ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

南北戦争の”男装の軍医”〜ミリタリー・ウーメン

2017-08-12 | アメリカ

フォールリバーで展示艦となっている戦艦「マサチューセッツ」には
広いスペースを利用してたくさんの戦時に関する展示があり、
セカンドデッキの艦首側のスペースには、これからお話しする

「アメリカ軍に参加した女性の歴史コーナー」

がありました。

すでに女性の最高位が陸海軍に生まれているアメリカですが、近代になって軍が組織され、
第二次世界大戦に至るまで、
女性はどのように関わってきたのでしょうか。

今日は、独立戦争、米英海戦、南北戦争時代に軍とか変わった女性についてお話しします。

当コーナーでは、ぐーんと遡って、1775年、つまり独立戦争時から
軍と関わりのある女性について、歴史を紐解いてまいります。

例のボストンティーパーティーは愛国心からイギリス製品をボイコットした
女性のムーブメントも大きなうねりとなり繋がっていった、
ということについて一度書いたことがあります。

この女性はアビゲイル・アダムス。
言わずと知れた第二第アメリカ大統領となったジョン・アダムスの奥さんで、
第6代大統領ジョン・クィンシー・アダムズの母でもあります。

「リメンバー・ザ・レディス」

という言葉は、アメリカでは有名で、ミュージカルにもなっているそうですが、
1776年に革命を成し遂げたアメリカ議会に対し、彼女が送った

「女性たちのことを忘れないでください。
そして彼女たちに対して寛大かつ好意的であってください。
夫の手中にかようにも絶大な権力を与えないでください。

全ての男たちが、暴君となりうることを忘れないでください。
もし女性たちに特別の注意が払われないのならば、
私たちは謀反を煽動することを決心するとともに、

私たちの声が反映されていない、
いかなる法律に私たちが縛られることもないでしょう」

という、女性の権利を求める最古の文章とされています。

しかし、ウーマンリブの元祖はあまり軍と関係ない気がしますね。
そう、ミリタリーウーマンというのはこういう人でないと。

彼女の名前は、メアリー・ルードヴィッヒ・ヘイズ、別名モリー・ピッチャー
1778年、独立戦争の「モンマスの戦い」で夫の砲兵部隊に付き添っていた彼女は、
兵士たちに水を供給する任務を買って出て、このあだ名を奉られました。

炎天下の中の長時間の戦闘においても彼女は任務を離れることなく、
彼女の夫が戦闘で倒れた後、スカートの間に砲弾が落ちても
怯まずに戦闘に参加し、その功績をたたえて、今でも陸軍砲兵隊部隊には
彼女の名を冠した名誉協会が存在するのだそうです。

彼女の名はデボラ・サンプソン。(1760-1827)

アメリカで最初に軍人として戦闘に参加したことで知られる女性です。
ただし、女性として採用されたのではなく、体の大きな彼女は
自分を男性だと偽って砲兵隊に入隊しました。

このころ、入隊に際して身体検査なんてのをやらなかったんですね。

マサチューセッツ第4連隊に配属になり、1782年ターリータウンの戦いでの
初めての銃撃戦で、彼女は2発のマスケット銃の弾丸を受け負傷します。

1発目は腿に命中して弾が体内に食い込み、2発目で額を抉られるというもので、
治療を受けるも、腿の弾は取り出せず、再び戦場に戻ることはできませんでした。

最後まで女性であることを悟られないまま17ヶ月従軍し、除隊。
彼女は故郷に戻り結婚し、退役軍人年金を受給して幸せに暮らしましたとさ。

ちなみにUSS「サンプソン」の名前にはなっていませんので念のため。

「事実かフィクションかはわからないながら」

と但し書きのある「お針子物語」の図。
ベッツィー・ロスというお針子は、初めて星条旗を製作したという女性。
軍服の修繕やテントの修理など、裁縫で銃後の守りをしてきた彼女は、
次々と?夫を戦争で失いながらもたくましく腕一本で生き抜いた女性です。

彼女がワシントン提督のために国旗を作ったというストーリーは、
その孫が彼女の死後に手紙にそう書いてあったということで主張を始め、
国民もそれを受け入れたものの、真偽には証拠が乏しいとされます。

当ブログでもかなりの時間をかけてお話しした帆船、
USS「コンスティチューション」にも女性の影が?ありました。

「コンスティチューション」の就役は1797年、1812年の英国海軍との戦闘で
いかに弾を受けようとビクともしなかった彼女には

「オールドアイアンサイズ」(鉄の横っ腹野郎?)

というあだ名が奉られました。
その「コンスティチューション」に、なんと男装の女性が乗っていたというのです。
彼女の本名は「ミス・ルーシー・ブリューワー」
彼女は16歳で恋人の子供を妊娠しましたが、相手に結婚を拒否され、
その赤ん坊もメイドの仕事を探すうちに死んでしまいます。
止むを得ず三年間売春婦として生き延びた末、「ジョージ・ベイカー」と名乗って
「コンスティチューション」に乗り込む・・・・というお話

そう、これは「フィメール・マリーン」という当時の小説なのですが、
問題は、ブリューワーなる女性が実在し、この小説は

「自伝的小説」

である、とされていることです。

うーん、本当にそんな人がいたのか?
帆船の中の、しかも兵員の生活でそれがバレないわけがないと思うけど・・。

さて、ここまでがアメリカの「国家創成期」です。

この後、南北戦争、米西戦争と、片時も休まず戦争するアメリカですが、
戦争における負傷者の手当に、女性が活躍の場を広げることになっていきます。

彼女はクララ・バートン。(1821– 1912)
アメリカ赤十字社の設立者で、看護師のパイオニアです。

当時、クララは看護学校に通っていなかったため、自分自身が学んだ看護の仕方を
戦場での経験をもとに教えたということです。

彼女の名前を冠した学校や病院などの施設は全米に点在しています。

アメリカでは1901年に「ナース・コーア」、看護部隊が軍組織になりました。
しかし多くの女性が従事するのは第一次世界大戦が始まってからでした。
陸海軍の従軍看護婦たちはその働きに対して多くが顕彰され、
少なくとも三名が最高栄誉に値する十字賞を、また二十名を越す女性たちが
French Croix De Guerre、フランス十字勲章を与えられています。

 

ところでこの目がとても怖いおばあちゃまですが、

スーザン・ブロウネル・アンソニー(1820-1906)

特に女性の権利獲得を提唱する公民権運動の指導者です。
これもはっきりいってミリタリーとはあまり関係がないような気もしますが、
権利を獲得することが、つまり従属する立場から同等に、最終的には
「ミリタリー・ウーメン」の誕生への道筋をつけたということでしょうか。

彼女が男権論者をやっつけるの図。

強い(確信)

あの禁酒法もこのおばさまが先頭に立って進めた結果生まれたという説もあり、
映画に出てくる「あの手のおばさま運動家」の雰囲気満点です。

彼女らは

「聖なる二十人」(Sacred Twenty)

という、海軍直属の看護師部隊です。
看護師として正式に海軍のもとで任務を行なった最初の女性たちで、
22歳から44歳までの看護師資格保有者を中心に、海軍医療部隊のトップが選出。

ちなみに米国市民であることはもちろん、結婚することも許されませんでした

様々なスキルを訓練によって習得した彼女らは、世界中の病院でその後
実務のほか医療指導を行い、海軍看護の基礎となったことから、
このような敬称を奉られることになったのです。

さて、このイケメン医師は、南北戦争に従事し軍医として活躍しました。
活動中、スパイとして敵にとらわれ、捕虜生活をしたこともあります。

前線で外科医として勇敢に任務を行なったことに対して、
アンドリュー・ジョンソン大統領名で彼女に対し

・・彼女に対し、

名誉勲章も授与されました。

彼女の名はメアリー・エドワーズ・ウォーカー博士。
( 1832年11月26日 - 1919年2月21日)

冒頭の写真は彼女の中年時代です。

アメリカでも当時珍しい学位を持った女医(シラキューズ医大卒)でしたが、
北軍に民間人として従軍を志望し、
女性の軍医が認められていなかった当時のアメリカ軍で、
看護婦という資格で採用され、実質は医者として活動していました。

そして、のちに女性として初めての陸軍軍医として採用されます。

勇敢なその任務に対して叙勲された彼女ですが、戦後は、
男装姿によって逮捕されるなどと言った経験から、女性の権利、
女性の衣装改革などといったテーマで言論活動を行いました。


さらには戦後、合衆国議会の

「直接戦闘に関わったわけではない者は、名誉勲章受賞に値しない」

という決定によって勲章を返還するように求められましたが、
これを断固拒否し、死ぬまで勲章を身に付け続けたそうです。

 

彼女の名誉回復がなされたのは死後58年経った1977年。
当時のジミー・カーター政権によって勲章受賞が復権されました。

また、第二次世界大戦中にも、彼女の名前はリバティ船、

SS「メアリー・ウォーカー」

に残されています。

ちなみに、彼女は南北戦争時には、男装をしていたわけではなく、
戦争に参加する女性のためのオリジナル軍装などを自分でデザインして、
それを世間に流布するように求めたようですが、叶わなかったので、
その後の生涯で人前ではシルクハットにズボンという姿で通しました。

(タイトルは少し事実とは異なりますので念のため)

さて、ウォーカー博士は南北戦争でスパイ活動をしていたとも言われます。

きっとその手段に際しては、女装をうまく利用したのではないか、
ということがなんとなく想像されるわけですが、この写真の女性は同じ時代、
女優という仮面の下で北軍のためにスパイ活動を行なっていた女性です。

ポーリーヌ・クッシュマン。(1833 –1893)

フランス系の移民の娘として1833年に生まれた彼女は、
ケンタッキーのルイビルで舞台女優として活動していました。

のちに北部での舞台の後、連合国大統領のジェファーソン・デイビスのために
「乾杯を行なった」ことをきっかけにスパイの道に入ります。

敵の幹部に女優として近づき、得た情報は靴に隠すなどして諜報活動を行い、
二度逮捕されて一度は死刑を宣告されたこともありますが、
罹っていた病気が悪化しているという演技で死刑を延期させることに成功し、
そうしているうちに連合軍が侵攻してきて命永らえました。

女優としてのスキルが自分の命を救ったというところです。

いくつかの資料によると、彼女は男装姿で北軍に復帰したということです。
まあ、どう見てもこちらは男性には見えませんが、
彼女の女優としてのコスプレ精神がそれを強く望んだに違いありません(笑)

(しかし、この女優さん、軍服が似合わねー)

このころの女性と軍隊の関係は、看護という分野でなければ、
このような非合法的活動によるものにすぎませんでしたが、
だからこそ男装の女医といい、スパイ女優といい、のちに女性が権利を得て
軍に参加するようになる時代にはあり得ないような、
小説じみたロマンを感じさせる逸話が生まれてきたのかもしれません。

 

続く。

 

 


アメリカのオーガニックスーパー ホールフーズ

2017-08-10 | アメリカ

 

アメリカ国内でホテルを決めるとき、いくつかのチェックポイントがあります。
車で動くのが当たり前なので、交通の便はあまり問題ではありませんが、
たとえ短期間でもキッチン付きのスイートと言われるタイプを選ぶこと、
そしてそこで料理をするために食材を買うスーパーマーケットが近くにあること。

しかしスーパーならなんでもいいわけではなく、オーガニック系のものとなると、
トレーダージョーズ、サンフランシスコのリアルフード、そしてホールフーズに限られます。

 

グルメ・フード、自然食品、オーガニック・フード、ベジタリアン・フード、
輸入食品、各種ワイン、ユニークな冷凍食品も品揃えし、
いわゆる「グルメ・スーパーマーケット」と呼ばれる
比較的高級志向の食料品小売店に分類される。

ホールフーズについて日本語のwikiでは大変簡単に書かれていますが、
わたしたちにとって、このスーパーマーケットの商品が占める食の割合は大変多く、
食材の出どころが明らかになっていて、オーガニックかそうでないかを
正直に店頭で示して売ってくれるホールフーズは、不可欠なのです。

もう一つ、ホールフーズに頼る大きな理由は、どこの店舗であっても
ホットフード、コールドフードなどを好きなだけパックやお皿にとって、
持って帰れるのはもちろん、イートインコーナーで食べることができること。
簡単に食事を済ませたい時に、こんな便利な方式はありません。

 

デリは中のキッチンで作ったもので、その内容はお店によって千差万別。
西海岸はヒスパニック系や中国系が多いせいか、豆料理やタコスの中身、
スパニッシュライス、チャーハン、焼きそばが並ぶ店もあります。

サラダは好きなだけとったらゴマやおかき(!)のトッピングをかけて、
各種ドレッシングやオイルで調味することもでき、どちらも
お皿をそのままレジに持っていくと、レジの下にスケールが内蔵してあるので
それで重さを計ってお値段を出してくれます。

ちなみに、アメリカにしてはこのフードケース、安い値段ではありません。

高級スーパーなので当然ですが、貧民層には高くて手が出ないのもありますし、
そもそもそういう地域にはホールフーズは出店をしないのです。

テキサス州で個人が始めた小さなオーガニックスーパーが発祥である同マーケットは、
西海岸での第1号店をシリコンバレーの超高級住宅地、パロアルトに出しました。

それ以降の店も、いわゆる裕福な層が住む地域にのみ展開しており、
ホールフーズがあることがその地域のグレードを表すと言っていいくらいです。


しかし都市部の店舗はどうしてもいろんな人が紛れ込んでくることになり、
わたしはこれまでサンフランシスコ市内に2店舗あるホールフーズのデリで、
一度は明らかにホームレスがフードケースの周りをうろついて、
人目のないのを見計らって手づかみで口に放り込んでいるのを、
もう一度はレジを通さずにテーブルで堂々と食べ物を食べていた男に、
ピストルを持った警備員が詰め寄っているのを目撃しました。

日本では考えられないほど底辺のモラルが低い国ですので、
こういうことを避けたければ都市部に展開しないのが無難なのはわかっていても、
営業的には痛し痒しなのかもしれません。

さて、今日は今回の滞米中訪れたホールフーズでみた食べ物をご紹介します。

アメリカのスーパーはどこも巨大なので、「普通」のスーパー「セーフウェイ」でも
「ウォルマート」でもエスニックフード、特に健康食の豆腐を扱っていますが、
やはり「オーガニック度」が高くなるほど、豆腐の占める場所は大きくなります。

我が家は朝ごはんに豆腐を食べることが多いので、アメリカでも買いますが、
アメリカの豆腐はどういうわけか「ファーム」(硬い)スーパーファーム(超硬い)
が主流で、日本の絹ごしのようなソフトなものはありません。

左の豆腐はこの写真を見ただけで岩のように堅そうなのがわかりますね(笑)

この「 NASOYA」という会社が出している文字通り「SILKEN」が
一番絹に近いですが、それでも我々の感覚では硬い感じがします。

絹ごし豆腐には、「これでスムージーもできますよ」と言いたいのか、
とても豆腐のパッケージには思えない写真が・・・・。

豆腐とくれば味噌。
わたしは使いきれないこともあり、アメリカの滞在では味噌を買ったことはありません。
この「ミソマスター」のおじさん印の味噌は、住んでいた時に買ったことがあるような。

感心なのは、白味噌、赤味噌、メローホワイト味噌(黄色いの?)
と各種取り揃えていることです。
上の段のサウスリバー社製品には「ひよこ豆味噌」もありますが、
果たしてひよこ豆を使ったものを味噌というべきなのかどうか・・・。

味噌はいずれも10ドルから12ドルと結構高額です。

ちなみに、「ミソマスター」の会社は「グレート・イースタン・サン」。
なかなか日本に敬意を払っているようでよろしい、と思いきや

何世紀もの間、日本の職人は天然発酵を使って大豆や穀物をさまざまな味の味噌に変えました。
(略)日本の味噌メーカーは玄米を使って味噌を作ったことがないので、
「伝統的」という言葉は使われていませんが、

日本人が玄米味噌を作ったことがないって・・・味噌で顔を洗って出直してこい!

これは、マウンテンビューのいつもいく巨大なホールフーズで見つけた新しい飲み物。
ここは、オレンジジュース絞り器を設置していて、スイッチをひねりボトルを下に置くと
いくつものオレンジがガーーーー!っと粉砕されて超フレッシュなジュースが買えます。
つくづくカリフォルニアって果物がやすいなあと思わずにはいられないわけですが、
この新商品、ただの水(おそらく)に果物やミント、キュウリを入れて売っています。

ほんのり味がついた水を楽しむってことなんだと思いますが、しかし売るかねえ。
ちなみに商品名は「スパウォーター」。

これは今回ボストンで初めて見つけた「代替米」的なもの。
ブロッコリーやカリフラワーを米粒の大きさに粉砕したもので、
これを炊いてご飯の代わりにしましょうという考え。

まあ確かに

「ご飯に似たのがブロッコリー」

という歌もあるくらいで。
今調べたら、ブロッコリーをご飯がわりに、というのは日本でも広まっている模様。

こちらは代替パスタ。
ボストンのニーマンマーカスのレストランに行ったら、ズッキーニで
パスタを仕上げたお料理があり、結構美味しかったのですが、
ここでは、右側のオレンジのが「スィートポテト」、
左の黄色いのが「サマースクァッシュ」となっています。

サマーなんちゃらは日本では「ペポかぼちゃ」というそうですが(可愛い)
かぼちゃというより黄色いズッキーニみたいな感じのものです。

そういえば日本でもそうめんカボチャってのがあったわねえ。
あれはカットしなくてもそうめん状になっておりますが。

レジの近くにも、いろんな商品があります。
バーベキューに必要なチャコールは、必ずレジの近く。
アメリカの家庭ではバックヤードがあればバーベキュー、なくてもベランダでバーベキュー、
家になければ公園でバーベキューと、もう親の仇のようにバーベキューを行うので、
チャコールは普通のスーパーでも買うことができます。

で、バーベキューを焼くのは「男の仕事」。
なぜかアメリカの父親は芝刈りとバーベキューをしないなんてありえない!らしく、
バーベキューでは一人がグリルに張り付いてせっせと肉を焼く係をします。

我々は自分の食べたいものを自分で焼けばいいじゃないかと思うのですが、
彼らは基本的に食べる人は調理をしない、というのが常識らしいですね。


この写真は、レジ横の雑誌コーナーが気になったので撮りました。
今回わたしはホールフーズの雑誌コーナーで、

「BATTLE OF THE ATLANTIC」

という写真ムックを見つけて買ったように、侮れないものがあります。

注目していただきたいのは下段のヤギさんが笑っている(よね)写真の

「モダーン・ファーマー」

という専門雑誌。
日本でもこんな雑誌があるのかどうか知りませんが、今月号の特集は

「あなたのヤギを手に入れる!」

ヤギなんて美味しくもないミルクをとる以外農家になんのメリットがあるんだろう、
と思い、つい中をパラパラ見たところ、

「ヤギはミルクも取れるし可愛いから飼う価値があるよ」

みたいなことが大特集で熱く語られていました。

可愛いかどうかとミルクが美味しいかどうかを別にして、
別に特集を組んでもらわなくってもそんなことは知っとる。 

とは思わない人が買うんだろうな。

ワインなどのお酒も普通に売っています。
これはジンのコーナーですが、「ワイルダージン」のラベル、
佇むスナフキンとくまさんのシルエットが目を引きました。

もっと目を引いたのがこれ。
「FUGU 」というお酒のボトルに描かれたのは紛れもなくフグ。

なぜウォッカが「フグ」なのか、しかもウォッカの「ハバネロ」とは何か、
確かめようにも飲むこともままならないわたしには永遠の謎です。

このようにアメリカには、わかってるのかわかってないのか、

「なぜそこにその名前を」

と首をひねってしまう日本語の商品名が存在するのですが、
パロアルトの「ウマミ・バーガー」のように納得できるものもたまにあります。

日本には存在しない「ライスクラッカー」。
なんのことはない、ポン菓子を固めてセンベイ状にしたもので、
アメリカ人はライスクラッカーというとこれだと思っております。

甘みはなく、日本のせんべいのように化学調味料も使っていないので、
これはこれとして、おやつに時々食べていました。

おやつといえばケーキ。

オーガニックを標榜するホールフーズといえども、日本人が決して受け入れない
「ブルーのケーキ」を作ってしまうのがアメリカです。

これは独立記念日当日のボストンのホールフーズで撮ったもので、
必ずジュライ・フォースのパーティ用に、赤白青の三色を使ったケーキ、
これがショーウィンドウに並ぶわけです。

言っておきますが、ここのケーキ群は、アメリカのその他のグロサリー、
ペストリーショップに並ぶものに比べれば、かなりマシな方です。

CAKE BOSS

このテレビ番組の画像を見れば、アメリカ人の考えるところのケーキ、
というものがどんなものかわかるかもしれません。

アイデア賞・・・・・なのか?

海を表すブルーのクリームでデコレーションし、砂を表すケーキクラムの上で
スコップと戯れるかにさんの図。

というかどうしてケーキでこれを表現しなければならないのか。
なぜフラミンゴを描くのか。

アメリカ人はこれを見て美味しそう!このケーキ食べたい!と思うのか。

いろんなことを考えさせられます。

シリコンバレーで一番「勢いのある」ホールフーズといえば、クパチーノ店でしょう。
何しろここには、アップル本社があり、名だたるIT企業が軒を連ねています。

そのクパチーノ店で、去年初めて見かけたこのモチアイス。
へー、と感心して実は一つだけ食べて見たのですが・・・。

(−_−)まずい

冷やせばモチは硬くなるんだよ!
そもそもそのモチが分厚すぎるんだよ!

と散々笑い者にしたのでしたが、なんと今年になってアメリカに行くと、
ボストン、サンフランシスコ、シリコンバレー、サンディエゴのすべてのWFで
このモチアイスのケースが設置され、大々的に売られているではありませんか。

クパチーノで実験的においてみて、どうやら好評だったらしく、
ネイションワイドで売ることに決めたみたいなのです。

えー、あれ、まずかったよ?
と言いながらも各店舗のケースの状況をうかがったところ、これが結構売れてる。
必ず何人かが前に立ち止まり、いくつかを袋に入れて買っているのです。

アメリカ人がアイスクリームになると節操をなくすのは知っていたけど、
モチアイスをこれほどあっさり受け入れているとは・・・・・。

さて、最後にサンディエゴのホールフーズで夜見かけた海軍迷彩を。
一人暮らしのお嬢さん(ただし海軍軍人)が帰宅途中に立ち寄って買い物をしていました。 

 

 

 


即応体制〜自衛隊大宮駐屯地中央特殊武器防護隊

2017-08-09 | 自衛隊

大宮駐屯地における防衛研修会、原発事故災害に派遣された部隊長のレク、
戸外に出て、その時実際に投入された機器やそれを搭載する車両の見学、
そして、NBC災害の時に投入する車両やヘリの除染訓練を行う場所の見学、
と見学過程が終わりました。

続いてわたしたち一行が案内されたのは駐屯地内にある資料館でした。

大宮駐屯地には、陸軍が光学レンズなどを製造・組み立てしていた
陸軍造兵廠大宮製作所がありました。

戦後進駐軍の接収を経て1957年(昭和32年)、化学学校の駐屯に伴い、
大宮駐屯地がここに新設されることになります。

1999年(平成11年)、第32普通科連隊が市ヶ谷駐屯地から移駐してきました。
この木製の看板は、それまで市ヶ谷に置かれていたものだと思われます。

以前陸自のレンジャー過程に入る不良青年を描いた映画「激闘の地平線」について

ここでお話ししたことがありますが、あの時に映画に登場していた
朝霞駐屯地の映像で不思議に思ったのが、表札にも

「駐とん地」

とひらがな混じりで表記されていたことでした。
当時は「屯」という字が当用漢字ではなくなって使えなくなり、
陸自も不承不承「駐とん地」と表記していたのでしょうか。

この新聞記事は、進駐軍から変換された陸軍造兵廠跡に
大宮駐屯地が晴れて新設されるということを報じたものです。

今では考えにくいですが、駐屯地司令の顔写真などを新聞に載せていたんですね。

初代駐屯地司令の外山一佐は陸軍士官学校43期、陸大55期卒ですが、
今でも幕僚にいそうな典型的な陸自タイプです(個人的感想)

警察予備隊駐屯時には、陸軍から存続していた「武器補給処」がまだ残っていました。
これが廃止されたのは1995年と言いますから、割と最近のことです。

ここに展示してある制服は、そういえば「激闘の地平線」でも見たような・・・。
帽子の形が独特ですね。

隊友会は自衛隊退職者を中心に1960年に結成された協力団体です。
防衛庁所管の社団法人として発足し、現在は公益社団法人となっています。

上は自衛隊となってからのものだと思いますが、下二枚は
造兵廠の頃ここで撮られた記念写真のようです。

硫黄島から収集してきた遺品のコーナーもありました。

遺骨収集団が現地で採取してきた壕内の土や水筒、ヘルメット、珊瑚など。

陸軍の制服、マント、ゲートル、カバンに略帽、ラッパ。

左下の表彰状は、中国戦線で17年に敵線を突破した
牧野曹長率いる鈴木隊と牧野小隊の戦功に対して出されたものです。

明治時代の儀礼服が大変良い保存状態で軍刀とともに展示されていました。

出征に際して寄せ書き(全員が男性)された日の丸。
「なにくそ」「ちえすと」などの激励の言葉に混じって、「祝健康」もあります。

 

余談ですが、アメリカには結構あちこちにこのような日の丸の寄せ書きが展示されています。
これは、アメリカ人の「記念品好き」のさせる技で、海軍でも特攻機が激突した後、
パイロットのマフラーや時計を皆が奪い合うように取っていたそうですし、
日本兵の屍体から何か記念になるものはないかと漁ることもしょっちゅう行われました。

ベトナムではアメリカ人のその習性(?)を利用して、屍体の周りに地雷などを仕掛け、
トラップにかかって死ぬ米兵が続出したため、上層部からは

「屍体のお土産あさり禁止令」

が出たとかなんとか。

この資料館になっていた建物は、昔進駐軍が駐留していた時に教会でした。
この鐘は「ドル支弁財産」といってドル建てで製作され、進駐解除になった後は
敷地内の土中に埋まっていたということです。

平成2年、掘り起こされ、元の場所である資料館に戻ることになりました。

化学隊がある関係で、世界の防護装備の展示もあったりします。
にしても、もう少しちゃんと展示してあげて!と思うのはわたしだけ?

チェコスロバキアやロシアのガスマスク。

左からチェコ、アメリカ、ドイツ、イギリス(砂漠迷彩)フランス、
各国の防護衣ファッションショー。

ドイツのものは「サラトガスーツ」といって、毒ガスや細菌、放射性物質から
兵士を守るための個人用NBC防護服です。

上下ツーピースに分かれており、グローブ、ブーツ、ガスマスクとあわせて全身をカバーし、
長時間着用しても疲れにくいよう工夫されているそうです。

こちらは旧軍の化学隊(といったかどうかは知りませんが)コーナー。

上段の察しは「防毒耐水具取り扱い」「手投げ火炎瓶取り扱い書」など、
まあつまり取説と、「航空兵瓦斯防護教程」などという教科書。

下段の「津森大尉の雨下教育」は調べましたがわかりませんでした。

化学兵器の写真集というのには、全員ガスマスクをした記念写真がありますが、
これ、わざわざ記念写真を撮る意味があったのかと・・・・。

後から見ても誰が誰だかわからないよね。

左から、青酸、一酸化炭素、ypérite、ルイサイトの標本。

 

欧州大戦というのは、当時そう呼んでいなかった第一次世界大戦のことです。
よく考えたら、いやよく考えずとも、第二次世界大戦が起こるまで、というか戦後まで
第一次世界大戦というものは存在しなかったんだなあと気づきました。

それはともかくその欧州大戦で使用された毒物の標本。

第一次世界大戦というと、ガスマスクの兵士を想像してしまうくらいで、
つまり毒ガス兵器のデビュー戦だったわけですね。

軍用犬や馬用のガスマスクも生まれました。

 

青酸は例えば列車の消毒でナンキン虫を殺す、などと、
本来の目的と使用法についても写真付きで解説してあります。

旧軍の使用していたガスマスクセット。
下の波状の表面の缶は酸素発生缶でしょうか。

毒ガス兵器の登場とともに欧州戦線ではマスクも普及したため、
兵器としての効果はこれで激減したということです。

むっちゃ重たそう。旧軍の防護衣です。

どちらもゴム引きのマントとスーツ。
わたしマントを見てユパ様を思い出してしまいましたわ。

ラジオゾンデとは、地上から上空の気温、湿度、気圧を随時観測するために、
主にゴム気球で飛ばされる無線機付き気象観測機器のことです。

ラジオは英語で無線電波、ゾンデはドイツ語やフランス語で探針のことであり、
「ラジオゾンデ」は情報を電波で伝送する計測システムの一部分を称します。

箱の蓋には「毒ガス性状一覧表」とあるのですが、この
6本セット豪華木箱入りがガスなのかどうかがよくわかりません。

見たところ、まだ液体が充填されているようですが、もしこれが
液化ガスなどの場合、こんなところにぞんざいにおいても大丈夫なんでしょうか。
(一応心配しておきます)

なぜか広島と長崎に落とされた原子爆弾のジオラマがありました。
化学学校で当初教材として作られたものだったかもしれません。

あまりにも壮大すぎて思いが至りませんが、原子爆弾というのは
最大の化学兵器であり、当部隊に深く関係があるわけです。

それにしても、こうして見ると、地形的にアメリカがなぜ
広島と長崎に原爆を落としたのか、理由は歴然としてきますね。
山に囲まれ、効果が集中しやすく、事後の研究対象としてもデータが得やすいというわけです。

当初原爆投下計画が四方を山に囲まれた京都となっていたことも思い出します。

左の熱戦によってできた影の写真は初めて見ました。
はしごの下にもこれもう一人影がありませんか?

現在陸自で使用されている防護衣各種。

左は東日本大震災でもうすっかりおなじみの放射線用。
左から三体は化学防護用、一番右は戦闘用個人防護衣。

サリン事件の時に出動したのも大宮駐屯地の化学部隊でした。

陸上自衛隊では、警察に強制捜査用の化学防護服や機材を提供していた関係上、
初期報道の段階でオウムによるサリン攻撃であると直ちに判断。

事件発生29分後には自衛隊中央病院などの関係部署に出動待機命令が発令され、
化学科職種である第101化学防護隊、第1・第12師団司令部付隊(化学防護小隊)
及び陸上自衛隊化学学校から教官数人が専門職として初めて実働派遣されました。

除染を行う範囲が広範囲であったため、第32普通科連隊を中心とし、
各化学科部隊を加えた臨時のサリン除染部隊が編成され、実際の除染活動を行いました。

また、自衛隊では警察庁の要請を受けて、自衛隊中央病院及び衛生学校から
医官及び看護官が、東京警察病院・聖路加国際病院等の8病院に派遣され、
硫酸アトロピンやPAMの投与や、二次被曝を抑制する除染といったプロセスを指示する
『対化学兵器治療マニュアル』に基づいて、治療の助言や指導を行いました。


幸い、自衛隊中央病院から駆けつけた医官が、直前の幹部研修において
化学兵器対応の講習を受けたばかりで、現場派遣時とっさに講習資料を持ち出し、
到着した聖路加病院で講習で得た知識・資料と患者の様子から
化学兵器によるテロと判断し、PAMや硫酸アトロピンの使用を進言し、
このことも早期治療に繋がったということです。 

第101化学防護隊の看板がなぜここにあるかというと、現在は
中央特殊武器防護隊と編成替えされたからです。

当部隊は東日本大震災、地下鉄サリン事件のほか、東海村 JCO臨界事故の時にも
災害派遣要請を受けて出動しています。

この時はまだ第101化学防護隊という名称でした。

事故と同年の12月、自衛隊法は改正され、自衛隊の行動区分において
それまで一緒であった

「災害派遣」とは自然災害による派遣

と、自衛隊法第83条の3として設けられた

原子力事故に起因する災害派遣は「原子力災害派遣」

とは別個のものとして、対処されることとなりました。

 

レクチャー後の質疑応答で、北朝鮮の核弾頭ミサイルと、生物兵器の搭載の可能性について
増員などは視野に入れているのか、という質問があったのですが、
陸自としてはそういうことは考えていないという返事でした。

 

わたしたちは北朝鮮からのミサイル問題が「起きてから」
どうなっているのかと不安になるのですが、中央特殊武器防護隊を頂く
陸自化学部隊は、我々国民が平和のうちに安寧を貪っていた時も、即応体制のもと、
日本の安全のために研究と訓練をたゆみなく行なっているということでしょう。

自衛隊への感謝と尊敬を新たにした、大宮駐屯地研修会でした。

 

 

 


「千登と福」〜千福製造元・三宅本店資料室

2017-08-08 | 海軍


ベエゴマ、おはじき、おままごとセット・・・。
幼いころ、こんなミニチュアの食器セットが欲しくて仕方ありませんでした。

大きくなってアメリカに行ったら、まさに欲しかったものがIKEAにあり、
つい大人買いしてしまったものです。

積み木、ビー玉、おはじき、おもちゃのピストル。
今の子供はおもちゃの銃なんて与えられないんでしょうか。

「ステイション積み木」とは、積み木で線路の周りの町を作り、
おもちゃの汽車を走らせるというジオラマ的おもちゃですが、
それにしてもパッケージの汽車の疾走感が半端なし。

「パイロット」のインク瓶には見覚えがあるなあ。

手前のインクの商品名が「エリスインク」なのが気になる。

満州にあったらしい「奉天醤油」の醤油瓶。

左は海産乾物問屋のパッケージなのですが、よくよく見ると墨で

「結納」「肴料」などの試し書きがされているのに気づきます。
「海産」の横に同じような字体で「海産」「物」の下に「物」など、
箱に書かれた文字を使ってお習字の練習をしていたとみた。

これは実際に三宅本店で使われていたかもしれない電話。
壁掛け式でもないのにダイヤルはなく、ハンドルが付いています。

それから約80年後、コンピュータが市場に出回る世の中に。
相当珍しかったと思うのですが、シャープの製品です。
なんとカセットテープを挿入するタイプですが、まさかこれがデータ?

お値段は横にあるパンフレットによると20万超となっています。
今の貨幣価値でいうと・・・50万円くらい?

さすがは三宅本店、このようなコミニュティルームでは、時々講演会やコンサートなど、
イベントが開かれているのだとか。

酒樽にうまくカムフラージュしたスピーカー。
メッシュの部分も木肌の色に合わせるこだわりようです。

この部屋にも酒造に必要な道具などが無造作に展示されています。

「こういう道具も、実はつい最近まで使われていたりしたんですよ」

左の「千福」ラベルは、よく見ると酒盛りをしているのが全員女性。
そもそも、「千福」という名前は、初代三宅さんの母親である「千登」(チト)さん、
奥さんである「福」さんの名前を一字ずつ取ってつけられたものです。

三宅さんによると、女性の身内の名前を商品名につけるというのは
女性の人権が公的には顧みられなかったこの時代には大変珍しいことで、
女性たちの「内助の功」に感謝し、それをこんな形で表した三宅清兵衛さんは
当時の男には珍しいフェミニストであったということができるかもしれません。

ラベルの「女だけの宴会」もその表れではないでしょうか。

 こんな遺品も寄贈されて飾ってあります。
「千福」の文字が入った徳利は、川本福一という広島の方が、
得意先招待用に所持していた数十本のうちの一本。
残りは全部破損したそうで、残ったこの一本も釉薬が溶けて流れています。
釉薬が溶けるほどの温度とは・・・・・・。


東郷元帥の肉声を収めたレコードがここに!
「連合艦隊解散の辞」ではなく、軍人勅諭が発布されて50周年記念の録音だそうです。

「海と空」という雑誌は5月号で、海軍記念日特別号だそうです。

映画の一シーンに「千福」が使われました。
これ、なんの映画でしたっけ。

こちらにいる士官がなぜか第三種軍装をしているのに、第一種がいるし・・?

状況から見て、大和特攻のシーンではないかと思うのですが。

錦絵のようなタッチですが、実は製作されたのは去年の秋。

呉に昭和20年7月2日空襲がありました。
この時三宅本店の従業員は、海軍消防隊の来援を待つまでもなく
焼夷弾によって起こった火災を「危険を犯して」「毫も撓むことなく」完全鎮火させ、

「軍納酒2500石を確保した」

しかもその後、

「無償で海軍将兵と罹災者に清酒を提供し」!!!!

たことに対し、海軍憲兵隊からこのような感状が出されたものです。
最後の方には

「金一封を添えて賞詞を贈りその労を多とす」

と書いてあるのですが、

「これ、結局感状だけで(金一封なしで)済まされてしまったらしいです」

という三宅さんの重大発言が!

まあ、どこからお金を出そうか鳩首会議しているうちに大きな空襲が二度も来て、
そうこうするうちに原子爆弾が落ち、あれよあれよと終戦になってしまったわけですから、
呉鎮守府だけを責めるのも酷かもしれません。

物産展への出品や鉄道敷設に関する評議員を三宅社長が勤めたということで感謝状。

こちらは昭和7年、軍艦「大井」凱旋記念、とあります。
この凱旋というのが何を指すのかわかりませんでした。

煙突もそうですが、耐火性のある白煉瓦が酒蔵には使用されていました。
呉軍港大空襲では、この「明治庫」「大正庫」の一部だけが喪失を免れました。

終戦後、進駐してきたイギリス連邦軍に占領軍に三宅社長の本邸は接収されています。
きっと洋風の建築で将校が住むのに手頃とされたのでしょう。

同年、明治庫と大正庫を修復し、新しく「昭和庫」が竣工されました。

戦後、「千福」が有名になったのはサトウハチロー氏のあのロゴですが、
このようなマジックインキで書いた字体とともに同社のアイコンにもなりました。

そしてダークダックスの歌。
佐良直美も人気絶頂の頃CM出演していたんですね。

言ってはなんだが、誰得カット。

現在の販売ラインも展示されていました。
この大吟醸「提督」のラベルは、杉山靖樹第28代呉地方総監の書だそうです。

海自関係(特に将官)の方へのご進物におすすめです、とは三宅さんのお言葉。

見学コースとは別のところに物販店があり、ここからはお酒を全国発送することもできます。
ここでいくつかお土産を買い終わった時、三宅さんが

「ここに来たらソフトクリームをぜひ食べてください」

とオススメするので、ゆずと甘酒の二種類あるソフトクリームから
問答無用で甘酒アイスを選んでいただいてみました。

お店の隅には、昔三宅家にあったらしきアップライトピアノに、三宅家の誰かが
練習したのかもしれないドビュッシーの「雨の庭」の譜面が置いてありました。

 

海軍に興味を持って軍港の町呉に訪れる方に、大和ミュージアムも江田島も、
海軍墓地も全て見てしまったら、その次にはぜひ呉海軍御用達であった
千福製造元、三宅本店の見学をされることをおすすめして、シリーズを終わります。

 

 

 

 


ダウンフォール作戦と半潜航型スパイ搬送艇「ギズモ」または「ギミック」

2017-08-06 | 軍艦

マサチューセッツのバトルシップコーブにある戦艦、潜水艦、駆逐艦など、
メインの軍艦は全て紹介し終わったわけですが、展示はこれだけではありません。

敷地内には哨戒艇というジャンルでPTボートを紹介しているドームがあります。

ここでわたしはアメリカ軍の極秘作戦に使われた潜水艇を発見しました。
近年まで秘匿されてきたその作戦そのものもさることながら、
いろんな意味で衝撃的だったので、今日はそのことについてお話しします。

 

その「作戦」とは、日本本土に上陸し、侵攻して全土を制圧する、という、
今にして思えばそんなことが可能だったのかと訝られる壮大な計画でした。

「ダウンフォール作戦」

 

今日8月6日は72年前アメリカによる日本への原子爆弾投下があった日です。
それではその原爆投下が決まったのが正確にはいつかご存知でしょうか。


アメリカが「マンハッタン計画」が成功させたのは、前月の7月の16日、

つまりアメリカは、完成して20日後に
原子爆弾を人類に対して使用したということになります。

人類初の原子爆弾投下という神をも恐れぬ行為に与えられた決断までの時間が
たった20日であった、というのはあまりに不遜であり傲慢、というのはさておき、
それだけアメリカ軍も日本に「手を焼いていた」ということもできます。


マンハッタン計画については、それを計画したアメリカ上層部も、
いつできるのか、そもそも成功するかどうかについて確証がなかったのでしょう。
ダウンフォール作戦とは結果からいうと、

もし原子爆弾製造が成功しなければor原爆投下がなければ

日本に対して行われるはずの本土侵攻作戦でした。

作戦は二段階にに分けて行われる予定となっており、
それが「オリンピック作戦」と「コロネット作戦」だったのです。

 

以下、作戦内容について書いておくと、

 

【オリンピック作戦】

実施予定45年11月1日

志布志湾(鹿児島)、吹上浜(同)、宮崎海岸(宮崎)の3カ所から上陸
約3千隻の艦隊、数十万人の部隊を投入して両県の大半を占領

【コロネット作戦】

実施予定46年3月
九十九里浜(千葉)と相模湾(神奈川)から上陸
東と西からの挟み撃ちで首都侵攻を行う

であり、簡単にいうと前者は九州侵攻作戦、後者は帝都侵攻作戦です。

 

まずオリンピック作戦の目的は、日本の封鎖と、攻撃拠点の確保でした。
九州をとりあえず制圧すれば、そこからB−29が全土に爆撃を行えます。

日本の周囲近海に機雷を撒き、通商を破壊する「飢餓作戦」(オペレーション・スタベーション)
も、東京空襲と前後して1945年3月には始まっていました。

そして最終的にはコロネット作戦によって日本の要所、最終的には首都を制圧し、
あわよくば完全な勝利を得る、というのが本作戦の全貌でした。

 

後からならなんとでも言えるとはいえ、原子爆弾が落とされる前から
日本政府は終戦への道を探っていたというのは歴史的にも確認されていますし、
日本の降伏の直接原因は原爆投下ではなく、ソ連の参戦だったという説もあり、
何れにしても、これらの作戦が実行されていた可能性はほぼゼロに近いですが、
万が一首都侵攻まで行われていたら、それこそどんなに国土は荒廃したことか。

その後の日本の独立への道もおそらくは閉ざされることになった・・いや、
それどころか、この作戦によって日本は物理的に壊滅していた可能性もあります。

 

それにしてもアメリカをこの作戦実施に駆り立てた原因はなんだったのか。
というとそれは、他ならぬ「沖縄戦」の苦い経験だったと言われています。

東京大空襲を指揮したルメイ将軍は、

「空襲だけで日本は1945年10月には降伏する」

と豪語していましたが、彼らにとって計算外であったことは、
いざ本土上陸となったときの日本人がいかに厄介な敵であったかということでした。

1ヶ月もあれば沖縄は落ちるという予想に反して、実際には
軍民一体となった激しい沖縄県民の抵抗に遭い、死闘は2ヶ月以上続きます。

特に海軍では特攻の恐怖で精神をやられる者が続出するという事態になりました。

あのニミッツ元帥は沖縄戦をこう評価しています。

「沖縄作戦は攻撃側にとってもまことに高価なものだった。
約13,000名の米兵が戦死したが、その内3,400名が海兵隊で4,000名が海軍だった。
艦隊における死傷者の大部分は日本機、主として特攻機により生じたものである」

「日本軍が準備された防御陣地に布陣し補給が受けられる所では、
我がアメリカ軍の最優秀部隊が、従来になかった強力な航空支援、艦砲射撃、
砲兵支援のもとに攻撃しても、遅々たる前進しかできないような
強力な戦闘力を発揮する事が沖縄の実戦で証明された。

日本軍はまとまった人数で降伏したことはなく、
わが軍が膨大な死傷者を出さずに日本軍を撃破する事は不可能である」


ダウンフォール作戦は、そんな日本に何が何でも勝つため、
甚大な犠牲を覚悟に計画された
最終作戦であり、
アメリカにとっても後のない背水の陣作戦であったといえます。

 

さて、「オリンピック作戦」の目的とは、九州への侵攻作戦であったことを
今一度思い出していただきたいと思います。

この作戦に備えて、アメリカは、

chord name「ギミック」あるいは「ギズモ」

という潜航艇を建造し、これに投入しました。
この潜航艇は、

「セミ・サブマージブル・コバート・スパイ・ベッセル」

つまり直訳すれば「半潜行型秘密のスパイ船」ということになります。
正式には、

 United States,  OSS Semi-Submergeble

で、OSS とは「Office Of Strategic Service」戦略情報局のこと。
このOSSはご存知CIA、アメリカ中央情報局の前身となりました。

 

半潜水艇「ギズモ」または「ギミック」は、極秘に2隻だけ建造されました。
その目的は、

日本軍の本土防衛計画に関する戦略的情報を収集するスパイを送り込むため

であり、これこそが

「オペレーション・オリンピック」

を成功させるための情報活動であったのです。

 

さて、ここで、我々日本人には「あっ・・察し」となってしまうこんな情報を。

「ギミック」(あるいはギズモ)の乗員は3名でした。
一人は艇長であり、残り二人は日本に送り込むために養成された

朝鮮人のスパイ

朝鮮人のスパイ

朝鮮人のスパイ

であった、と現地の説明には書かれています。

具体的にはどうするかというと、深夜、海軍の潜水艦によって
密かに運ばれてきたギ潜航艇は、
日本の沿岸20マイルまで近づくと、
離脱して半潜行状態で海面下を航行し、本土を目指します。

ギミックの艇長の任務は、潜水艦から上陸地点までを2往復し、その都度

朝鮮人スパイを二人ずつ

日本本土に送り込むということでした。

スパイが日系人や英語の喋れる日本人でなく朝鮮人だった、というのは
当時はカネで同胞を裏切る日本人や日系人がいなかったということでしょう。

 

とにかく、潜水艦から沿岸にスパイを送り届けて帰ってくるまで、
距離にして40マイルの1往復には、だいたい

7時間

かかったということです。

極限まで小さな半潜航艇は、波の動揺をもろに受け、
さぞかし艇長とスパイたちは苦難を強いられたと思われますが、
日本人としては全く同情する気にはなれません(笑)


このスパイ朝鮮人たちに課せられた諜報活動とは次のようなものでした。

ラジオの情報を集め送信する

上陸可能な沿岸の情報を集め送信する

日本軍の防備の状態の情報を集め送信する

人口密度、地勢、沿岸部の海深を調べその情報を集め(略)

そのほかにも、アメリカ側が九州の侵攻をするに必要な情報を
片っ端から送ることを、彼らは命令されていたと思われます。

 

これだけのことを調査する能力があるということは、
日本で生まれ、日本語の能力に長けた朝鮮人でなければなりません。

どういう経緯で、とりあえずは日本国民であった彼らが、国を売る
スパイになったかはわかりませんが、ここに書いてあることから推察するに
少なくともその人数は”かなりの数いた”ことは確かです。 

しつこいようですが、それに比して(笑)日本人というのは民間の一人に到るまで、
国のためには自死も厭わず死ぬまで戦うものであるということを、
アメリカは沖縄でいやというほど思い知りました。

アメリカにとってダウンフォール作戦とは、そんな日本に勝つために行う
犠牲を覚悟の最終的作戦であったといえますが、それとても、
西欧人とは全く違う価値観をもつ日本人に対しては、どういう結末になるのか
全くわからないまま計画され、実施された後もどんな結果になるのか
予想できなかったというのが本当のところではなかったでしょうか。 

 

ところがここで、アメリカにとってその懸念を吹っ飛ばす朗報が訪れます。
半潜航艇「ギズモ」が朝鮮人をせっせと本土に送り込んでいたと思われる7月半ば、
「マンハッタン計画」が成功し、原子爆弾が日本に使用できることになったのでした。

原子爆弾さえ落とし都市を壊滅させれば、自軍の犠牲を払って侵攻する必要も無くなります。
問題は広島に捕虜として収容されているアメリカ軍人ですが、それでも侵攻作戦で
沖縄以上の犠牲者数が出ることを考えれば、彼らの犠牲など微々たるものです。
彼らには運が悪かったと諦めてもらおうということに(多分)決まります。

 

そして広島と三日後の長崎への原子爆弾投下が行われました。

 

よくアメリカ人が

「原子爆弾が戦争を終わらせなかったら、何万人もの犠牲が出ていただろう」

という論調で原爆投下を正当化してみせますが、実際に本土決戦になっていたら
それこそ日本は最後の一兵までゲリラ化し抗戦したであろうことは確かなのです。
そういう意味では彼らのいうことにも一理あるといわざるをえません。

あくまでもアメリカ側の都合にすぎませんが、代わりに落とされた原子爆弾によって
本土侵攻で奪われていたかもしれない何万人もの命が助かったのは事実なのですから。
 
まあ問題は原爆による十万もの民間日本人の犠牲ですが、
戦争を始めた、
しかも有色人種の日本が負うのであればなんの問題もない、
というのがアメリカの国内向け主張です。

さて、あらためてギミック、あるいはギズモたる半潜航艇のスペックを書いておきます。

OSS 半潜航艇

製作:ニューヨークシップヤード、ロングアイランド NY

完成:1945年6月10日

価格:約200万ドル

全長:5.84m

全幅:1.613m

推進:グレイマリンライト4エンジン 4気筒16馬力

   パワー1800/分 69ピストン

かっこわる〜。(個人的感想)

吸気パイプは上部に刺さっていて、レーダーに探索されることを防ぐため、
スティールパイプでで包んであったということです。

小さなガラス張りの四角い部分に人の頭が見えていますね。
これが艇長で、朝鮮人スパイは艇内で小さくなっています。

何れにしても7時間この操縦を行う艇長は精神的緊張もあって極限状態だったでしょう。


ところで今ふと気になったのですが、日本に潜り込んで諜報活動をしているうちに
終戦を迎えた朝鮮人スパイたちは、どこに行ったのでしょうか。

アメリカの功労者としてアメリカの市民権をもらっていればいいですが、
そのまま日本に住み着いたのも何人かいるのでは・・・((((;゚Д゚)))))))

この作戦は、2011年まで国家の秘密となって公開されませんでした。

ここにある半潜航艇ですが、1945年の10月1日、つまり本来なら
オペレーション・オリンピックが行われていた予定より1ヶ月前に
CIAから海軍にギミックプログラムとして譲渡されました。

しかし、長らくダウンフォール作戦そのものについては世間に公開されず、
人々はこの潜航艇が

日本海軍の特攻潜航艇

であると説明され、そうだと信じられていたということです。

2011年以降、これらが情報公開法によって公開されたので、
そこで初めて
作戦の全容とこの船の正体が明らかになり、
歴史に残されることになったのです。

舫の巻き方がアーティスティック。

 

オペレーション・オリンピックと半潜航艇「ギズモ」または「ギミック」。

皆様はこの存在をご存知でしたか?

 

 

 

 


米艦隊日本訪問の真実〜千福製造元・三宅本店資料室

2017-08-05 | 海軍

 

「千福」酒造元三宅本店所蔵の海軍歴史資料のご紹介はほぼ終わりましたが、
一つだけ載せ忘れがあったので、上げておきます。

これは明治41年発行の「海軍」という雑誌ですが、この号の特集が

「米艦隊歓迎号」

つまり、アメリカから海軍の艦隊が日本に寄港したので、
歓迎して色々とそれについて述べているというものなのです。

オーストラリアを出発して北に帰る途中で米海軍太平洋艦隊が横浜に寄港するので、
アメリカの親友として日本はこれを歓迎しましょう、という論旨です。

その前に、本号ではアメリカ艦隊について詳しく書いているので、
歓迎の饗宴を開く前によく読んで勉強してね、って感じでしょうか。

今でこそ日米、特に海軍同士は日米安保もあって大変な仲良しですが、
タイマン勝負をした番長同士が河原に寝そべれば自動的に友情が芽生えるように、
戦後に初めて仲良くなったのではなく、このころ少なくとも日本は
アメリカの「親友」を標榜していたらしいことがなんとなくわかります。

然し乍らアメリカは、日本が日露戦争に勝利した瞬間、
その潜在能力に警戒心を抱きはじめ、この艦隊寄港の明治41年ごろには
そろそろこいつ仮想敵にしちゃおっかなーみたいに考えていたはず。

ということは・・・・・?

そう、日本側が無邪気に

「親友である彼らを歓迎しましょう!」

とかいいつつ迎えたこの米艦隊の目的は親善などではなく、

日本への戦力誇示を目的としていました。

 

日露戦争で、特に帝国海軍がロシア艦隊に決して偶然ではない実力で勝ち、
白人国であり世界の支配側であった列強は、大変な危機感を覚えました。

日英同盟を結んでいて、日露戦争においては日本に情報提供していたはずの
イギリスでも、日本海大戦における連合艦隊勝利の知らせに、町中が
まるで誰かの訃報に接したように静まり返ったといいます(孫文談)

そこで、早速アメリカはアメリカ艦隊の世界一周を計画しました。
日本に寄港したのは偶然やついでなんかではなく、その海軍力と国力で、
デビューしたばかりで調子こいている日本を恫喝するためだったのです。

こえーよ、アメリカこえーよ。

 

しかし、日本人も結構したたかで、その意図は十分承知した上で、

「アメリカさん強そう!でも僕ら親友だからね!うふふ」

と恫喝を表面上はスルーして無邪気にはしゃいでみせました。


ちなみにあのチェスター・ニミッツが少尉候補生として乗り込んだ「オハイオ」は
その「日露戦争で勝った日本を恫喝し隊」の第一陣に加わっており、
寄港時にニミッツ少尉候補生は東郷元帥と直に話をしてファンになりました。

のちの米海軍元帥は、戦力誇示が目的の艦隊派遣で日本の元帥に感化されて帰ってきた、
ということになりますが、この時の感激が、のちに日本占領時における
東郷神社や三笠保存への働きかけに繋がっていくのですから、縁は異なものです。

 

さて、今日は「千福」酒造元として、酒蔵ならではの資料を中心にします。

手前の「千福」の瓶は輸出用に英語のラベルが貼ってあるもの。
中身はもちろん当時の酒?

「違います」

看板に描かれている女性が満州娘ですが、三宅本店は
満州にも会社と工場を持っていたということです。

日本が戦争に負けて、会社の資本は全てそのまま帰国を余儀なくされましたが、
その施設は普通にソ連が接収して稼働していたようです。

左は、当時の社員の記念写真であろうと思われます。
右には昭和8年の特別観艦式の記念絵葉書があります。
三宅本店は呉海軍にとって重要な出入り業者であったため、観艦式にも
見物のご招待があったのでしょう。

なんだろう・・・干菓子を作る木型かしら。

千福の広告に混じって、取扱店指定のポスターがあります。
当たり前ですが、日通のマークは現在も同じものが使われています。
会社創立は昭和12年ですが、大東亜戦争中には海軍は運輸業務のことを
「日通」と隠語で呼んでいたということです。

歴史的な資料として、こういうものを保存してくれているというのに感謝です。

進駐軍の利用する米軍向けのPXの店内にあったと思われる鏡には、なんと

「日本人に非課税のタバコを売ることは法律違反です」

と書かれています。
横流し禁止の警告が、なぜ鏡にプリントされているのか・・・・。

酒造会社ですから、酒造りに使われた道具も展示してあります。
せいろのようなものは「室葢」といい、麹を発酵させるのに使います。
風呂桶のようなものは柄杓。

後ろの大きな丸いものも麹の生成に必要なものだったと思います。
(説明を聞いたのですが、海軍と関係ないので忘れてしまいました)

水桶の前にあるのは「綏芬河」行きの汽車にかかっていた行き先プレート。
右上には南満州鉄道、満鉄のMをあしらったマークがあります。

綏芬河市は現在の黒竜江省にある国境沿いの町です。
国境の向こうは・・・・そう、昔はソ連だったんですよね。

陸海軍御用達を大きく謳ったラム酒のポスター。
ここにも描いてありますが、サトウキビが原材料なんですよね。

タバコの宣伝になぜかタバコを吸っているわけでもない美人画。
「ターキシエーエー」というのは当時の高級両切りタバコの銘柄らしい。

千福の醸造工程がわかりやすく描かれています。
左は上が呉、下が満州工場。

特筆すべきはさりげなく「呉鎮守府検閲済み」と書かれていることでしょう。
しかしなんのためにこんなものを検閲・・・?

三宅さんによると、昭和20年代後半のころの写真ではないかということです。

当時はタバコは今ほど悪者にされていませんでしたから、皆が吸っていました。
営業の人などは、吸えなくても手に持って「吸っているフリ」をしていたと聞きます。

上はタバコ盆セット(後ろは弾丸?)、
下段は銀のタバコ入れと灰皿のセットで、海軍マーク入り。

灰皿は日の丸をあしらっており、そこに立っている小さい札?に

「君が代は千代に八千代にさざれ石の」

までが描いてあります。
日の丸に灰を捨てるというのもどうなのかって気もしますが。

レトロなパッケージのコレクションもあって、コレクターには垂涎。
風邪薬六神丸の「トンプク」の箱。

味の素、サクマドロップス、フルーツキャンデーの缶など。


昔の子供用の人形は、兵隊さんや水兵さんをかたどったものがあります。
まあ、外国でもそうですよね(鉛の兵隊とか)。

馬に乗った騎兵、飛行服をきた搭乗員、明らかに明治時代の水兵。
敬礼をしているものが多いですね。

セーラー服を着て日本の旗を持った赤ちゃんに靴を履かせる女の子。

ハーモニカは「ミリタリーバンド」が商品名です。

わかりにくいですが、軍艦の模型は「三隈」。

「蘇生」とはなんだろうと思ったら、「天然カルシウム」だそうです。
カルシウムによって増血ができる、と書いてありますが、そうなの?

続く。



海軍の作った街、呉〜千福製造元・三宅本店の資料

2017-08-03 | 軍艦

呉の酒造会社、「千福」製造元である三宅本店にある海軍資料についてお話ししています。
まずそこで見せていただいて驚愕した、昔の呉の地図をご覧ください。

地図中央下部分を拡大してみますと・・・

ほとんど何が書いてあるか読めないのですが、「からす小島」だけはわかります。
ここが現在の「アレイからすこじま」、潜水艦基地のあるところ。

前回も言いましたが、海軍がこの地にやってきて以降、この部分を全部
埋め立てて地続きにしてしまったのです。

横須賀にも土地を切って水路を作ってしまうし、海軍おそるべし。

これが現在の呉。
画面下部中央の緑色の突堤がからす小島だった場所です。
淀川製鋼のあるところも、市街地もほとんどが海軍が埋め立てました。

軍港になってからの呉の地図です。
「大呉市」という言い方が、海軍のお膝元ならでは。

上の地図も、拡大図も軍港部分は消されています。

呉の写真。
電柱には「呉鶴」という三宅本店の広告が見えます。
昔は電柱というのは重要な広告媒体だったんですね。

何か見覚えのある景色だなあと思ったのですが、もしかして・・・?

「『この世界の片隅に』に出てましたっけ?」

「多分そうだったと思います」

藤森清一郎少将の遺品をまとめて手に入れたようです。
ちなみにこの名前で画像検索すると、大量にオークションサイトが出てきます。
どこからかその筋に手紙などが流れたみたいですね。

三宅さんがオークションでこれらを手に入れたのかどうかは確かめませんでした。

藤森少将は「伊勢」副長、「間宮」艦長、「朝日」「平戸」艦長、
「岩手」艦長など、艦艇畑を一貫して歩んできた人です。

「防備隊」という文字が見えますが、横須賀防備隊司令も経験しています。

兵学校ではあの井上成美と同期で、卒業時のハンモックナンバーは
89名中25番(井上は2番、草鹿任一は21番)でした。

 

松岡大使の写真があるので、国連脱退の件についての論説ではないかと思われます。

そもそも日本が国連を脱退したのは、満州国建国を反対されたからですが、
松岡大使はこの時

「日露戦争での10万の英霊の犠牲と、満州事変で確保したものである

と日本の立場を訴えました。
結局日本以外の全会一致で建国に反対され、松岡は席を蹴立てて?
日本に帰国したわけですが、日本国民の声は肯定的なもので、
さながら凱旋将軍を迎えるかのような熱狂の声が起こったそうです。

この新聞にはしかし、

「外国記者の印象 松岡全権の演説好評」

とあり、当時のメディアが必ずしも国の代弁者ではなかったことの証明になっています。

まあもっとも、自国の首相が外遊で成果を収めても、だからこそ報道しない
(もし失敗していたら叩くために報道する)のが現在のメディアですから、
昔も今も国の意見と同調することの方が珍しいわけですけど。

「どこの部分で何の役に立っていたかもわからない」

戦艦「陸奥」の部品。
特別なルートで入手したものでもなんでもなく、引き揚げられたとき、
小さなパーツは無造作にその辺にごろごろ転がしてあったので、
適当に見繕って持って帰ることができたという驚愕の証言がありました。

謎の理由で爆沈した艦のパーツなので、少し何かお祓いみたいなことを
するべきではないかと思ったのですが、全くその様子はありません。

おっしゃるように、昔は何かとおおらかというかいい加減だったのでしょう。

呉軍港は、終戦間際の20年7月に二回大空襲を受けています。
この写真は米軍が空撮した爆撃の様子。

攻撃されている軍艦は戦艦「榛名」であると英語で書かれています。

説明が書かれていませんが、やはり同じ空襲の空撮。

着底して重油が流れ出しています。

昭和20年9月になって作成された「海軍英霊に関する件」。

経費として

●遺骨箱 ●同包装 は従来通り交付のこと

●供物料 ●埋葬料

あとは、階級別供物料として

● 高等官 63円
● 判任官 43円
● 兵・軍属 33円

呉鎮長官より各5円宛

とあります。

なんという名前かわかりませんが、儀式用らしい酒樽がありました。

これを海軍に納める時には、このようなカバーをかけたようです。
向こうに見える旭日模様は、おなじみアサヒビールの箱。

昭和13年と書かれた覆いもありました。

再びガラスケース内の海軍グッズコレクションに戻ります。
塗りに象嵌のお盆には複葉機と富士山が描かれ、

「飛行第三連隊」

とあります。

進水式の記念ハガキがありました。

その左、除隊記念に自分の顔写真をプリントした盃を製作した人がいたようです。

「この時代にこんなものを作ったら、さぞお金がかかったでしょうね」

「いいとこの坊ちゃんだったんでしょう」

なんと電球にも錨のマーク入り。

当時の真空容器。
大日本防衛食株式会社と銘があります。

物資不足は全国に蔓延していた頃も、有田というのは石炭の産地だったせいで
比較的裕福な地域とされ、有田焼の窯元にはこのようなものを作らせていました。

ゴムのパッキンが蓋に付いていて、食べ物を入れてから容器を熱湯に入れ、
その後急冷することによって中を真空状態にするという仕組みでした。

蓋には

「矢印のくぼみを釘などで叩くと蓋が割れます」

と書かれており、これが缶詰のように使い捨てだったことがわかります。
これを贅沢というのかなんというのか。

有田には余裕があったので、この容器はかなり製作されましたが、
肝心の詰める食べ物がなかったため(^◇^;)生産は中止されました。

帆立貝のグラタンを作った後に、記念皿に再利用した例(嘘)

軍艦「伊勢」が対象3年9月、日本をぐるーっと回って、
セントウラジミールに寄港したという「巡行記念」です。

なぜ帆立貝のカラなのかはわかりません。

軍艦でピアノを運ばせたり、神社一式を持ち帰ったり・・。

昔の軍艦艦長は結構やりたい放題だったらしいことを、わたくしは
「長門」の艦長の息子という人に散々聞いたことがありますが、
普通の軍人は流石にそこまでの特権はなかったようで、
軍艦に便乗してどこかに行く目的がある時には、このような証明書が必要でした。

呉鎮守府の発行で、この収入役の長谷部栞(しおり?)さんという人は、
名古屋まで乗せてもらっています。

三菱のマークの入った進水式用の斧は「羽黒」進水に使われたものです。

「大和測量記念」という文字がかろうじて読める壺。
なんの測量なのか、なんでそれが壷を作ることになるのかはわかりません。

こちら全体的に陸軍の盃を集めたコーナー。
支那事変、満州事変、上海事変などの参加記念並びに凱旋記念。

戦争も末期になるとこんな悠長なことをしている場合ではなくなりましたが、
勝っていた頃は、いちいち戦争に「参加記念」を配っていたようです。

陸軍除隊記念の盃で、ヘルメットの形をしたものの底には、
飛行機、プロペラなどをあしらい、除隊した人の所属を表しています。

戦艦「榛名」に昭和8年乗っていた乗組員の記念の寄せ書きのようです。
その「榛名」は、先ほどの写真にも写っていましたが、呉大空襲で大破着底しました。

wikiには詳細な写真が掲載されていたので最後に挙げておきます。

続く。

 


呉海軍工廠の観覧券〜三宅本店 海軍関係資料より

2017-08-02 | 軍艦

広島県呉市の酒造業、三宅本店の見学で見たものをお伝えしています。

三宅本店が海軍に重用されるようになったのは、赤道や熱帯域を長期航海しても、
その酒品質に変わりがないということを認められてからです。
その長期航海とは、つまり今現在も海上自衛隊で受け継がれている
初級士官の訓練である練習艦隊の遠洋航海に他なりません。

この写真は、練習艦隊で「八雲」に乗り組んでいた根本文助くんという
二等水兵が、自分の航路を示す立派な額を、神社仏閣に奉納した額です。

本村出身とありますが、おそらくは広島県安芸高田市か庄原市の「ほんむら」でしょう。

遠洋航海のルートは、ハワイからサンフランシスコ、そのあとサンディエゴなどの西海岸に
寄港した後は、ヤルード、ボナペ、トラック、サイパンと、その後の海軍兵学校の
遠洋練習航海の基本となるパターンであったことがわかります。

兵学校67期の遠航についてお話しした時にも説明しましたが、
ヤルード以降のミクロネシアの帰港地は、いずれも第一次世界大戦後、
日本に譲渡され、統治していた島ばかりです。

 

ところで、今現在でも練習航海と同じコースを一般人が船で巡ることは、
富豪でもない限りまず不可能でしょう。
昔はさらに、一生外国など見ずに死ぬ人がほとんどでしたから、
練習航海のために海軍に入る者がかなりの数いたのです。

根本二水はきっと裕福な家の出で、自分の息子の誇らしい体験を
後世に残す意味もあって、家族がこのような額を奉納したに違いありません。

資料室にはこんな練習艦隊の全体写真がありました。

文字が読みにくいのですが、昭和8〜9年、「浅間」艦上でしょうか。
この時の練習艦隊は、地中海ルートでスエズ運河を航行しています。

こちらは「浅間」の水兵さんが全員で写真に収まったバージョン。
真ん中に、艦長など、幹部がいます。

当たり前ですが、皆若いですね・・・。

こちらは陸軍軍人が山東出兵の記念に授与されたらしい塗りの茶碗。

先ほどの南洋諸島のように、山東、そして青島も、元はドイツの権益でしたが、
第一次世界大戦で日本が攻略し、その後講和条約で権益を得たものです。

ところが、中国側がドイツから日本に権益が移るのに反発し、学生を含め
反乱のような武力行動を取り出したため、日本は自国民を保護する目的で
出兵を行いました。

この一連の騒動で「漢口事件」と呼ばれるものは、海軍の水兵が中国人少年に投石され、
それがきっかけで口論になったのに乗じた中国人の群衆が建物を破壊し、

「日本の水兵が中国人を殺した」

というデマを流しながら日本租界になだれ込み、殺戮を行った事件です。
南京大虐殺とやらを未だに日本に突きつける中国ですが、この件一つ取っても
放火、略奪のほか妊娠中の女性に暴行したり、遺体を放置したりと、
残虐なのは明らかに中国の暴徒がわであったことは明らかです。

日本側は海軍陸戦隊が威嚇のために発砲をしただけでしたが、
彼らはこれで中国人が数十人死んだ、と例によって嘘の情報を日本側に突きつけ、
謝罪と陸戦隊の撤退を要求しています。

 

この茶碗の箱に刻まれた昭和3年の出動というのは、第2次出兵で、
この時にも北伐軍は日本人家屋ならびに日本人への、集団的かつ計画的な、
略奪・暴行・陵辱・殺人事件である、済南事件を起こしています。

このページの中程にある日本人被害者の検死記録は、文字を見ただけで
凝然となるような残酷なものですが、中国側は、この時の検死写真を
のちに731部隊の人体実験写真だと偽って誤用しました。

 

曲がった煙突が特徴的な海軍の軍艦をかたどった物入れ。
上半分がぱかっと外れます。

名前は聞きませんでしたが、屈曲煙突を持つ「長門」ではないかと思われます。

屈曲煙突は、軍艦の高速航行中、艦橋が風を切って艦橋後方の気圧が下がり、
排煙が艦橋に流れ込むのを防ぐための形で、「芋虫煙突」とも称しました。
友鶴事件で設計不備の責任を取らされ、謹慎処分になった藤本喜久雄大佐の考案です。

平賀譲大先生はその問題に対して煙突に蓋をさせたのですが、
うまくいかず、結局屈曲煙突に換装されました。

平賀譲は案の定不格好だと言って腐していたそうですが、それに限らず、
大先生は保守的で、斬新なアイデアをだす藤本そのものが嫌いだったようです。

 

双眼鏡。
おそらく三宅さんの強いご意志の賜物であると思われますが、
かなり丹念に海軍グッズを買い集められたようです。

ただの双眼鏡ではなく、「呉 廠」と刻印されています。

これは実際に三宅本店が河内屋だった頃に使われていたものかもしれません。

「とにかく・・・・重いです」

と三宅さん。
木材は紫檀か何かでそれだけでも重そうなのに加え、大理石があしらわれ、
レジスターですが、つまりは金庫の役目もしていたので、盗難防止かも。

海軍は必ず錨、陸軍は星が入っていることが多いです」

左の茶色い盃は陸軍カブトをかたどったもの。
なぜか緑色の銃とカブトをくっつけた「箸置き」もあります。

当時のタバコパッケージコレクション。

「ピース」「光」「敷島」「暁」「ゴールデンパット」
「チェリー」
「響」「みのり」「昭和」・・・・。

皆どこかで聞いたり、多分昭和の小説などに出てきた覚えがある名前ですが、
さすがにパッケージには見覚えがありません。

さて、わたしがあまりにも資料に目を爛々と輝かせて食いついたせいか、
三宅さんは一般公開されている工場の見学路から離れ、
海軍的歴史資料が無造作に置かれている一室に連れて行ってくださいました。

もしもわたしが一人でこれらを見ることができたら、思う存分一つづつ、
資料を読み、写真を撮って過ごすところですが、そうもいきません。

解説を聞きながらそれでもできるだけたくさんを写真に収めました。

この3枚一組の絵画は、呉に天皇陛下がご行幸賜った時を描いています。
天皇陛下の在わすお召艦には「かいもん」と読めないことはないのですが、

「海門」

という、開聞岳から名前を取られた(漢字は違うけど)スループ船、
三等海防艦しかそれに近い名前の船はありません。

昭和9年、呉鎮守府で行われた相撲大会で優勝したのは「榛名」チームでした。
というわけで、みなさんにこりともせずに記念写真を撮っております。

士官が椅子に座り、その後ろに下士官、床に座ったり後ろの方にいるのが水兵さんたち。
結構なイケメン水兵やイケメン士官が混入しております。

海軍技手、山田学一くんは、職務が格別勉励であったため、
ご褒美として97円50銭をもらえることになりました!

これって、現在のいくらくらいだろうと思って計算したら、
このころの1円はざっと今の1,000円くらいの価値がありますから、
なんと10万円くらいを褒賞としてもらったことになります。

よっぽど真面目で優秀な技手だったのでしょう。
ていうか、海軍太っ腹ですよね。

 

左は呉海兵隊で使われていた教科書のページをコピーしたものです。
右ページは見張りの時にこの左舷前方のことを「左舷バウ」、
艦尾右舷側であれば「右舷クォーター」と呼ぶ、などということが書かれています。

左ページには

「測深器具、測定器具の概要及び使用法」

として、「測沿線」(レッドライン)とか底質を知るためにとか、
まあそういう説明がかいてあります。

こちらは、千坂智次郎(ちじろう)という明治期の海軍軍人の辞令。

明治32年に八雲の航海長となった千坂少佐は、よく年
八雲から夕霧の艦長に転勤を命じられました。

調べてみたらちゃんとウィキに写真まで載っている人でした。

兵学校卒業時の席次は43人中29番。
優等生ではありませんが、同級だった鈴木貫太郎は13番で大将になり、
千坂さんも中将にまでなっています。

こちらは海軍少尉十川仁八の水雷学校卒業証明。

「卒業したから学生を被免」

という言い方をするのだそうです。
左は佐々初喜という呉の造船部員になった人のもの。

なになに、マル秘のハンコが押された資料があるぞ。

「匿名検閲準備参考資料」

とされた昭和9年の軍艦「山城」の名前入り秘密文書。

どうも内部で口頭諮問が行われ、そのために用意した資料のようです。
昭和9年というと、「山城」艦長はあの南雲忠一大佐でした。

何か事故でもあったのか?と思ったのですが、左のコピーを見る限り
大したことではなさそうです。

 

今でも海自の施設に入るには、なんらかの手続きが必要ですし、業者もそうでしょう。

これは鎮守府内での作業のために出入りしていた銭高組の大工、森本さんのために
発行された木片の「門艦」。

こちらも辞令です。

明治期には見張りのために海軍は要所に「望楼」というポイントを定め、
そこから海上交通を監視していたのですが、この篠崎さんという人は、
望楼に取り付けられた器具の点検のため、和歌山県の日ノ御埼沖の望楼に出張を命じられました。

昔の呉の地図は軍港の部分が塗りつぶされていて、大変監視が厳しく、
国民は目を塞がれ耳を塞がれ、と暗黒時代であった・・・。

 

というのがテロ等準備罪に顔色変えて反対した民進党と共産党とその他の主張ですが、
(もうわたし、山尾志桜里の質疑を聞いてあまりのバカさに爆笑させていただきました。
”インターネットの監視を行う”ってつまり監視社会じゃないですかー!とか、
”目配せしたら犯罪になるのかー!”とか、キノコ採りとか同窓会とか。
あれをやたらと持ち上げてる小林よしのりとその一派も、お里が知れますわ)

それはともかく、なんかこういう資料を見ていると、普通に海軍、工廠の中とか
見学させてるんですよね。

一枚で二人まで、しかも「観覧券」。
気軽に一般開示している様子がこの観覧券から伺えるのですが・・・。

何でもかんでも「戦前に戻りつつある」とか言ってる人たちって、
戦前がとてつもなく暗黒時代であったということを大前提にしているわけですが、

実は当時のことをあまり知らないで言ってるんじゃないのかなとふと思いました。

 

続く。

 

 

 


千福醸造元株式会社 三宅本店の”海軍コレクション”

2017-08-01 | 軍艦

練習艦隊の遠洋航海に先駆けて行われる艦上レセプションの席では、
練習艦隊とプリントされたパックのお酒が振舞われます。

三宅本店製造「千福」のお酒で、我が家には最初のレセプションで
持たせてもらったものが今でも食品庫の片隅で陽の目を見ることなく
ひっそりと保存されております。(何年前のだ)

その後、海軍糧食について研究しておられる高森直史氏の著書や講演会などで、
三宅本店と海軍の関係について知ることになったわけですが、このたび
降って湧いたようなご縁で、三宅本店の工場と資料館見学ができることになりました。

飲めないこともあり、酒造そのものに激しく興味を持っているわけではありませんが、
軍港呉にあった故に、海軍そのものと深い歴史的つながりを持ってきた
酒造会社見学となれば、全く話は別です。

話を持って来たのは、案の定そんなことを夢にも知らなかったTOですが、
異様なほどのわたしの食いつきぶりに驚きつつ、日程をセッティングしてくれました。

呉駅前からタクシーに乗ると、「千福」だけで会社の前に到着。
升をかたどった噴水?が道沿いに看板がわりに置かれています。

このキャッチフレーズのCMはダークダックスの歌で記憶している方も多いでしょう。
サトウハチローの「思いつき」から生まれたそうです。

先日ここにアップした昔の呉でロケされた刑事もののシーンで、
この煙突が写っていましたね。

今ほど周辺に高い建物のない頃はこんなに目立っていました。

芸予地震(2001年)では三宅酒造も大きな被害を受け、酒蔵が倒壊しましたが、
やはりというか煙突は無事だったそうです。

保護のために煙突に金属枠を取り付けたため、白煉瓦にところどころサビが浮く結果に。
煙突が白いのは耐熱性の珪質岩を使っているからです。

今の人たちは「シリカ」といった方がピンとくるでしょうか。

「これ、下から見ると歪んでるのがわかるんですよね」

と三宅さん。

ヒットしたアニメ「この世界の片隅に」のシーンでは、空襲で焼け跡になった呉の街に
この煙突が立っている様子が描かれているそうです。

「千福」紙パックの大きな看板がある工場見学路の入り口。

「モンドセレクション銀賞受賞」

だそうです。(棒なし)

ところで左側の吊り屋根の下にぶら下がっている丸いもの、
みなさん何かご存知でしたか?

これは杉玉と言いまして、杉の葉先を集めてボールの形にしたものです。

造り酒屋などの軒先に吊すと、それは「新酒を仕込みました」というお知らせ。
吊るされたばかりの緑色の杉玉はやがて枯れて茶色がかってくるわけですが、
新酒の熟成具合がその枯れ具合で誰が見てもわかるという仕組みです。

看板であり、時計の役割をしたり、アイキャッチャーとしての存在感もあり、
昔の人々の科学的な知恵は粋なものだと感心するのですが、
元々はお酒の神様に感謝を捧げるという神事的な意味合いを持っていたとか。

まあ、酒そのものが神事に欠かせない神聖なものでもありますからね。

同社は一般にも工場見学を受け付けております。
酒造会社がこのように見学ルートを設けることは当時は珍しかったとか。

見学コースは工場の上に設けられた回廊を歩きながら工程、
例えばラインで流れてくるパッケージや中身に少しでも違う部分があれば弾き出し、
それを人が手にとって確認している様子などを見ることができます。

が、基本製造工程というものは大々的に公開するものではないので、
工場そのもののの写真を撮ることはご遠慮くださいとのこと。


しかしながらわたしにとっては、ラインの写真など(っていっちゃいけないか)
撮れなくとも、痛くも痒くもありません。

冒頭写真のような「海軍的に」意味のある資料の撮影さえ許していただければ。


さて、ここで冒頭の写真をもう一度見ていただきたいのですが、
つまり海軍が同社に対して発行した「証明書」です。

画面を見にくい方のために転載しておくと、

証明書 清酒呉鶴 瓶詰め

右は本艦大正9、10年度練習航海に於いて酒保に搭載し
南阿南米方面を公開して内地帰省まで二百二十余日を経過し
その間赤道を通過すること二回、太陽直下を通過すること六回に及びしも、
変質変味等なく毫も飲用に差し支えなかりしものたることを証明す

大正十年四月十四日 軍艦浅間

酒保委員長海軍中佐 成富保治 酒保委員海軍大尉 小島正

 

三宅酒造が海軍御用達になったのは、海軍のお膝元、というより海軍が造った街、
呉に発祥したからであることは間違いありませんが、海軍の要請に答えて
練習艦隊の長期航海にも品質が変わらない酒を研究し、実際に船に乗せて
その結果このようなお墨付きをもらうというような「テスト」に合格したからです。

ちなみに、最初にこのテストに合格したのはご存知「千福」が先で、
大正3(1916)年のことでした。

おそらく、この「呉鶴」は千福の後継商品で、発売に当たって
千福で行ったのと同じ「練習艦隊の船に乗せて品質が変わらないかどうか」
というチェックを行い、証明書を発行してもらったのでしょう。

ともあれ、三宅本店は(当時は河内屋)呉鎮守府だけでなく、海軍全体、
つまり各地の鎮守府に酒を卸すようになったのです。

さて、ラインの写真は撮れずとも、見学コースの至るところにある
これら「海軍的骨董品」はいくら写真を撮ってもオーケー、と了解を取り、
目を輝かせてお酒のことよりこちらの質問ばかりするわたし。

盃を中心に展示されているこれらの食器類は、(おそらく社長ご自身が)
呉の古物商を回って収集したものなのだそうです。

その数は膨大で、これだけのものを集めるのには大変だっただろうと思いきや、

「こういうのは美術的価値は全くありませんので、呉では
一山いくら、
みたいな値段でいくらでも出てきます」

とはいえ数限りのあるものであるし、誰かが収集して体系的に整理すれば
立派な価値を持つ歴史的遺産となるわけです。

その意味でも、三宅本店さんという海軍と所縁の企業が、こういうことを
積極的に行い、しかもそれを公開してくれているということに、
わたしは当ブログ主催者として?心から感謝したのでした。

この棚には、下段に海軍で使用されていたブルーの錨マークの食器、
上段には漆に象嵌の盃が展示されています。

これら、桜、錨、そして旭日旗の模様の入った盃がどうしてこう
たくさん残されているかと言いますと、それは主に個人が、
除隊記念に海軍らしいデザインの盃を誂えるという習慣があったからです。

入隊の時にではなく、満期になってお勤めを終えた時、
特別あつらえの盃で乾杯をした、ということのようですね。

そのための盃、「海軍満期」などと金文字で描かれているものの他に、
この中央上にも見えるように「軍艦◯雲 回航記念」などというのもあります。

今でも自衛隊の艦艇では、戦技を互いに競い合う訓練を行います。
大正15年、第一艦隊で行われた弾薬供給競技で一位となった
軍艦「長門」が賞品として授けられた銀杯がありました。

予備練習生、海軍機関兵などの満期記念に混じって、

「征露記念」

の盃もあります。

「ははあ、征露記念・・・征露丸ですね」

わたしが何気なく呟くと、横にいたTOがびっくりして、

「え!正露丸ってそういう意味だったの」

「戦後は正しいという字に変わってしまいましたけどね

元々、ロシアに戦争に行ったみなさんのお腹の調子を整えるためというか、
あの森鴎外が音頭をとって、チフスや赤痢対策に陸海軍に配られた、
つまり「露西亜征伐のお供」だったわけです。

ちなみに商品名のマークに喇叭が採用されたのは日露大戦後。
あの死んでも喇叭を離さなかった木口小平さんの逸話からです。

桜に錨、そして菊の御紋に短歌が書かれている盃。

「大君に 捧げし命 ながらへて

目にこそうつる 古郷の ◯◯」

肝心の最後の二文字がわかりませんが、除隊になって長らえた生を謳歌し、
故郷の光景を目に刻んでいる(多分)喜びを詠っています。

生きて帰ってきてすみません、みたいな風潮はまだなく、
日露戦争は勝ったせいかまだしも「古き良き戦争」という一面がありました。

右側の海軍どんぶりは、深川製磁のものでしょう。
復刻版が横須賀軍港めぐりのチケットカウンターで売っていたので、
大変高価なものでしたが、わたしは大枚叩いて二つ購入し所持しています。

元々、軍艦の中で割れにくいように作られた食器類ですが、
使っている復刻版はさらに輪をかけて、不気味なくらい()丈夫です。

この写真のお菜の器には

「大村海軍航空」

と記されています。
大村海軍航空隊は長崎県にあり、昭和20年4月の菊水一号作戦には
16機もの特攻機を出したのをはじめとして、特攻と邀撃を繰り返し、
空襲で壊滅的な被害を受けたこともあって5月5日には解体されました。
721空に編入された搭乗員も、5月17日の特攻により壊滅しています。

つまりこれらの食器でご飯を食べた多くの若い隊員たちは、おそらく・・・・。

 

現在、大村航空基地には救難任務を主とする第72航空隊が配備され、
UH-60Jを擁する救難部隊は、水難救助、五島列島や壱岐島・対馬の急患搬送など、

陸海空自衛隊でもっとも多数の災害派遣、救助任務に出動する部隊

として日々の任務にあたっています。

漆に象嵌で、錨鎖の巻きつく錨をあしらったもの、そして
海軍旗が掲揚されたマストを描いた凝った仕様の盃。

これだけ手がかかっていても、明らかに戦前のものであっても、
美術品としての価値はゼロ、というのがなんだか少し遣る瀬ない気がしますが、
だからこそ一企業が散逸する前にここまで収集することができたとも言えます。

三宅本店の「海軍コレクション」は、この他にも海軍に関心を寄せる者なら
まさに垂涎ものがたくさんありました。

続いてそれらをご紹介していこうと思います。

 

続く。