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英雄フォン・トラップ少佐とトラップ家亡命の真実〜ザルツブルグを歩く

2019-08-13 | 海軍人物伝

さて、ザルツブルグの旅行記をお送りしていたつもりが意外なところで海軍軍人、
しかも潜水艦艦長の軍歴について紹介するという、当ブログ本来の
役目?を思いっきり果たすことができて大変嬉しく思っております。

さて、本編の主人公、トラップ少佐についてですが、正式な名前は

Baron Georg Johannes Ludwig Ritter von Trapp
バロン・ゲオルク・ヨハンネス・ルードヴィヒ・リッター・フォン・トラップ

です。
バロン(男爵)およびリッター(騎士号)を叙任されたため、名前にフォンがつきます。

騎士号は一般的に貴族階級のように生まれ持って家が相続しているものではなく、
例えば戦功を挙げた武人に授けられる勲章のような称号で、その場合は
「フォン」も一代限りとなるのかと思っていたのですが、たとえばトラップ家の
子供達も、男女全員が「フォン・トラップ」名を相続しています。

指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンの父親は騎士でしたが、もともと
カラヤン家は17世紀から貴族に叙せられていました。

さて、フォン・トラップ中尉は第一次世界大戦勃発後初めて
二度目となる潜水艦艦長職に就くことになりました。

 

1915年(35歳)潜水艦U-5の艦長拝命

SMU-5 Erprobung.jpg

前回艦長だったU-6もそうでしたが、このU-5も、進水の儀式は
彼の妻となるアガーテ・ホワイトヘッドが行なった潜水艦でした。

彼女は彼女は魚雷を発明したホワイトヘッドの孫で、妙齢の独身女性だったため、
新造艦進水式にこの頃引っ張りだこだったのではないかと思われます。

冒頭画像は、U-5の艦橋にいるフォン・トラップ艦長。

サブマリナー、フォン・トラップの本領発揮はこの艦長になって以降です。
年表にはありませんが、この頃もう彼は大尉に任じられていたと思われます。

まず、4月27日、オトラント海峡で、澳=洪海軍をアドリア海に封じ込める
作戦に従事していたフランス海軍の装甲巡洋艦「レオン・ガンベッタ」に、
フォン・トラップ艦長のU-5が、二発の雷撃を行いました。


レオン・ガンベッタ

雷撃された時、地中海において潜水艦の脅威が増大していたにもかかわらず、
「レオン・ガンベッタ」は護衛を伴っていなかったといわれます。

二発の雷撃で「レオン・ガンベッタ」は10分で沈没し、乗っていた821名中
ヴィクトワール・セネ少将を含む684名が死亡し、生存者は137名でした。

同じU-5で、トラップ少佐はこの年、イタリアの潜水艦「ネレイデ」も撃沈しています。

Regia Marina Nereide.jpgネレイデ

澳=洪海軍は偵察機によりイタリアの潜水艦「ネレイデ」の存在を確認し、
ゲオルク・フォン・トラップ艦長の潜水艦U-5が急遽派遣されました。

「ネレイデ」が浮上して停泊していた沖にトラップ艦長のU-5が沖に浮上すると、
まず「ネレイデ」は魚雷発射し、これを外したため潜水を試みました。
U-5は潜水中の「ネレイデ」に魚雷1本を発射し命中。
ネレイデは全乗員とともに沈没しています。

1916年(36歳)U14艦長就任

 An Austro-Hungarian wartime postcard of the submarine in Austro-Hungarian Navy service as SM U-14.U-14

前艦長の病気でU-14の艦長に就任したのがフォン・トラップでした。
彼が艦長になってから、U-14は爆雷を受けていますが、損害箇所の修理とともに

近代化を施したU-14を、再びトラップ艦長が指揮し、
世界最大の貨物線ミラッツォなど、11隻の撃沈記録を打ち立てます。

U-14はその後、艦長が二人交代しましたが、この二人をもってしても
トラップ艦長の戦績を超えることはできなかったということです。

U-14の、全てフォン・トラップ艦長の指揮による戦果をあげておきます。
これらの戦果は全て撃沈で、撃破はありません。

Vessels sunk while in command of U-14
DateVesselNationality 
28 April 1917 Teakwood  United Kingdom  
3 May 1917 Antonio Sciesa  Kingdom of Italy  
5 July 1917 Marionga Goulandris  Greede  
23 August 1917 Constance  France  
24 August 1917 Kilwinning  United kingdom  
26 August 1917 Titian

 United kingdom

 
28 August 1917 Nairn  United kingdom  
29 August 1917 Milazzo  Kingdom of Italy  
18 October 1917 Good Hope  United Kingdom  
18 October 1917 Elsiston  United Kingdom  
23 October 1917 Capo Di Monte  kingdom of Italy

1918年(37歳)Uボート基地指揮官としてカッタロに転任

37歳で潜水艦隊司令というのは異例の昇進の速さだと思いますが、
トラップ艦長が打ち立てた戦果の賜物です。

潜水艦隊司令なのに少佐だったというのも、年齢が達していなかったからでしょう。

11月11日、第一次世界大戦終結

大戦中のフォン・トラップ少佐の撃沈記録は、総数12隻(45,668総トン)。

叙勲された勲章は以下の通りです。 

マリア・テレジア軍事勲章騎士十字章

レオポルト勲章騎士十字章

プロイセンの一級鉄十字章

オットー戦功章 

カール勇猛章等ドイツ領邦の勲章も受章

そして、これらの功績により、騎士に叙せられました。

 

ゲオルク・フォン・トラップ少佐は海軍の、いや国の英雄だったのです。

この軍歴と功績を踏まえた上であの映画の「トラップ大佐」を改めて見ると、
かっこいいのは外見と階級だけで、実に滑稽な演出によるカリカチュアされた
軍人像(例えば子供達に軍隊式に行進させたりとか)に当てはめて表現されており、
マリアはもちろん、子供達も、フォン・トラップ少佐の海軍の同僚も、
とにかく本人をよく知る者は一様にショックを受けたというのがよくわかります。

特に、海軍時代の少佐の部下の一人は、養老院でこの映画を初めて観て、

「フォン・トラップがコケにされているように感じ」

怒りを覚えた、とまで言っていたというのです。

しかも実際のトラップ少佐は、家庭においてはとても優しい人で、映画のような
軍隊式の厳しい教育パパとはかけ離れていたため、
妻のマリアは、
映画製作中、何度も夫の描かれ方について脚本を書き換えるよう頼みましたが、
最後までそれは聞き入れられることはありませんでした。

 

繰り返しますが、家族ならずともザルツブルグの人々は、
「サウンドオブミュージック」という映画にずっと冷淡な目を向け続けました。

アメリカ人視点で語られている併合下のオーストリアについての描き方も、
ヨーロッパの人々がこの映画に反発する大きな原因です。

自由な民主主義国家のオーストリアを虐げるために併合したナチス、
そしてフォン・トラップはそのナチスと戦う善、のような描き方は、いかにも
善悪二元論で無条件にナチスを悪者にするハリウッドならではだと思います。

オーストリア併合・アンシュルスの現実は、決してハリウッドの善悪論などで
全てが語れるような単純なものではありませんでしたし、
もっと根源的なことを言えば、フォン・トラップはオーストリア軍人で、彼自身は

「オーストリア・ファシズムの立場からナチスと権力争いをしてその結果破れた側」
(wiki)

に立っていたに過ぎず、映画に描かれていたような「自由オーストリア対ナチス」
と言う構図は全く当てはまらないといえます。
もっとわかりやすく言うと、アメリカから見たならば、ヒトラーとトラップ、
どちらも同じ穴の狢と行っては何ですが、政治的方向性は同じくしていたはずなのです。

さらに皮相的な推察をさせていただければ、当時ヒットラーは、オーストリアの英雄、
フォン・トラップ少佐を客寄せパンダ的に我が方に取り込みたかったのに対し、
トラップはオーストリア人でありながら併合と言う形で祖国を裏切ったヒットラーを嫌悪しており、
かつ隷属的な立場に降ることを拒否し、亡命を決意したという見方もできるかと思います。

 

以上のことから、我々日本人は、トラップ一家が亡命したという結果だけを見て、
アンシュルスの実態に目を向けないままハリウッドの「歴史修正」を
単純に信じ込まされてきたという見方がなりたちます。

だとしたら、あの映画が歴史音痴の日本人に与えた「悪影響」は計り知れません(笑)


蛇足ですが、イタリアで「サウンド〜」が上映されなかったのは別の理由によるものです。

海軍軍人フォン・トラップは、彼らから見ると、自国の商船を何隻も沈めた極悪人で、
しかも、当時の同盟国ドイツに対し自由のために戦うという「善」として
英雄のように描かれているのが許せない!というのがイタリア人の見方だそうです。


何が言いたいかというと、こんな面倒臭い案件を、独善的なストーリーで
映画にしてしまうアメリカという国を、
当事者含めヨーロッパの人々は
いかに苦々しく見ていた(見ている?)か、ということなんですね。

ヨーロッパ人に「アメリカ嫌い」が多いのも宜なるかなといったところです。


さて、ザルツブルグの通りにあった「サウンド・オブ・ミュージック」ショップですが、
つまり当時を知る人がいなくなって、観光客向け(しかも、あの映画のおかげで
『聖地巡礼』に訪れる日本人は昔から多いとか)に稼ごうと考える
商売人も現れている今日この頃、ということなのでしょう。

誤解がないように書いておくと、オーストリア人はハリウッド映画は無視しましたが、

西ドイツではこの映画の9年前、トラップ一家の物語を題材とした映画『菩提樹』、
『続・菩提樹』が制作されており、ドイツ語圏でのハリウッド映画の不評とは対照的に
『菩提樹』は「1950年代で最も成功したドイツ映画のひとつ」とも言われている (wiki)

ということなので、トラップ一家が嫌われているというわけでは決してありません。


それより、当ブログ的に最後に触れておきたいのが、K.u.K
オーストリア=ハンガリー海軍の消滅です。

もともと海のない国に生まれた海軍でしたが、第一次世界大戦に敗戦し、
1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が解体されると、海軍の艦艇や軍人は
分裂した諸国や戦勝国へ分割されてしまい、消滅することになりました。

「一度消滅した海軍が復活した例は日本だけ」

と云われるように、オーストリアには以降海軍と名のつく組織はありません。

フォン・トラップ少佐が、それ以降の長い人生で、特にアメリカに亡命した後も、
海軍時代のことはもちろん亡命についても一言も語らなかったことが、
彼の深い悲しみと海軍消滅がその人生に落とした影を物語っているような気がします。

続く。

 

 



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3 Comments

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大変勉強になりました (Unknown)
2019-08-13 13:31:39
「サウンド・オブ・ミュージック」は観たことありますが、今回の記事を読むまで、トラップさんが海軍とは知らなかったし、そもそも、オーストリアに海軍があったことさえ知らなかったので、大変、勉強になりました。

トラップさんの時代、レーダーもソーナーもないので、捜索センサーと言えば水上艦も潜水艦も「Eye Ball Mk-II」(目視)しかありません。その状況でこれだけの戦果。アドリア海の最狭部(オトランド海峡)で敵艦を待ち伏せていたのでしょうね。

これだけの戦果を挙げても一切、海軍と縁を切ってしまったって、もったいない気がします。かつてお世話になった、海兵出身で戦後、自衛隊に奉職された方は「また海軍で働けると思うとワクワクした」とおっしゃっていました。

祖国に海岸線がなくなってしまって、挫けてしまったんですかね。日本で言えば、北海道や九州は取られてしまった感じですよね。
オーストリア潜水艦 (お節介船屋)
2019-08-13 17:23:22
海人社「世界の艦船」の2015年7~9月号(No818,820,821)に森野哲夫氏が「第1次世界大戦におけるオーストリア潜水艦」3回連載で記述されていますのでそれから引用します。
開戦時の潜水艦保有数は7隻であり、全て試作艇でした。それもレーク型2隻(U1,2)、ゲルマニア型2隻(U3,4)、ホランド型2隻(U5,6)、改ホランド型1隻(U12)、排水量水上230t、または240tであり、魚雷数も3~4本でした。艦内は体を延ばすスペースもなく、床で寝る状態で潜航したら数時間で空気は消耗、艦内湿度100%、真面な食事は取れないし、トイレも使用できない、コンパスは磁気コンパスのみで磁場により20~30度ズレていました。このような状況でしたがアドリア海で2~6日の作戦を良くこなしました。
特にトラップ艦長はU5前艦長が会敵数回でも攻撃できなかったのに1915年4月24日~27日のイオニア海戦闘航海で2名を除き全員が病気にもかかわらずフランス装甲巡洋艦を1回の会敵で、哨戒航路を見定め、有利な攻撃位置に占位し、400mから500mに接近し撃沈しました。
イタリアの寝返りやドイツの潜水艦の譲渡もありましたが、北部のポーラと南部のカッタロを基地としてドイツ潜水艦とともに活躍しました。
ドイツ潜水艦の戦果が圧倒的ですがオトラント海峡を越えて戦闘航海を実施したトラップ艦長のU14(元フランス潜水艦キューリー、ポーラ潜入を企て沈没、それを引上げ整備、排水量水上407t、戦後フランス返還)は1917年11隻44,594トンは多大な戦果でした。
1918年10月28日オーストリア政府はアメリカに休戦申し入れ、翌日セルビア、モンテネグロ、オーストリアの一部が独立国家設立決議、ユーゴとなり、海軍も引き渡されましたが、イタリアがユーゴが大兵力となる事を嫌い賠償として大部分は英、仏、伊に取られ、水雷艇と掃海艇等僅かしか残らず、軍人は故郷に帰り、海軍の機能は停止しました。
詳しくは上記の資料を見てください。
日本海軍駆逐艦榊 (お節介船屋)
2019-08-15 17:59:34
前コメントの資料に1,917年6月11日オーストリア潜水艦U27が第2特務艦隊所属の駆逐艦「榊」を魚雷攻撃とあります。
撃沈はされませんでしたが、上原艦長以下59名が犠牲になりました。マルタ島に慰霊碑があり、「榊」はマルタ島で修復され護衛戦に復帰しました。
なおU27はドイツUBⅡ型を建造された10隻の1番艦(水上排水量268t、水上速力9kt、魚雷発射管2門、魚雷数5本、航洋性あり、水上航続力4,000nm、乗員22名)で1917年2月竣工で4月初めから戦闘航海、1918年6月から10月にかけて地中海97日間の最長航海記録を上げ、戦果もトン数は少ないが多くの隻数を撃沈しています。終戦まで生き延びました。
なおトラップ艦長のU5,14での12隻45,668t撃沈より多いのU17,28フーデセク艦長の12隻47,770t、隻数の多さはU27のホルフ艦長の32隻2,957tでした。

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