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ゲオルグ・フォン・トラップ海軍少佐の軍歴〜ザルツブルグの街を歩く

2019-08-12 | お出かけ

 

ザルツブルグの観光案内が終わり、歌手だというガイドさんに
自作のCDを記念に頂いて彼女と別れたのは、
マックス・ラインハルト広場というところでした。

この左にあるのがモーツァルト祝祭小劇場、右に向かって
ウィーンフィルハーモニー通りという道が通っています。

マックス・ラインハルトはユダヤ系オーストリア人のプロデューサーで、
ザルツブルグ音楽祭の原型となる催しを1920年に創始した人です。

彼は1938年、ナチスドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)したのを
きっかけにアメリカに亡命し、5年後、客死しました。

ユダヤ系オーストリア人の芸術家といえば思い出すのが、昔「ヒトラーと映画」
という本で知った、映画監督フリッツ・ラングの亡命劇です。

ラングはある日、宣伝相のゲッベルスに招かれ、ラングを名誉アーリア人として
扱うので、ナチスの宣伝映画を撮って欲しい、と頼まれます。

その日のうちに銀行からお金を引き出してアメリカへの亡命をするため
国外脱出をしようとしていた彼は、土曜日のこととて、
銀行が閉まるまでに宣伝省を辞去するつもりでしたが、
興に乗ったゲッベルスが、ラングの次期作品について夢を語り出してしまい、
結局、解放されたときにはすでに銀行は閉まっていました。

ラングは仕方なく、着の身着のままで現金を残したまま国外に脱出、
危ういところで命永らえた、というのですが、後年、ナチスに背を向けたとは
本人が言っているだけで、実はラングはゲッベルスに自分を売り込んでおり、
その後色々都合が悪くなって亡命しただけ、という説が浮上しているそうです。

さらに歩いていくと、グシュテッテン通りというところに出ます。
この通りには、ご覧のようなうっす〜〜〜い建物が、まるで
崖に張り付くようにして並んでいます。

通りに面しているのはレストランやバー、パブなどですが、
どうも上階には普通に人が住んでいる風なんですよね。

黄色いビルの上部には、「1418 黄金の太陽 1968」
と金色の文字でありますが、まさかこれらの建物、そんなに古くから・・・?

グシュテッテン通り近くを歩いていると、ウィンドウにこんな写真が。
「映画サウンド・オブ・ミュージックショップ」とでもいうんでしょうか、
まあ一種のキャラクターショップみたいなもので、写真や関連本、
あの映画に関したグッズ、民族衣装などを売っている店のようでした。

前回、ザルツブルグ大聖堂に爆弾を落として破壊したせいで、
ザルツブルグの人たちはこの映画に冷淡だった、と推測してみました。

実際の理由はそんな単純なものではないかもしれませんが、
このハリウッド映画がドイツ語圏では全く受け入れられず、
ザルツブルグを除いてオーストリアでは21世紀に至るまで
一度も上映されていないことからみても、冷淡といより無関心、
というのが実際のところかもしれません。

 

ここで映画をご存知ない方のために一応説明しておきますと、

妻に先だたれたやもめの海軍大佐、トラップとその7人の子供の元に
修道院から派遣されてきた家庭教師のマリア。
彼女は子供たちの心を掴み、彼らの父親トラップ大佐と恋に落ち結婚。
トラップ一家合唱団として活動を始めるが、ナチスへの協力を求められ、
コンサートの夜、一家は亡命を図る・・・

というもので、ザルツブルグに実在した一家をモデルにしています。

右側のヒゲの男性がトラップ氏。中央がマリア夫人。

写真には10人いますが、もちろんこれは全員トラップ家の子供たち。
7人が先妻との間の子、3人がマリアとの間にできた子供です。

結婚したとき、トラップは47歳、マリアは22歳という年の差婚でした。

Georgvontrapp.gif

ところで、今日のタイトルが、旅行記の割には本来の当ブログらしいのは、
「サウンド・オブ・ミュージック」の登場人物、

バロン・ゲオルグ・ルードヴィッヒ・リッター・トラップ

が海軍軍人で、今日はこの人のことをお話しするつもりだからです。

この映画について書かれたものは多いですが、トラップ氏の海軍での
軍歴についてフォーカスしたものはあまりないようなので、やってみます。

それでは参りましょう。

 1894年(14歳)海軍兵学校に入学

オーストリアというのは海なし国であるわけですが、かつて
オーストリア=ハンガリー帝国時代には海軍が存在しました。

この時代は海運が盛んだったため、その保護を目的として海軍が創設され、
これが結構強かったようなのです。

普墺戦争ではイタリア軍を撃破していますし、北海まで行って
デンマーク海軍とも交戦しているくらいなので、当然ながら
優秀な青少年を教育する兵学校も存在しておりました。

トラップ少佐が兵学校に入学したのは14歳だったことになりますが、
高等学校の段階で士官教育を施すシステムだったようですね。

ゲオルグは、海軍軍人だった父の跡を継いで、自分も同じ道を目指し、
フィウメにあった(現在はリエカ)海軍兵学校に入学することになります。

兵学校では士官教育の一環として、楽器を専攻させられました。
当時の海軍士官は(今もある程度はそうですが)紳士教育とともに
外交官ともなる社交教育もされており、音楽はその一環だったのです。

14歳のフォン・トラップはヴァイオリンを選びました。

4年後、兵学校を卒業すると、彼は士官候補生として、
練習艦コルベットSMS 「ザイダ II」に乗り組み、2年間の訓練航海を終えます。

この頃は帆船での航海であり、当時のオーストリア=ハンガリー海軍は
二回に渡る遠洋航海を行なっていたのです。
そのうち一回の航海は、オーストラリアでした。

今回、オーストリアで、

「オーストリアにカンガルーはいません」

と書かれたTシャツを目撃しましたが、自国と名前が似ている
この国について、フォン・トラップがどう思っていたのか知りたいところです。

練習航海で各地を訪れたフォン・トラップは、ついでに聖地巡礼を行い、
ヨルダン川で7本の水を購入して帰りました。

この水は、後に生まれた7人の子供たちに洗礼を施すために使われました。

(ということは、フォン・トラップは士官候補生時代、結婚相手もいない頃から
自分は子供を7人作ろうと決めていたということになります。
もちろん、水が7本あるので7人作ることにしたという可能性もありますけど)

それはともかく、最後の水を使う頃には水は腐っていたのではいやなんでもない。

 

1898年(18歳)任海兵隊少尉

オーストリア=ハンガリー海軍の略称はK.u.K
 kaiserlich und königlich (帝国と王国)を意味します。
もちろんこれはオーストリア帝国とハンガリー王国のことです。

1900年(20歳)防護巡洋艦「ツェンタ」乗組

トラップ少尉の乗り組んだ「ツェンタ」は、この年に発生した義和団の乱で
中国大陸に出征しています。


皆さんは皆北京市内の居留民保護を目的とした八カ国同盟軍、覚えてますか?

この写真、教科書にも載ってましたよね。
背丈の順で我が日本国は堂々一番右ですが、ただし、この時の日本軍は
強く正しくたくましく、その精強さで世界を驚嘆させたことも覚えといてください。

左から英・米・英領オーストラリア・英領インド・独・仏、
そしてオーストリア=ハンガリー、イタリア、日本軍。

記念写真は士官ではなく、全員兵士を選抜して撮られたようです。
オーストリア=ハンガリー軍の兵隊のいでたちは水兵ですね。
つまり海軍が派遣されていたことがわかります。

小型巡洋艦ツェンタ

防護巡洋艦「ツェンタ」の艦歴によると、義和団の乱の前年まで彼女は

日本(長崎、佐世保、鹿児島)

を訪問していましたが、義和団発生の報を受けて本国に呼び戻され、
75名の乗員を乗せて天津に向かいました。
この中に我らがトラップ少尉が海兵隊員として乗っていたのです。

「ツェンタ」は装甲巡洋艦カイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジア
と合流し、両艦の乗員160人がドイツの海兵隊を支援し戦闘を行いました。
この時の戦闘は激しく、「ツェンタ」艦長は戦死。
参加した両艦の乗員の一員として、トラップ少尉も勇猛勲章を受勲されています。

1903年(23歳)Fregattenleutnant の試験に合格 任海軍少尉

フレガッテンレウテナントとは、オーストリア=ハンガリー海軍の階級で、
英語で言うところのフリゲート・ルテナント。
海軍の階級でいうと、サブ・ルテナント、海軍少尉ということになります。

 1908年(28歳)航海科に転科 中尉任官 潜水艦隊に配属

 海兵隊員として10年間海軍に奉職したトラップは、潜水艦乗組になります。

ゲオルグ・ルードヴィッヒ・フォン・トラップは、海軍を志した時から
潜水艦に魅せられ、潜水艦隊の一員になることを希望していました。

1908年、新しく編成された海軍の潜水艦隊、Uブート・ヴァッフェに
転属するという願っても無いチャンスを掴んだトラップは、
その資格となる昇進試験を受け、

Linienschiffsleutnant 中尉

に任官しました。

 

オーストリア=ハンガリー海軍潜水艦隊は、特に第一次世界大戦において
「アドリア海での連合国軍の動きを抑圧した」(wiki)精強部隊だったとされます。

1910年(30歳)新造潜水艦U6「アガーテ号」の艦長に就任

オーストリア=ハンガリー海軍でも、潜水艦はUボートです。
同じドイツ語で「ダス・ウンターゼー・ブート」なのは当たり前ですね。

ここでトラップ(多分少佐)に運命的な配置が行われます。
彼が初めて艦長になったU-6は、数字から見てもわかるように
K.u.Kが所持した6番目の潜水艦で、その愛称「アガーテ」は、
「ホワイトヘッド魚雷」、つまり魚雷の発明者とされるイギリス人技術者、

ロバート・ホワイトヘッド

の孫娘が進水の儀式を行い、命名者になったことから与えられたものです。

おそらく「アガーテ」の艦長になったことが、縁を引き寄せたのでしょう。
翌年、トラップ少佐(多分)は、その当人と結婚することになります。

1911年(31歳)アガーテ・ホワイトヘッドと結婚 

「ロバート・ホワイトヘッド アガーテ・ホワイトヘッド」の画像検索結果 

二人は海軍基地のあった街、プーラに住んで、その後7人の子供をもうけました。
が、1922年、トラップ少佐が海軍を退官してからのことになりますが、
アガーテは、長女の猩紅熱の看病をしていて自分が罹患してしまい、
32歳の若さで夫と子供を置いて亡くなってしまうのです。

それで「サウンド・オブ・ミュージック」の話につながっていくわけですが、
ここは
トラップ少佐の軍歴について続けます。


1914年(34歳)魚雷艇54号の艦長に就任

サラエボでオーストリア皇太子が暗殺されたのをきっかけに、
第一次世界大戦が勃発しました。

今回は、ウィーンで軍事博物館の見学をしてきたのですが、その中に
サラエボ事件の資料などもあったので、いつかお話しするつもりです。

トラップ少佐は、魚雷艇の艦長に任命され、それと同時に海軍基地のあった
プーラ(現在のクロアチア)からザルツブルグに転居します。 

1915年(35歳)潜水艦U-5の艦長拝命 

ここからが本格的なトラップ少佐の軍歴となるのですが、続きは後半で。