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受閲艦隊回頭~平成27年自衛隊観艦式

2015-10-26 | 自衛隊

観艦式というものを最初に行ったのは、イギリスです。
1341年、英仏戦争のときに、国王エドワード3世が自ら艦隊を率いて出撃する際、
その威容を観閲したことがその始まりだといわれています。

我が国の帝国海軍では、明治元年に初めての観艦式を行いました。
たった6隻の船でしたが、これを明治天皇に観閲を賜る「軍艦叡覧」という
観兵の式典が最初です。

観艦式という言葉でこの催しを表すようになったのは明治33年、
第4回目に神戸沖で行われた「大演習観艦式」からのことで、
最後の第19回観艦式は昭和15年横浜沖で実地されたときのものです。

この時には、艦艇98隻、航空機527隻が参加するというもので、
艦艇29隻(ロナルド・レーガンを入れるなら30隻)、 航空機せいぜい30機以下
(ブルーインパルス含む)の今回の観艦式から考えると破格の規模だったことがわかります。




さて、前回は「ちょうかい」艦上でみたあれこれをお話ししたのですが、
我が自衛艦観閲の続きからはじめます、
もう一度「いずも」が我々の前を通り過ぎて右回頭するところからです。
この写真を見てお分かりかと思いますが、「いずも」ほどの巨艦でも、
Uターンなどで回頭するときには、艦体がかなり傾ぐようです。



続いて潜水艦隊。
漆黒の艦体を洗う海水の様子に思わず見とれます。



艦橋の様子を望遠で撮ってみました。
この狭い艦橋に5人の隊員がいるのが人口密度高杉です。
艦橋の際前方に見えているのは護衛艦の操舵室にあるのと同じ、
ジャイロレピータでしょうか。
 
自衛艦旗とともに揚がっているのは「代将旗」です。
海自には「代将」という階級は存在しませんが、「代将旗」はあるのです。

これは、その他の海将旗などとともに「指揮官旗」であり、特定の司令職を務める
1等海佐(この場合は潜水隊群司令) が乗り組んでいるときに掲揚されます。

つまり、この「ずいりゅう」の上にいる黄色いストラップの1佐は、
第1潜水隊群司令の小坂明彦1佐であるということになります。 (が違ってたらすみません)




小坂隊司令(仮定)が海上の何かを指し示しているー!

「オイ、あそこで今魚跳ねたぞ!」

・・・とか?




などという現場を目の当たりにできるのも観艦式ならでは。
こちらは後続の「こくりゅう」艦橋だったと思いますが、ここも狭そうね。
後ろに立っているのは艦長です。

読んだばかりの「特攻の島」の伊潜艦長に似ている気がする。



回頭した「いずも」と「こくりゅう」のツーショット。
こんな異種混在シーンが見られるのも観艦式をおいて外にありません。



続いて掃海母艦「ぶんご」。掃海艇たちを率いて登場です。
今回掃海母艦は「うらが」「ぶんご」2隻が参加しました。
「うらが」は収容人員が多いので、随伴艦の「くらま」の後ろという絶好のポジションですが、
「ぶんご」は受閲される方です。



「ぶんご」に乗ってらっしゃった方、ここに写ってますか~?



というわけで「ぶんご」も右に回頭。
今気づいたのですが、受閲艦隊は先頭の「あたご」から第2群の駆逐艦までは
左回頭して我々の後ろに着き、「いずも」以降は右回頭して
観閲付属部隊の後ろに付いていったようです。


いろいろとシステマチックにことが運ばれているんだなと感心するわけですが、
それにしても昭和15年の98隻での観艦式ではいったいどうやっていたのか・・。

観艦式は海軍力を表すバロメーターですが、当時の帝国海軍の底力というのは
このときの観艦式の数字にも表れていたと思います。
 


掃海母艦の後に続く掃海艇「つしま」。
この小さな掃海艇の舷側にきっちりと登舷礼の列ができているわけですが、
大きな船ですら時々立っているとよろめくような、この日の高い波のなかで、
身じろぎもせずに立っていられる乗組員たちには驚嘆するしかありません。
 


掃海母艦も右回頭するので、それに従います。



結構ハードなターンなので、舵を切ったときには波の動揺だけでなく
艦上は不安定になるはずですが、それでもこの状態。



後続の「ひらしま」。
「ぶんご」はすでに回頭を終えました。



参考までに「ひらしま」の登舷礼をしている乗員をアップにしてみました。
下の段に「登舷礼の時に動揺が来た時の耐え方」を実践している人がいます。

小さなことですが、こんなことからも海自の日ごろの訓練が窺えます。



掃海部隊
全体を見るとこんな感じに進んでいきます。

掃海艇の列って、船は小さいですが、実に勇ましいものですよね。
掃海任務における過酷なあれこれや、海外派遣について調べたからこそ思うのですが。
 
ところで、わたしにとって3年前の観艦式が初めての参加でした。
その時には観艦式の全容というのがわかっているようでわかっていなかったため、
全体の隊形が刻一刻と変わっていくその変化については、わりと無関心で終わったのですが、
今回は、全体の動きを把握しながら見ていたので、各艦がどのような動きをするか、
それを考えながら目で追うだけでもとても面白かったです。

回を重ねるごとに経験から、視点や興味も違うものになっていくことを実感しました。



これは見間違いようもない、舞鶴でもお会いした「ましゅう」さんです。

ところで、自衛隊の補給艦の命名基準ってご存知でしたか?
「補給する」=「貯めたものを供給する」ということから、湖の名前が使われるのです。
「ましゅう」はご存知摩周湖ですが、それでは「ましゅう」型2番艦の「おうみ」はなにかというと、
近江湖、すなわち「淡水(あふみ)湖」である琵琶湖のことなのだそうです。

近畿、中国、九州にある大きな湖の名、と決められた2番艦の命名は困難を極めました。
実際には滋賀県の琵琶湖と鹿児島の池田湖が相当したのですが、
「びわ」は果物を想像させるし、「いけだ」って誰それ?となることから(確かに)
苦肉の策として結局「おうみ」が採用されたという経緯があります。

「ましゅう」も、実は摩周湖というのは厳密には湖ではない、
すなわち「大きな水溜り」なのですが、そこのところはスルーされました。



「ましゅう」とともに受閲部隊の第6群を形成するのは、輸送艦「おおすみ」です。

「おおすみ」については、大変でしたねと心から労いの言葉をかけるとして、
先ほどのついでに言うと、輸送艦の命名基準は「半島」です。
大隅半島、下北半島、国東半島から取られた三隻が、現在「おおすみ型」として就役しています。

「おおすみ」は輸送艦なのでさぞ人員もたくさん搭載できるはず・・・・と思って艦上を見ると、
あれー?ほとんど人がいないぞ。

甲板の半分から後ろは、人が行けないようにロープが張られている模様。
ははーん、なるほど、これは



LCAC を2隻搭載して、それを海上で海に展開させ、展示が終わったら収納して帰る、
という本日の行動上、一般客は後甲板に乗せられないのだと見た。


これだけ離れていてもこんなに煩いんだから、これが2隻後ろにずっとくっついていて、
しかも展開収納するとなると、そのときには大変な騒音が予想されますものね。

もし可能なら、後甲板後方からLCAC展開収納の様子を一度見て見たいものですが。



受閲艦艇の国内部隊最後は第7群の「タカ派」です。
後のミサイル発射で活躍する、「おおたか」「くまたか」「しらたか」の三隻、
「はやぶさ」型ミサイル艇。

ミサイル艇の存在意義というのは沿岸警備の高速戦闘艇であるということです。
そのためステルス性が考慮される設計となっており、 そのために


●船体の各部にはレーダー波を直接反射しないようにするため傾斜がつけられている

●三脚構造のステルス性が重視された形状のマスト

●前甲板の62口径76ミリ単装速射砲ステルスシールド採用

●射撃指揮装置の係止位置に傾斜が付けられている

●舷側手すりやウォータージェットノズルの防護材も、通常の円筒状材ではなく、
マストと同様に菱形断面となっている


などの特別仕様となっています。

先日舞鶴のミサイル艇の写真のコメントにエンジンがガスタービンであるという
コメントをいただいたのですが、これについては

はやぶさ型ミサイル艇はガスタービンを採用しているため
諸作業があっても主機を30分以内に出撃可能な状態にできる」

という説があるそうです。

蛇足ですが、「おおたか」「しらたか」に、不審船の模型をセットしている
商品を見つけて少しウケたのでご紹介しておきます。

アオシマ1/700 海上自衛隊 ミサイル艇 おおたか しらたか[不審船付] 


そもそもミサイル艇が導入されたきっかけというのは、1999年能登半島沖で起きた

「能登半島沖不審船事件」

だったんですよね・・・・。



続く。