「何かの事情があってコゼットが黒人でも仕方がない」

という暖かい理解の目で鑑賞することをよしとしているという前提なので、
百歩譲ってよしとします。(よくないけどな)

しかし、わたしは来日したオペラに東洋人を無理やり混ぜてくる一部の
「謎の勢力」には
断固異議を唱えるものです。

例えばあなたが「椿姫」を観にいったら主演が金正日みたいな
チビデブ韓国人のアルフレードだったとしましょう(実話)。

それでもあなたは

「ヨーロッパ貴族を韓国人が演じるなというのは差別だ」

「金正恩似のシークレットブーツ男でもオペラの主役を演じる権利がある」

だからこのチケットに何万円も支払うことになんの痛痒も感じない、むしろ
金髪碧眼のゲルマン系を韓国人に演じさせるという既成の常識破壊に
喜んで出資しよう、わたしは人権侵害はいかなる場合も許さないから。
そう考えるわけですかね?

見た目の不自然さ以前に、

「そういうことに昔から決まっているから」

の一言でどんなポリコレも手を出せない世界があるのだとなぜ思えない?

さて、そんな話はどうでもよろしい。
ガイドさんが例の南京錠の橋を渡って最初に案内したのは、

「Mozart Gebursthouse」

と大きく書かれたモーツァルトの生家でした。

ここでモーツァルトは生まれ、ここが家族四人で手狭になって
川向こうのピンクの家に引っ越しするまで住んでいました。

入り口の脇にあるこの取っ手、なんだと思います?
モーツァルトの時代の「呼び鈴」(正確には違うけど)です。

どうするかというと、目当ての家の表札の下にある取っ手を
引っ張ると、鉄線が引っ張られることになります。

その鉄線は、目当ての家の窓をノックする金具に繋がっています。
窓がコンコンと鳴れば、それは誰かが来た印。

ここからモーツァルトハウスの見学が始まりました。
階段を上っていって、途中にあるブースでチケットを買います。

モーツァルトのお父さん、レオポルドをフィーチャーした特別展のお知らせ。
音楽家であり、マネージャーであり、先生であったレオポルド無くしては
天才モーツァルトはこの世に生まれなかったので注目しましょう、という企画です。

館内はほとんど撮影禁止ですが、展示室の外にある台所だけは
ガイドさんも撮影して構わないと教えてくれました。
ここでモーツァルト家の食事が作られていたようです。

中庭を覗き込んでみました。
おそらくビール瓶やゴミ箱以外は、モーツァルトが見た同じ光景。

館内には、見学するのに1時間はかかるほど資料が展示されていました。
当時のピアノ、楽譜、写真、絵画、家具や持ち物など。

全て館内では撮影が禁止されています。
しかし、いるんですよね。スマホで撮影する不届き者が。

(一人は中国人、一人は白人の中年女性)

わたしたちのガイドさんは、そういう人を見ると、
誰にでもわかるように

「ノーフォト!」

と手を振って注意していましたが、撮影するような人は
わかっていてやっているのですから、その時はやめても
彼女が後ろを向いた途端、平気でスマホを作動させるのです。

「今日はお行儀の悪い人が多いですね」

「そんなにしてまで撮って何がしたいんでしょうね」

話しながら先に進むと、何人かわかりませんが、観光客の小さな子供が
わたしが肩から下げているカメラを指差して、

「写真撮っちゃいけないんだよ!」

というようなことを注意してきました。

「Of course, I won’t.」

わたしは思わず英語で答えましたが、わかったかな?

最後に例によってモーツァルトグッズや楽譜グッズが
お土産用に置いてあるコーナーがあり、その近くにこんなかまくらのような
オーディオブースがありました。

足も疲れていたことだし、とガイドさんを含め全員で座って、

流れてくるモーツァルトに耳を傾けました。

「この曲、ご存知ですか」

ガイドさんが聞いてくるので、

「ピアノ協奏曲の23番イ長調ですね」

と答えると、彼女は自分の横にあったこの説明を見て

「すごい。当たってます!」

いやまあ、昔レッスンで弾いたことがあるし、普通に有名だし、
ある意味知っていて当然なんですが、彼女はえらく驚いてくれました。

モーツァルトハウスの後は街歩きです。
ザルツブルグも、ファサードを抜けていくと中庭にお店があって、
露店が出ていたりするので、それを冷やかしながら歩いて行きます。

ガイドさんが、「モーツァルトチョコレートの元祖」といったお店。
モーツァルトチョコレートはこのブルーの店が始めたそうです。

ここでわたしたちがアメリカ在住の知人(科学者)へのお土産に買ったのが、
ドップラーチョコレート。


クリスチャン・ドップラーがザルツブルグ出身であることを知りましたが、
ここではちゃんと

ドップラー・エフェクト(ドップラー効果)

に引っ掛けて、

Doppler Kon(Ef)fect

コンフェクトはドイツ語のお菓子ですから、あえて日本語でこじつけると

ドップラー効菓・・・

無理やりですね。すみません。

ヴォルフ・ディートリッヒ・フォン・ライテナウという名前は
日本では知られていませんが、ザルツブルグの大司教で建築家で、
王家の血筋を引いたサラブレッドで、結構なワルでした。

ローマで贅沢三昧の日々を過ごしたのちザルツの大司教になった彼は、
聖職者でありながら(いや、聖職者だからかな)妾を囲い、
彼女との間にできた子供を住まわすために、前回ご紹介した
「ドレミの歌」のミラベル宮殿というのも建てたり、もっさりしていた
田舎町に過ぎなかったザルツブルグのをイケイケにかっこよくした張本人です。

というわけでこのお菓子屋さんは、

「ヴォルフ・ディートリッヒ煉瓦」

というザルツの有名人シリーズを販売しています。

ところで、「第三の男」のハリー・ライムは、ボルジア家ではなく、

「ヴォルフ・ディートリッヒは悪政をしたが、そのおかげで
ザルツブルグの街はこのように整備され美しくなったのだ」

といえば、もう少し賛同されたし、ついでに学があるアピールできたかもしれませんね。
でも、そもそもこの人のことを誰も知らないか。

 

続く。



ザルツァッハ川の「愛の南京錠」〜ザルツブルグを歩く

2019-08-08 | 軍艦

さて、ザルツブルグに到着し、ホテルザッハに投宿したわたしたち、
夕暮れのザルツブルグを散歩してみることにしました。

今いるアメリカもそうですが、オーストリアも夏の日没は遅く、
だいたい9時前にようやく夕暮れになるという感じです。

昼間の観光客のざわめきも消えて、広間の人影はまばら。

わたしたちもMKがこのくらいの時、ヨーロッパを連れ回しましたが、
残念ながら現在の彼にはほとんど記憶がないそうです。

ただ、パリで地下鉄の移動が辛かった(階段しかなかったりする)ことや、
興味のない美術館で退屈したというネガティブな思い出はあるようで。

記憶になくとも、小さいうちに子供にいろんなものを見せて
それを原体験にしてあげたい、という思いで、世界の親は
こうやって子供連れでいろんなところに旅行にいくわけです。

荒ぶる馬の石像と恋人たち。

ホテルのテラスから見るザルツァハ川は、橋や川岸の遊歩道の
ライトアップに浮かび上がり幻想的です。

崖の上の変な建物は、今ザルツっ子に大人気の絶景レストラン。

それはともかく、この橋桁が一本しかなく、しかもそれがどうみても

歪んでいる

のにわたしたちは不安を覚えました。
大丈夫なのかこれ。

あけて翌朝、楽しみにしていたホテルザッハの朝ごはん。
保温された銅のフライパンに麦が敷き詰められ、
「10分卵」と称するゆで卵が並んでいます。

一つとってみたところ、10分卵の正体は固茹で半熟半々くらいでした。

小さなお客さま用のワゴンもございます。
色とりどりの食器、動物をかたどったパン、ハムや卵は
子供にも手が届く高さにセットしてある心配り。

驚いたのは、朝ごはんなのにケーキが出されていたこと。
フルーツケーキ、クグロフ、そして・・・・、

ザッハトルテがっ・・・・・!

「朝からザッハトルテ食べるとは・・・」

「今朝も食べた人がすでに何人もいる・・・」((((;゚Д゚)))))))

建物の壁に打たれた杭の下には、

調査マーク
破壊、損傷、または除去することは禁じられています!
通達:
ザルツブルク治安判事
Vermessugsamt

とプレートがありました。
最後のは判事のお名前かしら。

さて、この日はガイドをお願いしてザルツブルグツァーをしました。
ロビーで待ち合わせたガイドさんは、ウィーンの民族衣装を着た女性。
午前中歩き回る予定なのにヒールのサンダルを履いていたのでびっくりです。

わたしはもちろん、履き慣れたスニーカーという万全の体制で臨んでおります。

ホテルから出てすぐのところに、ピンクのモーツァルトハウスがありました。
モーツァルトの生家は市街地の中心にあって、「モーツァルトハウス」として
中に資料が展示されているのですが、こちらは外から見ただけ。

生家が手狭になったのでモーツァルトが17歳の時にこちらに引っ越し、
家族四人で住んでいたのですが、母親が5年後亡くなり、
姉は結婚し、モーツァルトはウィーンに引っ越してしまったので、
父親のレオポルドが一人で住んでいたそうです。

そういえば映画「アマデウス」では、ウィーンの喧騒の中、
夜遊びして放蕩の生活をしているモーツァルトの元に、ザルツから
父ちゃんが現れると、音楽が急に暗く、険しくなり、息子は父に怯える、
という演出があったのを思い出します。

モーツァルトの家のすぐ近くに、これも有名人の住居がありました。

なんと、クリスチャン・アンドレアス・ドップラーの生家です。
1803−1853とありますが、ドップラーがそんな昔の人だったとは。

ドップラー効果というものは誰でも知っていますが、ドップラーが
どこの人でいつそれを発見したか、案外知らないんじゃないでしょうか。
もしかしたらわたしだけ?

ちなみに彼がドップラー効果を数式にしたのは1842年のことです。

蛇足ですが、ドップラー効果は、オランダ人の学者バロットが証明しました。
1845年、列車に乗ったトランペット奏者がGの音を吹き続け、
それを絶対音感を持った音楽家が聞いて音程が変化したことを確認したのです。

その音楽家の名前は歴史に残らなかったんでしょうか。

「ドップラーの両親は隣がモーツァルトの生家だと知ってたんでしょうか」

「もちろん知って借りたと思いますよ」

ザルツブルグというところは本当に偉人を多出しています。
ザッハホテルの隣、橋のたもとにあるこの家ですが、誰の家だと思います?

ヘルベルト・フォン・カラヤン 1908−1989。
カラヤンの生家です。

前庭には指揮をするカラヤンの青銅像があります。
2001年にチェコの彫刻家、アンナ・クロミイが制作したものです。

遠目にもちょっとシワ多すぎね?って思うんですけど。

ツァーの途中、ビルの外壁を掃除している業者がいました。
石の壁が多いザルツブルグでは、外壁は高圧の水で汚れを落とすんですね。

ちょっと立ち止まって見てしまいましたが、スプレーを当てたところは
嘘のように綺麗になっていきます。

ツァーで最初に案内されたのは、ミラベル宮殿の庭園。
ここを有名にした映画が、これでした。

「サウンド・オブ・ミュージック」

この画像は、ウィーンからアメリカに行く飛行機の機内で放映していた
同映画の画面を撮影したものです。

家庭教師のマリアが子供たちと「ドレミの歌」を歌うシーンですね。

この階段の上で、ガイドさんは、わたしに

「指を一本立ててポーズをとってください」

と言って、無理やり写真を撮らせました。
自分の写真をほとんど残していないわたしですが、

「ここでは恥ずかしくても、いい思い出になるんです!」

と強調されて、ついやってしまいました。(写真自粛)

庭園の隅に、入浴中という設定の半裸の女性像がありました。
これがこの庭園の主、ザロメ・アルト。

なんと当時の司教が愛人を囲うために建てたのがこの宮殿だったのです。
愛人の像なのでこんな艶かしい意匠にしたということでしょうか。

壁面をすべて蔦が覆い隠してしまっています。

肩や頭に乗せた鳥の口から水が噴き出しているという・・。
昔の水芸みたい。

「ニシカワフミコさんって知ってます?」

聞き覚えがないので知りませんと答えましたが、ニュース女子に出ている
西川史子さんのことだったかもしれません。

「あそこで結婚式をあげたんですよ」

「昔はこんな立て札、なくても誰も入らなかったんですが、
中国人が増えて(はっきりとそう言った)写真を撮るために
皆が芝生に入るようになったので、仕方なく最近立てられました」

その口調は、わずかながら苦々しげでした。

向こうに見えている白いドームはメッシュになっており、
昔は中で鳥が飼われていたということです。

ミラベル宮殿は現在市役所として普通に使用されていますが、
普通の市役所のように結婚式を挙げることができます。

西川さんはここで式を挙げ、あの宮殿のようなお城で披露宴をしたのかもしれません。

ここでまたしても、結婚した時には、この「天使の階段」に立ち、
二人で写真を撮るのだと強く説得され、仕方がないのでTOと撮ってもらいました。

庭園の藤棚?の前でガイドさんが立ち止まります。

「サウンド・オブ・ミュージック」に出てきた撮影場所です。

「ドレミの歌」のシーンですね。
フリードリッヒとかいう男の子が走ってきます。

さて、その後、ホテルの部屋から見えていた橋を渡って行きました。
ザルツァハ川の河原は京都河原町鴨川沿い状態です。

普通の鍵もありますが、わざわざそれ用に作られたハート型のもの、
二人の名前を刻んだものなどがぎっしりと。

今いるピッツバーグでも、気づけば街のあっちこっちに錠前がかけてあります。

わたしは全く知らなかったのですが、日本にもすでにこの「流行」は
伝播してきていた(しかもいつの間にか終わっていた)らしいのです。

Love Lock

英語ではラブロック、フランス語はカデナ・ダモール、
それなりにロマンチックですが、我が日本では

「愛の南京錠」

というそうです。
よりによって「南京錠」・・・・・・(´・ω・`)

流行り物にはすぐ飛びつく日本であまり爆発的人気にならなかったのは
このネーミングのせいだと思うがどうか。

「美しき青きドナウ」という曲の題名ではありませんが、とにかく驚いたのは
ザルツァハ川の水は翠。翡翠の翠です。

流れも速く、水を滔々と湛え、水上交通で流通の要となったというのがわかります。

皆さんは一度くらい、ウィーン土産に「モーツァルトチョコレート」なる
丸くて美味しくないチョコレートを見るか貰うかしたことがあるでしょう。

ガイドさんに言わせると、あのほとんどは「偽物」なのだとか。
何が本物で何が偽物なのか、その基準がわからないんですが、
モーツァルトチョコレートの元祖はここではないらしいです。

どうでもいいですが、まあ、確かなのは「名物に旨い物なし」ってことです。

それにしても、この美化されたモーツァルトと一緒の謎の美女、だれ?

戦後、ここにもアメリカ軍が進駐しましたが、その時にこの地産の人形を
米軍兵士が気に入って、競うように買い求めて子供の土産にしたため、
小さい時にこれが家にあった、という記憶のある年配のアメリカ人は結構いるのだとか。

冒頭写真はザルツブルグの目ぬき?通りであるゲトライデ通り。

この商店街の看板は、昔から装飾的な鉄細工のものを
通りに向かって見せるように出す習わしです。

これはマクドナルドの看板ですが、ゲトライデ通りに出店する際、
随分反対の声もあったというので、マクドナルドは恐縮し、
周りの雰囲気を壊さないように、ひときわ立派な、しかし象徴である
「ゴールデンアーク」はとっても控えめにした看板を作りました。

しかし、蔦が装飾されたガチョウの首が咥えるゴールデンアークの月桂樹、
その根元には王冠をかぶったライオン、色々盛り込みすぎてわけわからんことに。

案の定、ザルツブルグっ子にはこの盛りだくさんな真鍮看板、
「やりすぎだ」とバカにされているんだとか。

・・・ドンマイ、マック。


続く。

 

 


ボーイング B-29 スーパーフォートレス「エノラ・ゲイ」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-08-06 | 航空機

 

スミソニアン航空宇宙博物館別館、ダレス国際空港の近くにある
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンター歴史的に意味がある展示を
たった一つだけ挙げよと言われたら、おそらく、ほとんどの人が
この爆撃機の名前をあだ名で答えるに違いありません。

ボーイング B-29 スーパーフォートレス「エノラ・ゲイ」

いうまでもなく、この爆撃機が搭載した一発の原子爆弾は、
史上初めて人類を殺戮するために広島上空から投下されました。

スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センターは、巨大なハンガー風で、
そのハンガー部分には世界中から集められた歴史的な航空機が、
ハンガーから突き出たような部分にはスペースシャトル始め、宇宙に行った
数々の飛翔体が展示されています。

航空機を展示したハンガーは、上部に通路が廻らされていて、
空を飛んでいるように天井から吊られた航空機も、全て
上から眺めることができるようになっています。

一番高いところに登って見渡すと、その中で特に目を引く大きな航空機が二機。
一機がエア・フランスのコンコルドであり、もう一機が「エノラ・ゲイ」です。

展示は、だいたい国別、時代別に並べられていて、「エノラ・ゲイ」は
日本の紫電改や屠龍などの隣に、ホーカーやP-38と翼を並べています。

あまりに巨大なので、全体を撮るにはかなり離れないといけませんが、
ここスミソニアンでは広さについては何の問題もありません。

広大な国土を持ち、しかも歴史的軍事遺産の保護については
惜しげも無く国費を投入できる国だけのことはあると羨ましくなります。

この角度で撮られた、かつての写真が見つかったので貼っておきます。

同じ飛行機ですから当たり前ですが、寸分違いありません。
この写真は、原子爆弾投下後、テニアンで撮られたものだそうです。

機体のノーズを至近で眺められるように、ブリッジに鼻面を寄せてあります。
このブリッジは、おそらく「エノラ・ゲイ」のために設置されたのでしょう。

その巨大な翼は、第二次世界大戦で彼らが戦った帝國海軍の戦闘機、
「紫電改」を覆い隠すほどです。

この写真にもブリッジの上で足を止め、その歴史的な役割を果たした
爆撃機を熱心に見ている多くの人々の姿が写っています。


後述しますが、「エノラ・ゲイ」の機体は、論争を経て展示にこぎつけたので、
現在でも破壊行為などが行われないよう、複数の監視モニターにて監視され、
不用意に機体に近づく不審者に対しては、監視カメラが自動追尾し、
同時に警報が発生するシステムが採用されており、また2005年からは
映像解析装置も組み込まれて厳重な管理下のもとで展示されています。

現地にいたときには全くそのことを知らなかったのですが、
特に一階から機首を見上げるように撮った冒頭写真の撮影の時など、
おそらくわたしの様子は監視モニターに集中追尾されていたのでしょう。

こんな大きな機体なのに、わざわざ黄色いジャッキの台に置いて
持ち上げているのは、ブリッジから観覧するためだと思っていましたが、
実のところ、機体に直接アプローチできないように宙づりにする意味があったのです。

おそらく、黄色い脚台にはカメラやセンサーが仕掛けてあり、
これを登ろうとしたら瞬時に警報が鳴る仕組みに違いありません。

このコクピットの左席には、機長のポール・チベッツ大佐が座っていました。

スーパーフォートレスの形状を特徴付ける機首の並んだ窓、
その下段右から二番目に機長席があるということです。

広島に出撃する前にテニアンで撮られたというこの写真には、
現存している機体の窓枠を囲む赤い「切り取り線」と、

「非常時救出の際にはここのガラスを割ること」

という注意書きはありません。
「エノラ・ゲイ」の機体は、三日後の8月9日、当初原爆の投下目標だった
北九州の小倉に偵察飛行を行っており、その後、カリフォルニアの
トラヴィス基地にいたそうですから、その時期に書かれたものでしょうか。 

ベトナム戦争についての記述は、自国に対してシニカルというくらい
客観的にその経緯を書き記していたスミソニアン博物館ですが、
「エノラ・ゲイ」と彼女が行ったことに対する説明はどうなっているでしょうか。

まず、展示機前にある説明板です。

ボーイングB-29スーパーフォーレスは、第二次世界大戦中最も洗練された
プロペラ推進式の爆撃機で、与圧式のコンパートメントが採用された最初の機体です。

もともとヨーロッパ戦線に投入されるために設計されましたが、
様々な用途で太平洋戦線にも投入されました。
様々な、とは従来の爆弾、焼夷弾、そして2個の原子爆弾です。

1945年8月6日、このマーチン製造B-29-45-B-29-45-MOは、
人類初の核兵器を日本の広島に投下しました。

三日後、「ボックスカー」(オハイオ州デイトンの空軍基地博物館に展示)
が、二つ目の原子爆弾を長崎に投下。

その際、エノラ・ゲイは天候偵察のため、現地を飛行しています。
3機目の同型機「ザ・グレート・アーティスト」は、
確認機としていずれの攻撃の際も同行しています。

なんだこれだけか、というくらい当たり前のことしか書いてありません。

その理由は、ここに至るまでに、「事件」と呼ぶくらいの騒動が、
「エノラ・ゲイ」の展示に伴って巻き起こったことによるものです。
その経緯とは。

戦争終結後、歴史的価値を考慮された「エノラ・ゲイ」は、機体保存が決定され、
まず、メリーランド州アンドルーズ空軍基地において解体保存されていました。

1995 年、スミソニアン航空博物館(本館)において、歴史的背景だけでなく、
原爆による被害についての資料含めたエノラ・ゲイの特別展示が計画されました。

展示にあたっては、広島市も被爆資料などを提供する予定になっていたと言います。

ところが、この計画が公にされると同時に、全米退役軍人会などが反発しました。

「原子爆弾は日本の降伏を早めることで、結果、それ以上の犠牲者が出ることを防いだ」

というのが、「原爆に対する公式見解」となっているアメリカですが、
この時彼らが行ったのは強い抗議のみならず、展覧会そのものの中止でした。

それにしてもわたしは大変不思議なのですが、この時、彼らは一体
どのような主張のもとに抗議を行ったのでしょうか。

何処かの国が主張する市民虐殺事件や軍による女性強制連行事件と違い、
アメリカが原子爆弾を二回にわたって日本の上に落とし、
大量の一般市民が死んだのは紛れも無い事実です。

「そのことはよく知っているが、戦争を終わらせるためにやったことなのだから、
自業自得で亡くなった日本人の遺体写真なんて見たくもない。
そんな展示は国のために戦った軍人たちの英雄的行為を貶めるということに等しい。
リメンバーパールハーバー!」

とでも主張したのでしょうか。

結局、スミソニアン側は抗議の声に屈しました。
展示されたのは機体だけで、原爆被害やその歴史的背景には一切触れられず。

現在の、スミソニアンにしては実に不自然に言葉少ない掲示板が、
その時の騒動とスミソニアンが受けたトラウマの大きさを表しています。

何しろ、一連の騒動の責任を取って、当時の館長は辞任したというくらいでしたから。

スーパーフォートレスの乗員は全部で12名。
最後の生存者であった乗員の一人、セオドア・ヴァン・カーク氏は、
2014年7月に亡くなりました。

この窓から航法士であったカーク氏が顔を出していたかもしれません。

「奪った命より多くの命を救った」

「日本の国に起きたこと全体としては、気の毒とは思わない」

カーク氏が原爆投下について語った言葉だそうですが、おそらくこれが
スミソニアンの展示に抗議した人々に共通の考えだったでしょう。

何事につけ、自省と自虐が習い性となっている日本人には
彼らのこの強弁にドン引きする人も多いかと思います。

それでも彼らの立場で考えてみると、軍人として行ったことが間違っていた、
と一部でも認めることは、自国と自分自身を否定することになるわけですから、
これらの言辞も致し方ない、とわたしは遣る瀬無いながらも理解します。

「エノラ・ゲイ」が、機長であったポール・チベッツ大佐の母親の
エノラ・ゲイ・チベッツの名前から取られたことは誰でも知っていますが、
機体番号44-86292号機(つまりエノラ・ゲイ)の司令官であり、副操縦士だった

ロバート・A・ルイス

はこのこと(大作戦に参加する航空機に母親の名前をつけること)
に対し、強い不快感を表したと言われています。

ちなみにこのルイス氏は、戦後、テレビ番組で、被爆時広島にいた
ドイツ人の伝道師、ヒューバート・シファー牧師、被爆牧師として
アメリカでも公演を行なった谷本清氏と対面して(させられて)います。

左、シファー牧師、右、ルイス

テレビ番組の司会者がルイス氏にその運命の瞬間を覚えているか、
と質問すると、彼はこう答えました。

「あとでこう書き残しました。”神よ、我々は何をやったのか”と」

 

ブリッジの上から窓ガラスを通して、鮮明にではありませんが、
チベッツとルイスが座っていた操縦席が見えます。

このシートベルトは、副操縦士だったルイスの席のものでしょう。

2003 年 12 月 15 日、スミソニアン航空宇宙博物館別館である
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センターの開館に合わせ、
「エノラ・ゲイ」は同別館に常設展示されることとなりました。

ちなみに、最後の搭乗員だったヴァン・カーク(左)チベッツ、(中)
そして電気回路制御・計測士だったモリス・ジャプソン氏の三人。
SFUHセンターの「エノラ・ゲイ」の下で撮られた写真です。

ジャプソン氏は、原爆投下について

「多くの人々が死んでいるのはわかっていた。喜びはなかった」

としながらも、オバマ大統領の広島訪問には不快感を示しました。

原爆使用の「道義的責任」に言及したオバマ大統領に対し、

「原爆は戦争を早期に終結し犠牲を回避するための唯一の選択だった」

「(オバマは)原爆を使用した米国を罪だとしており、あまりにも世間知らず(ナイーブ)な発言だ」、

「(米大統領が被爆地を訪問する事になると)とても悪い気分になるだろう」

などと非難しています。

ピトー管、レーダーとバブルウィンドウが見えます。

プロペラにメルセデスのマークらしいのがあるので、まさか?
と思いよくみると、展示に当たってプロペラを寄付した会社のマークでした。

配属当初、「エノラ・ゲイ」には「12」が割り当てられたが、
垂直尾翼のマーキングを特殊作戦機と悟られないよう、通常爆撃戦隊である
「第6爆撃隊」表示である◯の中にRというマークに変更更したため、
誤認防止のため「82」へ変更された。

 

とwikiには書かれていますがどうも意味がよくわかりません。
12がなんなのか、なぜ82になったのか。

原子爆弾投下作戦任務終了後の1945年8月中には、テニアン島で、
ビクターナンバーは「82」のままで垂直尾翼のマーキングだけを元の、
◯に左向き矢印という従来のマークに戻されています。

展示に当たっては、原爆投下時を再現しています。

SFUHセンターの展示の一つ、これはリトルボーイの

「 Arming Plugs 」アーミング・プラグ

ミサイルや爆弾に取り付けられていて、計器や人員の安全のために
飛行前に作動させないようにするプラグです。

リトルボーイを投下する前、このプラグは人の手によって取り外されたのです。

スミソニアンの展示に退役軍人会らが抗議し、大幅に縮小された、
ということを皮肉るカートゥーンを売店で見つけたのでこっそり撮ってきました。

「何か本当にとても大きな出来事が1945年この飛行機によって起こされた・・これだけ?」

「それが我々が同意できる史実の全てなんですよ!」

思わずニヤリとしてしまいますが、スミソニアン側にとっては冗談ではありません。
抗議されて大幅に内容を自粛しただけでなく、館長の首が飛んだのですから。

「エノラ・ゲイ

虐げられた女性労働者によって建造され、
権力側の白人男性によって操縦された。
エノラ・ゲイのミッションは、日本文化を破壊することだった」

”思うんだけどさ、スミソニアンって歴史修正しすぎだろこれ”

エノラ・ゲイの展示に文句をつけたのは退役軍人会だけではありません。
核廃絶を提唱するアメリカの平和団体は、全く逆の立場から、
核のもたらした被害に触れないスミソニアンに抗議しています。

「20万人の命を奪った飛行機を展示する厚かましい国が他にあるか。
抗議のため開館時に一緒に訪れた被爆者の落胆が忘れられない」

広島市は、スミソニアンの展示に対し、

「単に航空機の科学技術の進歩を示す」だけではなく、あるいは
「原爆の威力の誇示や原爆投下の正当性を示す」ものにすることなく、
原爆被害の説明を加えることで「核兵器廃絶と世界恒久平和を願う」
内容にしていたただくよう要望を継続的に行なっている

ということですが、広島市の要望が聞き入れられることは今後もないと思われます。

スミソニアン博物館は、歴史的事実を後世に残そうとして、いわば
退役軍人一派と反核&被害者団体の
板挟みになってしまったというわけで、
結局のところ、
どちらにも配慮した結果、

「原爆投下を正当化はしないが、被害があったことにも全く触れていない」

という現在の異常に言葉少ない説明に落ち着いているのでしょう。

 

しかし、原爆を投下された広島・長崎の人々はもちろん、落とした
エノラ・ゲイとボックスカーの搭乗員たちも、ついでに
スミソニアン博物館も、誰一人として幸せではなかったというのは事実です。

「神よ、我々は一体何をしたのか」

前述のルイスならずとも、「エノラ・ゲイ」と「ボックスカー」乗員の全員が、
多かれ少なかれこれに似た思いを持ち、自分のしたことの意味を
なんらかの形で神に問いかけたことは間違いないと思います。

そしてその上で、彼らは自分という個と、その個が存在する
アメリカという公のために、こう自分を納得させざるを得なかったのです。

「あれは任務だった。原爆投下は戦争を終わらせるために仕方がないことだった」

彼らもまた戦争の犠牲者だったといえば、彼らの誇りは傷つけられるでしょうか。

 

 

 


ザッハホテルで戴くザッハトルテの恐怖〜ザルツブルグ滞在

2019-08-04 | お出かけ

ウィーンから車で休憩と「アドブルー」なる窒素材の補給をしながら
約4時間でザルツブルグにたどり着きました。

こちらが本日のお宿でございます。
ホテル・ザッハ・ザルツブルグ。

ナビが指し示すザルツブルグでのホテルの入り口は、
一流ホテルという割にはこじんまりした構えです。

旅行企画者曰く、今回ウィーンでリーズナブルなホテルにしたのは、
ザルツブルグでこのザッハに泊まることになっていたからでした。

一極集中型、一点豪華主義と言うやつですね。

ロビーもそれほど広いというわけではありませんが、その真ん中に
人の背丈より高い花器がそびえ立っております。
フラワーアレンジメントの気合いの入り具合がいかにも五つ星のロビー。

昔はきっと、もっと重厚な天鵞絨張りの椅子が配されていたのでしょう。
オープン以来、政治家や各界の有名人がこのロビーに姿を表しました。

特に、ザルツブルグ音楽祭の期間中は、このホテルに、綺羅星のような
名だたる演奏家が宿泊してきたはずです。
ホテルのすぐ隣が生家であったという、ヘルベルト・フォン・カラヤンも勿論。

ロビーの上部は天井までの吹き抜けになっており、しかも天井は
ガラス張りの灯り取り仕様になっています。

いつのことかは知りませんが、この写真で見える左の窓のない部分、
つまり最上階は後から増設した部分だということなので、その時に
思い切って屋根をサンルームのようにしてしまったのに違いありません。

改装前はきっともっと室内は暗かったと思われます。

わたしたちが今回宿泊したのは、改装前の最上階になります。
右奥に今荷物が運び込まれています。

部屋の前から見た同じ場所。
この上階の部屋は、「カール・ベームルーム」とか、「カラヤンルーム」とか、
そういう名前のついた「特別室」ばかりだそうです。

もしかしたら、その名前の本人が泊まった部屋なのかもしれません。

ホテル内の壁紙はモーツァルトの自筆楽譜をデザインしたもの。

グランドフロア(日本の一階)にはこのような会議用の部屋もございます。

そしてこちらがわたしたちが泊まった部屋でございます。
広くはありませんが、とにかくインテリアがゴージャス。

ただし、ここに家族三人が無理やり泊まることになったため、
三つ目のベッドはメインの足下にくっつけて置いてありました(笑)

インターネットのスピードは残念ながら極遅で、部屋ではPCはできませんでした。

なんと、部屋にはウェルカムフルーツと、支配人からのお手紙。

一人一つづつ、名物のザッハトルテが用意されていました。
いうまでもないですが、ザッハトルテはホテルザッハーの創業者の父が
もともと菓子職人で、そういうチョコレートケーキを作っていたので、
ホテルを開業した息子がホテルの名前を冠して名物にしたというものです。

「明日の朝10時からティールームでザッハトルテを食べる予約入れたんだけど」(´・ω・`)

「わざわざ予約しなくてもここにあるじゃない」

「キャンセルする」(´・ω・`)

「じゃインペリアルトルテを持ってきたから今夜は食べ比べだ!」

「おー!」

部屋の中を点検すると、さすがは一流ホテル、アメニティの充実半端なし。

あとで使ってみて驚いたのは、シャンプー、リンス、ボディソープ、
ボディローション、その全てがチョコレート味?だったこと。

チェックアウトの際には皆トランクに入れて持って帰りました。

洗面台に一輪刺しに入れて飾ってあった見事な薔薇。

そして窓からの眺めです。
昔のホテルなのでバルコニーに出る扉は大きくないのですが・・。

バルコニーに立つと、思わず歎声が漏れました。
目の前は、ザルツブルグの資源を国内に輸送する役割を担ってきた
重要な水上運送の要、ザルツァハ川です。

で、わたしたちのこの部屋なんですが、

あとで外に出てから、

「もしかしてわたしたちの部屋って、ザッハーって字の下?」

「ど真ん中じゃない?」

「いやー、そんなはずは・・・バルコニー、丸かったっけ」

そんな会話をしておりましたが、結局赤丸のところだったことが判明しました。

いやー、なんかすごい部屋をアサインしてもらったみたいで悪いわー。

実はわたしたちがザルツブルグを去った次の週には、かの有名な
ザルツブルグ音楽祭が行われ、それこそザッハーホテルはVIPで満室となるので、
その直前ということで比較的空いていて、こんな部屋にしてもらえたのでしょう。

部屋から見える橋には、なにやら遠目にきらきらひかる鍵が、
それこそ無数に取り付けられているのが見えます。

タピオカミルクティー並みにごく最近のブームなんだそうですが、
橋に恋人同士で鍵をつけて、恋愛成就を願うのだとか。

部屋のバルコニーから見た、ザ・ザルツブルグな眺め。
そういえば、「サウンド・オブ・ミュージック」のザルツブルグのシーンは
ちょうどこの角度から見る景色で始まっていましたっけ。

アドブルー騒ぎで昼食を食べ損ねたので、ルームサービスを取ってみました。
バーガーは冗談のようですが「ザルツバーガー(Salzburger)」と言います。

ザルツブルグにeをつけると、普通に「ザルツブルグ人」のことですが、
ハンバーガーのburgerでもあるので、当地ではシャレで英語読みしてバーガー、
これをご当地食として売っているのです。

もともとハンバーガー(hamburger)って、ハンブルグが語源なわけですし。
ペテルスブルグにペテルスバーガー、ザクセンブルグにザクセンバーガー、
アウグスブルグにアウグスバーガーフライブルグに以下略、
という風に、現在ではほとんどの土地にあっても不思議じゃないね。

ザッハーホテルのザルツバーガーは大変美味しかったですが、
MKは「佐世保バーガーの方が美味しかった」と言い切っておりました。

問題は下のスープです。
なんだか色が不穏な濃さだと思いませんこと?
これを一口啜ったTO、途端に

「辛っ」

続いてMK。

「辛っ!」

わたし。

「かっらー!辛いわこれ!」


とにかく辛い。塩辛いのです。

「いやー、これ何かの間違いじゃないのかな」

あまりに辛いので、つい人を呼んで何かの間違いではないか、
と聞いてみたのですが、

「当ホテルのスープはお味を濃いめにしてあります」

とのこと。
納得いかないままに三口だけ食べ後を残して持って帰ってもらいました。

シェフが奥さんと喧嘩して家を出てきていると料理が辛いとか言いますが、
そういうレベルではなく、度はずれに辛かったです。

まさか、ザルツブルグのザルツは「塩」という意味だから・・・?


三人でバーガー1個、スープ一口ずつをお腹に入れて、そのあとは
町歩きにいき、帰ってきてから本格的に夕食をとりました。

当ホテルのメインダイニングということで、一応気を使って
TOなどジャケットを着て行ったのですが、通されたのはテラス席で、
周りの人たちはおしゃれではあるけれど半ズボンとか(笑)

一流ホテルといえども、夏のアウトドアではカジュアルになるんですね。
で、それはいいんですが、困ったのがハエの多さ。
食事をしている間、止まりに来るハエを払うのに、ずっと手をひらひらさせて
動かしていないといけないという・・・・。

日本やアメリカの一流と言われるホテルなら、なんとかハエが出ないように
根本から衛生状態を改善するとかしそうなんですが。

この滞在で、文化の重みはともかく、衛生とか清潔とかいうことになると、
ヨーロッパは
決して我々が満足するような状態ではないと知ることになりました。

パリで十分そのことは身にしみていたのですが、ドイツ語圏なので
清潔好きの民族性に期待していたんですがねえ。

あらためて(トイレの歴史を考えても)世界一清潔なのは日本だと確信したものです。

そしてお料理。
さっきのスープの件があったので、嫌な予感がしていましたが、
例えばこのトビコをあしらったサラダなども少し、いやかなり辛めでした。

デザートは取らず、夜、部屋に戻って、ザッハトルテ一つを三人で食しました。
最初に食べたTO、

「甘っ」

続いてMK、

「甘っ!」

わたし。

「あっまー!甘いわ!」

いやー、日本人には甘すぎと聞いていましたが、ここまでとは。

「もういらない」

「もう結構です」

「勘弁してください」(泣)

ここまで言われるザッハトルテって。

この小さな塊で大騒ぎしていた日には、ロビーで売っていた
このワンホールザッハトルテはどうなる。

「これ全部食べたらただにしてあげるって言われたら食べる?」

「食べない」

「お金あげるって言われたら?」

「多分相当もらわないと無理」

ここまで言われるザッハトルテって一体。

そこで、ガイドさんにオススメしてもらったインペリアルトルテですよ。

同じようにチョコレートケーキとマジパンを積み重ねてカットし、
それにチョコレートをかけて仕上げているのですが、
こちら、特にガイドさんの奥様オススメのラズベリー味のトルテは、
羊羹のように2ミリくらいの厚さに切っていただくと、
特に甘くないお茶と一緒に食すとなかなかのものでした。

が、これでも一つ丸々食べるのは、普通の日本人には少し辛いと思われます。

「日本人はよく”甘くなくて美味しい”なんて言いますけどね。
お菓子はもともと甘いもんなんですよ。
甘いのが嫌いならお菓子なんて食べなきゃいい。

だいたい、甘すぎ甘すぎって言うけど、何でも砂糖で味付けして、
甘くて仕方がない日本料理を食べているくせにねえ」

ウィーンのガイドさんは日本人の「甘いもの嫌い」に苦言を呈していましたが、
いや、ザッハトルテの甘さははっきり言ってそういうレベルじゃないっす(笑)

 

続く。


アド・ブルーって何?〜ウィーン-ザルツブルグ車の旅

2019-08-03 | お出かけ

オーストリアには合計1週間滞在し、中三日ザルツブルグに行きました。
今日ウィーンを出発しザルツに移動という日の朝のことです。

ホテルのコンプリメンタリーの朝食にも飽きてしまったので、
外で食べようということになり、スタッドパークに沿って流れる川の
辺りにあるレストランに行ってみることにしました。

おしゃれなウィーンっ子に人気(でも観光客はあまり来ない)、
「メイエレイ」Meierei(乳製品という意味)は、ウィーンの三つ星レストラン、
シュタイラーエックに併設されたカフェ風レストランです。

朝食にもいくつかのコースがあり、三人ともそれを頼んでみました。
飲み物に紅茶を頼むと、可愛らしい牛乳瓶に入れた温めたミルク、
紅茶の葉を入れた袋がポットのお湯とともに出てきます。

卵料理、ハムなどの肉料理、普通のレストランではとても朝食に出ないような
手間のかかった繊細な料理が、アフタヌーンティ用のトレイで出てきます。

店内で爽やかに立ち働いているのは金髪碧眼の若いゲルマン系の男女ばかり。
全員容姿端麗で完璧に英語が話せます。

オーストリアは他の豊かな国と同じく、移民の多い国ですが、
やはり高級な店ほど人は国産にこだわっているようです。

ポーチドエッグのトッピングにあしらわれた穀類、
ヨーグルトにもチアシードとレモンをあしらい、目にも楽しい朝食です。

後から、ここの朝食はいつも予約でいっぱいで、たまたま
通りかかってテラス席が空いていたのは偶然だったと知りました。

川の向こう岸では、スタッドパーク散策で見た変な彫像の下で
市の清掃員が池の水を抜い掃除を始めていました。

カップルの犬が水に入りたがっていたのですが、
清掃員に追い出されたところです。

池の底の栓を抜くと、水は横の川に流れ込む仕組みです。

朝食に満足して川沿いの道を戻る途中、ホームレスに説教している
犬の散歩途中のおばちゃんがいました。

近くを通りながら小耳に挟んだ会話の調子から、
おばちゃんはホームレスにあれこれと質問し、彼の人生について
あれこれとお節介焼いているらしいのがわかりました。

おばちゃんのお節介は世界共通ですが、日本のおばちゃんは
流石にここまでやらんだろうなあ。

橋の欄干で追いかけっこをしていた鳩のつがい。
カメラを向けると急におとなしくなりました。

ザルツブルグにはホテルに荷物を預けて汽車で行こう、
ということになっていたのですが、朝食からの帰り、ホテルのロビーに
地元のレンタカーが店を出していることを知り、急に思いついて
わたしが運転して行くことになりました。

ヨーロッパでは何も言わないとマニュアル車になることがあるので、
とにかくオートマチックね、と強調したところ、割り当てられたのは
なんとジープでした。

オーストリアなのでBMWかアウディになるかと思っていたのですが。

ナビに従って高速道路に乗り、しばらくして気づいたのですが、
他の車のスピードが速い(笑)

それもそのはず、高速道路の制限速度は130キロ。
運転される方は、日本で130キロを継続して出すことは
不可能であることをよくご存知だと思いますが、ここではとにかく
道路が非常に機能的に作られているせいか、なんの問題もないのです。

三車線ある一番右をトラックなどの速度の遅い車が走り、
真ん中を走る車はだいたい130キロくらいで走行、
追い越しをする車は一番左側を140〜50くらいで走ります。

ニューヨーク郊外のフリーウェイでも皆が飛ばすので驚きましたが、
それでも130キロは出ていなかったと思うので、これは
ちょっとしたカルチャーショックです。

もっと驚いたのは、可変式の電光掲示板に制限速度が記載され、
工事をしていたりその他の理由によって、頻繁に
スピードリミットが変わることでした。

130で機嫌よく走っていると、前に「100」と出てきます。
右側にトラックが停まっているとか、工事をしているとか、
そういう事情で制限速度を集中管理しているセンターが変えるのですが、
カーナビとも連動していて、制限速度をオーバーするとたちまち
ナビゲーションが音声で、

「制限速度をオーバーしています」

と警告してきます。
周りを見ると皆真面目にこのシステムを守っているようで、
わたしももちろん厳密に規制を守って走っていました。

オーストリアはドイツではありませんが、(両者の感情的なものは
我々には伺い知ることはできませんが、どうもいる間に知ったところ、
オーストリア人はドイツ人を田舎者と思っているらしい)
ドイツのアウトバーン方式というのか、交通システムは実に機能的で、
やはり同じ民族なのだなとうっすら思わされました。

大型車に多いメルセデス・ベンツ製。
これもドイツ文化圏ですから当たり前です。

機嫌よく走り出してすぐ、わたしはフロントパネルの警告に気がつきました。

それは、禍々しくも大きな文字で、

今すぐDEFを補給してください。

あとXキロで車のエンジンを切ってからリスタートできなくなります」

車の中は騒然となりました。

「DEFって何〜〜〜!?」

「今すぐレンタカーに電話して!」

「えー、次のガソリンスタンドで聞けばいいんじゃないの」

「アメリカみたいに人がいないかもしれないでしょ?」

こういう時に聞き間違いがあってはいけないので(笑)息子に、
(わたしは運転しているのでもちろんできませんが)電話させると、

「”ブルーを入れるんだ”って言ってるけど」

「ブルー?」

「ブルーって何〜〜〜!?」

次に出てきたガソリンスタンドには、確かに「アドブルー」という
何かを補給するガソリンスタンドみたいのがあります。

案の定人がいないので、中で売店の人に聞くと、

「ここはトラック用のスタンドだから普通のところに行って」

としか教えてくれません。

とにかくアドブルーがなんなのか、どうやったら買えるのか、スタンドで
点検してみても全く見当がつかないので、わたしたちはパーキングエリアの
建物の中に入ってwi-fiでアドブルーのなんたるかを調べるところから始めました。

とほほ。

そしてなんとかわかったことによると、アドブルーとは、
ディーゼル車の排気を抑えるための尿素水であるということ。

ヨーロッパ車は普通にディーゼル車のガソリン注入口の隣にDEF口があるのです。

「というか、自分が乗っているのがディーゼル車だって知らんかった」

DEFとはディーゼルエグゾーストフルード(Diesel exhaust fluid)で、
ディーゼルエンジンが排出する窒素酸化物(NOx)を浄化する機能を持ち、
ガソリンと同じように走行によって消費され、無くなると
警告にも出ていたようにエンジンがかけられなくなるのです。

「はえ〜こんなシステムが世の中にあったとは」

またしてもカルチャーショック。
いや、世界は広い。旅行は見聞を広めると言いますが、その通りです。

そこまではわかりましたが、問題はアドブルーはどんな形で売っていて、
どうやって車に注入すればいいのかです。

「仕方ない。とにかくガソリンスタンドで聞いてみよう」

「アイス食べていい?」

「・・・・・」

一刻も早くザルツブルグに着いてホテルを満喫したいTOは
アドブルーのあたりから珍しく超不機嫌になっておりましたが、
唐突にアイスを食べたがる息子に黙って買ってやっていました。

ちなみにオーストリアのパーキングエリアはアメリカと違い、
ものすごく
ちゃんとしたレストランがあります。
アイスクリームをすくってくれるのもシェフコート着用の人だったり。

アイスクリームを持ってレジに並んだところでわたしは目を疑いました。
この棚にあるのは全てタバコのパッケージなのですが、どれにも
グロテスクだったりショッキングな「タバコの害」が印刷されているのです。

心臓麻痺、奇形、白内障、舌癌、うつ病、不妊。

ありとあらゆる、考えられる限りのデメリットがこれでもかと。
どうやらこれは、日本のタバコ会社が

「健康のため吸いすぎに注意しましょう」

とパッケージに書かされているのと同じ目的のもので、
これでタバコを吸うことをためらわせる目的があると思われます。

「つまりこれを印刷したパッケージでないと売らせてもらえない・・・」

「そうなんでしょうな」

「でも、吸う人はこれでも吸うんだ」

「どうしても吸いたい人には焼け石に水でしょう」

でも、タバコを手にとるたびにこんなグロ画像を目にしていたら
とても美味しくタバコを吸うことはできなさそう。

 

さて、先ほど立ち寄ったガソリンスタンドにもう一回いき、
お店(アメリカと同じでガソリンスタンドにはコンビニが併設されている)
の女性店員にアドブルーのことを聞くと、案の定一人は英語が喋れず。

若い人に聞いて、店先にある1リットルタンクを20ユーロで購入しました。

「しかし、レンタカーなのにこれくらいちゃんと補充しとけよな」

TOはプンスカ怒っていましたが、このアドブルー、ガソリンと一緒で
頻繁に補充しないとならず、その割にパネルでは残量がわからないため、
点検のときに残が少ないことに気がつかなくても無理はありません。

レンタカー屋は、アドブルーを購入したらレシートを取っておいてくれ、
返金するから、と言ったらしいのですが、TOは何を思ったのか、
アドブルーの空のタンクを一緒に窓口に持って行って見せたようです。

(こういうとき、そんなの意味ないんじゃね?と内心思っていても、
何も言わず好きにさせておくのが長年の夫婦生活で得たわたしの知恵です)

とにかく購入後、苦心してタンクを開け、同梱されているホースで
ガソリン補給口の隣にあるDEF用注ぎ口から投入して警告が消えたのを確かめ、
わたしたちはようやく全員肩で息をつきました。

都会から次第に周りの景色は田園風景になってきました。
高速道路脇にはこのようにソーラーパネル畑?もありましたし、

丘陵一帯に風力発電機が生えている地帯もありました。
オーストリアは1960年以降、国内に二つの原子力発電所を有していましたが、
反原発運動の流れで行われた国民投票によって、わずか2万票差で
反原発に舵を切った「脱原発国」でもあります。

車体中がひよこで埋め尽くされたトラック。
上のドイツ語を翻訳機にかけたところ、

「オーストリア発の七面鳥のひよこ」

だそうです。
シチメンチョウってひよこの時こんななの?
と思って調べてみたら、その通りでした。

「七面鳥 ひよこ」の画像検索結果

 大きくなるとシマシマができて、あのトサカも生えてくるんですね。

のち

ウィーンを出てアドブルー騒ぎを含め4時間後、ようやくわたしたちは
ザルツブルグに到着しました。

TOは

「せっかくホテルにアーリーチェックインできるように頼んでたのに」

とえらくおかんむりでしたが、わたしにはスリリングでとっても楽しかったです♫
違う文化に驚いたり戸惑ったり、解決法を探して右往左往したり。

これが旅の醍醐味ってやつですよね?

 

続く。

 

 

 


ルフトバッフェの敗北 ドイツ軍航空機史〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-08-02 | 航空機

さて、前回に続き、第二次世界大戦から終戦までのドイツ航空機史を
軍事分野に限って解説するシリーズ、続きです。

ミソニアン航空宇宙博物館別館、スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターの
キュレーターによる解説を翻訳したものを中心にお送りしています。

 

ロシア戦線にあるAユンカースJu52輸送

スターリングラードでドイツ陸軍がソビエト軍に包囲されたとき、
ゲーリングはヒトラーにルフトバッフェが人員輸送することで
戦線が維持できると断言した。

三ヶ月の間千単位の種類の輸送機と爆撃機がスターリングラードに飛び、
陸軍に物資の輸送を行い続けた。

しかしながら、天候や事故、そしてソ連の戦闘機の銃撃などで
(おそらく女性を含む狙撃兵の攻撃も)兵力は磨耗し、
1943年2月2日にはそれも限界に達した。

およそ10万人の生き残った兵士たちがソ連軍に囲まれることになったのだ。

 

メッサーシュミットBf109の生産ライン

帝国防衛 (Defending The Reich)

1944年の初頭までにルフトバッフェは連合国空軍からの防衛にかかりきりでした。
米英の爆撃機隊にはかなりの喪失がもたらされましたが、
アメリカに新たに導入された長距離エスコートファイター(護衛戦闘機)は、
逆にドイツ側に大打撃を与えました。

(このエスコートファイターとは、時期的にいうと、
ロッキードP-38ライトニングではないかと思われます)

その年の春までには連合国軍はヨーロロッパ全土の制空権を確立し、
このことがノルマンディ上陸作戦の成功の決定的な要因となりました。

Dデイの後の数ヶ月で、前線のルフトバッフェの戦闘機隊は事実上壊滅しました。

イギリス海峡沿いのレーダーサイトはロイヤルフォースの戦闘機に指示を与え、
そのためドイツの夜間戦闘機は効果を上げることができませんでしたし、
連合国軍は燃料工場を重点的に狙ってきました。

たちまち燃料不足はルフトバッフェのオペレーションに困難をきたし、
次世代のパイロットを訓練する余裕すらなくなってきたのです。

連合国軍の爆撃にが激しくなり、ドイツの航空産業は戦闘機の製造を
減らすしかなくなり、外国人労働者を一部採用して費用を安く上げるなどしました。

ジェット機や他の先進的な武器は地下や窪地などで工場を移し、
しまいには強制収用所の囚人を労働者として使うしかなくなっていたのです。

 

Gun Camera Footage Luftwaffe FW 190 & Bf109 / Me109 Fighters Shot Down WW2 GSAP Newsreel

 

左はここSFUHセンターに世界で唯一の機体が展示されている、
アラドのAr 234 Ar 234 ブリッツ、ジェット爆撃機。

右はこれも日本の「橘花」と並べてお話ししたメッサーシュミットの
Me262ジェットファイターです。

そして、Me163コメート、ロケット推進戦闘機です。(≧∇≦)
30ミリ砲を搭載しており、相手が低速の爆撃機だったりした場合には
大変有効だったということです。

右側の写真は、航空機製造に従事させらていた「スレイブレイバー」(奴隷労働者)
製造中の機体を守るため地下に置かれていた製造工場の様子。

閉所&暗所恐怖症の人にはおすすめしません。

フォッケウルフ Ta152 H 高高度偵察機

当時にして世界最速のプロペラ推進高高度爆撃機。

こんな状況でも単体としてみれば画期的だったり革新的だったり、
超高速だったりする飛行機をどんどん開発できるんですから、
ドイツ人が自国の技術力に過信していたとしても仕方ありますまい。

ハインケルHe162 ”人民の戦闘機”Volksjäger

戦闘機のことをドイツ語で「イエーガー」(jäger)というらしいのですが、
そういえば同じ名前の伝説のパイロットがアメリカにいましたよね。

チャック・イエーガーは若き日にイギリスに派遣され、それこそ
ドイツ軍の「イエーガー」とどんぱちやりあっております。

彼は音速を破る前に、戦闘機パイロットとしてドイツ機を11機と半分撃墜した
エースでもあり、
メッサーシュミットのMeBf109を1日に5機撃墜しているほか、
Me262シュワルベの初撃墜という記録も持っています。

この写真のフォルクスイエーガーは見るからに変なものを背負っていますが、
なんとこれ、単発ジェットエンジン(BMW製)です。

連合国の止まらない攻撃を少しでも食い止めるため、
ゲーリングとシュペーアのコンビが「国民の戦闘機」を計画し、
試験段階では905km/hというとんでもない速度を記録しました。

実戦にも配備され、何機かを撃墜したという記録もあるのですが、
配備された46機のうち13機が瞬く間に墜落したり撃墜されて、しかも
30分しか飛行できないという特性のため、時間切れで二人が帰還できず死亡、
という結構大変な飛行機だったようです。

が「フォルクス」とつけただけあって、ドイツはこれを急造し、
600機くらいを配備する予定だったようです。

もしこれが実際に配備されていたら、確かに連合国は苦労したでしょうが、
ドイツ側にも未熟なパイロットの犠牲がかなり出たであろうと予想されています。

まあ、こういう武器に頼るしかなかったというのが、ドイツがもう
いろんな意味で敗戦に直面する時期に来ていたという証拠でしょう。

特攻に頼るしかない状況だった敗戦直前の日本を思わせるものがあります。

 

 

敗北

1944年の終わりには、連合国の爆撃は事実上ドイツの燃料工場を壊滅させ、
交通網を完全に麻痺させてしまっていました。

航空機製造のための設備はそれでも建造を続けていましたが、
燃料の絶望的な不足と、ルフトバッフェにはもうまともな搭乗員は残っておらず、
それは連合国の攻撃以上に深刻な問題だったのです。

ドイツ戦闘機部隊は1945年の1月1日、最後の大掛かりな攻撃を西部で行いました。
それによって200機もの航空機が失われましたが、効果は僅少でした。

ドイツ軍の前線での崩壊に伴って、生き残ったルフトバッフェの部隊は
混乱のまま再配備され、彼らの航空基地になだれ込んでくる連合国を
劣勢の中迎え討たねばならなかったのです。

まだドイツの支配下にある地域に避難できなかった航空機は、
破壊または放棄されました。

そして、ドイツが降伏したのは1945年5月8日。

かつては最強と言われたドイツ空軍の残党は、すでに
ドイツ全土に散り散りになってしまっていました。

壊され放置された ユンカース Ju88

地上航空員は連合国軍に囲まれたと知ると、侵攻してくる前に
とくに最新式だった航空機を破壊し、飛べないようにしてしまいました。

破壊されたユンカースのJu88Gは、時速630kmを誇り、終戦まで
夜間戦闘機としては無敵といわれていました。

Me262戦闘機の野外組み立て場

工場が爆撃の対象になり、メッサーシュミットの最終的なMe262の組み立ては
こんなところで行われていました。

飛行機はできるとここからアウトバーンをタキシングして部隊に配備していたのです。
これはアメリカ軍の侵攻部隊が1945年4月に撮った写真です。

アメリカに向かうドイツ航空機

以前ここでもお話ししたことがある「ワトソンの魔法使い」こと
ワトソン大佐とそのチームが集めたルフトバッフェの飛行機は
1945年7月、HMS「リーパー」に載せられ、ニューアークに向かいました。

そのうち7機が海軍の飛行テストを受けるためにフェニックスリバーに、
残りは陸軍の評価を受けるためライトフィールドに分配されています。

 捕獲したMe262とドヤ顔で写真を撮るワトソン大佐

アメリカ軍に任命され、アメリカに持ち帰るドイツ機を集める仕事をした
テストパイロットでもあるハロルド・ワトソン大佐。

彼のチームは「ワトソンの魔法使い」と呼ばれ、多くのドイツ製
戦闘機を操縦してシェルブールに集め、そこから本国に送りました。

きっとテストパイロット的には楽しい仕事だったろうと思います。

スミソニアン博物館の倉庫@パークリッジ

各地で評価を受けテストされたあと、ドイツの捕獲機は、スミソニアンが
希望を出した機体のみの倉庫まで輸送されてやってきました。

かつてダグラスの工場があったオヘアフィールドのパークリッジに
格納されたドイツ機の写真です。

それらはメリーランドへの倉庫移転を経て、今ではその全てが
ここスティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターで展示されています。


 


 

 

終わり。