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ザルツブルグ大聖堂爆撃とその復興〜ザルツブルグの街を歩く

2019-08-10 | お出かけ

ザルツブルグ到着の翌朝お願いしたガイドツァーが続いております。

泊まっているホテル・ザッハの近くのミラベル庭園という、昔風にいうと
お妾さんが囲われていた宮殿は、現在市役所だそうですが、例の
ニシカワフミコさん始め、日本人も、ここでザルツブルグ市役所公認の
結婚式を行うカップルが多いのだということです。

まあ、お妾さんの屋敷といってももう今は誰も気にしないかもしれませんが。

歩いていると、レジデンツ広場に出てきました。
中央には荒ぶる馬のいる「アトラス神の噴水」があり、正面は
現在州庁舎となっている宮殿です。

宮殿であったかどうかは、外壁に紋章があるのでわかります。

それにしても、昔の建築物はこうして拡大してみるとレンズの収差では
こんな風にはならないという歪みが目立ちます。

遠目に見るとなんの問題もないのに、不思議です。

州庁舎の屋上には「グロッケンシュピール」という鐘楼があり、
35個の鐘が一日三回、モーツァルトの曲を演奏します。

今は電動、あるいはコンピュータ制御かもしれませんが、昔は
人が鳴らしていたのかもしれません。

レパートリー?は51曲あるそうですから、とりあえずモーツァルトの
有名どころはほとんどカバーしているという感じでしょうか。

大聖堂の壁に沿って馬車の駐車場になっていました。

広場の奥には「ザルツブルグの息子」モーツァルトの像があります。
モーツァルトの妻コンスタンツェは、夫の死後、奥のピンクのアパートに住んで
銅像のできるのを待っていたそうですが、掘ってみたらローマの遺跡が出てきて、
色々やっているうちに亡くなってしまい、銅像完成を見ることがありませんでした。

広場に面しているザルツブルグ大聖堂の裏側にはスタンドが建てられています。
おそらくこの次の週に行われたザルツブルグ音楽祭の準備だったと思われます。

中に入ってみました。
1628年ということは、400年近く前に建てられた壮麗なバロック建築による聖堂です。

それではこの祭壇も4百年前からのものなのか、と思われた方、
残念なことにそうではありません。
戦災により大聖堂は一度崩壊しているのです。

1600年代からここにあった教会なので、当然ながら、
ザルツブルグ出身のあの人もこの人も、ここに通った可能性があります。

モーツァルトは例えばここで洗礼を受けました。
そして、オルガニストとしても仕事をしていたそうです。

モーツァルトのオルガンの腕前は、

「文字どおりオルガンの名手で、オルガンの即興演奏家としても桁外れの存在」

と、同世代の音楽家からも絶賛されるほどでした。

ところで余談ですが、バッハやベートーヴェンの時代、
オルガンを使った「音楽試合」があったというのをご存知でしょうか。

誰か偉い人(司教とか)が、最初のフレーズをお題として発表すると、
二人の音楽家が、それぞれそのテーマでフーガを即興演奏し、
どちらが優れているかジャッジが勝ち負けを決めるというものです。

 

フーガというのは、一つのテーマが4声とか5声の各声部に、形を変え、
前のテーマを追いかけるように次々と現れてくる形式の楽曲ですが、
基礎を学ぶため、音大でも作曲科なら必ず授業で4声のフーガを書かされます。

これがまた一言でいってパズルのような緻密な調整が必要な作業なんですわ。
これを即興で、しかもオルガン(足ペダルももちろん使う)でやるなんて、
昔の音楽家マジ天才ばかりなんじゃないだろうかと思ったくらいなんですが、
例えばベートーヴェンなど、このフーガ勝負に滅法強かったとか。

わたしは勝手に宮本武蔵みたいな剛腕のイメージをベートーヴェンに
持っているわけですが(笑)その伝でいうと、モーツァルトは天才らしく、
涼しい顔して天使のように無邪気に、大胆に、そして華麗に
テーマを展開させていったんだろうなあと想像しています。

ところで、大聖堂だけあって、オルガンが一つや二つではありません。
まるでボーズのスピーカーのように、四面の角に一つづつ、
計4台のパイプオルガンがあるので驚いてしまいました。

この4台が全部いっぺんに使われるなんて場面があるんでしょうか。

「モーツァルトが弾いたのはどのオルガンなんでしょうね」

ガイドさんに聞くと、そこまではわからないとのことでした。

祭壇左側前方のこれはきっと必ずモーツァルトも弾いたに違いありません。

震災で先生のご都合が悪くなったのでやめてしまいましたが、
わたしは
しばらくの間パイプオルガンを習っていたことがあります。
(バッハの小フーガト短調を弾くところまでは行きました)

壁を向いて演奏するパイプオルガンには、必ずバックミラーがあるのですが、
探してみたら、ここのオルガンにもちゃんとありました。

「オルガン台の下に監視カメラが仕込んでありますね」

ガイドさんにいうと、彼女はとても驚いて、

「えっ、どこですか?あ、ほんとだ。知りませんでした」

何十年もの間見てきて、いつの頃からかカメラが付いたのに
今日気づいたということで、感謝されました。

ここまでかなり歩いたので、椅子に座ってしばし脚を休めていると、
横に設えられた階段状のステージに黒いワンピースの女子が並びました。

出演前、用意しているときに小耳にした会話によると、彼女らはアメリカから来た
学校の聖歌隊で、教会を回ってボランティア演奏をしているようです。
「グロリア」をはじめ聖歌の演奏が電子ピアノの伴奏で始まりました。

うちの息子の高校も、去年夏ウィーンとザルツブルグに来て、ウィーンでは
彼女たちのようにオーケストラ演奏をしています。
こちらの教会はそういう場を貸すのにとても協力的なんですね。
日本の学校の修学旅行も、そういう企画をすればどうでしょうか。

ザルツブルグ大聖堂の入り口正面には、こんなパネルがありました。

1944年10月16日、ザルツブルグをアメリカ軍の空襲が襲いました。
尖塔に爆弾が命中し、大聖堂は損害を受けています。

教会上部から見た被害の様子。

「どうしてこんなところを爆撃しなければならなかったんでしょう。
アメリカ人だってほとんどはキリスト教徒なんじゃないんですか」

わたしが遣る瀬無い思いについこう尋ねると、ガイドさんは、

「あの人たちはほら、自分たちに歴史が無いから文化に敬意もないんですよ」

と、軽蔑したような言い方で答えました。

日本の都市部に爆弾を落としたときに、彼らは

「日本では家内工業で家庭でも武器の部分を作っているから」

などと民間人を殺戮したのを正当化しましたが、ザルツブルグの
300年以上歴史のある教会をわざわざ狙ってこれを破壊したことについて、
彼らは一体どんな言い訳ができたというのでしょう。

単に戦争だから、任務だったからで済まされる話ではないような気がします。

この大聖堂爆撃については、アメリカさんもそれなりに汚点と思っているらしく、
ほとんど英語での記述が出てこないのですが、wikiでも

The Salzburg Cathedral was damaged duringWorld War II 
when a single bomb crashed through the central dome
over the crossing.

なんとなく自然発生的な、攻撃した人間の存在の見えない書き方。
決して狙って破壊したのではない、とでも言いたげなニュアンスです。

戦後ハリウッドが、ザルツブルグを舞台に、あのミュージカル映画
「サウンド・オブ・ミュージック」を製作したとき、現地の人々は
驚くほどこの映画に対して冷淡だったという話がありますが、その理由の大部分は、
この破壊がアメリカ人に対する拭いきれない嫌悪を残したからではなかったでしょうか。

しかし、我が日本の皆さんにおかれましてはご安心ください。
このパネルの左上、一番目立つところには日本語でこう書かれているのです。

「献金をありがとうございました」

ザルツブルグ大聖堂は1959年に爆撃で崩壊した聖堂を立て直し、
その年の5月18日に戦後初めてのミサが行われていますが、
このパネルには、その修復費用を寄せた国の言葉でお礼が書かれているのです。

日本語が真っ先に書かれているというのは、おそらくですが、
日本から教会の信徒などを中心に多額の浄財が寄せられたのではないでしょうか。

お礼の下には、

「入り口の門にはつぎの三つの年号がご覧になれます」

774年 最初に聖堂がこの地建てられた

1628年 現在の元となった大聖堂が完成した

1959年 戦後の復元が完成した

わたしは、ザルツブルグ大聖堂再建のために、戦後の豊かでない生活の中から
捻出したお金で献金を行なったのあろう当時の心優しい日本人たちに、
心からありがとうございましたと心の中で頭を下げずにはいられませんでした。

そして、ザルツブルグの人たちがそんな日本に向ける思いの一端を、
わたしたちは最後にガイドさんが連れて行ってくれた小さな教会で知ることになります。

「この教会は、東日本大震災が起こったとき、日本の人たちに向けて
鎮魂のミサを特別に取り行ってくれたのです」


瓦礫の中から記念に保存されている部分は、何を意味するのでしょうか。

さて、このザルツブルグ祝祭劇場前で、ガイドさんはツァー終了を告げました。

しかしまあ、大聖堂の司教様も昔とは様変わりしているようです。
ポケットに手を入れて歩きスマホとは(笑)


続く。

 

 



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1 Comments

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サウンド・オブ・ミュージック (Unknown)
2019-08-11 08:30:20
「サウンド・オブ・ミュージック」は第二次世界大戦当時、ドイツによるオーストリア併合に反対してスイスに亡命した実在のオーストリア軍人(トラップ大佐)をモデルにしています。

その昔、世界に冠たる「オーストリア・ハンガリー帝国」であったオーストリアは、第一次世界大戦で国土を分割され、かつての栄光を取り戻すにはヒトラー統治下のドイツと合併し、その力を借りるしかないと考える人々が大多数で、ドイツによる併合を大手を振って支援しましたが、いざ、併合になってみると、ドイツ人からは下級市民的な扱いを受け、トラップ大佐のように亡命(と言っても、歩いて、国境を越えて、そのまま帰らなかっただけ)した人は多かったようです。

アメリカから見ると、全体主義に対する正義の戦いであった第二次世界大戦で、ナチスに反対して亡命したオーストリア軍人は、ヒーローになると思いますが、現地の人から見たら、国を捨てて逃げた訳でどうなんでしょうね。日本でもその昔、満州~ソ連国境を恋人と手に手を取って亡命したサヨク?の大女優さんがいましたが、そのお話しは映画になったりはしていないと思います。

ことザルツブルグに関して言うと、ナポレオンの時代まではバイエルン公国(広義のドイツ帝国)だったので、半分はドイツという意識もあると思います。オーストリア併合がなければ、もしかしたら、大聖堂を破壊されることもなかったかもしれませんね。
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