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ダウンフォール作戦と半潜航型スパイ搬送艇「ギズモ」または「ギミック」

2017-08-06 | 軍艦

マサチューセッツのバトルシップコーブにある戦艦、潜水艦、駆逐艦など、
メインの軍艦は全て紹介し終わったわけですが、展示はこれだけではありません。

敷地内には哨戒艇というジャンルでPTボートを紹介しているドームがあります。

ここでわたしはアメリカ軍の極秘作戦に使われた潜水艇を発見しました。
近年まで秘匿されてきたその作戦そのものもさることながら、
いろんな意味で衝撃的だったので、今日はそのことについてお話しします。

 

その「作戦」とは、日本本土に上陸し、侵攻して全土を制圧する、という、
今にして思えばそんなことが可能だったのかと訝られる壮大な計画でした。

「ダウンフォール作戦」

 

今日8月6日は72年前アメリカによる日本への原子爆弾投下があった日です。
それではその原爆投下が決まったのが正確にはいつかご存知でしょうか。


アメリカが「マンハッタン計画」が成功させたのは、前月の7月の16日、

つまりアメリカは、完成して20日後に
原子爆弾を人類に対して使用したということになります。

人類初の原子爆弾投下という神をも恐れぬ行為に与えられた決断までの時間が
たった20日であった、というのはあまりに不遜であり傲慢、というのはさておき、
それだけアメリカ軍も日本に「手を焼いていた」ということもできます。


マンハッタン計画については、それを計画したアメリカ上層部も、
いつできるのか、そもそも成功するかどうかについて確証がなかったのでしょう。
ダウンフォール作戦とは結果からいうと、

もし原子爆弾製造が成功しなければor原爆投下がなければ

日本に対して行われるはずの本土侵攻作戦でした。

作戦は二段階にに分けて行われる予定となっており、
それが「オリンピック作戦」と「コロネット作戦」だったのです。

 

以下、作戦内容について書いておくと、

 

【オリンピック作戦】

実施予定45年11月1日

志布志湾(鹿児島)、吹上浜(同)、宮崎海岸(宮崎)の3カ所から上陸
約3千隻の艦隊、数十万人の部隊を投入して両県の大半を占領

【コロネット作戦】

実施予定46年3月
九十九里浜(千葉)と相模湾(神奈川)から上陸
東と西からの挟み撃ちで首都侵攻を行う

であり、簡単にいうと前者は九州侵攻作戦、後者は帝都侵攻作戦です。

 

まずオリンピック作戦の目的は、日本の封鎖と、攻撃拠点の確保でした。
九州をとりあえず制圧すれば、そこからB−29が全土に爆撃を行えます。

日本の周囲近海に機雷を撒き、通商を破壊する「飢餓作戦」(オペレーション・スタベーション)
も、東京空襲と前後して1945年3月には始まっていました。

そして最終的にはコロネット作戦によって日本の要所、最終的には首都を制圧し、
あわよくば完全な勝利を得る、というのが本作戦の全貌でした。

 

後からならなんとでも言えるとはいえ、原子爆弾が落とされる前から
日本政府は終戦への道を探っていたというのは歴史的にも確認されていますし、
日本の降伏の直接原因は原爆投下ではなく、ソ連の参戦だったという説もあり、
何れにしても、これらの作戦が実行されていた可能性はほぼゼロに近いですが、
万が一首都侵攻まで行われていたら、それこそどんなに国土は荒廃したことか。

その後の日本の独立への道もおそらくは閉ざされることになった・・いや、
それどころか、この作戦によって日本は物理的に壊滅していた可能性もあります。

 

それにしてもアメリカをこの作戦実施に駆り立てた原因はなんだったのか。
というとそれは、他ならぬ「沖縄戦」の苦い経験だったと言われています。

東京大空襲を指揮したルメイ将軍は、

「空襲だけで日本は1945年10月には降伏する」

と豪語していましたが、彼らにとって計算外であったことは、
いざ本土上陸となったときの日本人がいかに厄介な敵であったかということでした。

1ヶ月もあれば沖縄は落ちるという予想に反して、実際には
軍民一体となった激しい沖縄県民の抵抗に遭い、死闘は2ヶ月以上続きます。

特に海軍では特攻の恐怖で精神をやられる者が続出するという事態になりました。

あのニミッツ元帥は沖縄戦をこう評価しています。

「沖縄作戦は攻撃側にとってもまことに高価なものだった。
約13,000名の米兵が戦死したが、その内3,400名が海兵隊で4,000名が海軍だった。
艦隊における死傷者の大部分は日本機、主として特攻機により生じたものである」

「日本軍が準備された防御陣地に布陣し補給が受けられる所では、
我がアメリカ軍の最優秀部隊が、従来になかった強力な航空支援、艦砲射撃、
砲兵支援のもとに攻撃しても、遅々たる前進しかできないような
強力な戦闘力を発揮する事が沖縄の実戦で証明された。

日本軍はまとまった人数で降伏したことはなく、
わが軍が膨大な死傷者を出さずに日本軍を撃破する事は不可能である」


ダウンフォール作戦は、そんな日本に何が何でも勝つため、
甚大な犠牲を覚悟に計画された
最終作戦であり、
アメリカにとっても後のない背水の陣作戦であったといえます。

 

さて、「オリンピック作戦」の目的とは、九州への侵攻作戦であったことを
今一度思い出していただきたいと思います。

この作戦に備えて、アメリカは、

chord name「ギミック」あるいは「ギズモ」

という潜航艇を建造し、これに投入しました。
この潜航艇は、

「セミ・サブマージブル・コバート・スパイ・ベッセル」

つまり直訳すれば「半潜行型秘密のスパイ船」ということになります。
正式には、

 United States,  OSS Semi-Submergeble

で、OSS とは「Office Of Strategic Service」戦略情報局のこと。
このOSSはご存知CIA、アメリカ中央情報局の前身となりました。

 

半潜水艇「ギズモ」または「ギミック」は、極秘に2隻だけ建造されました。
その目的は、

日本軍の本土防衛計画に関する戦略的情報を収集するスパイを送り込むため

であり、これこそが

「オペレーション・オリンピック」

を成功させるための情報活動であったのです。

 

さて、ここで、我々日本人には「あっ・・察し」となってしまうこんな情報を。

「ギミック」(あるいはギズモ)の乗員は3名でした。
一人は艇長であり、残り二人は日本に送り込むために養成された

朝鮮人のスパイ

朝鮮人のスパイ

朝鮮人のスパイ

であった、と現地の説明には書かれています。

具体的にはどうするかというと、深夜、海軍の潜水艦によって
密かに運ばれてきたギ潜航艇は、
日本の沿岸20マイルまで近づくと、
離脱して半潜行状態で海面下を航行し、本土を目指します。

ギミックの艇長の任務は、潜水艦から上陸地点までを2往復し、その都度

朝鮮人スパイを二人ずつ

日本本土に送り込むということでした。

スパイが日系人や英語の喋れる日本人でなく朝鮮人だった、というのは
当時はカネで同胞を裏切る日本人や日系人がいなかったということでしょう。

 

とにかく、潜水艦から沿岸にスパイを送り届けて帰ってくるまで、
距離にして40マイルの1往復には、だいたい

7時間

かかったということです。

極限まで小さな半潜航艇は、波の動揺をもろに受け、
さぞかし艇長とスパイたちは苦難を強いられたと思われますが、
日本人としては全く同情する気にはなれません(笑)


このスパイ朝鮮人たちに課せられた諜報活動とは次のようなものでした。

ラジオの情報を集め送信する

上陸可能な沿岸の情報を集め送信する

日本軍の防備の状態の情報を集め送信する

人口密度、地勢、沿岸部の海深を調べその情報を集め(略)

そのほかにも、アメリカ側が九州の侵攻をするに必要な情報を
片っ端から送ることを、彼らは命令されていたと思われます。

 

これだけのことを調査する能力があるということは、
日本で生まれ、日本語の能力に長けた朝鮮人でなければなりません。

どういう経緯で、とりあえずは日本国民であった彼らが、国を売る
スパイになったかはわかりませんが、ここに書いてあることから推察するに
少なくともその人数は”かなりの数いた”ことは確かです。 

しつこいようですが、それに比して(笑)日本人というのは民間の一人に到るまで、
国のためには自死も厭わず死ぬまで戦うものであるということを、
アメリカは沖縄でいやというほど思い知りました。

アメリカにとってダウンフォール作戦とは、そんな日本に勝つために行う
犠牲を覚悟の最終的作戦であったといえますが、それとても、
西欧人とは全く違う価値観をもつ日本人に対しては、どういう結末になるのか
全くわからないまま計画され、実施された後もどんな結果になるのか
予想できなかったというのが本当のところではなかったでしょうか。 

 

ところがここで、アメリカにとってその懸念を吹っ飛ばす朗報が訪れます。
半潜航艇「ギズモ」が朝鮮人をせっせと本土に送り込んでいたと思われる7月半ば、
「マンハッタン計画」が成功し、原子爆弾が日本に使用できることになったのでした。

原子爆弾さえ落とし都市を壊滅させれば、自軍の犠牲を払って侵攻する必要も無くなります。
問題は広島に捕虜として収容されているアメリカ軍人ですが、それでも侵攻作戦で
沖縄以上の犠牲者数が出ることを考えれば、彼らの犠牲など微々たるものです。
彼らには運が悪かったと諦めてもらおうということに(多分)決まります。

 

そして広島と三日後の長崎への原子爆弾投下が行われました。

 

よくアメリカ人が

「原子爆弾が戦争を終わらせなかったら、何万人もの犠牲が出ていただろう」

という論調で原爆投下を正当化してみせますが、実際に本土決戦になっていたら
それこそ日本は最後の一兵までゲリラ化し抗戦したであろうことは確かなのです。
そういう意味では彼らのいうことにも一理あるといわざるをえません。

あくまでもアメリカ側の都合にすぎませんが、代わりに落とされた原子爆弾によって
本土侵攻で奪われていたかもしれない何万人もの命が助かったのは事実なのですから。
 
まあ問題は原爆による十万もの民間日本人の犠牲ですが、
戦争を始めた、
しかも有色人種の日本が負うのであればなんの問題もない、
というのがアメリカの国内向け主張です。

さて、あらためてギミック、あるいはギズモたる半潜航艇のスペックを書いておきます。

OSS 半潜航艇

製作:ニューヨークシップヤード、ロングアイランド NY

完成:1945年6月10日

価格:約200万ドル

全長:5.84m

全幅:1.613m

推進:グレイマリンライト4エンジン 4気筒16馬力

   パワー1800/分 69ピストン

かっこわる〜。(個人的感想)

吸気パイプは上部に刺さっていて、レーダーに探索されることを防ぐため、
スティールパイプでで包んであったということです。

小さなガラス張りの四角い部分に人の頭が見えていますね。
これが艇長で、朝鮮人スパイは艇内で小さくなっています。

何れにしても7時間この操縦を行う艇長は精神的緊張もあって極限状態だったでしょう。


ところで今ふと気になったのですが、日本に潜り込んで諜報活動をしているうちに
終戦を迎えた朝鮮人スパイたちは、どこに行ったのでしょうか。

アメリカの功労者としてアメリカの市民権をもらっていればいいですが、
そのまま日本に住み着いたのも何人かいるのでは・・・((((;゚Д゚)))))))

この作戦は、2011年まで国家の秘密となって公開されませんでした。

ここにある半潜航艇ですが、1945年の10月1日、つまり本来なら
オペレーション・オリンピックが行われていた予定より1ヶ月前に
CIAから海軍にギミックプログラムとして譲渡されました。

しかし、長らくダウンフォール作戦そのものについては世間に公開されず、
人々はこの潜航艇が

日本海軍の特攻潜航艇

であると説明され、そうだと信じられていたということです。

2011年以降、これらが情報公開法によって公開されたので、
そこで初めて
作戦の全容とこの船の正体が明らかになり、
歴史に残されることになったのです。

舫の巻き方がアーティスティック。

 

オペレーション・オリンピックと半潜航艇「ギズモ」または「ギミック」。

皆様はこの存在をご存知でしたか?