ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

アメリカ海軍の制服いろいろ〜メア・アイランド海軍工廠

2019-05-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

カリフォルニアはサンフランシスコ北部に位置するヴァレーホ。
そこにかつてメア・アイランド海軍工廠がありました。

全盛期にそこで稼働していた工廠のほとんどは使われておらず、
建て替えられたり、放置されたりしておりますが、この博物館だけは
当時の工廠をそのまま保存して海軍博物館にして展示しております。

海軍のこの手のローカル博物館にありがちなことですが、
おそらくボランティア団体などによって運営されているため、
オープンしているのは週のうちごくごくわずか。

近隣の学校がトリップでやってくることもあるのでしょうが、
1日に一人来るか二人来るか、というような集客状況では、
それも致し方ないのかなという気がします。

わたしが見学したときには、ご覧の通り。
わたしたちと同時に入って来た初老の男性一人、そして別の男性がやはり一人。
わたしたち(わたしとTO)を加えて4人が本日の見学客の全てです(多分)

見学料は確か一人12ドル前後取られた記憶がありますが、
こんなので大丈夫なの?とかなり心配になりました。

展示はこうやって俯瞰で見るとよくお分かりの通り、かつての工場に手を加えず、
展示用のケースなどもほとんど工廠のどこかで手作りした感満載の、
大変質素かつ簡単なものになります。

「イントレピッド」や「ミッドウェイ」とはあらゆる点で大違いですが、
わたしはある意味こちらにこそ大きな発見があるように思われました。

 

さて、冒頭画像は、みてお分かりの通り海軍のリクルートポスターです。

「若者はアメリカ海軍に求められている」

求む!ではなく、受け身になっているあたりがちょっとひねりがありますね。

「給与は月17ドル60セントから77ドル」

いきなりお金の話からはいるあたりが直球です。
月1900円から8500円、というのは物価的に見て、いつ頃でしょうか。

現在のアメリカ海軍だと、二等兵で1500ドルくらいから始まるそうですし、
そもそもこのポスターの制服は明らかに第一次世界大戦頃のものです。
1910年代のリクルートと考えればいいのではないでしょうか。

ちなみに現在の海軍の士官のお給料を大雑把に書いておくと、(月/ドル)

大将(16,000〜19,000)中将(14,000~17,000)少将(10,000〜14,000)

大佐(6,000〜11,000)中佐(5,000〜8,700)少佐(4,400〜7,300)

大尉(3,700〜6,700)中尉(3,300〜5,400)少尉(2,900〜4,500)

さすがはアメリカ、少尉クラスでも月30万から。
大将の給料は大企業とまでは行かずとも、企業の社長並みです。

下に行くほど給料の上下幅が広くなりますが、これは、士官候補生出身より、
下士官、准士官で士官任官した人の給料の方が断然高いからです。

これらは多分手当抜きなので、特に現場に出る軍人の手取りはもっと多いでしょう。
調べたことがないので知りませんが、我が自衛隊はどうなのでしょうね。


さて、ポスター続きです。

「各種手当、食費、宿舎、健康保険、最初の制服は無料」

二枚目からは自分で買ってね、ということのようです。
水兵さんの立っている岸壁の下にある文句は、

「能力に応じて昇進・昇給アリ」

みたいな感じでしょうか。

さて、それでは今日は博物館展示から海軍の制服をご紹介していきます。

・・・・と言いながら、これは陸軍の制服ではないですか。
映画や陸軍第442大隊の兵士たちの制服で(わたしには)おなじみです。

説明がほとんどないので(アメリカ人にはわかっているという前提?)
大変苦労したのですが、これは海兵隊の迷彩服のようです。(違ってたらすみません)

おなじみ海軍の看護士用制服白とブルー。
制服の下にはこの制服の持ち主の写真があります。

これを見ると、ジーン・ケリー、フレッド・アステア他一名の(おい)
"ON THE TOWN" 『踊る大紐育』を思い出すのはわたしだけ?

New York, New York - On the Town


確かあの映画、サービスのつもりかこのホワイトとブルードレス、
どちらも着用していましたよね。

なんども書いていますが、下士官の袖にある斜めの線は、年功章。
一本につき3年勤務したということなので、ということなので、
なんとこの制服の主は24年間「海軍の飯を喰った」ということになります。

下士官、ペティオフィサーの階級は三等海曹のE-4に始まって、E-9の
海軍最上級曹長、マスター・チーフ・ペティ・オフィサー・オブ・ザ・ネイビー
(MCPON)の最高位まであります。

MACPONのNはネイビーのN、つまり全海軍にたった一人の、
「下士官の総大将」とでもいう役職で、
マスター・チーフ・ペティ・オフィサー(MCPO)の
最高位(E-9)まで上り詰めた下士官という意味があります。

残念ながら写真に失敗して、なぜこの制服の上にカップルの写真があるのか
さっぱりわかりませんでした。

いわゆる「フルドレス」、最もフォーマルな場に着用する制服です。
映画「機動部隊」ではゲイリー・クーパーがパーティーでこれを着ていましたっけ。

40がらみで少尉から退役後まで演じたクーパー、当時は中尉という設定で

「提督の奥さんと踊って機嫌をとれ」

とか上官からいわれておりました。
一種のハニートラップを仕掛けろ、と若い士官に命令するわけです。

自分の妻が男前の若い中尉とダンスしてあからさまに喜んでいるのを
喜ぶ提督というのもあまりいない気がしますが。

1941年の海軍の制服です。

襟は黒のベルベット、それ以外の部分は黒に見えますが、
実はこれもダークブルーと称することになっております。
このフルドレスタイプの基本の形が決まったのは1830年で、
現在に至るまで時代に合わせた変化以外、大きなデザインの変更はしていません。

ちなみにこの一番左側は音楽隊のドラムメジャーの制服です。

ご参考までに、1898年のフルドレスですが、ほとんど違いませんね。

そしてこの頃は世界的に軍帽は(日本もそうでした)縦長のスタイルです。

今とほとんど同じ、中将の制服。

 

1905−1913年の制服で、一番左は海軍航空士官の航空スーツです。

海軍が航空機を採用したのは1911年。
すぐに非公式とはいえ専用の制服があらたに制定されました。
1912年の終わり頃には最初の海軍航空隊が発足し、グアンタナモ湾で
訓練を始めていました。

サッカー地に細かいグリーンのストライプ、グリーンのボタン。
もちろんこれまで見たことがない制服です。

階級章(軍曹)が付いていなければ軍服には見えませんが、海兵隊の女性用制服です。

海兵隊のユニフォーム、カーキ色のサービスドレスに対し、こちらも
ブルードレスと称しますが、これは本当にズボンがブルーなのでセーフ?

海兵隊のブルードレスは詰襟となっていますが、昔(1801年)、
刃物から首を守る革のベルト状のものを襟に使った
軍服を採用して以来、
海兵隊の伝統として変わらず受け継がれている独特のスタイルです。

現在でも海兵隊のことを別名「レザーネック」と言いますが、
それは
この頃の「レザーの襟」が語源となっているのです。

ところで、海兵隊のページを調べていて、「フルメタル・ジャケット」で
ハートマン軍曹を演じたロバート・リー・アーメイは、
陸軍ではなく、
海兵隊出身だったと知りました。

俳優、声優として有名になったアーメイですが、2002年、62歳の時
特別にE-7に「名誉昇進」しています。

退役してから昇進したのは、彼が唯一の存在だそうで、これは
退役後の「活躍」に対して軍が功績を認めたということに他なりません。

20184年月15日、74歳で亡くなりましたが、wikiによると、
ニーラという妻も後を追うように亡くなっています。

43年ともに連れ添って、同じ年に相次いで亡くなったということなんですね。

 

帽子ばかりが集められています。

この帽子を提供した軍人は、いわゆる「シー・ビーズ」、設営隊の人で、
戦時中はアリューシャン列島にいました。

退役後もここヴァレーホに住んで、1991年に亡くなっています。

1975年から1980年の間にE-5 (二等海曹)だった女性のユニフォーム。
「シビリアン・エンプロイー」(民間人)で、機械室の勤務をしていました。

 全く全容がわからない展示なんですが、服です。

プロテクティブ・ギアというこの白い木綿でできた防護服は、
ゴム靴を履き、ヘッドギアを着けて完成します。

何から防護するかというと、アスベスト

アスベストが肺癌の原因となる可能性があることは1938年に
ドイツの新聞が公表して明らかになりました。

第二次世界大戦中は顧みられていなかったアスベストの害ですが、
1964年の時点で世界的に公開され、1973年に製造者責任が認定されるようになって
訴訟が多発し、世界的に使用が削減・禁止されています。

日本では1975年吹き付けアスベストの使用が禁止されました。


余談ですが、かつてエラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロング
(最近ではレディ・ガガとトニー・ベネット)がデュエットした

「I Won't Dance」

というオスカー・ハマースタイン二世作曲のスタンダードナンバーには

「But this feeling isn't purely mental
For, heaven rest us, I am not asbestos」

(君に対する気持ちって、純粋に精神的なものじゃないんだよ
だって天国は目の前、僕だってアスベストでできているんじゃない)

火がつかない石綿を、相手の女性の誘惑にも理性を狂わされない
真面目な「石頭」にたとえているわけです。

Lady Gaga feat. Tony Bennett - I Won't Dance

(アスベストは1:23から)

rest usと韻を踏んでいるのでこんな言葉が使われたのでしょうが、
これが作曲された1934年はアスベストの害がまだ喧伝されていない頃だったのです。


制服シリーズの最後に、こんな「制服」も。
潜水服です。

1900年代の潜水スタイルです。
ヘルメットのMark Vは、今でもebayやamazonで結構売られていて、
下手すると70ドルくらいで買うことができます。

足元には潜水に必要なツールの数々が展示されています。

潜水服なのに、なんと素材はキャンバス地でした。
ロウビキしてあったのだと思いますが、耐水性などほぼなかったのでは・・。

深海で使うエアランプです。

これもダイビング・ランプです。
奥に立ててあるのは海軍が発行した潜水マニュアル。

潜水服に着ける靴はソールに鉛が入っています。
しかし、靴もカバーするものもレザーでできているというのが凄いですね。

このダイビングスーツは、ここメア・アイランド海軍工廠所属の潜水夫のもの。
ドックや港湾で潜水夫の必要な仕事はたくさんあるのでしょう。

それにしてもこのマーク・・・・(笑)

続く。

 


USS「マリアーノ・G・ヴァレーオ」〜メア・アイランド海軍工廠博物館

2019-05-09 | 軍艦

メア・アイランド海軍工廠では第二次世界大戦から潜水艦の建造、
あるいは改装を中心としてきました。

今日ご紹介する潜水艦「マリアーノ・G・ヴァレーオ」はその一つです。

最初に「ヴァレーオ」の名前に館内で出会ったのは、
この、海軍作業服の帽子の文字でした。

MINNELEYさんという元乗組員の着ていたものです。

その隣には「ヴァレーオ」の大きな模型、キールレイの時のペナント、
写真などのコーナーとなっていました。

潜水艦というと魚の名前をつけるのが普通ですが、たまに
人の名前が付けられることがあります。

「マリアーノ・G・ヴァレーオ」

は、カリフォルニア軍の指令であり、聖職者、政治家であった
マリアーノ・グアダルーペ・ヴァレーオ(1807−1890)
の名前から取られました。

カリフォルニアの英雄というような位置付けの人だそうです。
メア・アイランド海軍工廠のあるヴァレーオ(ヴァレーホということも)
の地名は、まさにこの人物の名前から取られました。

メア・アイランド生まれ、つまりヴァレーオ生まれなので
この名前が選ばれたのでしょう。

ところで、彼女と同じメア・アイランド産である
「ベンジャミン・フランクリン級」の潜水艦の3番艦は
USS「カメハメハ」といいます。

当級は全て人の名前が命名基準となっていて、スティムソンとか
マーシャルとか、我々も知っている名前が見られるのですが、
この「カメハメハ」(ハワイ王国の国王)のインパクトは強いわ・・。

 

手前の灰皿の真ん中にはカリフォルニア出身の彼女のために
クマと、それを取り囲む原潜を意味する原子力マークがあしらわれた
「ヴァレーオ」のマークがあります。

右は建造中の「ヴァレーオ」。
艦首の先が丸くくり抜かれており、そこに上っていく階段が地上から

長く続いています。
これは写真ではなかなか見ることがないシーンでしょう。

そして、左上の写真。
ここメア・アイランドに解体後展示されているかつての
潜水艦内部の前に立つ男性は、説明によると初代艦長、
J.K.ナンネリー氏だと書いてあります。

そう、この博物館には、「ヴァレーホ」の内部が残され、
展示されているのです。

それは、写真とは全く別の場所に背設置してありました。
解体された艦体から、コントロールルームと、それから潜望鏡を残し、
それをここに持ってきたのです。

潜望鏡は「生きて」いますのでのぞいてみて下さい、
と黄色い紙には書かれています。

潜望鏡とその周辺もそっくりここに再現されていました。
子供用に踏み台も用意されています。

急いでいたのでわたしたちは覗きませんでしたが、映画でよく
艦長がシャキーン!と下ろしてぐるぐると回すハンドルは、
さわれないように上げられたままになっていました。

潜望鏡の筒は固定されていて動かせないようになっていたのでしょう。

操舵手が二人で受け持つ操舵室。
映画「イン・ザ・ネイビー」では、ここに割り当てられた二人が、
賭け事好きと彼に賭けられた時ゴールを外したバスケットボール選手、
という組み合わせで、最初は喧嘩ばかりしていたという設定でした。

原子力潜水艦だからディーゼルエンジンとは全く違うというわけではなく、
あの時に彼らが乗っていたという設定の「バラオ」級潜水艦と、
この部分はほとんど同じという気がします。

従来と違うのはこの一番左のモニターでしょうか。

「ヴァレーオ」の推進はS5W (原子炉)でした。

原子炉型式名の S5W は

S = 潜水艦用
5 = 設計担当メーカにおける炉心設計の世代
W = 設計担当メーカー(ウェスティングハウス)

を意味します。

戦闘時に艦体が攻撃された時、原子炉だけは損傷に対する
完璧な抗堪性を備えている必要があります。

これは高安全設計の加圧水型炉であ理、高い信頼性を持ち、
耐久性もありました。

S5Wは1959年に建造された「スキップジャック」以降の潜水艦に搭載され、
1970年代中盤にS6G原子炉を搭載した「ロサンゼルス級」が登場するまで
アメリカ海軍原潜の標準型原子炉となりました。

 

上から見た潜望鏡。
これを覗こうと思えば、大人でも台の上に立たなければなりません。
その理由は、なんとかして外の景色を見せるため、
海軍工廠だったこの博物館の天井に潜望鏡を通したのだと思います。

それをするとスコープの部分がとても高いところになってしまったという・・・。

これが潜水艦部分全体を見たところ。
ハッチだった部分は木の蓋を作って塞いであります。

残された部分に人工呼吸のインストラクションがありました。
右側のキャビネットは

デジタル インターコネクティングボックス Mk9 Mod1

インターコネクトとは、、相互接続(する)という意味の英単語です。
電子機器や電子回路の分野で、半導体チップや電子回路間を接続し、
信号やデータを相互に送受信できるようにする伝送路のことです。

 

右上はこの博物館に「ヴァレーオ」を設置しているところでしょう。

下二つは進水式のときの写真です。
現在の自衛隊の潜水艦進水式は、全てピタゴラスイッチのように、
支鋼切断すればそれがシャンパンを艦首にぶつけて割り、
薬玉が割れて音楽隊は音楽を奏で、ピンが外れて艦体が滑り出す、
とそこまで流れるように進みますが、ここでの進水式は、
いわゆる「スポンサー」、偉い人の奥さんとか娘とか、とにかく女性が
艦首にシャンパンをぶつけて割る、ということを実際にしていたので、
艦首まで上っていく階段を作らなければなりませんでした。

進水式の時の各種報道です。
真ん中の写真に見える女性が「ヴァレーオ」のスポンサー、
ミス・パトリシア・O・V・ マクゲッティガン

添えられた説明によると、

「ヴァレーオのグレイト・グレイト・グランドドーター」

で、カリフォルニア大学のシニア、つまり四年生だそうです。
(大学4年にしては老け・・・落ち着きすぎてません?)
面白いなと思ったのが、「クレイストリートの何番」と
この人の住所まで載せてるんですね。

わたしが好きでよく行く代官山のTSUTAYAの中にあるライブラリーカフェは、
お茶を飲みながら周りに置いてある本を自由に読むことができます。

中でも昔の「平凡パンチ」などの週刊誌は当時の広告も含めて世相を知る意味で
いつも食い入るように読んでしまうのですが、昭和40年代、高度成長期の記事は
なんというかどれもこれもイケイケでアグレッシブなものが多く、今なら絶対に
アウトだろうと思うようなプライバシー無視の煽り記事が多いのに気がつきます。

投稿者の名前が必ず住所と一緒に掲載されていたり、それ以外にも
通りがかりの女性の後ろ姿を勝手に撮って載せて好き勝手に批評したり。
中にはいきなり男性経験を聞くシリーズ(もちろん写真付きで掲載)などもあって
驚かされます。

なんか当時はとにかく今と全く個人情報の扱いが違ったんですね。


閑話休題、右側の新聞には二人の海軍軍人の写真が掲載されています。
左が初代艦長、ナンネリー中佐、右が司令のようです。

新聞のタイトルは

「日曜日、17番目のPーサブが(進水台を)滑り降りた」

とあります。
P-sub の”P"がわからなかったのですが、「ポーポイズ級」潜水艦は
1930年代の潜水艦ですし、「ペルシャン」級はロイヤルネイビー、
「プラウダ」級はもちろんソ連の名前ですし・・・。

はて、何を指してPと言っているのかな?


さて、

 

「SSN」(原子力汎用攻撃潜水艦、あるいは攻撃型原子力潜水艦)

 と

「SSBN」(弾道ミサイル原子力潜水艦)

のタンク・アレンジメントという図解がありました。

上がSSNで、「スタージョン」級原子力潜水艦
下がSSBN、「ラファイエット」級原子力潜水艦の内部です。

適当にいうと、弾道ミサイルの方は隔壁とその他の装備がが前後に寄せられ、
艦体中央部分がごっそり何もありません。
「ラファイエット」級はポラリスミサイルを搭載しており、
昔グロトンの潜水艦基地併設の博物館見学記について書いたとき、

「41・フォー・フリーダム」(自由のための41隻)

と呼ばれていたということもお話ししたかと思います。

さて、「ヴァレーオ」ですが、彼女は就役後、、米国西海岸、カリブ海、
そしてフロリダの海岸沿いに沿ってシェイクダウン(慣熟航行)を行い、
パナマ運河通過も行いました。

そして1967年、母港であるハワイのパール・ハーバーに到着し、
第15潜水艦隊のもとで戦略的抑止哨戒業務を行いました。

初代艦長のナンネレイの似顔絵。
全てのサブマリナーがそうであるように、彼もまた
コネチカット州グロトンの潜水艦学校を出ています。

 

ところでこの変な潜水艦(艦体に84という謎の数字が)は
なんなのでしょうか。

もう一度、それからきっちり40年後の同一人物をご覧ください。
かつて自分が初めて息を吹き込んだ潜水艦のコントロールルームとの再会です。

こうしてみると背中が変な形ですね。

1994年、「マリアーノ・G・ヴァレーオ」は最後の哨戒を行いました。
最後にミサイルをオフロードし、最後にワシントンに寄港して、
「フリー・フォーティ・ワン」の一員としてその艦歴を終えました。

1994年、8月10日にパナマ運河を通過してサンディエゴから北上して
メア・アイランドに到着してから、「ヴァレーオ」は

11日間で3000回以上のツアーを主催

したとwikiに書いてあります。

一般人を潜水艦に乗せて航海することなど絶対にない我が国では
少し考えられませんが、この時には1日平均270回以上のツァーをしたと。

何かの間違いではないかと思い数字を確かめましたが確かにそう書いてあります。

 In port at the Mare Island shipyard the crew hosted
over three thousand tours of the ship in eleven days.

単にそれだけ人が来て中を案内したってことですよね?
最後に彼女を見ようと、人が訪れた、ということなんだと思います。

1995年、退役した「マリアーノ・G・ヴァレーオ」は、ブレマートンで
不活性化され、廃棄に伴うリサイクルプログラムに則って解体されました。
なので、ステイタスには「スクラップ」ではなく「リサイクル」と記されています。

彼女のセイルは今でもメア・アイランド造船所後のニミッツ・アベニュー沿いに
記念として設置されているのがグーグルビューで確認できます。

続く。

 

 

 

 


世界一太った双子の姉妹、その後〜My 600lbs Life

2019-05-08 | アメリカ

 

軽く流すつもりが我ながらびっくりのシリーズ第3話目、
「マイ600パウンドライフ」、ブランディとカンディの物語最終回です。

まず体重を400パウンド台に落とした妹のカンディがナウザラダン博士の
バイパス手術を受けることになりました。

日本でバイパス手術というとそれは虚血性心疾患に対して行われるものや、
同じ消化器系でも、アメリカとは逆に、疾患のある部分を迂回して
栄養が取れるようなバイパスを作るという手術を意味します。

それではアメリカの減量手術とはどういったものでしょうか。
それは、博士が言っているように、消化器を通過する食べ物を物理的に少なくし、
体重を減らしていくと言うもので、以前も説明したことがありますが、

ルーワイ胃バイパスと呼ばれています。

先生が説明していることをもう少しわかりやすく解説すると、
まず、胃を20~30ccの小袋に分け、その小袋に小腸(small intestine)をつなぎます。

食べ物が流れる小腸の途中に、胆汁と膵液が流れるように
もう一方の小腸の端を吻合します。

栄養の吸収をより多く控えたければ、小腸を長めに吻合、
少しでよければ短めに吻合、とここで調節を行います。

体に入ってくる食べ物の量は同じでも、手術で小袋をつくることによって、
吸収を悪くすることによってエネルギーの取り込みをさらに少なくするのです。

さらにそれに加えて、胃切除(sleeve gastrectomy)を行うようです。
胃をどのように切るのかは、このビデオを見ていただくとわかりやすいです。

Sleeve Gastrectomy Animation

バイパス手術だけでは200キロ超えた人には効き目が薄いようです。

そしてこれが動画の方法で切り取った胃のパート。
いかに彼女の胃が肥大していたかがわかります。

手術が終わり、自宅に帰ったカンディさん、

「ちょっとの間にものすごく体重が減った気がするわ」

いやそれ気のせいだから。

「もう二度とごめんだわ」

術後が辛かったことを言っているのでしょうか。

「辛い手術でしたが彼女は頑張りました」

次に体重の多い姉のブランディが同じ手術を受けることになりました。
カンディが手術を受けてから実に8ヶ月が経過しています。

「目標は胃切除の手術にまでこぎつけることだ」

なんか含みのあるセリフですね。

しかし、どうでもいいけどこの医療スタッフ、全員太り過ぎてね?
あんたらのバイパス手術は必要ないんかい、と聞いてみたい。

減量手術で有名な博士ですが、神様ではありません。
特にバイパス手術中、患者が出血、血栓、肺炎、心臓発作を起こし、
死亡することだってないわけではないのです。

もちろん患者はそうなっても医師を訴えない、という契約書を書かされます。

ブランディのような食べ過ぎを手術でなんとかするというのは、
実際問題大変難しいものだ、と博士は語ります。

いきなり場が騒然となりました。
ドクターやスタッフが走ったりしています。
ブランディの体は手術のストレスで肺塞栓症を起こし、心停止してしまったのです。

顔色を変えて駆け込んで行くスタッフの背中に向かって
ブランディは必死で叫ぶのでした。

「お姉さんに何があったの?!」

「彼女がわたしをおいて行くなんてダメよ。嗚呼神様」(直訳)

なんとか死なずに手術から生還したブランディですが、意識はなく
全身をコードで繋がれている状態に。

そして今だに血圧が下がったままのブランディ。
家族は待合室でただひたすら祈ることしかできません。

「下手すれば脳に障害が出ることもあります」

おいおい。

ブランディの意識がようやく戻りました。

涙に濡れた目を開け、なんとか自分が生きていることを確認。
とりあえず手術も成功したということになります。

回復後測った体重は70キロ当初から減っていました。
これでなんとか200キロくらいになったことになります。

最初の頃の無邪気に減量を喜ぶ様子はありません。

ブランディはその後89キロ減らして177キロに。
カンディは194キロ、約80キロの減量です。
手術が大変だっただけ姉の体重の方が少なくなってしまいました。

辛かった手術のことを思いながらも、若干表情は明るく。

手術は減量の第一ステップにすぎません。
これをいかにあとに続けていくかが目的であり、多くの人たちは
そこで挫折してしまうと言われています。

しかし、彼女たちが双子で何をするのも一緒であったことが、
今回その困難を乗り越えるのに大きな原動力となったのです。

二人は同じ手術を耐え、手術後励まし慰め合い、どうしていけば良いか
前向きに、しかも誰よりも熱心に話し合えるパートナー同士だったからです。

番組の勧めもあったのでしょうが、二人はジムにトレーニングに行くことになりました。

ジムの会員に大々的に紹介されて照れる二人。

こんな体でカーディオなどできるのか?と思いますが、
そこはそれ、皆腫れ物に触るようにやってくれるので大丈夫。

二人にとってここが「大きな前進のための第一歩」なのは、
二人きりの世界から初めて外に出たという意味があります。

二人の不安をよそに、ジムのトレーナーは懇切丁寧に、
彼女たちのための特別プログラムを組んで指導してくれました。

しかも、彼女らに気を遣って営業時間外にトレーニングしてくれているようです。

番組ではジムを紹介して減量を続けるとともに、
精神科医を紹介してメンタルをケアするということまでやってくれます。

二人の肥満の原因を作った彼女らの母も同行。

精神科医は彼女らの互いに対する精神依存の状態から聞いていきました。

互いに依存しすぎるのも問題だというわけでしょうか。

まあしかし、こういうセラピーにゴールはないのです。
ただ現状を聞いてもらうだけでも救いになるということもあります。

二人の肥満の原因を作った母親。(しつこい?)

実は彼女らの父はアルコール&麻薬中毒だったそうです。
子育てどころではなく、双子が泣くと親はシリアルをボウルに
ざらざらっと空けて勝手に食べさせたりしていたとか。

「時が来たら二人はきっといい方に向かって歩いていきますよ」

この精神科医の言葉はのちに実現します。

そして何回めの計量になるでしょうか。
カンディの体重はついに162キロに。

嬉しそう。

ブランディは約100キロの減量に成功しました。

そして診察の最後に、ナウザラダン医師は、彼女らを称えます。

「君は163キロの減量に成功したね」

「今どんな気持ち?」

嬉しいに決まってますよね。
初めて二人で笑っている様子を見た気がします。

この写真を見る限り、道は遠いという気もするのですが、
少なくとも彼女らは自分で歩き出しました。

二人がこの番組に最初に取り上げられたのは2016年のことです。
三年後の現在、その後彼女らがどうなったかというと・・・。

なんと妹のカンディさん、その後アフリカ系の男性と結婚し、
2017年の9月に可愛いベビーを授かりました。
全身が写っているわけではありませんが、随分痩せているのがわかります。

そしてもっと驚くのがお姉さんのブランディ。
2018年秋のスナップです。

この痩せっぷりは、おそらく100キロを切ったんですね。
彼女はカンディの娘のよき叔母さんとして人生を楽しんでいるようです。

そして、痩せてみればキリッとしたなかなかの容姿ではないですか。

どちらかが結婚したということは、互いに対する依存も今は
全くなくなったということになります。

全てがこのようにうまく行く例ではないのかもしれませんが、
彼女らはテレビに出られたことでその運命を変えることに成功しました。

インターネットに流れる彼女らの画像は多く、いかに彼女らが
アメリカ国民に応援されているかがわかります。

皮肉っぽくいうなら、こういうのも「アメリカン・ドリーム」の一種でしょうか。

 

 


世界一太った双子の苦悩〜アメリカ肥満事情その2

2019-05-07 | アメリカ

 前回に引き続き、「My 600 lbs Life 」で紹介されていた太った双子の話です。

今や260~70キロの体重に揃ってなってしまった双子の姉妹、
ブランディとカンディ。
やっぱり生まれた時から太っていたわけではありません。

おそらく1歳くらいの写真でも、ごく普通のアメリカの赤ちゃんです。
しかし、彼女らは成長するにつけ、同じように太っていったといいます。

お誕生日の写真だと思われます。
こういうのを見ると、やはり親の食べ物の与え方が間違っていた、
ということを思わずにいられません。

「molested」というのはいじめられた、ということだと思われます。
いくら太っている人が多いアメリカとは言え、子供の肥満は流石に
大人ほどではないので、いじめの対象になったのでしょう。

小学校低学年の姉妹はもうすでにかなりの肥満となっています。

彼らの母親は彼女らほど太る体質ではないため、娘が揃って
ズンドコ太っていくことにあまり危機感がなかったようです。

「もしそれが深刻なことだと知っていたら・・・」

なんて言って泣いていますね。

異常に太っている子供の親ももちろん太っていますが、
得てして子供ほどではないので、日常に流されるままに問題を看過し、
子供のために何かをすることなく気がついたら手遅れになっているのです。

自分が食べるものもジャンクフードにアイスクリーム、レンジフード、外食。
当然子供にも惰性で同じものを与え続けるうちに
取り返しがつかない状態になってしまい、どうすることもできません。

前回のジャスティンくんは太っていてもその後頑張って体重を落とし、
一流大学に入学することができましたが、これほど異常に太っている子供は
失礼ながらあまり勉強もできないのではないかという気がしますね。

蔑まれ続けてきた姉妹は、より一層内にこもって、
何をするのも姉妹だけ、という人生を送ってきました。

世間と関わらなければ誰にも傷つけられることはない。

その生活は二人でようやく成り立つものであり、片割れがいなくなれば
自分も死んでしまう、そう思っていたかもしれません。(伏線)

不思議なことに、超肥満の彼ら彼女らが仕事をしているのを見たことがありません。
この「全部食べ物に消えてしまう」というお金にしても一体
どうやって手に入れているのか、番組では説明されることはありません。

生活していくために最低限のことをし、残りの時間は何をするかというと、
特大のソファに寝転がって、何か食べながら一日中テレビを見るのです。

右側の本棚にあるのは本ではなく、全てビデオです。

しかも彼女らの食べるものといえば・・・・

カロリーだけは高いが脂肪を増やす以外の
なんの役目もしなさそうな食べ物を口にする時、
彼女らは全く幸せそうではなく、苦痛に満ちて見えます。

こんなものを大量に食べ続け、1日寝そべってテレビを見ていれば
すぐに死んでしまうことは誰よりもわかっているのです。

「わたしは自分の体重にじわじわと殺されつつあるんだわ」

かろうじて体を動かすのはトイレに行く時だけ。

「最悪の事態になる前に止めなくてはいけないのに」

母親の容貌には若い頃の美貌の名残りが伺えます。
しかし、この家庭にも父親の姿はありません。
こういうことも双子の肥満に無関係ではないかもしれません。

無気力な目をして、それでも彼女は訴えるのでした。
このままではいけないとわかっていると。

「精神的にも健康から言っても、そしてお金だってちょっとは・・」

ん?「Little bit」?お金は「大きな問題ではない」ってことですよね。
どうやって収入を得ているのか本当に不思議。


さて、そこで彼女らはこの番組に応募し、「なんとかしてもらう」ことにしました。

ところで、自分では現状をどうしようもできなくて、藁をもすがる思いで
この番組の被験者に応募してくる肥満者はたくさんいるのだと思いますが、
テレビですので全員がその対象に選ばれるわけではありません。

しかしながら不幸中の幸い、彼女らは「年頃の、しかも双子」という
テレビ製作者から見て大変「絵になる」条件でした。

この番組にレギュラー出演している、肥満の人の外科手術を専門にする
外科医のオフィスは西海岸にあります。

番組に選ばれた彼女らはそこに行くのに車の長旅を決行。

移動中の食事はほとんどドライブスルーで注文したものを、車の中で食べます。
とにかく二人は「人目に触れたくない」のです。

「皆がわたしたちを見て色々いうので人前に出たくない」

そう言いながらストロベリーサンデーをドライブスルーで注文。

年頃の女性としてはそういう視線や軽口に耐えられないのです。

スモークハムのサンドイッチを4つ(つまり一人で二つずつ)注文。

「わたしたちのどちらが欠けても生きていけないの」

母親がドクターのオフィスで先に来て娘たちを待っていました。
緊張の面持ちでまず計量を行います。

妹のカンディの体重は587.9パウンド。266.7kgです。

姉のブランディは274キロ。

姉のブランディは自分の体重を直視することさえままならない模様だった、
と妹のカンディ。

267キロも274キロも同じじゃないか、という気がしますが、
姉より7キロも軽い?妹はちょっと余裕こいていますね。

番組でおなじみ、ヨーマン・ナウザラダン博士登場。
博士はイラン系でテヘラン大学を出ています。

いつも患者に言うように、博士はまず50パウンド(22kg)
一ヶ月の間に落とすことができたら、手術を考えよう、と言い渡します。

手術のリスクを軽減することと、患者に、自分の生活を
改善し、真剣に自分の体重に向き合う覚悟があるか試す意味があります。

長丁場の治療に備え、二人は家を借りたようです。
早速一ヶ月で22キロ痩せるために審議中。

手を自分のお腹に乗せているお揃いのポーズがちょっと可愛いですね。
太った人の番組を見ると、ほとんど全員が
自分のお腹をテーブルがわりに食べ物のお皿を置いて食事を取っています。

健気にもカロリー計算した食べ物を用意して、とにかく
これを食べ続ければなんとかなるだろうと作戦を立てます。

しかしこうなってもやっぱり自分たちで料理をしようとは思わないのね。

「とにかくわたしたち、やるしかないのよ」

不安そうなお姉さんのブランディ。

そんなブランディの顔に初めて笑顔が浮かびました。
一ヶ月食べ物を工夫しただけで30キロの減量に成功したのです。

妹のカンディは約32キロのウェイトロス。
見た目は全く変わってませんが。

しかし、博士は彼女らが減量の目的を達成したにも関わらず
検査結果が出るのを待つ間、手術を行うことを延期しました。

どうもどちらかに気になる点があったようです。

手術を先延ばしする理由、それは二人の心臓です。

「カンディ、君のEKG(心電図)はちょっと異常だった」

30キロ以上の減量をしたといっても二人とも堂々の200越え。
今の状態で手術をすることにはリスクが多すぎる、とドクター。

「一ヶ月でもう13〜4キロ痩せてください」

「がーん」(´・ω・`)「がーん」(´・ω・`)

ここに至って、二人は突然やる気モードになって料理の真似事を始めました。
カロリー計算したものを食べるだけで30キロ痩せたので、自信と弾みがついたようです。

「わたしたちの人生はまさに今やっていることにかかっているのよ!」

食べ物だけではなく、軽い運動も始めることに。
まあ、他にすることがないんですからやるしかないよね。

運動といっても、椅子に座ってベルトを引っ張ると言うだけのものですが、
それでも今まで何もしてこなかったのですから効果は絶大。

なんと、前回の計量から32ポンド(14.6キロ)落とし、
体重は226キログラムに。

「もう少しで500パウンドを切るわ!」

うーん、これが彼女に取っての「大台」ですか。

さらに、また一ヶ月後、カンディはそれから19キロ減らし、
目標の500パウンドを大きく下回る218キロに。

この嬉しそうな顔をご覧ください。

というわけで、まず妹のカンディがバイパス手術を受けることになりました。

続く。

 


ネイビーズ・アプレンティス〜メア・アイランド海軍工廠博物館

2019-05-05 | 博物館・資料館・テーマパーク

 メア・アイランド博物館、今日は造船所の技術部についての展示です。

海軍造船所には、

ネイビー・アプレンティス・スクール

という初級技術者を訓練する教育機関がありました。
文字通り、初心者を熟練技術者、そして指導者のレベルに
導くための最初の道案内を行う重要な組織です。

「アプレンティス」(apprentide)

という単語はあまり日本では馴染みがありませんが、例えば
ポール・デュカスの「魔法使いの弟子」(ミッキーが演じたあれ)は

「Sorcerer's Apprentice」

といいます。
徒弟制度の弟子、というイメージでしょうか。

ここにはアプレンティス・トレーニングを受けていた学校の写真、
彼らが授業で使った設備がそのまま残されて展示されています。

右下の大きなやっとこのような形をしたものは「キャリバー」といって、
物差しでは測れない外周や内側を計測するための道具です。

学校で使われていた椅子は、作業用なのかアメリカ人が座るにしては
異常に座部が低く、脚は床に固定できるようになっています。

ロッカーの中にはメカニックの本、昔の保護用眼鏡などが見えます。

ふと上を見上げると、学校で授業に使われていた黒板がありました。
謎の数式が書かれていますが意味は不明です。

セイルロフト、「帆」関係を学ぶクラスの優秀卒業者が
金色のプレートに名前を残せる木の看板。

古いプレートはすでに黒ずんで、全く文字は読めませんが、
一番新しいプレートは1993年の卒業生です。

ところで、「セイル」というと布の帆のことですよね?
針と糸、ハサミ、ミシン、コンパスというのはわかりますが、
そこに原子力を表す電子マークが・・・・。

昔は帆を作っていたけど、近年は潜水艦のセイルについての技術を
勉強していた、ということでしょうか。

机ももちろんアプレンティス・スクールで使われていたものです。
左側の説明によると、スクールは1858年に始まりました。
つまり、ここに造船所ができるとほとんど同時に学校もできたということです。

SPUR GEAR、というのは平歯車のことです。
これは歯車の歯の拡大で、噛み合う部分も含め、その仕組みと
部分名称を学ぶための模型です。

「ホールディプス」(実際の深さ)と「ワーキング・ディプス」(稼働する深さ)
の微妙な違いなどが説明されていますね。

実際に活躍した踏み台の上にある黒くて長いものは、
ツールボックスです。

PLUMB ALIGNER BRACKET。

配管を結合するブラケットという感じでしょうか。
しかしそれにしてはたいそうな木箱に入れられているのが不思議です。

右の写真はアプレンティススクールで学ぶ少年。
名前がラッセル・ワグナーくんということまでわかっています。

今日はこどもの日なのでこのエントリを選びました(嘘)


おそらく当時は子供を働かせてはいけないという法律がなかったので、
彼のような幼い機械工も時々は見られたのでしょう。

左は、1963年にアプレンティス過程を終え、晴れて一人前の
技術者としてこれからスタートします、という53人の卒業生。

よく見ると二人、アフリカ系の卒業生がいます(上から3段目と4段目の左から2人目)。

公民権運動真っ最中の時期に彼はここで勉強をして卒業したことになりますが、
ここでは黒人に制度上の対する差別はなかったということです。

海軍そのものがアフリカ系を昔から締め出していなかったので、
自然なことかと思われますが、まあ職場では色々あったんではないかと。

さて、ここからは学校ではなく、ラボラトリー、研究室などの機材の紹介になります。

これは一目見てとんでもなく古い機械であることがわかりますが、
なんと1890年ごろバッテリー部門で製作された充電器だそうです。

艦船に搭載し、船のバッテリーを充電するのに使われていました。

「デンジャー」と書かれた札がつけられたレバーをバチっと
反対側に倒して通電する、という原始的な仕組みだと思われます。

ラボラトリーでは、顕微鏡を覗いていたり、前掛けをして机に向かっていたり、
理科の実験室のようなのどかな雰囲気があります。

それではラボラトリーではどんなことが研究されていたのでしょうか。
左から、ラボラトリーという本、メジャリング・チューブ、
真ん中の生姜のような物体はなんと、フジツボです。

これは、塗装、ペインティングラボで飼育?されていました。
理由はお分かりですね?

そう、フジツボがつきにくい艦船の塗装を研究していたのです。

右側の茶色い塊、一番右側は全てゴムですが、これは
説明によるとガンマ線の防護を研究していたそうです。

γ線は電離作用により、DNAを傷つけるので発がん作用があると言われます、
致死線量は6グレイ前後で、防護は、現在、比重の重い物質
(鉛、鉄、コンクリートなど)で行いますが、他のα、β線より
遮蔽しにくい放射線と言われています。

なるほど、ラボのが当時化学実験室のようだった訳がわかりました。

インダストリアルラボラトリーの名前が金で刻まれた黒板がありました。

フジツボを育ていたらしい「ペイントショップ」の写真です。
防錆性、耐久性、それからステルス性も研究されたかもしれません。

工廠では女性も働いていました。
もちろん技術者というより、補助の仕事ではありましたが。

かつてここで働いていたお嬢さんたち。
機械の前に立っているのは右下のキャロラインさん。
左はイブ・ハッチンソンさんの若き日と現在のお姿。

そうやって研究した塗装を実際に行う作業がここで行われていました。

電気機器を含む、無線、レーダー、ソナー、そして暗号などの機械を
修理していいたショップで使われていた道具の数々です。

左からマイクロメーター、インジケーター、リキッドレベルセンサー、
圧力スイッチ、圧力計、ワークセンサー、などなど。
それを実際に使っている写真と一緒にあったりして、もしかしたら
ここは造船技術の細部について展示されている唯一の博物館かもしれません。

マイクロメータは、精密なねじ機構を使って
ねじの回転角に変位を置き換えることによって拡大し、
精密な長さの測定に用いる測定器のことです。

ノギスよりも精度の高い測定に用いられます。

ただの白いつなぎですが何か?

と言いたくなりますが、一応防護衣服ということになっています。
これにゴムの安全靴、防護メガネ、手袋などを付けます。

マスクはアスベストに対し特に有効でした。
これらは塗装を行ったり、剥がしたりする作業の時に着用しました。

左;回路をチェックする電流計

右;  電流計

左;電気抵抗を検査する機械

右;メグオーム(megohm)メーター、同じく。

原子炉、パワープラントショップなる部門もありました。

ここからは説明がなく、謎の機械が続きます。
第二次世界大戦中、海軍工廠で使われていた機械ばかりです。

これはわかる。扇風機。

これは同じようなのを「ミッドウェイ」のマシンショップで見た気がします。
空母に必要な部品を、彼らは全て艦の上で作ってしまうのです。

万力のような非常に原始的な機械。

素材を切断する機械らしいですね。

粉砕機のようです。
機械の設置にあたっては、かつての技術者たちが協力したようで
ところどころにその写真があります。

これは説明がありました。
Horizontal Turret Lathe、水平タレット旋盤です。

普通旋盤にタレットと呼ばれる、旋回式の刃物台を取り付けたもので、
タレットに複数の刃物を取り付けておき、
これを旋回させることで使用する刃物を切り替えていきます。

台の向きはこれ以外に垂直のもの(バーチカル)もあります。

これは何かわかりませんでした。
丸いテーブルで穿孔する機械のようです。

1935年当時のメア・アイランド造船所で働いていた人たち。
ソフトボールのリーグがあったようですね。

ここに描かれている人たちのほとんどが1800年代生まれ。
彼らのほとんどが、その後に始まる戦争の時代にここにいて、
怒涛の時代、戦いに身を投じる艦船を建造し、送り出した経験を持つのでしょう。

 

 

 


「我が272.155キログラム人生」〜アメリカ肥満事情 その1

2019-05-04 | アメリカ

今日は連休スペシャルで息抜きの話題をお楽しみください。

さて、アメリカに滞在すると、主にネタ探しのためにテレビを観ます。
日本人の感覚ではとても信じられない一般人の露出型番組は、
ある程度「やらせ」だとしても、よくこんな恥知らずなことを
と呆れるようなプライバシーをネイションワイドに公表する人が
それこそ次々と出てきて唖然とさせられます。

しかしその中でも、医療系に解決を見出す悩める人たちがテレビで
恥とその超肥満の体躯を晒し、その代償に局のお金で治療を受けさせてもらう、
という番組を
今回はご紹介しようと思います。

なんども言っていますがアメリカにはデブが多い。
BMI30以上の比率は33%で日本の約10倍です。

この数字は18歳以上のもので、18歳以下の統計においても
18.4%と、こちらもアメリカは世界一のデブ大国ということになります。

この番組で紹介されていたのは、まだティーンエイジャーだというのに
ここまで体重を増やしてしまい、苦悩を味わう一人の少年。

太り過ぎで家族と一緒にモールに行っても10分で息が切れてしまいます。

「世界一太ったティーンエイジャー」、彼の名はジャスティン。

幼い頃から太っていて、洋服を探すのも一苦労だったとか。
アメリカには肥満専用のブティックなどもあって、
日本では考えられないほど太った人に「優しい」社会なのですが、
それでもやはりこう規格外だと自ずと限界があります。

ジャスティンは歌が上手く、心優しい少年です。
太りすぎて皆と同じことが何もできないこと、
何より、若くして死んでしまうことを恐れ、悩んでいます。

「普通の10代がしていることができるようになりたいんだ」

子供の肥満は、断言しますが100パーセント親のせいです。
ジャスティンの母親は、ただでさえ太りやすい因子を持って生まれた
息子を、その無知と愚かさで後戻りできないほどデブに育て上げてしまいました。

もちろん彼女自身も太っています。
モールを家族で歩くシーンを見る限り、夫のいない彼女は
マクドナルドで働いているようですが、自分自身が
職場の商品の愛好者なので、当然子供にもそれを与えたりするわけです。

料理は一切しません。

日本人のまともな感覚では、全く料理をしない親なんているのか?
と訝るでしょうが、実はみなさん、アメリカ人から聞いたところによると、
多くのアメリカ人は「料理をしない」のだそうですよ。

NYのおしゃれな女性の生き方を描いたSATCは、四人の登場人物のうち
料理をするのは辛うじてユダヤ人と結婚し彼に気に入られようとする時の
シャーロットだけで、皆外食かそうでなければ宅配の紙パック中華を食べています。

実際の例として、日系アメリカ人のわたしの知人の妹の家庭を挙げると、
彼女はカリフォルニア大学の数学教授と結婚していて、夫はユダヤ系。
本人はMITを出ていますし、彼の兄弟は全員がアイビーリーグ卒、
弟は弁護士で兄は医者、当然実家も裕福なのですが、
彼ら兄弟を育てた母親は家で一切料理をしたことがなかったというのです。

まさか、と思うかもしれませんが、アメリカ人は知的レベルと関係なく、
食に関してはとんでもなく寒々しい生活を送っている人が多く、外食以外は
レンジフードを自分の食べたい時間に勝手に作って自分の部屋に持っていき、

各部屋にあるテレビを観たりパソコンをしながら食べるのがスタンダード。
最近は家族揃っての外食すらしない家が多いらしいのです。

ジャスティンの母のような人は決して珍しくなく、これこそがアメリカを
超肥満大国にしている大きな土壌というわけなのですが、とにかく
気の毒なのは人より太りやすい体質に生まれてしまった彼女の息子です。

肥満に悩み続け、思い余ったジャスティンは、ある日自分で番組に応募しました。
突出した肥満であれば、採用されやすいし、もしそうなれば、
手術代を
テレビ局に出してもらえる可能性があるからです。

アメリカの医療費はそれこそ目が飛び出るほど高いのが普通です。
病院の方は、患者が医療費を払えることがわかるまで決して治療しません。

わたしも昔、公園で遊んでいて腕を骨折した息子をERに連れて行った時には、

「帰国してから保険会社に請求するから今クレジットカードで払う」

となんども言っているのに、いつまでもPCをパコパコやるだけで、
痛みで呻いている息子をいつまでも診察室に通してくれず困り果てたものです。

ましてや肥満解消のための手術など、よほど経済的に余裕がある人でないと
とても手が出ないわけです。

ジャスティンは肥満解消の外科手術をしてくれる医者に
意見を聞きますが、こういう場合、全ての番組がそうであるように、
これだけ太った人にいきなりメスを入れることを医者は絶対にしません。

問題は彼の心臓です。
肥大しきった心臓は手術に耐えられないだろうというのです。

そのほかにも、睡眠時無呼吸症候群、糖尿病、高血圧など
10代始めにして王道の成人病のデパートである彼は、
手術前に自力で痩せることを約束させられます。

こちらは彼のお姉さん。
母親も姉も世間一般でいうとかなりの肥満ですが、それでも
弟ほど切羽詰まった状態ではないので、おそらく自分のことは
「ぽっちゃり」くらいの感覚でいると思われます。

医者に、「手術までに食事を改善して体重を減らせ」
と言われたので、姉はかなりやる気になっているわけですが、でもねー。

家族が一丸となって心を入れ替え、食事を見直したりしない限りは、
このクェストをクリアすることはまず無理だと思うんですよね。

とにかく、一番問題なのはこのカーチャンなんだよ。

自分が料理しないので、ジャンクフードを三度三度買い与え、
むしろそれをたくさん与えることが「愛情」だと思っている節があります。

息子が医師のカウンセリングを受けて、手術のために
悲壮な決意をしているのに、カーチャンはなんのてらいもなく
今までと全く変わらないジャンクフードを食べさせようとして、
息子に静かにブチ切れられるのでした。

息子さん、お母さんに怒りを吐き出してしまいました。

17歳の少年には食事を自分でなんとかするという術がありません。
頼りにできるのは母親だけなのに、その母親がここまで愚かだと・・・。

「わかってるのよ。でもどうしていいかわからないの!」

愚かな母親は息子の反撃を受けて泣き出します。
その向こうには彼女が買ってきた食べ物の山が(笑)

このかわいそうな少年と母親がどうなるのか、少年は手術を受けられるのか、
大変興味のあるところでしたが、ちょうどここで出かける時間になってしまい、
結局結論は見逃してしまいました。

今、その結果を検索するために

「ジャスティン テキサス アマリロ ファット」

でググったところ、大変嬉しいことに、彼はこの後体重を正しい生活によって
300ポンド(136キロ)減らし、(それでも特大から大になった程度ですが)
その後教会で歌の仕事に就くことになったということを知りました。

痩せておしゃれになり、イヤリングを付けた最新のジャスティンくん。
なんか肌も綺麗になりましたよね。
テキサスA&M大学(優秀!)への入学も果たし、歌手になる夢のために勉強もしています。


さて、次に、今回の本題となる番組を紹介しましょう。

「ジャスティン・ケース」(誰が上手いこと言えと)はこの番組、

「My 600lbs Life」

のティーンエージャー編です。
番組は、「毎年アメリカでは何百人もの肥満患者が
減量のための手術を受けている」という字幕で始まります。

タイトルロールにはこれまでの出演者の姿が映し出されます。
この男性の脚はリンパ浮腫によってとんでもない「もの」になってしまっています。

しかし、「彼らのうち長期的に手術が成功し健康体になって
痩せることができるのは5パーセント以下なのです」ひえええ。

下のセリフは、娘に押しつぶされた母と押しつぶした娘の悲しい会話です。

とにかく、100人のうち成功するのが数人しかいないとわかっていても、
現状を打開するには何かをするしかない、とすがる思いで
手術を受ける人が後を絶たないというのです。

ジャスティンが減量に成功したのは稀なケースということですが、
これは彼が若く、周りに彼を導こうとする人たちがいて
道を間違えなかったということなのでしょう。

「もうこんなのいや!死にたい」「大丈夫よ!あなたは大丈夫」

カメラが回っていても、出演者は感情をあらわにする場面が多く、
大抵皆絶望して泣いたりするわけですが、こういうのを見ると

「ここまでなる前になんとかすることはできなかったのだろうか」

と答えはわかっているのについ問わずにいられません。

「このシリーズは一年の間600パウンドの人生をもつそれぞれが
彼らの人生を取り戻すべくトライする姿を探求したものである」

はい。

アメリカでテレビを見るときには必ずキャプション付きでね。

今日ご紹介するのはなんと珍しい、29歳の双子の女性です。
ブランディとカンディ、それぞれ266キロ、273キロという体重の持ち主。

二人の寝顔から番組は始まります。

なんとこの二人、姉妹二人で一部屋に住んでいるだけでなく、
巨大なベッドにシーツも敷かず一緒に寝ているのです。

実はずっと寝ていたいくらい起きることそのものが面倒ですが、
それでも朝はやってくるので起きなくてはなりません。
散々苦労して起きて立ち上がり、シャワーを浴びるのです。

「全てのことがいちいち大変なの」

まだ彼女たちは自分自身で体を洗うことができるだけ
この番組の出演者の中ではましな方です。

「二人とも、もうただギブアップしたい時もあるの」

それでもシャワーを浴びなければ、巨大な肉襞の下は
たちまち汗疹で大変なことになってしまうのです。

この番組では太った人の体をごく一部をぼかして写してしまいますが、
あまりにも規格外れに脂肪そのものは全く隠す必要はないと考えているようです。

一日のルーチンがいちいち大変なのに、巨大な身体の二人の姉妹は
かろうじて身を寄せ合って狭いスペースで生きています。

毎日の繰り返しが苦痛では生きていくのもさぞ辛いことでしょう。

胃のある付近を洗うのが一番大変だと言っています。
手が届かないんですね。

それをいうなら膝から下は洗うことなど完璧に不可能なのではないか?
と思いますが、一体どうしているのでしょうか。

と思ったら次に答えがありました。
手の届かないところは片割れにケアしてもらうのです。
体を拭くのもお互いを必要とします。

二人の顔には笑いは一切なく、ただただ苦痛に満ちた作業を無表情で行うだけ。

映像を流しながら彼女ら自身が語るナレーターは切実です。

「本当に自分の身体が嫌い。腕にも問題があるの」

Burden というのは重い荷、積荷などのことをいいます。
それだけ食べたんだから当たり前だろ、とついいいたくなりますが。

それにしてもこの身体・・・どこがどうなっているのか。

この低いベッドに乗るのにも踏み台が必要なくらい足が上がりません。
シャワーが済むと二人は互いの体にパウダーを塗り合います。

この番組をいくつか見て知ったどうでもいい知識ですが、太った人は
これをしないと
股擦れの症状が身体中にできてしまうのです。

こんな生活をしている二人はどんな幼年時代を送ってきたのでしょうか。
彼女たちに少しでも明るい明日はやってくるのでしょうか。

 

続く。



海軍潜水艇「X-1」バチスカーフ「トリエステII」〜メア・アイランド海軍工廠博物館

2019-05-03 | 軍艦

 

先日海上自衛隊呉史料館、通称「てつのくじら 」を見学ましたが、
今日はメア・アイランドの展示物の中でも潜水関係のものについてです。

このエントリを仕上げてから、わたしはインターネットでNHKの

映像の世紀プレミアム7「挑戦者たち」

を観て、その中の

深海に挑んだオーギュスト・ピカール教授

の紹介に思わずあっと声を上げました。
ピカールが深海に挑んだ潜水艇こそ、この時メア・アイランドで模型を見た
「トリエステ2」だったからです。

wiki

オーギュスト・ピカール。

当時のニュース映像音声によると(日本語訳はされていませんでしたが)

「教授とその息子はこれからバチスカーフで4000mの深海に挑戦する」

ということが説明されていました。

スイスの物理学者ピカールは、自分の発明した気球で成層圏に達した
最初の人物ですが、その技術を応用し、潜水艇を開発したのです。

それは理論上、水深1万6千メートルまで水圧に耐えられるとされていましたが、
機構上の不備で浸水してしまい、失敗。

そこでイタリアのトリエステという街のスポンサーを得て、
新たに作られたのが

トリエステ号

でした。

人員が乗り込むのは丸い「ゴンドラ」の部分です。

1953年、前人未到の水深3150mを目指した「トリエステ」号は
69歳のピカールと息子のジャックを乗せて目標を達成しています。

みなさん、ところでタイトルのバチスカーフという言葉聞いたことがありますか?

Bathyscaphe、-scape、-scaph

と綴るのですが、この言葉はピカールによって発明されたもので、

推進力をもち、深海を自由に動き回ることが可能な小型の深海探査艇

という意味を持ちます。

ギリシア語の「bathys(深い)」「skaphos(船)」を合わせた造語で、
現在は深海探査艇のうちピカールが設計(デザイン)した一連の個体、
あるいは、それに類似したタイプを指す総称となっています。

初代バチスカーフ「トリエステ」は、最終的にマリアナ海溝に潜行を行い、
20万トンもの水圧に耐え、
深度約10,911メートルの潜行記録をを打ち立てました。

wiki

その「チャレンジャー海淵」はエベレストよりも高い、いや深いのです。
この時、老齢のピカールに変わって挑戦を行なったのは息子のジャックでした。
(写真上の人物)

成功の知らせを受けたピカールは、

「嬉しいかって?嬉しいに決まっているだろう」

と答え、その2年後に78歳でこの世を去っています。

「トリエステ」号の有人潜水記録は、その52年後の2012年に
「ディープシー・チャレンジャー」がほぼ同じ深度に到達するまで、
破られることはありませんでした。


ところでもしロレックスの時計を愛用している方がいたら
ロレックスの名声を高めたのが他ならぬ「トリエステ」であったことを
ぜひ知っていただきたいと思います。

 ROLEX History: 1960

Bathyscaph Trieste Record Dive.mpg

このチャレンジの時、「トリエステ」の外壁にはロレックスの時計がむき出して備えてあり、
1万メートルもの世界初の水圧に耐えたことでその性能が証明されました。

わたしがロレックスというブランドに惹かれるのもこの伝説あってのことです。
(流石にその潜水艇が『トリエステ』であることは今回初めて知りましたが)

カルチエの「サントス」もそうですが、現在ブランドと呼ばれるものには
それなりの歴史の積み重ねがあり、その物語ゆえに人々はブランドを支持するのです。

この、まるで白いクジラのような形の潜水艇は、

TriesteII(トリエステ2)

というバチスカーフです。

ピカール親子とは全く関係ありませんが、初代「トリエステ」のオ
マージュとして2号と名付けられた潜水艇で、
設計は初代を参考に、
ここメア・アイランド海軍工廠で建造されました。

これが「トリエステII」の最初のバージョンです。
彼女は最終系になるまで何度か階層を繰り返して進化しています。

手書きの字がじわじわきますね。

メア・アイランドの対岸のまちが向こうに見えていますが、これはおそらく
建造中で艦体にカバーがかかっている状態だと思われます。

このカバーを外したものが下の写真。
船底のハッチからのぞいているのは乗員が乗り込む与圧室です。
ここから海底を目視しながら操縦を行うのです。

もちろん深海用なのですが、普通深海用というとできるだけ
圧力の変形を受けないように丸く作るものですよね?
「あの」マルゆですら、そのため缶詰工場で作らせようとしたくらいですが、
この形はなんともよくわかりません。

海上の「トリエステ2」。
イタリアの設計に任せたら、耐圧殻がこんなのになってしまいました。

軍用艇ではなく、さらに深海に潜水するということで、艇体は白です。

上の当博物館にあった説明(しかし字が下手すぎる)によると、
この写真が3回目の改装後で、下に保護のためにつけられた枠を外すと、

改装された後の艇体はこんなになっていたというわけです。

ようやく深海探査艇らしい耐圧殻に生まれ変わった「トリエステ2」。

この耐圧殻は信頼のドイツ・クルップ社製です。
(イタリア製が信用できないと言っているわけではありません)

この改装ももちろんメア・アイランド海軍工廠で行われ、この結果
新しい外殻によって水深20,000フィート(約6100メートル)まで潜航可能となりました。

海軍の所属ではありましたが、いわば「潜水夫」の仕事をする、
探索艇だったためか、「トリエステ2」は1969年秋までは
海軍の「備品」扱いで、艦船とはみなされていませんでした。

しかし、「トリエステII」が海軍籍に入れられるきっかけとなったのは
おそらくですが、この潜水艇が

原子力潜水艦「スレッシャー」USS Thresher, SSN-593

が1963年に沈没事故を起こした時、その捜索にあたったからでしょう。

海軍籍を与えられた「トリエステII」の船体番号は「X-1」

そして1971年6月1日から1980年まで、深海潜水艇(DSV)として運用されました。

 

 

「トリエステ級」深海潜水艇は、その後、有名な「アルビン」に代表される
「アルビン級深海潜水艇」(『タートル』『シークリフ』『ネモ』)
に置き換えられて引退しています。

アルビン号

wikiによると「アルビン級」は乗員が多く、より機動性に優れているが、
トリエステほど深くは潜れない、と書かれています。

ちなみに、「トリエステ2」の最大乗員数は2名。
それではアルビンは何人乗れるのかな?と思ったら、

操縦士1名科学者2名(計3名)

たった一人しか違わんやないかーい(笑)


こちら海軍艦艇甲板上のアルビン。

 

 

さて、そのほかの潜水関係展示をさくさくとご紹介していきましょう。

潜水夫が潜水艦を抱えているモチーフ。
海軍工廠では、港湾における潜水作業が欠かせません。

一番左の絵はやはり潜水艦を抱え、海底に立って
お魚と対話している潜水夫が描かれています。

これらの写真は比較的最近、1984年ごろのもので、
上は「ダイビング・バージ」といい、潜水を行うプラットホームです。

こちらの白黒写真は皆1954年ごろのもの。
いずれもバージの上で潜水スーツをつけた潜水夫に、
ヘルメットを被せたりしているシーンばかりです。

これによると、メア・アイランド近海の水深はせいぜい12mくらいで、
深くはありませんが、3〜4時間以上は水温の関係で潜ることはできません。

海峡となっているメア・アイランド付近の海は濁っていて
水深2フィート潜ればもう何も見えず、ダイバーは手探り状態。
作業は大変困難になることが多かったそうです。

大変きつい仕事なので、ダイバーはローテーションで仕事を行い、
しかも潜水は一日一回だけとされていました。


ダイバーになるには厳しい体力テストが行われ、勤務中も
最大限のメディカルケアが施されましたが、それでも
引退は40歳と大変早い時期です。

昔の潜水はここにあった器具を見ても、大変過酷だったに違いありません。

説明はありませんが・・・これ潜水艦の潜望鏡じゃないですか?

しかも、「ノーチラス」を見たことのあるわたしに言わせると、
これは明らかに原子力潜水艦の潜望鏡です。

巨大な潜水艦の模型がありました。

もちろん人間が乗れるようなものではありませんが、模型にしては大きすぎる。

しかし、アップにしてみると潜水艦も輪切りにしてあり、
しかもそれぞれのパーツに番号がついています。

 

ここにあった説明です。

「造船路(シップ・ビルディング・ウェイズ)」

1939年、メア・アイランドには1番と2番、2つの造船路がありました。
1番路は通常全長600フィート以上の造船に使われていました。
2番路は450フィート級の船を作るための大きさではありましたが、
例えば潜水艦や駆逐艦クラスなら同時に2隻作ることができました。

1941年、新造計画が立ち上がると同時に、新しい造船路が必要となったので、
第3から8までの6つの造船路が一気に作られることになりました。
ここに来るためにナパリバー・ブリッジができたのもこの時です。

これらの造船路は皆450フィートでした。

どうもこの模型は、大量に造船路を作るにあたって用意された
潜水艦のモックアップだったということのようですね。

潜水艦基地のあるメア・アイランド。
今いるところは画面左奥の工廠の部分です。

SSN575、原潜シーウルフ

「シーウルフ」はこれもわたしはすでに見学したことのある、「潜水艦のふるさと」
グロトンで建造され、ここメア・アイランドで電子情報収集及び分析装置、
有線式遠隔観測機(通称「フィッシュ」)2基を搭載しています。

つまり、ソ連領海に侵入して情報蒐集を行うという特殊任務用の改造でした。

立派な潜水艦の模型ですが、艦体に書かれている「ソラノ」、
この名前の潜水艦はないので模型製作者の名前かもしれません。

もし実在する潜水艦だったらごめんなさい<(_ _)>


続く。

 


平成最後の日

2019-05-02 | つれづれなるままに

みなさま、令和元年おめでとうございます。

ここのところずっと自衛隊訪問記事が続いたので、ちょっと息抜き記事です。
みなさまは平成最後の日をどのようにお過ごしになりましたでしょうか。

わたしは、自分の誕生日を祝っておりました。

まず、朝から各所(といっても数件ですが)より届く貢ぎもの、じゃなくて
プレゼントが届き、その中には妹からの渾身のセレクトによる(本人談)
花かごとか、

会員であるところの某クラブからのお花がありました。

平成最後の日、わたしとTOは、わたしたちにとっての平成を振り返り、
ついでにわたしの誕生日を祝うディナーに出かけました。

東京は雨でした。
東京駅周辺にはいたるところに警察の警備が立ち、ちょうどその時間、
今は上皇となられた天皇陛下が退位立正殿において最後のお言葉を述べておられたのです。

今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました。

ただ今、国民を代表して、
安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。

即位から30年、これまでの天皇としての務めを、
国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、
幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、
支えてくれた国民に、心から感謝します。

明日から始まる新しい令和の時代が平和で実り多くあることを、
皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。

今日令和となって天皇陛下のお言葉も拝見しましたが、
単純に、驚いたことが二つ。

お言葉を述べられる上皇殿下のお姿が
記憶に在わす昭和天皇によく似ておられたこと、そして
令和の世になるや、新しい天皇陛下のお姿がすでに
後光が差さんばかりの威容に溢れてみえたことです。

わたしは国民の一人として、天皇を象徴とするこの国に生まれたことを
誇りにし、そしてただ代々天皇陛下の御世を何千年にもわたって受け継いできた
我々の父祖と歴史の重みに対し、ただ静かに感謝を捧げるのみです。

 

ついでながら一言差し出がましいことを言わせていただくと、皇位継承について、
人品卑しげな曲学阿世の徒や逆張り言論人気取りの俗人が、畏れ多くも
天皇陛下や皇族の方々のお気持ちを勝手に代弁したり、自分の反対意見には
「カルト」という言葉まで使って下賎で不毛な空論をぶつけているようですが、
所詮は日本の長い歴史のほんの一瞬生かされているだけに過ぎない身で、
数千年にわたる皇統の歴史に物申し、それを我々の世代で変えられると思うのは
あまりに愚かしく、
そして何より不遜であるとしか言いようがありません。


ちなみに令和元年五月一日付で憲政学者の倉山満氏がこんなことを書いておられます。

「愛子天皇」待望論者たちよ、もう一度壬申の乱を起こしたいのか


この日の誕生日ディナーは東京駅前ホテル(仮名)のレストラン個室でした。
選んだのはわたしではなく、TOのサプライズです。

部屋にはテーブルが一つ、向かい合ってしみじみと?お任せディナーをいただく趣向。

ナプキンの襟元にパスタのファルファッレが使われていて洒落が利いています。

車で来ているうえ下戸同士の夫婦ですが、お祝いということで
ノンアルコールのスパークリングワインを注文しました。
ワインというよりサイダーという感じですが、
フルートグラスに泡が立ち昇っているだけで気持ちが華やぐというものです。

前菜は季節のカツオを使ったマリネ的一品。

魚はこれも季節のサワラをオリーブやアンチョビでコーティング?したもの。
彩にトビコをあしらって目にも鮮やか。

デザートは軽ーく、ムースで締めくくり。

デザートと一緒にTOから、わたしが大好きなサンダーソニアの花束のプレゼント。
誕生日のおかげで花に囲まれた元年を迎えることになりました。

崩御による元号交代という従来の姿とは違う御世代りではありましたが、
この日の東京都内の様子を見るかぎり、各自がただ粛々と
終わりゆく平成を噛み締めているような一種の静けさに満ちていました。

 
ところで今年は海上自衛隊の観艦式が予定されていますね。
先日も、もし観艦式日程がわかり次第教えて欲しい、というメールをいただいたのですが、
海幕の中の方から聞いた話をここでちょっとさせていただきますと、
今年はおそらく例年より規模をスケールダウンすることになり、
一般の人の参加は厳しくなるだろうということです。
 
乗艦券が非常識な値段で売買されている事態を重く見たこともあるでしょうが、
今年はとにかく海上自衛隊に入隊する可能性のある若い人に
広報するということを主眼に乗っていただくというようなことを聞きました。
 
(くらまは41,500円、いずも40,500円という値段だったとか)
 
厚かましい団塊カメラ爺さんなんか載せる必要なし、とわたしも思います。
 
 
おまけ:この日帰りにうちの近所のオシャレ系スーパーで見つけたツナ缶。


ちなみに中身はポーランド製で、なぜとは言いませんがこれがこゴルゴっぽい気がしました。