ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

訓練展示とブルーインパルス~平成27年度自衛隊観艦式

2015-10-15 | 自衛隊

ありがたやーと終わった前回の観艦式予行報告ですが、そのころには海域に到着し、
いよいよ観閲が行われます。



後ろを航行する「くらま」を「むらさめ」の我々はずっと見ながら過ごすのですが、
わたしの近くにいたおばけレンズ一脚持ちの人は、途中で「くらま」に乗っている人と

「手振ってるの見えてるよ」

などと会話していました。
わたしもそれを聞いて「くらま」乗艦の知人に電話してみたのですが、通じません。
あとで聞いたらとりあえず着信記録はあったということなので、電波は使えたみたいです。



さて、いよいよ観閲開始。
観閲部隊と観閲付属部隊が作る二つの線の間を、受閲艦艇部隊が逆行してきます。
その間、受閲部隊の乗員は登舷礼を行います。

まずは受閲部隊の旗艦である「あたご」。
舞鶴で会ったねー!っていうか、さっきまで隣にいたんですけどね。



観閲の時には日差しが逆光で、前回もシルエットみたいな写真ばかりになりました。
今年は前回よりも少しだけカメラも大きくなっただけ()ましです。

受閲艦隊は全部で8グループ(この日は外国艦がないので7)に分けられ、
その第1群は駆逐艦となります。
写真は「おおなみ」。



このように、逆行しながら観閲を受ける艦艇の列が行き過ぎていきます。

「むらさめ」のオランダ坂の下には海自のカメラマンがいて、
波しぶきのかかるところで時折レンズをかばいながら撮影していました。

受閲艦隊はそのあとイージス艦、DDH(といえば?)と続き、
皆様お待ちかねの(少なくともわたしの周りでは)潜水艦です。



観閲を受けるのは「ずいりゅう」「こくりゅう」、そして「うずしお」。



「あんなとこに立ってる!」「怖ええ!」

まわりから声が上がりました。
フィンの上に立つ三人はとりあえずライフジャケットを着ています。



潜水艦旗艦のブリッジを大アップしてみました。

なんと!フィンの上の二人がラッパ吹いてる!!

いやー、これ全く見ていて気づかなかったよ。
というか、これだけアップしてみないとわからないって、どうよ。
音なんてぷーとも聴こえてこなかったよ?



観閲部隊第5群は掃海隊です。
旗艦は掃海母艦である「ぶんご」。



あとに続く掃海艇は「つしま」「はちじょう」「ひらしま」「たかしま」「みやじま」。
603は「たかしま」です。



第6群は輸送艦と輸送艦に輸送されるLCAC。
舞鶴でお会いした「ましゅう」に続く「おおすみ」。
事故では色々と大変でしたが、過失がないことも明らかにされ、晴れて観艦式に参加です。
まあ、わたしたちにはわかってましたけどね。



輸送艦だからなんでも輸送できるよ!ということをわかりやすく見せるために、
「おおすみ」は陸自の車両を満載しています。 
なるほど。今年はブルーインパルス参加で空自が目立つけど、陸自にも気を遣っていると。



えるきゃっくきたー。
名前は可愛いけどうるさいんだよなこの子は。
走行中は絶対に外に出られない船、エルキャック。
エルキャックエルキャックいいますが、なんの略かといいますと、

Landing Craft Air Cushion

エアクッションですよ。エアクッション。
揚陸艇ですから、このまま陸上を走行するわけですが、
どんなシュールな光景なのか、ぜひ実際に見てみたい。



水遁の術も標準機能。



第7群はミサイル艇。
「おおたか」「くまたか」「しらたか」が観閲を受けます。
827は「くまたか」。

登舷礼している乗員の数が少ない。(乗員21名)



艦隊の列の向こうの空に塊が見えてきました。
祝賀航行部隊の通過です。
塊と見えたのはヘリ部隊で、P-3Cオライオンがそれらを追い抜いてきました。



UH-60J とSH−60Jの編隊飛行。
航空自衛隊のUH-60Jはブルーの迷彩ですが、海自のそれは紅白で、
海自独特の装備を積むため若干重たいそうです。



SH-60はJとKだそうですが、こちらはJの模様。



続いて赤と白の可愛らしい練習機、TC-90がきました。
練習機としては航空教育群の徳島基地での過程に使われています。



今日は徳島から飛んできたのでしょうか。



今度はP-3C三機による編隊飛行。



P-1です。
P-3Cとくらべるとおなかも一回り貫禄があるのがよくわかりますね。



昔「プレグナント・グッピー」と渾名された輸送機がアメリカにありましたが、
シェイプ的にあれを引き継いでいるような。

C-130R。



F-2に続きF-15三機編隊通過。
本当はCH-47とコブラも通ったけど省略。



ふおおおかっこいいいい!
なにこのイケメン飛行機は!

はい、これがアメリカ海軍の誇るP-8A、ポセイドンですね。



P-3の後継としてボーイングが政治力でオンゴーイング(一応洒落)した哨戒機、
ここがおそらくソノブイランチャーだと思うのですが・・はて面妖な。



オスプレイきたー。
P-1にもP-8にも全く反応がなかった周りの人々がどっと湧いた瞬間。



うーん、下から見るとかっこ悪い(笑)
でもなんというか、キモカワイイですよね、オスプレイって。



全方位抜かりなく不気味なオスプレイであった。

というわけで、航空観閲が終わったあときっかり1226(ひとふたふたろく)に、
(っていうかなんなのこの中途半端な時間)予定通り観閲部隊は回頭を始めました。

この1分刻みの時間割をミリミリで厳守(使い方まちがってる?)できるかどうかは
すべて我が「むらさめ」の技量にかかっております。

というか、観艦式そのものが海軍から受け継いだ自衛隊の恐るべき技量の賜物なんですね。
どこの海軍でもこんな芸当(じゃないけど)ができるか?っていったらそうじゃないのです。

それはともかく、この瞬間、後続の観閲部隊艦艇を真横に見ることができ、
おまけにバックに富士山が、という撮影ポイントが来るのです。
冒頭写真はそのときの「うらが」。
続いて「護衛艦と富士山」シリーズをどうぞー。



旗艦「くらま」。



「てんりゅう」。

観閲館部隊でも最後尾の「ちょうかい」はこれを見ることができません。



そしてなぜか「しまかぜ」さんと富士・・・・と思ったら、





祝砲発射!

そう、観閲に続き、訓練展示の始まりを告げるのは「しまかぜ」の祝砲です。
使用する主砲は5インチ単装速射砲です。
今年はかぜが強いせいか、去年のように輪っかになりませんでした。

このあと「きりさめ」「さみだれ」「おおなみ」が一斉に回頭する
「戦術運動」というのをやりましたが、画像的に面白くないので省略。




続いて潜水艦の潜航&浮上です。
一昔前は急激に飛び出してくるドルフィン運動を必ずしていました。
最近これをやらなくなったのは「おやしお」級以降はソナーの強度の問題で
できなくなったから、という話を聞きましたが、真偽は不明です。

今通過している「ずいりゅう」はもちろん、
艦橋に人が出ているので絶対に潜航したりしませんが(笑)



「こくりゅう」はこのように潜航を行いました。



周りのみんなは「沈んだ沈んだ」と大喜びでしたが、
「くらま」の前でぷかーっとすぐに浮かんでしまったので、

「なんだあれだけか」

「あれじゃ潜航したってもたいしたことなくね?」

などと勝手なことを言い合っています。
潜水艦の技量なんていうのは、こういうところで見せられるもんじゃないんだよ!



続いてエアクッション艇エルキャックが高速走行を・・・、
ってことなんですが、さっきの受閲と何が違うのかと
聞きたい。




LCACの速さは35kt、時速65kmです。
車だと低速ですが、LCAC的には全速力です。



続いてミサイル艇3隻がこちらも65kmの高速走行を行い、
IRデコイを発射します。
IRデコイとは対赤外線誘導弾ミサイルを防御するための「おとり」です。

3隻同時に発射しましたがその瞬間を撮りそこないました。 



ミサイル艇「おおたか」。
ミサイル艇には決して一般客を乗せることはしません。
この高速走行では「おおたか」の立てる波しぶきで海にさらわれてしまいそうです。



続いてP-3Cの対戦爆弾投下。
爆弾槽が空いて爆弾が投下されています。



投下!
今潜水艦が海の藻屑に・・・・(という設定)



投下のあと上がる水しぶきはおそらくビルの10階くらいの高さではないでしょうか。
最後の1機は投弾せず、水しぶきの中を通り抜けていきます。
P-3Cが帰投するたびに機体を水洗いしなければいけないというのがよくわかります。



続いて、IRフレアを発射するのはP-1です。
前回まではP-3Cの役どころだったので、この一投が、
P-1の初めてのお披露目だったということになるのですが、そうでしょうか。



どこから投下されているかよくわかる写真。
美しい飛行機だなあとおもわず見とれました。



フレアを撒き散らしながら去っていくP-1。

さて、今回は海自の観艦式に空自のブルーインパルスが登場するのが話題になっていました。
海の上で演技をするのは怖くないんだろうか、と思ったのですが、
松島で彼らは海の上での訓練をしているということですね。

それでも、大した演技はしないのではないか、と皆んなが囁く中、



艦隊を直角に横切るように一航過。



そして消えてしまいました。

「え?まさか今ので終わり?」「これだけ?」

海自のイベントには詳しいが空自のにはあまり、という人が多いのか、
ざわざわする中、



青い空を斜めに切り取るように同じ方向から現れました。



この日の天気は絶好のブルーインパルス日和。
雲ひとつない真っ青な空を航過するブルー。

ちなみに、旗艦の「くらま」にはブルーの隊長が乗っていて、
乗客に向けて説明のアナウンスを行ったそうです。

制服を着て乗っていたのに、きゃあきゃあ騒がれるどころか、

ブルーの隊員であることに気づく人すらあまり周りにおらず、放置状態だったとか。
入間なら、サインをもらうために皆長蛇の列に並ばないといけないのに・・・。


おそらく隊長は、海自イベントでの「アウェー感」をひしひしと感じたのではなかったでしょうか。



護衛艦(の一部)とブルーインパルスのショットが初めて撮れましたが、
よりによってこれか、みたいな。



写り込んでしまう頭が邪魔。
何が始まるのかな?



桜ですか!
ちなみに「くらま」の上でなく、わたしたちの前で行われました。
あ、これにも少し護衛艦(の一部)が写ってますね。



そしてバーティカルではないハート。
矢が射抜かれることはありませんでした。
キューピッドの矢になるはずの4番機が新人なので省略したという噂も。



そして最後に謎の航跡を残して(というかこれはなんだ)
ブルーは去って行ったのでした。


こんな全方位何もない、まるで青いキャンバスのような空で見るブルーの演技は

短かったけど、見ている人すべてに強烈な印象を残したと思います。


続く。


 


 




「むらさめ」乗艦〜平成27年度観艦式予行

2015-10-14 | 自衛隊

さて、観艦式予行の初日です。
横須賀の某ホテルで全く睡眠不足のまま朝を迎えたわたしは、
5時半にホテルを後にして吉倉岸壁に向かいました。
6時の開門前にはなんとか前にたどりついていたいということで
頑張ったつもりですが、世の中には上には上がいて、 すでに
何十人単位の開門を待つ列ができているのには驚きました。



6時きっかりに列が動き出し、この先で手荷物検査を受けます。
ここまではすべての艦に乗る人も同じです。



岸壁で自分の乗る艦の前のテントに並び、乗船時間が来るまで待ちます。



ちょうど朝日が登りだしました。
今日は絶好の観艦式日和になるという天気予報が出ています。



岸壁手前の「きりしま」での作業。
昨日の夕方も同じ人たちが作業していたなあ。



これは「きりしま」の岸壁向かいに泊まっていた艦の作業。
皆青い作業服を着用して仕事をしていますが、この後全員が
正服にシャキーン!と着替えて臨みます。
今日は観艦式。予行とはいえ彼らにとっては「晴れの日」でもあるのです。

乗艦の時間はフネによって微妙に違います。
これは岸壁の位置によって出る順番が全く違うからで、たとえば「くらま」などは
一番後に出て一番先に帰ってくる、という役得があります。
わたしの乗る「むらさめ」は先導艦ですが、出航の順番は早いというわけでもありません。
「むらさめ」の外側に停泊している受閲艦部隊の旗艦である「あたご」の方が先です。

時間になると、テントの下の係が、差し出した乗艦券のミシン目に
わざわざ金定規を当てて三枚におろし(笑)、そのうち一枚を
透明のホルダーに入れて首にかけてを退艦時に返却するように指示されました。

前回まではなかったやり方で、これと自衛隊側が回収した名前を書く欄を
あとで照合して、海に落ちた人がいなかったか、まだ艦内に潜んでいないか(笑)
チェックするのです。

今回オークションで売ったチケットははねられるとか、団体関係で貰った人は
本人でないと乗れない、譲渡禁止など、チェックが厳しいという噂があったようですが、

現場を見るかぎり、定規でチケットを切り離すのが精一杯のこの状況で、
本人照合など出来ようはずがありません。


無料のチケットを売りさばく人がいれば、それを万単位のお金を出してでも
買おうとする人がいるというのは、それはそれで問題ですが、
これも「誰が流しているかわからない」、つまり追求できないところが流している

可能性もあるので、防衛省としても手のつけようがないのかもしれません。



さて、時間が来たのでわたしは艦内に乗り込み、脇目も振らずに食堂のある
甲板下の通路を突っ切って格納庫に突入しました。
どうしてそうしたかというと、カンです(笑)

「むらさめ」は後ろ甲板が「あたご」に乗艦する人の通路になっているので、
直接甲板に行くことを禁じられているとわかった瞬間、最終的に
甲板へのアクセスは格納庫から行われるはずだと予想したのでした。



しかし、そのような判断をしたのはわたしだけだったらしく、
乗員ばかりが林立する格納庫に一人ふらっと迷い込んだ人みたいになりました。
不安になっていると、乗組員が

「待っておられたら出港後ここが開いて甲板にいけますから」

と教えてくれ、わたしは初めて自分の判断が正しかったのだと知りました。
安心して最前列に携帯の小さな椅子を出して座り、眺めを楽しみます。



先に出航する外側の「あたご」には、甲板にパイプ椅子がありますが、
「むらさめ」には何もありません。
格納庫に来た人には毛布が配られ、これをシートにして甲板に座ることになります。
小さな椅子持ってきてよかった〜!



甲板の人の出入りがなくなり、音楽隊が整列しました。
外に向かって「錨をあげて」をまず演奏したのは米海軍に向けてでしょうか。





まるでマクラメ編みのような民芸色漂うロープの収納カゴ。
これは、艦と艦のあいだの防眩物をつなぐロープであろうと思われます。



そのうち0800の自衛艦旗掲揚が行われました。
彼らには毎朝のルーチンではありますが、掲揚を目の前で見られるだけでも、
我々一般人にとっては、このような自衛隊行事に参加した甲斐があったというものです。

始まった途端、となりのおじさんが写真を撮るために立ち上がりましたが、
次の瞬間後ろから「立たないで!」と叱責されていました。
一番前なんだから立つなよ、と思うのですが、ちょうど目の高さに制止ロープがあり、
カメラを構えにくかったので何も考えず立ってしまったようです。

ふと気づくと格納庫スペースは人がいっぱいになっていました。

しかし、こういうイベントに参加するたびに思うのですが、とくに超上級機種の
カメラを持ってくる初老の男性というのは、どうして皆ことごとく
周りに対して最初から喧嘩腰というか、傲慢無礼なのでしょうか。

まあ、100万もするようなレンズを(退職金で買ったりして)持ってしまうと、

それを活かさねば=いい場所と取らなければ=邪魔するな=文句あるのか 

という流れで、気の短いお年寄りは、すぐカッとなって人に絡んでしまうのでしょうかね。
この「文句あるのか」を、今回もわたしは朝っぱらからリアルで目撃したのですが、
よくまあいい年こいて、こんなヤクザみたいな態度を取れるものだと思います。

そんなことを言ったが最後、1日が台無しになるから自制しよう、とは思わないんだろうな。
老い先が短いと、自分を抑える時間すら勿体無いのかもしれません。


外側に停泊していた「あたご」が出航していきます。
横須賀音楽隊が行進曲「軍艦」を演奏する中、滑らかに、意外な速さで
あっというまに「あたご」の艦体は離れて行きました。



こういうときには帽触れはしません。



その後、「むらさめ」の出航まで、横須賀音楽隊が数曲演奏を行いました。
幸運にも本艦には音楽隊が同乗していましたが、どうやらすべてのフネが
楽隊付きというわけではなく、たとえば本艦が出航してしまった後、
岸壁に残った「きりしま」は、テープによる「軍艦」で出航することになったようです。

三年前の「ひゅうが」には陸自音楽隊が乗り込んでいましたが、今回「いずも」には
音楽隊の同乗はなく、コンサートなどもなかったようです。
最初のことなのであのときの「ひゅうが」のようなエンターテイメントは望めないのでしょう。

「いずも」が一般客を載せるのは初日だけで、本番には防衛大学校の学生が乗るそうです。



指揮していたのは横須賀音楽隊の隊長ではないと思います。
一番左のフルートの女性が、「ポセイドンの涙」の女性隊員だったかも・・。

「宇宙戦艦ヤマト」などの海自の公式ソング?のほか、
「セントルイス・ブルース」などのジャズを演奏して気分は盛り上がります。



出航作業が始まりました。
「きりしま」との間の防眩物を繋ぐロープを引き上げているのですが、





こんな感じで、引っ張ってロープを床に置いたらもう一度舷に戻り、
引っ張って・・・・を繰り返します。

これもきっと海軍時代からのやり方なのでしょう。



そうやって引き上げたロープは回収されあっという間に姿を消しました。



当艦の出航支援をするタグボートが近づいてきました。



今度は「きりさめ」の乗員が舷側に立って見送ってくれます。



「軍艦」を演奏する横須賀音楽隊。



帽触れはしませんが、この三佐は「きりしま」に向かって手を振っていました。
彼の視線の先は艦橋デッキでしょうか。



「きりしま」でもロープの片付けが始まっています。
作業場所から移動させられ、ひとところでてんこ盛りになっている見学者(笑)



見ている間に岸壁が遠ざかっていきます。
一仕事終えた風の三佐殿でした。

岸壁を挟んで向かいには「てるづき」が停泊していました。



米海軍基地前を通り過ぎます。
まず「マスティン」。
観艦式本番で会おうね〜!。



この日一般公開されていたというロナルド・レーガン。
わかりにくいですが、満艦飾を施しています。
ここを見ている方の中にもこの日RRを見に行った人おられますよね?

あくまでも う わ さ ですが、観艦式本番の時に、RRが
駿河湾を航行していてうっかりみんなに見つかってしまう可能性があるそうです。

真偽も出処も不明ですが、これ本当だったらすごいなあ。

 




さて、出港後前に張られていたロープが外されると、皆走り出しました。 
前列に座っていたのにもかかわらず、狭い甲板で何人にも追い越されましたが、
それでもなんとか左舷角近くのグッドポジションを取り、荷物を置いて、
前甲板はどうなっているのか見に行くと、ごらんのありさま。

あめ型の駆逐艦は甲板の傾斜が結構あるので、前はあまり人気がありません。



VLSの前は座るとちょうど背もたれになって(笑)楽かもしれません。
わたしは小さな携帯用の椅子を持って行きましたが、これには小さな背もたれがあります。
これがあるのとないのでは疲れ方が段違いなのです。

さて、この辺で、艦橋に上がってみることにしました。



「むらさめ」は春雨型「村雨」の1代目からかぞえると4代目にあたります。
就役したのが1996年のことなので、もう20年目を目の前にしたベテラン艦です。



艦橋に上がってみると、驚くことにここにもたくさんの人が!
出航の時に艦橋にいるというのもいいかもしれないですね。
ただ、このときに「むらさめ」の券をあげた方(ちなみに初対面)が

「艦橋は・・・・・雰囲気がなんか殺伐としてましてね」

と嘆かわしそうに言っていました。 
こちらは上級カメラ派ではなく、とにかくグッドポジションから見たい!派?




確かに言っている意味はわかります。
わたしなら、こんな狭いところに押しかけては隊員の作業の邪魔にならないかと
気を遣ってしまって、とてもデッキなどに出ることなどできませんが、
当たり前みたいに陣取って、そこに1日いる気満々なおじさんたちが・・・。



意外なところにある休憩室。
ここは普段乗員が一服するところだと思うのですが、
ここを住処と決めてじっとしている人もいました。




問題はこういうの。
まだこのおじさんたちは海士くんの邪魔にならないように座ってるからいいですが、
彼の視界の邪魔になっても不思議でないところに、堂々と頭を出して
海を見ているおじさんがいたのには驚きました。

「あれ、邪魔じゃないんでしょうか」

「邪魔ですよ。隊員は何も言えないから言わないだけで」



「むらさめ」の時鐘発見。



信号旗が実に美しく収納されています。
前に立っている一等海士は信号係でしょうか。



艦橋にお邪魔しました。
ずらりと周りを人に囲まれての作業です。
「いせ」のときにはどこにいても良かったのですが、本日「むらさめ」は先導艦、
つまり、観艦式のタイムキーパー的役割なので思いっきりプレッシャーのはず。
そのせいか、前方には入れないようにロープが張ってありました。



後ろ側の高いところにはモニターがあります。
ボタンでカメラを切り替えることができ、さらには
今やっているように、カメラの角度を変えて見ることもできます。



電卓で計算し、三角の定規を海図に当ててはメモに何事か書き込む。
こんな作業をずっと続けていた3等海尉。
もしかしたら水交社であった遠洋航海壮行会でお会いしてますか?



なぜか隣を「とね」が。
「とね」は観閲付属部隊(観閲部隊に付属する部隊。ってそのままですが)
の前から三番目です。

観閲付属部隊は、観閲部隊と並行して航行し、その真ん中を受閲艦艇部隊が
通過することを観艦式の基本とします。

だからなんでこのときに「とね」が横にいたのか謎なのですが、
ちょうど合流したところだったのかもしれません。



「うらが」も見えてきました。
「うらが」は掃海母艦ですが、今回は観閲部隊です。
大きいからここからみてもあまり混雑もなく、楽そうですね。



「うらが」の後ろに付属部隊の「くろべ」が。
このとき、何があったのか艦隊が全部大きく蛇行しました。

 

 

上空をたくさんのSH-60が警戒のためにブンブンと飛び回っています。



陣形は常に同じではなく、何分か経過すると、周りの様子がガラッと変わっています。
最初は2隻くらいしか見えていなかったのが、ふと気づくと後方がこんなことに。

チケットをあげたNさんは毎回必ずと言っていいほど全回参加の
「観艦式の達人」とでも言うべき人だったのですが、そのNさんが

「もうすぐ旗艦と富士山が一緒に見えますよ」

と呼ぶので右舷に行ってみると・・・、



おおおおおおお!ありがたや〜(拝んでる)

ちょうど富士山はこの前日に初冠雪がありました。
なんと、観艦式のために、てっぺんだけとはいえ雪化粧してくれたのです。
もしこれがなければ、シルエットだけの富士山になり、画竜点睛を欠いたに違いありません。

 

今年も予行から幸先良いわい。ってわたしは爺さんですか。


続く。



 

平成27年度観艦式〜艦艇一般公開

2015-10-13 | 自衛隊

明日から観艦式の事前公開が始まるという日、わたしは横須賀にやってきました。
フリートウィークで一般公開される艦艇を見るため・・・というのは二次的理由で、
実は明日の事前公開のための「前乗り」なのです。



そのせいか全く部屋が空いていなかったのですが、
ぎりぎりになってやっと一室取れました。
そのため、無駄に豪華な部屋です(T_T)



今日はどっちのベッドで寝ようかなーっと(T_T)



横須賀の港を一望できる海側です(T_T)

やはり一般公開に来た知人とホテルのカフェでランチをいただき、
散々ヲタ話で盛り上がって、別れた後はひとりで街に出ました。



ドブ板通りで行われたパレードの終わりかけに遭遇。
大湊音楽隊が行進曲軍艦を演奏しながらやってきました。



続いて防衛大学儀仗隊の行進。
車をパーキングに入れるためにうろうろしているとき移動中の彼らを見ましたが、
普通に歩いていると制服を着ていてもやっぱりただの男の子だなあ、という感じなのに、
こうやって行進するときは(`・ω・´)シャキーン!とモードが切り変わってます。




顔つきも心なしか皆1割がた男前モードに。



その後は、艦艇公開のために吉倉岸壁に向かいました。
ヴェルニー公園の中を通り過ぎていくと、米海軍の駆逐艦「マスティン」が見えます。
「マスティン」が満艦飾をしているのは、観艦式に外国艦として参加するからでしょう。



小姑根性で「マスティン」のアンカーを収納する部分を拡大。
うーん・・・・・(絶句)
遠目にもあちこち錆びてるのがわかります。



我が自衛艦隊の一般公開艦が見えてきました。
遠目にも満艦飾が綺麗です。



警備のためのゴムボートにもちゃんと自衛艦旗。
今回の観艦式予行で、乗艦チケットを海に落としたうっかり者がいたそうですが、
即座に彼らによって回収され、持ち主の手元に還ったそうです。

落とした人、いいなあ・・・。



手荷物検査と金属探知機を通り、中に入ると、通路に陸自の車両が展示され、
各車両に陸自隊員が二人ずつ立ち質問に答えていました。



奥様方の関心を集めていたのが、野外炊事機1号。(2号かな)

「えー、ここに玉ねぎとか人参とかを入れまして・・・」
「あらー、便利なのねえ」



わたしも興味はありましたが、今はそれどころではありません。
公開艦艇の繋留してある岸壁に急ぎます。

「てるづき」と、



内側から「きりしま」「むらさめ」「あたご」。

「むらさめ」「あたご」には「きりしま」を通り抜けていきます。



「きりしま」の前甲板。



「きりしま」甲板から「むらさめ」「あたご」を望む。
一般公開には、明日参加するので来る人と、一般公募に外れたので来る人がいます。

「応募したけど外れちゃったからせめてここに来たんだよー」

自衛官にこんなことを愚痴っているおじさんがいました。

わたしは今回、土壇場になって手元に5枚の乗艦券がだぶつく事態になり、

何人かの知り合いに行けないかどうか聞きまわったのですが、
皆仕事でなければもうなんらかの方法で手に入れた人ばかりで、
結局知り合いの知り合いの知り合いにもらってもらいました。
このとき貰い手がなければ、このおじさんにあげたかもしれません。



「きりしま」の溺者救助訓練用人形には「コンドウくん」という名前が付いています。
命名者はなんと女優の柴咲コウさん。

「嫌いな魚は、サメです」

まあそうでしょうな。



「あたご」には明らかに艦これに影響を受けたらしい
「あたごちゃん」のイラストが飾ってありました。
「愛宕さん」ほどの完成度はないですが、このアイデアを

艦これ絵師に仕上げてもらったらなかなかのキャラになりそう。

自衛隊内(おそらくきりしま乗員)の絵師による艦むすめは
本物と違って露出度ゼロです。



「あたご」の前甲板。



岸壁の向こうの「てるづき」を入れて4隻の護衛艦の艦橋を一望できます。



VLAの説明をしていた自衛官がいたので横で聞いていると、

「表面触ってみてください。ザラザラで、転んだら怪我とかしそうでしょう。
これはアメリカ製だからです。
我が国製ならこんなことになりません!」

と心持ち誇らしげに言っていました。
その視点はなかったわ。 



「むらさめ」の救助人形には、柴咲コウ名付け親の「きりしま」人形とは違って、
ずいぶんなげやりというか、適当感漂う顔が描かれています。
モデルは「サイボーグ009」の006、張々湖だと思う。



「あたご」の後甲板。
皆自衛官を捕まえて思い思いのことを質問しています。



「あたご」と「むらさめ」の間をつなぐラッタル。

 

「きりしま」は後甲板にVLSを搭載しています。

さて、このあと、「きりしま」の後甲板から超急なラッタルを降りました。
女性の皆さん、くれぐれも艦艇見学の時にはハイヒールは履かないように!

といっても、必ずいるんだなこれが。
予行初日に、フェラガモのヴァラにタイトスカート、ジャケットという
まるで美術館でデートするような綺麗な格好で来ている人もいたけど、
あんな格好で8時間もの間、フネのどこにいたんだろう。



岸壁に降りると、ここにもゴムボートがいましたが、
なんとメンバーの一人は女性で、注目を集めまくっていました。
女性でも今やこんな過酷な任務にも就けるようです。 



朝から雨模様だった一日ですが、ここに来て急に夕焼けになりました。
明日は概ねいいお天気になるということです。

こちら側の岸壁にはタグボートが繋留されていました。
緩衝材として船首にかけられているのがまるで「蓑」みたい。



艦艇見学は4時半で終了です。
そろそろ「くらま」でも片付けが始まっています。



奥の岸壁に行ってみると、オーストラリアから観艦式に参加する
駆逐艦「スチュアート」がいました。
米軍以外の軍艦を見たのはもしかしたら初めてかもしれません。

日本の護衛艦とは明らかに色が違い、ベージュが混じったグレーです。

おそらくあのあたりの海の色なんだろうな。



オーストラリア海軍の軍艦旗。
一目見てオーストラリアということがわかりますね。


ちなみに他の参加国の船はまだ到着していないのもあるそうです。



艦橋かファンネルかはわかりませんが、 さすがはオーストラリア、カンガルーのマークが。

豪海軍旗と日本の旗が同じところに揚げられています。
日本国観艦式に参加するのですから、敬意を表しているわけですが、
ここでふと、韓国海軍の駆逐艦はどうするつもりだろうと思いました。

観艦式となれば、最近になって韓国人が見るだけで頭に血がのぼる(らしい) 
旭日旗を揚げた自衛艦「いかづち」に先導され、日本国首相の乗る旗艦に対して
登舷礼をしなくてはいけないわけですが・・・。

もちろん韓国海軍そのものは問題としないからこそ参加を承諾したのでしょうが、
果たして韓国のマスコミはこれを報じるでしょうか。

そして、インターネットに溢れるであろうそれらの写真
(旭日旗に対して登舷礼をする韓国軍艦)を、
彼らは果たして直視できるのでしょうか(笑)



舷門で見学者を迎えていた豪海軍の水兵さん三人。
なんと一番右は女性(しかも一番階級が上)です。



「スチュアート」の見学もしたかったのですが、時間がありませんでした。



スチュアートのモットーは「オールウェイズ・プリペアド」。
「いつでもバッチこい!」(超意訳)みたいな感じですかね。



向こうには「くらま」「おおなみ」「いかづち」がいましたが、
こちらは近づくだけの時間すらありませんでした。



「あたご」の艦腹に降ろされたラッタルに三人が降りてきました。
今からこれを片付けるのでしょうか。
このラッタル、海の上に降ろされていて、一体何のためだったのか謎です。



岸壁から出口に向かう途中に浮いていた緩衝材の上に住んでいるカモメたち。
安定していて止まりやすく、彼らには最高の住処です。
時々タグボートが緩衝材を引っ張っていくので、そのときには追い出されます。



鳥といえば、こんな子もいました。



途中にあった、いかにも帝国海軍時代の名残り・・・・なんですが、
これ、なんですか?銅鐸かな。



ホテルの部屋からは今日見た艦艇の電飾が綺麗に見えます。
一人で泊まっているのがもったいないくらい、無駄にロマンチックな眺めです。


さあ、明日はいよいよ観艦式事前公開第一回目に参戦だ!




 


港めぐり船で出会った自衛艦(プラス支援船)たち~軍港の街舞鶴を訪ねて

2015-10-12 | 自衛隊

今このエントリを制作している日、「いずも」が横浜の大桟橋に入り、
いよいよ平成27年度観艦式も間近の雰囲気が高まってきました。
この日、舞鶴で遭遇した自衛艦の中には、その後ここを出港し、
横須賀などに向かったものもあるようです。

冒頭に写っている自衛艦旗は「ましゅう」のものですが、
「ましゅう」は瑞穂埠頭(横浜)に着いたそうです。



さて、「港巡り」の船の元海自OBによる「岸壁の母」独唱が終わり、
舞鶴港が引き揚げ船が寄港して、外地にいた人々の踏む最初の日本の地になった、
という説明が終わった頃、船はJMUの前を通り過ぎました。



大型船舶の一部分であることはなんとなくわかる部品です。



大型貨物船の船尾部分でしょうか。
お節介船屋さんの解説をお待ちしたいところです。



これはわたしにもわかる。船体の甲板部分ですね。



おそらく今まで上げていったパーツは皆一つの船のものだと思いますが、
こういう画像で船の規模なんかもわかってしまうものですかね?



JMUの敷地内に昔防空壕だったらしいこんなトンネルを見つけました。
赤れんが街近くの駐車場の隅にもやはり同じような防空壕があり、
夕潮台公園のふもとにもトンネルがまだ残されています。
今はJMUの倉庫となっている模様。 



ここで訳もなく望遠レンズの限界を試してみました。
肉眼では見えなかったトンネル入口にオミナエシが咲いているのまでわかるのだった。



ドックのナンバーはだんだん遡ってきてNo.2まで来ました。



連休中だったせいか、稼働しているクレーンは一つもありません。



人の姿もまったくなし。
逆に、この辺りの工場や自衛隊が休みになる土日祝しか、この
港巡りの船は出港しないことになっているようです。



ここもJMUの岸壁だと思うのですが、「あたご」艦上から見えた、
修復中の「みょうこう」の近くを通りました。



「みょうこう」の補修はかなり大々的なもののようです。






シウスもアンテナ類にも、全てカバーがかけられているところを見ると
塗装を上から下までがっつりやり直す模様。



甲板の不思議な半透明のチューブは何でしょうか?
気体が通っているのは間違いないところですが。



艦尾に向けたしうすくんもカバーが掛けられています。
これ、なんだか専用カバーみたいですね。
一台購入につきもれなくカバーもついてくるサービスだったのかも。 




そしてこれ。
不思議なマーキングがされているなあと思ったら、標的艦なんですね。
艦名までわからなかったので雷蔵さんにこっそりお聞きしたところ、
「いそゆき」であることが判明しました。
「いそゆき」は2014年3月13日、「すずつき」の就役と同時に引退し、
その後JMU舞鶴事業所へ回航され、実艦的改造を実施されたということです。


実験的改造・・・・・?



なんだろう。
現役艦にはとても施せない、例えばトランスフォーマー的魔改造かな。

ペイントはやはり「照準用及び計測用と見られる」とwikiにはあります。
用途は公開されていないということなんでしょうか。





BTG EVERST というばら積み船ではないかと思われます。
もしそうだとしたら竣工は今年1月にJMU津工場で行われたばかりですが、
ここには仕事できているのかな?



さて、この辺で船は左に回頭を始めました。
右手に海上自衛隊の岸壁を見ながら出発した岸壁に戻ります。
艦番号177「あたご」の前にいるのは艦番号118「ふゆづき」。



朝方見学した護衛艦を海側から眺めるのもおつなものです。
「あたご」はこのあと出港し、観艦式のために今は横須賀に到着しています。
受閲艦艇部隊の旗艦を務めるということです。


艦長と「観艦式でご縁があればお会いしましょう」と約束をしましたが、
今回は残念ながら「あたご」ではありません。



「あたご」と退役した「しらね」後ろ姿。



この角度から見るイージス艦が一番かっこいいのよね。

左側は新型ミサイルの標的艦になることが決まっている「しらね」ですが、
遠目に見ても、明らかに右側の「生きている船」とはオーラが違います。

主砲は砲身だけを外し、シウスやアンカーもリサイクルに回したようで、無くなっています。
そして・・・、



喫水線部分を拡大して「あたご」と比べると、退役した「しらね」が
どれだけ軽くなったのかが、よくわかりますね。



迫力の補給艦「ましゅう」、 AOE-425。
なんども言いますが、「ましゅう」の大きさは戦艦「大和」とほぼ同じです。



「ましゅう」の一部。
「ましゅう」「おおすみ」ともに観艦式参加組です。
受閲艦艇部隊の第6群所属として航行します。



「ましゅう」が海外派遣から帰ってきたときの映像は、映画「男たちの大和」の
冒頭シーンに使われましたが、撮影はここ舞鶴で行われています。

それを見ていた鈴木京香が、次の瞬間呉に移動していたのには笑わせてもらいました。



支援船たち。
支援船は自衛艦ではないので自衛艦旗をあげたりすることはありませんが、
自衛艦の文字通り支援をする縁の下の力持ちです。

支援船の識別番号はかならず『Y』から始まりますが、
ここに見える「YO」はオイルの「O」らしく、重油船です。
三隻とも「アブラブネ」とよむ「油船25型」です。


一番右の「YW-23」は「水船」。
『W』はウォーターの意味ですね。
水を運ぶ船と考えていいのでしょうか。



それでは「T」は?
これはタグ、つまり「曳船」です。
艦首には大型船を押すためのタイヤが装着されています。

曳船は1から始まって57番まではもう退役してしまっています。
なのになぜここに「01」があるかというと、99番まで行ったので
もう一回01から番号をやり直した結果、今の最新型が「03」なのです。



曳船につけられた赤いノズルのようなものはなんでしょうか。
自衛隊関係の施設で「赤」を意味するのは多くが消火なのですが、
これも消火バルブだったりします?



ミサイル艇「うみたか」が見えてきました。
午後からは曇りがちの空だったのですが、雲が不穏な雰囲気です(笑)

「うみたか」は「はやぶさ」型ミサイル艇の2番艦。
「はやぶさ」型の命名基準は「4文字の猛禽類」なので、これ以降

「おおたか」「くまたか」「うみたか」「しらたか」

と続いているわけですが、「はやぶさ」以外全部が「たか」になっています。
なぜ「わし」にならないかというと、海保が「うみわし」で使ってしまったからです。



90式艦対艦誘導弾連装発射筒をたくさん搭載しているんだなあ、
と思ってよく見たら、向こうにも同じ「はやぶさ」型が係留してるんだった。

おそらく向こうのは1番艦の「はやぶさ」でしょう。

今年の観艦式には「おおたか」「くまたか」「しらたか」が参加しますが、
またミサイル発射による「昇竜の舞」を見せてくれるのかな?






岸壁に書かれている番号は艦番号だと思ったら、単なる距離でした。
どこからの距離で何を表すのかは不明。



「ふゆづき」は引き渡し・就役式に立ち会っています。
そういうフネと再会すると、なぜか親近感を覚えるものですね。



「ましゅう」と直角に繋留してあるのは「ひうち」。
見るのも聞くのも初めてのフネですが、これは多用途支援艦といい、
海外では航洋曳船(オーシャン・タグ)と言われるジャンルのものです。

つまり外洋で曳航、サルベージ、潜水作業支援、水難救助、消防など、

多用途に活躍する海の何でも屋さんみたいな感じでしょうか。




何でもするのでこんな変わった形のボートも甲板に搭載しています。

その他、

消防装置一式
艦艇曳航装置一式
自走式水上標的・管制装置一式
魚雷回収装置一式

このようなものを搭載しているそうです。



「ひうち」というのはこの「ひうち型」の命名基準が「灘」であるからで、

「燧灘」「周防灘」「天草灘」「玄界灘」「遠州灘」

からとられたそれぞれの名前を持つ同型艦があります。





というわけで、舞鶴湾を一周して元の岸壁まで帰って来る途中、
こんなところでお弁当を広げている家族を発見しました。
釣りをする人が糸を垂らすスポットだと思いますが、楽しそうで何より。

この日はお休みだったので、舞鶴にいる護衛艦をほとんど見ることができました。
この後だったら幾つかは観艦式に向かってしまっていたはず。

さあ、それでは、彼女たちとの観艦式での再会を楽しみに待ちますか。




 


「岸壁の母」~港巡り船・軍港の街舞鶴を訪ねて

2015-10-11 | 自衛隊

朝9時に待ち合わせて、護衛艦「あたご」、海軍記念館、そして
海将補の解説付きで東郷邸を見学させていただくという、
海上自衛隊ならではのコースが終了しました。

案内してくださった海将補と広報の方とは東郷邸の前でお別れし、
わたしたちはそのまま車で赤レンガ倉庫の方に向かいました。

本日の舞鶴探訪は、このあと赤レンガ倉庫と引揚記念館見学。
その前に、港巡りのクルーズに乗らずにはここに来た意味がありません。



調べたところによると、船内ガイド(しかも自衛隊OB)がつくのは
第1便と2便のみ、ということを聞いたため、12時からの便に乗ることにしたのですが、
まだしばらく時間がありそうだったので、船着き場の近くの喫茶店に寄りました。



カウンターと10席くらいのテーブルだけの小さな店で、
お茶を頼んでしばらくすると、様子を見るために船着き場にいたTOが

「なんか乗船始まりそうなんだけど」

というので、慌ててお店の人に注文をキャンセルしました。
勝手な変更にも嫌な顔一つせず、快く「行ってきてください」と言ってくれたので、
クルーズが終わってから、お詫びの意味も込めて、ここにもう一度立ち寄ったのですが、



TOと息子が頼んだバタートースト。
ただのトーストなのに、なぜかとびきり美味しかったです。(わたしは二人から一口ずつ強奪)



息子のココアもこんな模様を入れてくれました。
作る人の丁寧な気持ちが出すものを美味しくしていると感じました。
船着き場横にあるカフェ・ヨ・オアゾ(小鳥のカフェ)というお店です。
皆様ももし機会があったら立ち寄ってみてください。



「しるづいま、か・・・・」

「どうして旧字体読みをする」



ここからは見えませんが、クルーズ船がもう係留しています。
この日はシルバーウィークのせいで、クルーズも大盛況でした。



この船着き場から右手の岸壁には、掃海艇が繋がれています。
艦番号681の「すがしま」。

「すがしま」型掃海艇の1番艦で、平成11年の竣工ですから、
このシリーズの中ではもっとも古参の船です。

掃海艇はどれも触雷しないように艦体に金属類は使われていません。
「すがしま」型の素材は、ベイマツ、ケヤキ、タモなどです。



「すがしま」の甲板をアップにしてみました。
従来の掃海艇より、甲板は狭くなっていますが、掃海具を今までのように
甲板で展開しなくても良くなったからでしょうか。

右舷側には掃海用ダビッドと掃海浮標、左舷側には掃討用クレーンと
PAP-104(フランス製の機雷処分具)が1機あります。



こちら「すがしま」の後ろにいた「すがしま」型2番艦の「のとじま」。

舷側には横抱き式に展開器が収納されているそうですが、
この写真からはどこがそうなのかわたしにはわかりません。




さて、クルーズ船に乗り込んだわたしたち家族三人ですが、わたしだけが
ためらうことなく船室から出て 操舵室の横に陣取りました。
残りの二人は船室でずっと座っていたようです。

決して長いクルーズではありませんし、この日は暑くも寒くもなく、
皆がこうやって外に立ったまま過ごす構えです。



わたしは右舷バックミラーの横の船端を確保しました。

船が湾内を左周りするとしたら、右舷の方が岸壁がよく見えると踏んだのです。

クルーズの解説をするのは予告通り、海自OBでした。
看板によると、海自OBの解説員だけでも5人が登録されているようです。

係留してある艦船の種類を時折エピソードを交えて語り、
自分が現役だった時の話なども織り込みながら楽しい解説をしてくれ、
言ってはなんですが、横須賀の軍港巡りの「ナレーター」風若いお兄ちゃんの
仕込みっぽい解説より、ずっとお得な気がしました。



というわけで出港です。
まずはすぐ左手に見える、海上自衛隊舞鶴造修補給所の建物。

この岸壁に係留している船は補修か補給、その他手入れ中ってことでしょうか。



二隻の掃海艇が繋留されていた岸壁から程なくこんなレトロな倉庫が見えてきました。
説明はありませんでしたが、地図によるとここは造修補修所の工作部の一部でした。

いかにも旧海軍からの遺物といった感溢れる木造の大きな建物は、
窓ガラスだけが改修されて新しくなっています。

前にごろごろと放置してあるこれらは、船につかうホースやその他
長いものの巻き取り?につかうキャプスタン系のもの?



その後、解説の人が「私も昔はここでしごかれました」という
舞鶴教育隊が現れました。
教育隊ですから訓練に使うカッター置き場のデリックがあります。
ここで望遠レンズの登場です。

ところで、今回舞鶴で泊まったホテルの前の景色ですが、



こんなだったでしょ?
この緑の敷地部分は何だろう?と思っていたのですが、
どうもここが全部教育隊なんですね。
グーグルマップで見ると、広大な自動車教習所まで併設されています。



そうと知って注意深く見ると、岸壁にあるのはこれもカッター置き場でした。



対岸に見えているのはJMUの一部分でしょうか。



舞鶴所属の漁船が輪番制で監視船となってパトロールするという仕組みのようです。
ミドリ十字の旗が揚がっていますが、どうもこの船が
建設会社を母体にするためであろうかと思われます。



この辺りには日本板硝子の舞鶴工場があって、大変広い面積を占めています。
これもその一角だと思うのですが、海の近くに気になるものが・・。



アップしてみました。
鉄条網に厳重に囲まれているからには危険物のボンベでしょうか。



こんもりと木だけが茂った可愛らしい島が現れました。
グーグルマップで見ても名前が出てこないのですが、無人島のようです。
その島の近くに・・・・、



船を停泊させて釣りを楽しむ人発見。
(船の名前は消しました)
いかにもたくさん魚が釣れそうなスポットですね。



海上自衛隊舞鶴航空基地です。

グーグルマップで見ると、ヘリが多数駐機しているのがわかります。
ここは海上自衛隊の中で唯一の日本海側の航空基地であり、対戦哨戒ヘリSH-60の基地です。

この日は午後に2時間基地を一般公開しているから是非行ってみてください、
とアナウンスがあったのですが、この後赤レンガのところでカレーなど食べていて、
行き損ないました。
次に来た時には是非みてみたいものです。



ここから見てもなんなのだかさっぱりわからぬのですが、
グーグルアースでははっきり「MAIZURU AB」(マイヅル・エアベース)
という文字を読み取ることができます。
 


遠目にも鮮やかな白い橋が見えてきました。
これは「MIZURU CRAINE BRIDGE」としか書かれていないので、
鶴を意味するクレインブリッジという橋なんだと思いますが、
夜にはライトアップされて大変美しいそうです。

この橋の右岸向こうには、終戦後、外地から引き揚げてきた船が寄港した
「引き揚げ桟橋」 が今も保存されており、引き揚げ記念公園、
引き揚げ記念館と「引き揚げセット」が揃っている地帯です。

今回、わたしたちはここに行くことを時間のため断念したのですが、
幸か不幸か、引き揚げ記念館は現在改装中で、その代わり、赤レンガの
建物の一角に移設していた展示物を見学をすることができました。
その時のこともまたいずれお話ししたいと思います。

このとき、船内のアナウンスでなんの予告もなく、いきなり

「は~~は~は~来まし~たあ~きょおおおも~き~た~♪」

と、案内の方によるアカペラの「岸壁の母」が始まりました。
ワンコーラスまるまる歌い上げたあと、その美声に皆が拍手を送ったのですが、
この海自OBさんは、解説のお仕事で自慢の喉を披露することが
楽しくて仕方がないんだなと微笑ましく思いました。


今まで考えてみたこともなかったのですが、「岸壁の母」って、舞鶴の話だったんですね。


続く。

 





 

 


岸壁の「いずも」を見てきた

2015-10-10 | 自衛隊

平成27年度海上自衛隊観艦式がやってきました。

参加艦艇が各々出発する岸壁に着岸を済ませ、明日からは
本番とそれに向けた事前公開、その合間の一般公開、そして
満艦飾に電飾、コンサートという「フリートウィーク」 が始まるのです。

というわけで昨夜は、車を飛ばして横浜の大桟橋まで「いずも」を見に行きました。



といいながらなぜか出てくる靖国神社の写真。
サブタイトルに使っておきながら最近ご無沙汰していた靖国神社ですが、

この日は所属団体の昇殿参拝で久しぶりに行ってきました。

参拝後の懇親会で、テーブルに置かれた名札を見ると、自分が

「防衛部長・国際問題部門担当」

だったので驚きました(驚くなw)

それはともかく、海自の護衛艦が、海軍時代の慣習そのままに行う観艦式。

この参拝では海軍の英霊の皆様方にそのご報告をさせていただくことになりました。



このあと横浜で用事があったのですが、「いずも」が入港していることを思い出したので、
車を大桟橋に向けました。
大桟橋下の駐車場はガラガラで、送迎デッキにはふらりというかんじで上がっていけます。

「くじらのせなか」という名前の付いた送迎デッキは、このような独特の
階段のないスロープを上がっていったところです。
この板の張り巡らせ方が「くじらのせなか」なのかなと思ったり。




「いずも」と会うのは就役式典以来です。
今夜からは満艦飾並びに電飾も始まり、日曜からは一般公開も行われます。

(10:00~16:30の間)


ここで、参加しない方にはあまりご興味がないかもしれませんが、
今回の観艦式参加部隊の艦隊編成を書いておきます。
護衛艦はタイトル省略しております。

【観閲部隊】

むらさめ (旗)くらま ちょうかい 潜水艦救難艦ちはや、

掃海母艦うらが 
練習艦しらゆき 訓練支援艦てんりゅう


【観閲付属部隊】

こんごう きりしま あぶくま とね

訓練支援艦くろべ 試験管あすか


【受閲艦艇部隊】


(旗)あたご おおなみ しまかぜ きりさめ さみだれ いずも

潜水艦ずいりゅう こくりゅう うずしお

掃海母艦ぶんご 掃海艇つしま はちじょう ひらしま たかしま みやじま

補給艦ましゅう 輸送艦おおすみ LCAC ミサイル艇おおたか くまたか しらたか


【祝賀航行部隊】 


いかづち 豪フリゲート STUART 仏フリゲート VENDEMIAIRE

印フリゲート SAHYADRI 韓駆逐艦 DAEJOYOUNHG

米巡洋艦 CHANCELLORSVILLE 駆逐艦 LASSEN




おお、あそこの艦艇は電飾しているぞ!
と一瞬思ったのですが、あれは確か氷川丸でした。



デッキの上には、わざわざ「いずも」を見に来た勤め帰りらしい人ちらほら。
三脚を立てて本格的な撮影をしている人も居ました。



内火艇が岸壁と艦体の間に浮かんでいました。



艦橋にはまだ煌々と明かりが灯っています。



引き渡し式のとき、きりりと制服を身にまとった乗組員たちが
隊伍を組んで軍艦マーチの流れる中乗り込んでいった、その同じハッチでは、
この夜、こんな光景が展開していました。

私服を着て三々五々上陸していく自衛官。
清掃が済んで掃除機を片付けている海士。
作業服の隊員と雑談している私服の隊員。



あのときは下から眺めた艦載機エレベーターを、今日はこんな高いところから。



シャッターは固く閉ざされています。
格納庫から搭載機を甲板に乗せる時には、ここが全開します。



こちらのボートは納められたまま。
内部には灯りが眩しいほど点けられています。

こちらのボートは「いずも01」。
ってことはもう一つのは「いずも02」ってことですか。

 

腕章をつけた二人の自衛官が、岩壁を警邏している様子。



後甲板にはMCH-101らしきヘリが見えます。
これは、もともとアグスタウェストランドという機体で、イギリスとイタリアが共同開発したもの。
(民間企業とはいえ不思議な取り合わせだと思ったのはわたしだけでしょうか)
現在自衛隊には6機導入されています。

今回の観艦式の受閲航空部隊には、MCH-101は受閲第2群に属します。


「いずも」には最大でヘリを14機を艦載することができます。




3年前はここに停泊していたのは「ひゅうが」でした。
「ひゅうが」に乗ってベイブリッジ下を通過するとき、桁下と7mもの余裕があるにもかかわらず
アンテナが橋に引っかかってしまいそうで、甲板の全員が上を見上げていたものです。

「ひゅうが」より大型の「いずも」ですが、つまり
海面からの高さはあまり変わらないってことなのでしょうか。 


それでは観艦式に参加する皆さん、フリートウィークのイベントに足を向ける皆さん、
この一週間を共に楽しみましょう!


 

 


Pー3C体験搭乗〜航空基地開設記念行事

2015-10-09 | 自衛隊

係の自衛官に指定された時間に、受付に戻ってきました。
幾つかの机にはそれぞれ名簿を前にした受付係が座っており、
「1番機」から「4番機」までの搭乗予定者名簿をチェックしています。



つまり、体験搭乗のために稼働するP-3Cは4機で、それぞれが何回か飛行をするということです。
1回に乗れる人数は10人といったところですが、待っている人たちを見ても
ほとんどが午餐会に参加したと思しき面々に思われたので、
抽選を勝ち抜いて乗ることになった一般の人は、よほどの豪運ということになりそうです。



受付で名前を確認した後は、1番から4番機まで横並びに指定された
パイプ椅子に腰掛けて呼び出されるまで待ちます。
機内に荷物を持ち込むことは一切禁じられているので、受付の後
皆はそこで荷物を預けていましたが、わたしはTOに見てもらっていました。

そして、時間が来て、同じ飛行機に乗るグループは、全員パイプ椅子の
左側にある小さな部屋(普段はブリーフィングルームか何かの模様)に
説明を受けるために入れられました。


「こんにちは!わたしがこの基地でもっともイケメンの◯◯1曹です」

開口一番明らかな冗談を(すみません) 飛ばす説明係の隊員。
思わず沸き起こる拍手に、

「あ、ありがとうございます!初めて拍手いただきました」

他の組では毎回スルーされてたんですね・・・・。

それはともかく、搭乗前のブリーフィングは、まず携帯の回収から始まりました。
手荷物は皆預け済みですが、ほとんどの人がまだ携帯をポケットに入れていたのです。
これは、隊員の目のないところでこっそりと写真を撮るという可能性を断つため。

まあ、ここで「持っていない」と言い張って実はまだポケットに入れっぱなし、
ということもしようと思えばできるわけですから、あくまでも自衛隊は
各々の良心に判断を委ねてくれているわけです。

携帯は荷物と一緒に預けてもいいが、ここで預ける人はこれに入れてください、
と、専用らしいプラスチックのバスケットを持って隊員が回ってきました。

「今日の夜、インターネットに”基地の思い出”とかいう題で内部の写真が出たら、
わ た し が 困るんです」


ディズニーランドの(秘密)クラブ33では、参加者に対し

「内部は撮っても構わないけどネットにアップしないでください」


という対応でしたが、ディズニーは「そのときには企業として法的対処するで」
という無言の圧力を参加者にかけられるからであって(多分)
自衛隊という立場ではたとえそういうことがあっても
一般人に対して厳しい対応を取れないので、(多分)神経質にもなるわけです。


それこそP-3Cの画像がが秘密保護法の対象になるかどうか、って話なんですけど。



さて、ブリーフィングは続いてP-3Cの機体のスペックについて、

それから本日の航路についての説明が行われました。
この日は前日の雨が朝まで残り、1日曇天で傘をさすほどではない霧雨が
時々感じられないでもない、といったレベルのはっきりしない天気だったのですが、
そのせいで航路が大幅に短くなった、ということでした。

海将夫人と雑談したとき、彼女が「富士山の近くまでP-3Cで行ったことがある」
とおっしゃっていたので、当然今回も富士山が見られるのかと思っていたのですが、
正規のルートで行ったとしても、せいぜい東京都内の端っこを
かすめてくる程度であることがこのブリーフィングで判明しました。

「それからトイレですが」

なにやらとても重大なことのように、案内の方は気のせいか深刻な声で言いました。

「どうしても我慢できなくなった方は、トイレがあります。
ありますが・・・・・・、このトイレは実は”おまる”と同じような作りでして」

前回、停止しているP-3Cに潜入させていただいたときにもトイレは気になりましたが、
そ、そ、そうだったんですか!(軽くショック)

「つまり使用されると・・・いや、どうしてもというときには必ず声をかけて
使用していただいてもいいんですが、その後を始末するのが」

・・・・ゴクリ(唾を飲み込む音)

「わたしなんです」

いやあああああ!

それはなんというかする方もされる方も嫌というか。

「ですから、できれば、使わないでいただいた方がありがたいというか、
使わないでください、お願いします」

切実な心の声だと理解いたしました。(T_T)
子供じゃあるまいし、たかだか30分程度のフライトでどうしても
我慢できないという人も実際は皆無だと思われますが。

 


今滑走路に降りてきているP-3Cは体験搭乗者を乗せてきた機体です。

ブリーフィングの部屋から出た我々は、一列になって歩かされ、
さっきピクルス王子の描かれた汽車が走っていた通路に停まっていた
マイクロバスに乗って列線まで移動しました。

マイクロバスに乗った順でバスから降り、やはり一列でタラップの前に並びます。
P-3Cのタラップは狭くて急で、わたしは前もって招待してくれた方から

「当日はヒールのある靴は履いてこないでください」

と言われていたので、乗馬でよく履いていた安全靴のような作りの編上靴を
履いてこの日に臨んでいたのですが、なんと、同乗の三人の女性のうち
一人は8センチはありそうなしかもピンヒールを履いていたので驚きました。

まあ、階段を登るときはヒールは大抵使わないので、わたしも万が一
ピンヒールできたとしても、そんなに困らなかったとは思いますが、
やっぱり招待してくれた方の忠告は無下にはできないでしょう。

それに本人がいくら大丈夫と思っても、隊員にも心配かけてしまいそうですしね。
 



エンジンがかかっているP-3Cの前に立って驚いたのは彼女のヒールだけではありません。
そのエンジン音の凄まじいこと!

ふと見ると、外に出てきているP-3Cの乗員は全員が耳にイヤホンを付けています。

そこにいるだけで苦痛なくらいの轟音は、わたしがこれまでの生涯で初めて体験するレベルで、
(アメリカのホテルで度々鳴る火災報知器も大概だけど、それともまた違う)
思わずわたしは両耳を手で塞ぎました。

わたしが歩き始めた順番は年配の男性に続いて二番目で、
最初から三番目までの見学者はまずコクピットに通されました。
わたしはコクピットの右側にある胸くらいの高さの出っ張りに

「頭の上のスイッチに触れないように気をつけてください」

と注意されながら座るように指示されました。
後から聞いたら、この出っ張りに普通は隊員が座るそうです。

シートベルトなしで離陸しちゃうんですね。


わたしは離陸のときだったから良かったけど、後半に交代して
ここに座って着陸した人は前に滑ったりしなかったんだろうか。
あくまでも機体の一部であり、ただの出っ張りだったのでそう思いました。

いよいよ離陸です。
コクピットには正副タコの三人、見学者三人。
エプロンから滑走路に入るのに旅客機のようにUターンし、最終体制に入ります。
旅客機ほど重力を感じず、グランドキャニオン見物で乗ったセスナよりは重い感じで、
P-3Cはテイクオフしました。

この間、ずっとコクピットの三人が英語で色々言っていたのですが、
一言も覚えていなくて残念です。
それを正確に再現したものを見たければ、前回貼った
「P-3C対某国潜水艦の死闘ショー」(だっけ)をどうぞ。



体験搭乗者を乗せているときにはこんな飛行はしません(笑)

旅客機との大きな違いは高度の取り方で、P-3Cが水平飛行に入るのはすぐでした。
ブリーフィング(笑)によると、当航空基地から見えるスカイツリーよりも低く、
従って当日空を覆っていた厚い雲の上に出ることもありません。

旅客機がテイクオフしてしばらく見えている地上の景色がずっと変わらないまま
飛んでいると言った感じのフライトが続きました。

「正面に見えているのが印旛沼です」

離陸してから戻ってきたクルーがなんと案内もしてくれます。
航路は左回りで、眼下に利根川の河原が見えました。
できるだけ住宅の真上を通過しない航路が決められているようでした。

スカイツリーもあそこに見えています、と教えていただきましたが、
やはり遥か遠くに霞んでいるくらいの距離でした。
もっとも、体験搭乗の高度はスカイツリーより低いらしいので、
あまり近くには行かないほうがいいかもしれません。

それにしても感じたのは地上に見る住宅の密集度です。
北関東の住宅街の、マッチ箱のような家屋がどこを飛んでもびっしりとあり、
万が一事故になった時の惨事を想像するだけで胸がきゅっと縮みました。

ちなみに、実際にここを初めて飛んだ海将の感想は、


「住宅街もさることながら、電柱がやたら多く”飛ぶのには嫌な地形だな”と思った」

そうです。 

可能性として0パーセントではない事故を引き起こすミスを0パーセントにすべく、
ここに限らず入間や横田などの基地航空隊の人々が
どれだけ安全第一に運行管理を行っているかを考えずにはいられませんでした。



今にして思えば、そのときにそんな考えに至ったのも、一つの偶然というものかもしれません。

このP-3C機内で、わたしはある一人の男性と遭遇したのです。
その方は、自衛官だった息子を殉職で失った父親でした。


続く。

 


ミニ対潜哨戒機 V.S. 潜水艦ショー ~航空基地開設記念行事

2015-10-08 | 自衛隊

記念式典のあとに午餐会ですっかり満足したあとは、
いよいよ本日のメインイベントであるP-3C体験搭乗です。
体験搭乗をするには抽選に当選しなくてはいけないというのが建前で、
本日基地から招待を受けた関係者であっても、それは同じ。

わたしも最初は出席の返事欄に体験搭乗をしたいかどうか答える欄があり、
さらに抽選で乗れるかどうかが決まる、と聞いていたのですが、
そのことについて招待してくださった方に確認したところ、あっさりと
抽選なしの招待枠で乗せていただくことが決まりました。

「ご夫妻二人で乗れるように手配しておきます」

「いや、夫は乗らないと思いますが・・・」

こういうことに至極消極的なTOは、これも一応確認しましたが
言下に怖いから乗らない、と言い切り、さらに

「怖くないの?なんかあったらどうするの?」

それに対し、

「万が一何かあったって、P-3Cで死ねるのなら本望だ!」

 と自衛隊の人が聞いたら気を悪くしそうなタンカを切るわたしでした。
ともかくそういうわけで、体験搭乗はわたしだけが参加し、その間
TOは地上で待っていることになったのでした。



会場から受付までは徒歩で移動です。
他の基地ほどではありませんが、屋台や物販店のテントが軒を並べていました。
食べ物を買った人は、芝生や敷石に腰掛けてお昼やおやつを楽しんでいます。

献血のテントでは客引き?が熱心に献血者を募っていましたが、
超低血圧で(90-60)しかもこれから飛行機に乗る予定のわたしとしては、
血液が不足していると呼びかける人には悪いとは思うものの、
そんなことをしている場合ではありません。




エプロンまで結局戻ってくることになりました。
航空機がいくつか展示されていましたが、なんとP-1も!

防衛省技研と川崎重工が開発し、川崎重工が製作する次世代哨戒機で、
2013年3月の運用開始以降、70機の配備を目指してただいま増殖中です。

P-3Cが2010年以降、耐用年数が切れてくるのに合わせて開発され、
今年の7月にはイギリスでのロイヤル・インターナショナル・エア・タトゥーに参加し、
初めての完全国産機として国際的デビューを飾ったばかりです。

RIAT 2015 JMSDF Kawasaki P-1 DemoFlight


世界が惚れる日本製兵器!英国は米国製を蹴りP-1購入か?

このときP-1はヨーロッパを出発して
ジブチの基地を経由し、
東回りでの世界一周飛行を達成し7月25日帰国しました。






正面から見たP-1。
顔はPー3の方が男前かなあ。

隣にはP-3Cが展示されていましたが、やはり心なし大型であると感じました。
スペックを見ると幅だけで5m、全長は2.4m、高さは1.8mも大きく、
居住性にはかなり余裕ができそうです。

ちょうど真正面から見るとコブのように見える頭上の膨らみは、
HLR-109B ESM装置のアンテナが設置されています。
Pー1のアビオニクスは、イージス艦とのデータリンクで情報共有が可能となっています。

今度の観艦式に参加して実演を見せてくれるでしょうか。
ブルーインパルスなんか(といってはなんですが)別に観艦式で見なくてもいいから
ぜひP-1の実演と、オスプレイの飛行をやってもらいたいものです。



コーンと黄色いテープで仕切られた外側には進入禁止となっていますが、
その部分に唯一入る方法があります。それがこの汽車(に見せかけた車)。

203MSQと書かれたブルーの車体には、パプリカ王国から自衛隊に留学している
ピクルス王子と、そのガールフレンド、パセリさんのお姿が描かれています。

ちなみにパセリ嬢はパプリカ王国の隣国であるブロッコリ王国の
村長の娘であるということですが、これは結婚すれば玉の輿ってことでしょうか。
王子のガールフレンドが敵国(かどうかは知らんけど)の一村長の娘、
っていうのはヒエラルキー的にありなんでしょうか。



それはともかく、この汽車は乗ったまま柵の外、滑走路とまではいきませんが、

その近くを走ってくれるということで子供達に大人気。
最後尾のカエルは多分ここの飛行隊のマスコットだと思われます。



ミニP-3Cのショーのために待機する車両群。
ご存知とは思いますが、これは領海侵犯してきた某国の潜水艦を、
専守防衛を全く無視して先制攻撃により撃破するという憲法9条無視的出し物で、
ジョージワシントンに「カエレ!」とか言っている人たちが見たら
さぞかし発狂するであろうと思われます。

魚雷命中!!! 領海侵犯は許さない!!! ミニP-3Cデモフライト 海上自衛隊 下総航空基地



艦番号203の護衛艦「あとらす」はイージス艦。

なぜかZ旗を掲揚して航行中(笑)




潜水艦も護衛艦もスクリューを回転させることができます。



潜水艦の機体には「がんばろう日本」と書いていた年もありましたが、
今年は解説56周年記念の文字が入れられています。

こういうメンテナンスすべて隊員がポケットマネーで行うのです。



それにしてもこれらの乗り物、特に潜水艦、どうやって乗り込むのか・・・。
かねてから不思議なのですが、この日も結局、体験搭乗のため見ることは叶いませんでした。
残念です。



Mk-44ミサイルについて先日当ブログでも話題になったりしましたが、

Mk-44は短魚雷。
アスロック(Anti Submarine ROCket、ASROC)、艦載対戦ミサイルの
弾頭にも使われますが、P-3Cなどの対戦哨戒機でも運用されています。


拡大してみると仕様がよくわかるのですが、このミサイルは、
P-3Cがぽろっと地面に置いていくと、スルスルと潜水艦を追いかけていきます。
リモコン操作で動かしているんですね。

どこか見えないところで、一生懸命リモコンを操作している隊員がいるはずですが、
それがどこからなのか、これもいつの日にか突き止めたいと思います。

ちなみにこの「対戦哨戒機ショー」のYouTubeは世界中に拡散されており、


こんな笑える光景を観たのは初めてだ。

だってさ、たぶんこれを毎年やってるんだぜ? オランダ

つーかこれマジでやってんの? もうやだこの星。 イタリア

結構しっかりとミニチュア化してる事に驚いてるんだが。 アメリカ

何が面白いって、本物の自衛隊があれをやってるってことだよな。 国籍不明

自衛隊は国民の税金をこんなくだらない事に使ってていいのか? カナダ  

もしもこの世界に日本がなかったら。きっと退屈な世界だろうさ。 ルーマニア

最近公開されたほとんどのハリウッド映画より良く出来てる。スウェーデン 

などといった(おおむね)高評価が寄せられているようです。



格納庫は管制塔の横におおきなのが二つ並んでいます。
P-3C体験搭乗には管制塔側の格納庫内に行くようにと言われたので、
少し早いかなと思いましたが受付にいってみました。



しかし、わたしの割り当てられた順番にはまだまだ時間がったため、
そのへんをぶらぶらして時間をつぶしました。
ふと気づくと、同じ格納庫の中にこんな人力?飛行機みたいなのがありました。

中央に置かれた自転車を漕げば翼が動く仕組み。
見るからにしんどそうなアトラクションのせいか、トライしようという人は
あまりいないように見受けられました。



暇なので外に出て歩いているときに発見した隊員作のポスター。
この「にちなん」とか「ずいりゅう」は作者の所属でしょうか。



舞警というのは舞鶴の警務隊?

「厳となせ」

というのは、たとえば

「敵艦からミサイル飛来を確認、対空戦闘用意!見張り員は警戒を厳となせ」
「対空見張りを厳となせ」


などといった場合に使用する海軍用語です。
あの「敵兵を救助せよ」で有名になった「雷」の工藤艦長も、

当時の艦の速度は16ノット、工藤は味方艦艇が敵潜水艦に撃沈された直後かと見て、
艦内に「戦闘用意」を下令、各見張りに「警戒厳となせ」と指示した。

と伝えられています。


それにしても、警告ポスターに薬の使用を禁止するものが多いのは、
実際にそのような不祥事が自衛隊内で何度か起こったことがあるからですが、
岩国の海兵隊基地でもその手のポスターがあちこちにあり、
ストレスの多い職務に精神を蝕まれるようになると、そんな心の隙間に
反社会的な誘惑も忍び寄るというのは世界共通なのだなと思わされます。


さて、そうこうしているうちに受付時間がきました。
いよいよ体験搭乗です。


続く。
 


書斎からの眺め〜東郷亭・軍港の街舞鶴を訪ねて

2015-10-07 | 海軍

舞鶴鎮守府長官邸跡、通称「東郷邸」。
終戦までの間、 36人もの司令長官並びに司令がここに居住したわけですが、
初代長官が聖将東郷平八郎だったため、すっかり東郷邸となってしまっております。

ところで度々名前を出しますが、要港部司令官を務めた清河純一中将は、
日露戦争の時参謀として東郷大将に仕えました。
何人かの自衛官に

「これってすなわち東郷さんの副官だったということなんでしょうか」

と尋ねると、おそらくそうであろうと答えたので、そうと仮定しての話ですが、
副官として身近で東郷元帥を知っていた清河大尉は、この時代に上司として、
そして人間としての元帥に心酔し、その気持ちを一生持ち続けていたのでしょう。

何が言いたいかというと、清河中将は、舞鶴要港部司令に任命された時、
東郷元帥がかつて務めたことのあるこの職に就くことを、
それゆえこの上ない名誉と考えたのではないかということなのです。

 
たとえ日露戦争終結後の舞鶴が「閑職」ということになっていたのだとしても。



さて、昭和9年、東郷元帥が病に倒れた時、日本中がその回復を必死で祈りました。




小学校4年生の子供が東郷元帥に当てて出した手紙。
副官の掲げているのは、治癒祈願のために血でしたためられた手紙です。


国民の祈りの甲斐もなく元帥が逝去した時、清河中将は、すでに予備役でしたが、
東郷邸から日比谷公園までの総距離1キロ半に渡る葬列に、
日露戦争時
「三笠」勤務だった将士とともに加わり、
五十日祭の明けるまで
いかなる天気の日にも休まず、謹直に墓参を続けました。


そして、翌年の3月に57歳で亡くなっていますが、その病因は
東郷元帥の逝去以降の心労と墓参のためであったとも言われたそうです。




さて、そんな清河中将が舞鶴赴任時には、「ここにかつて元帥が・・・」
と感激しながら住んでいたに違いない、官舎内部を見ていきます。



おそらく最初からずっとここにあって、38人の司令の姿を
毎日写してきたに違いない壁掛けの鏡。



和室の欄間の透かし彫りは、藤の花の意匠でしょうか。



現在でも海上自衛隊の幹部が会合を行う和室。
昔はここが司令官の居室であり、押入れなどもあることから
ここに布団を敷いて寝ていたのだと思われます。
(というか他にそれらしい部屋もありませんでしたし)

ですから当時は当然このような掘りごたつなどはなかったと思われます。
掘りごたつを覗いて見てみましたが、最新型のものでした。

z

部屋は真ん中で仕切ることができるようで、床の間が二つあります。
この掛け軸についての説明はありませんでしたが、座敷にはなぜか

国雖大好戦必芒 天下雖平、忘戦必危

(どんな国が大きくても戦争が好きであれば必ず滅びる。
どんなに天下泰平であっても戦争の準備を怠れば危険が訪れる)

という、今の日本とその隣の国に聞かせてやりたい「司馬法」の言葉が
書かれた木版が畳の上に置かれていました。

掛け軸も東郷元帥の署名があり、二箇所読めない字があるのですが、

こちらもつまり

「戦いに備えなければ平和はない」

というようなことが書かれていると思います。



加賀の金箔、京都正絹の忍緒、京都錦織の座布団?江戸の金細工。
当時考えうる限りの「ブランド」を使って設えられた兜。



庭の緑が座った位置から見られるように、障子は下がガラスです。
昔は雪見障子になっていたのではないでしょうか。




消化器を隠す木の収納箱も雰囲気を壊さぬように配慮。
おそらく昔は雨戸が外付けになっていて毎晩引かれたに違いありません。



消火栓入れを内側から見たところ。



そしてここが書斎です。
開かれた窓にはいつ点されたのか、蚊取り線香が煙をくゆらせていました。

「蚊が多いんですよ」

と海将補。
まあ、わざわざ水を貯めて作った人工池があればそうなるでしょうな。
海将補も、舞鶴赴任になって以来、こんな感じの歴史的な官舎にお住まいで、
これがまた住むのが大変なのだ、ということでした。

それはともかく、この書斎に座って、舞鶴鎮守府時代の東郷長官は
何事かを思い庭を見る日々が続いていたのです。

巷間、東郷平八郎が連合艦隊の司令長官に任命される前、舞鶴鎮守府初代長官に
指名されたのは「左遷だった」という説があります。

説明してくれた海将補も、そういう職にあった東郷を抜擢するにあたって、
海軍大臣であった
山本権兵衛が、天皇陛下に

「東郷は運のいい男にございます」

と奏上したとおっしゃっていましたし、わたしも同じことを当ブログで書いたことがあります。
しかし実際は、山本が、扱いにくい日高壮之丞を第1艦隊司令長官にするのを嫌い、
おとなしくていうことを聞く東郷を抜擢したにすぎず、さらにそのときの言葉は

「この人が、ちょっといいんです」

であったという証言があるのです。
いずれにしても山本権兵衛が陛下に対してタメ口なのが驚きですね。



「これは当時のままですか」

と訪ね、そうだという返事を聞いて撮った天井の写真。
東郷平八郎が書の合間にきっと眺めることもあったであろう天井です。


「ガラスに歪みがありますね」

わたしがいうと、広報の方が

「よく気付かれましたね。このガラスは当時のままのものですが、
舞鶴に工場を持つ日本板硝子に依頼しても、同じものはできないとのことです」



呉鎮守府長官公邸もそうでしたが、当時のガラスは歪んでいて、
それがまた味があるというか、風情を感じるものです。
耐用年数の長いガラスは、今も東郷元帥がこれを通して外を見たままに
同じ景色をそれを通して見ることができるのです。



一般にこういった歴史的な建築物が機能性・居住性に優れているはずがありません。
にもかかわらず、自衛隊の所有であるこれらの建物に住み続けなくてはいけないというのも、
伝統墨守を旨とする海上自衛隊の偉い人の宿命というものなのです。

「わたしのいる官舎がまた大変なんです」

と切々と訴えられる海将補(笑)
なんでも舞鶴というのは昼間暑く夜は寒い、冬になると部屋の中も零下、
というような気候だそうで、特にこういった昔の家屋は夏の通気には優れているが
冬はそれこそ部屋の中でテントを張って生活している将官もいたのだとか。

しかも、海将補の官舎には蜂が巣を作り、その駆除と
ハチとの戦いで精魂尽き果てそうな毎日だと、海将補はおっしゃいました。

しかも、市の文化財などに指定されてしまうと、改装改造の類はご法度です。

「こちらに来て体を壊してしまった者もいました・・・」

遠い目をされる海将補。
せめてそんな環境でも滋養をつけていただこうと、帰宅してから海将補に
すっぽんのおじやをお送りさせていただいたわたしたちです。



おおおおお、とつい声が出てしまった映画「日本のいちばん長い日」パンフ。
実は舞鶴でこの映画のロケが多数行われているわけですが、
この東郷亭でも、鈴木首相(山崎努)が帰宅して着替えをするシーンが
(本人は何もせず着物を肩からかけてもらったりしていたあれ)撮影されているそうです。

映画を見たのがこの何日か前であったので、記憶は鮮明でした。

右側の菊の御門の巻物は、日露戦争の終戦の勅です。

そしていきなりこんな空間が・・・。
かなりの人数分の食器やグラスを収納した棚、電化製品、座卓。
食事を運ぶワゴンまであって、まるで人のうちの台所を見ている気分です。



飲みかけのお茶なんかが出ているところをみると誰かいる?

「いつも管理の人が詰めています」

電話は設置されておらず、携帯が置かれていました。
ちなみに奥の張り紙は、「電解還元水・酸性水の使用例」だそうです。

いきなりこんな生活じみた光景が現れるあたりが実際に
使用されているということなんだろうなと納得しました。



この適当に書かれた感じが、いかにも直筆らしい(笑)。
色紙を出されたのでさらさらっと書いてみました感溢れる東郷平八郎書、

「勝って兜の緒を締めよ」

 その辺の人が言うのではなく、連合艦隊解散之辞において、この言葉を選んだ本人が
書いているのですからありがたさ倍増。ってことなんだと思います。


舞鶴鎮守府長官の職が果たして閑職であり、つまり東郷中将は左遷されていたのか、
については必ずしもそうではないという考え方もあります。
つまりこのころ、日露戦争の火種はもうとっくに興りつつあり、舞鶴は
来る対露戦を想定してロシアのウラジオストック軍港に対峙する形で設置された
重要ポストであり、決して閑職というわけではなかったというのです。

これらは、東郷元帥が閑職から運だけを買われて大抜擢されただけなのに、
日本海海戦でのあっと驚く名采配によって聖将とまで言われた、という、日本人好みの
大逆転サクセスストーリー、いわば東郷元帥を称える「スイカに塩」的な味付けとして
流布された悪意のない脚色ではないかとわたしは思っています。 


しかしながら、東郷中将本人がこれを「閑職」と考えていたとすれば話は別です。
どうもいろんな資料を見ても、外からの評価はともかく、本人は左遷されたと感じ、
早く中央に帰りたい、と思っていたことは事実で、 つまりここに起居していた2年間、
海将補がおっしゃるところの

「書斎から庭を眺めながら鬱々と物思っていた

というプチ臥薪嘗胆な日々を過ごしたことは間違いありません。

亡くなったとき小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文が
新聞を飾ったことに象徴されるように、日本国民の神様になってしまった東郷元帥ですが、
機関科問題が起きた時「竈焚き風情が」などと思わず言っちまったことなどを見ても、
案外権威主義で、序列に拘泥するような俗な部分もあったのかもしれませんね。


というわけで、深い崇敬の念を持ちつつも、東郷元帥の神格化には異を唱えていた
井上成美大将に、僭越ながらわたしもまた賛同するのでした。



続く。

 

東郷平八郎の”写真初体験”~東郷邸・軍港の街舞鶴を訪ねて

2015-10-05 | 海軍

さて、庭を見学した後、わたしたちは東郷邸に上がることになりました。
昔舞鶴鎮守府長官の官舎であったところですが、最初の住人が
初代長官であった東郷平八郎だったのでこう呼ばれています。

鎮守府というのは今更ですが、海軍の根拠地であり、
艦隊の後方を統轄した機関をいいます。
もともとは海軍提督府といったそうですが、最初の鎮守府は1876年、
横浜に設置され、その後これが横須賀に移転しました。
つまり、鎮守府の最古参というか総本山は横須賀と認識されていたのです。

呉と佐世保に鎮守府が置かれたのは1889年のことであり、
舞鶴はその2年後なので、横須賀以外は皆同じようなものであるはずですが、
舞鶴は一番遅くにできたこともあって、格でいうと下という考え方もあります。

なにしろ、ワシントン軍縮条約のあおりで「鎮守府」から一時廃止され、
「要港部」に格下げされていたくらいです。



東郷邸の玄関口頭上には歴代鎮守府司令長官と、要港部司令官が
このように分けられて記してあります。

前々回、連合艦隊参謀だった清河純一中将が「鎮守府司令官」でなく
「要港部司令官」であることに疑問を感じた方はおられませんでしょうか。
これは、1923年から39年までの間、舞鶴は「鎮守府」ではなかったためなのです。

ですからこの16年間の間に要港部司令官だった18人の後、
13代司令長官となった原五郎中将から終戦までが「舞鶴鎮守府司令長官」
と呼ばれることになったということです。


一つの見方をすれば、戦前ここの司令官になった海軍軍人は
海軍の中では「窓際」であったといえなくもありません。

清河純一は兵学校では在学中、品行方正賞なども授与されているようですが、

いかんせんハンモックナンバーは59名中10位でしたから、それを考えると
要港部長官というのは、そのわりには出世したというべきだと思われます。

・・・という話を念頭に置いていただいて、中を見ていきましょう。



玄関は和風の造りですが、一歩入るといきなり洋風です。
これは洋風の部分に応接室、接客室があったからです。
昔はこの部分は靴のまま入ったのかもしれません。



海軍機関学校の卒業式などに帽子を置くためだけに作られた台。
せっかく作ったので使っていない時には花瓶を置いたりすればいいのに、
と思ってしまいますが、フェルトを貼っているため、他の用途には使えません(笑) 

 

昭和天皇と東郷元帥が一緒にいる写真を初めて見ました。
式典当日とあるだけで、なんの式典なのかわかりませんが、
撮られた場所が軍艦の甲板であることから、観艦式でしょうか。



自筆のサインのある東郷元帥像。
この写真も今まで見たことがありませんし、検索しても出てこないので
東郷写真としてはレアなのではないかと思われます。

おそらく東郷邸が今まで公開されてこなかったせいでしょう。




応接室の椅子も当時のものでしょうか。
一度くらいは張替えをしていそうですが、テーブルの上の札には
座らないでください、と注意書きがあります。 



応接室の窓から外を望む。
内側から見ても白い窓枠は実にエレガントな雰囲気です。



窓際に飾られている軍艦は(状況から見て)「三笠」。



廊下の部分にはガラスケースが置かれ、日露戦争関係の資料が展示されています。

「参戦二十提督 日露大海戦を語る」

「旅順港閉塞隊」

「旅順現状写真帳」

「東郷元帥一代の東郷元帥一代の記念」

といった当時の出版物。
上段見開きは「軍神広瀬中佐」として、

「(右)明治37年3月27日第二回旅順閉塞の壮挙に戦死せる中佐
(明治元年生・享年三十八才)
(左)第一回閉塞船報国丸を沈没せしめ任務を果たし終わらんとしつ
甲板を疾駆し去る広瀬中佐」

 

せっかくですので疾駆する広瀬中佐の絵を拡大してみました。
漫画っぽい。



廊下の壁には、セオドア・ルーズベルトが翻訳させた東郷元帥の

「連合艦隊解散の辞」英語版が掲げられていました。

冒頭には
「将軍命令 No.15」とあり、ホワイトハウス付で出された声明として
国のために戦う者であれば、陸海軍を問わず平時であっても武の心構えをもつべきとした
この言葉を胸に刻むべきである、故にこれを全軍に配布する、といったことが書かれています。

「連合艦隊解散の辞を読む東郷さんの肉声をお聞きになったことがありますか」

と海将補。
ありますと答えると、

「あれでは終戦の勅ではありませんが、現場で聞いていて分かった人はいなかったでしょうね」

聯合艦隊解散式訓示 



確かに。途中で咳き込んでるし。



こちらも日露戦争関係グッズ。
「露艦隊来航秘録」「露艦隊 幕僚戦記」「露艦隊最後実記」
などの戦記本、右上はよくわかりませんがロシア語の本です。
真ん中はまるで見てきたように描かれた「オスラビア」轟沈の図。

日本海戦の勝利がいかに当時の日本人を熱狂させたかが伺い知れます。



さて、ここでとっておきの画像を。

後列右の白いスーツを着たイケメン君が東郷平八郎。
説明によると「春日艦時代のもの」とあります。

先日、日本初の海戦は「阿波沖海戦」である、と書いたわけですが、
この海戦に参加した「春日丸」に東郷は三等砲術士として乗り組んでいます。
この写真は全員「春日丸」の乗組員であるということですが、
着物に帯刀の同僚がいる中、東郷は一人軍服に軍帽を携え、なぜか傘を持って写っています。

ときに東郷平八郎、二十歳。

小柄ではあったものの目鼻立ちの整った美男子である彼は、いつもモテモテだったといいます。
このころは快活でむしろおしゃべりという性向であったようですが、このあと、
留学のお願いをするために交渉した大久保利通が

「東郷はおしゃべりだからダメだ」

といったこと、そして念願叶って留学で渡ったロンドンで

「To go, China」

などと民族的差別にあったことから、 極端に無口になったといわれます。


こちらの写真は東郷(右端)が23歳のとき、とあるのですが、
上の写真で全員が乗っているソファらしきものが全く同じであること、
東郷平八郎の髪型がどちらも全く同じであることから、
同じ日に同じ写真館で撮ったものとわたしは思います。

それにしても不思議な写真で、左の男性は大きな瓢箪を抱え、
真ん中の既婚女性(眉毛がない、つまり引き眉をしている)は
串に刺した団子をもっています。
東郷はというと、鉢のようなものを抱えていますが、なぜか二人とも
目をレンズから逸らしたままで写っています。


東郷平八郎が二十歳のころというと18
68年。

このころはまだ日本に初めての写真館ができてから7年しか経っておらず、
おそらく彼らの写真が撮られたのも、日本に数件しかない写真館でのことです。

つまり、「春日丸」の乗組員は、この日、

「新しく柳川にできた写真館にいってみやうぢゃないか」

というノリで、皆で連れ立って噂の写真というものを撮りに行ったに違いありません。
ということは、これが東郷平八郎の「生まれて初めての写真体験」ということになります。


魂を抜かれる、なんて噂も当時はあったくらいですから、ドキドキの東郷青年が
思わず目を伏せて写ってしまったのもわからなくはないですね。



続く。





東郷邸の一心池〜海軍の街舞鶴を訪ねて

2015-10-04 | 海軍

海上自衛官の案内で巡る舞鶴海軍&海自施設のツァー、
ついに最後の行程になりました。

海軍記念館のある初代舞鶴鎮守府司令長官、東郷平八郎が官舎として
二年間住んだ「東郷邸」の見学です。



海軍記念館のある舞鶴地方総監部から、車で先導していただいて
山の方に5分ほど走ったところに東郷邸はあります。

案内の方が時間を急いだのは、わざわざ地方総監の将官が
わたしたちに東郷邸の案内をするために、現地でお待ちくださっていたからでした。

東郷邸は、グーグルで見ても正確な場所が特定できません。
海上自衛隊の保管となっているため、検索すると舞鶴地方総監が出てきます。

東郷邸の前にある駐車スペースに車を入れていると、すでに門の前には
真白い制服の肩に、二つ桜に錨の金も眩しい自衛官が佇んでおりました。


さっそく名刺交換をして、見学スタートです。



車を停めた道沿いの柵の向こうには海保の官舎があるそうです。

「昔は海軍の土地だったのですが、戦後、先に海保ができたもんだから、
こういうところを取られてしまったんですよ」

いきなりそれですか。



鎮守府司令長官の官舎なので、やはりセキュリティには気をつけたい。
ということで、セコムもアルソックもない当時は、屋敷の周り一面に玉砂利を敷きました。
玉砂利は踏むと特に深夜は音が響くので、鶯張りの廊下と同じ役割をします。



敷石伝いに門から入って行く人には関係のない話です。
敷石は途中で二手に分かれ、海将補は右へとわれわれを先導しました。



そこには目立てした白砂の美しい小さな庭園がありました。

わたしはここをご案内いただける話をしていたとき、

「東郷邸っていっても官舎なんですよね」

というと、そうですということでした。
初代長官が東郷平八郎だったからこう言っているだけで、
終戦まで歴代鎮守府長官が住んでいたわけですから、正確には

「東郷平八郎も住んだ!舞鶴鎮守府長官庁舎」

と言うべきなのです。
まあ、これもキャッチフレーズというものなんでしょうな。
東郷邸は舞鶴市の近代化遺産に指定されていますが、管理は海上自衛隊が行っています。



「それでは庭に入ってみましょう」

「えっ!目立てしてあるのに」

「構いません。わたしどもが毎朝掃除しますので」

そう言って中に入って行く案内の広報の方。
座敷に土足で入って行くようなこの罪悪感は何?



本施設は海上自衛隊の所有であり、現在も幹部会議に利用されています。
正式名称は「海上自衛隊舞鶴地方総監部会議所」となっています。

本来非公開だったのですが、舞鶴市制70周年を記念して平成25年5月27日の
「海軍記念日」に初めて公開されたほか、昨年も、舞鶴で開催された
「海フェスタ京都」の際に一般公開されてそのとき好評だったことから
今年の四月、定期的な一般公開を始めることにしました。


公開日は毎月第1日曜日(1月は第2日曜日の予定)午前10時~午後3時。
入場無料で駐車場はありませんとのことです。

しかし、その際、庭に入れるかどうかはわかりません。



庭に案内されたのは、この「一心池」をみるためです。

初代長官であり、この官舎の最初の主であった東郷平八郎中将の晩年の趣味は
園芸だったといいますが、明治35年、つまりこの官舎に住みだして1年目に、
狩猟の途中に見かけた改修中の庭を見かけて、作業していた庭師に声をかけました。
すると庭師は、自分の作っていた不思議な形の池について

「一心池というのは、心という文字を模した池に一文字の橋をかける手法で、
中国の禅の思想を含み、極楽浄土や神仙境をはるかに遠く隔てた大海を意味する」

と説明しました。
東郷中将はいたく感銘を受け、その庭師に依頼して官舎の庭に池を造らせました。
しかし、説明された海将補は

「わたしにはどうみても心という字には見えないんですが」

ときっぱり言い切られます。



いや、まあ、こういう角度から見ても・・・ねえ?

しかも、このなんだか日曜工事で作ったみたいなコンクリートの池は、何?
これは、平成5年に護岸されていた石をわざわざ取り除いて、
コンクリートで固めてしまったそうです。

風情も何もあったもんじゃありませんが、それもこれも
すべての管理をお金のない自衛隊に押し付けるからこういうことになるんですよ。

違う?



邸内にあった説明の写真を見てもよくわかりません。

さらに解説すると、橋の部分が「一」を表します。(わかる)
くねった形の池が「心」の「し」の部分で(わからない)
木と石を配してこれを「心」の点三つに見立てるというのです。(わかるような)



昔は池の周りに植わっていた程度の木だったのでしょうが、
明治34年(1901)に植えられて114年が経過した今では、
ただでさえわかりにくい池の形や築山を覆い隠すくらい葉が茂っています。

庭創建当時に庭師が

「月は波心に落つることあり」


の意味を込めて配した組み石のほとんども、いまでは厚い苔に覆われて
埋もれてしまい、もはや見ることはできなくなっています。


「一心池」と書かれた碑石ですが、この時を揮毫したのはなんと、
「旅順港閉塞作戦」の立案者であった有馬良橘。
この碑石を作ることが当時の舞鶴鎮守府長官によって決まった昭和16年、
たった一人だけ存命だった東郷元帥の元参謀として、80歳にして筆をとりました。

有馬良橘は予備役に入ってから、生涯明治神宮の宮司を務めており、
昭和5年に東郷平八郎が逝去したとき、葬儀委員長に推挙されたのですが、

神官が葬儀に関わることを禁止した通達に抵触するのではないかとの議論が持ち上がり、
葬儀委員長の方を辞任しています。

代わって委員長を務めたのが加藤寛治でした。


終戦になってここもまたGHQに接収されることが決まった時、

関係者はこの碑石を東京の東郷神社にある「御成池」端に移しました。

おそらくアメリカ人はこの石の意味がわかったからといって
排除したり損壊したりすることはなかったと思われますが、
当時の日本人には、昨日までの敵国人がどんな振る舞いをするかは想像もつかず、
とにかく別のところに移そう、ということだったのでしょう。

昭和44年になって東郷記念館が完成したとき、その落成記念祝賀の席上、
舞鶴地方総監に転勤する星野清三郎海将(海兵63)に、

「この碑石は本来舞鶴旧長官邸にあるべきもの」

と持ち帰ることが依頼され、24年ぶりに元の場所に里帰りし現在に至ります。



建物の鬼瓦の部分にはさりげなく錨のマークが。



ここにも。
瓦は葺き替え、雨どいも近年新しく補修したようです。



すべての部分に錨が付けられている模様。

軒下の照明は、一心池をライトアップするために取り付けられたようです。



廊下の突き当たり、張り出した部分はトイレかな?
現在も現役で使われている施設なので、当然改修されているでしょう。



呉の鎮守府長官邸と全く同じ、和洋折衷の建物となっています。
洋式建築の部分では長官の公務が行われ、外国の高官を迎えることもあったに違いありません。



わたしはカメラ派ですが、その他2名はスマホ写真派です。



洋館部分外壁細部。
唐草のような装飾が瀟洒なイメージです。

日本式家屋を作る大工と、こういう様式建築の大工は、
全く別だったと思うのですが、どうやって作業したのでしょうか。



さて、庭からの見学を終わり、敷石伝いに今度は玄関に回っていきます。
わたしが庭から座敷の写真を撮ろうとしたら、

「この後上がっていただけますから」

と制止されました。
なんと!中に入れるとは全く期待していませんでした。



115年前、東郷平八郎が踏んだその同じ敷石をつたって、
いよいよ舞鶴長官公邸(元)に入っていきます。


続く。


 


大講堂の二つの絵~海軍の街舞鶴を訪ねて

2015-10-03 | 海軍

舞鶴地方総監の自衛隊を訪問し、岸壁の護衛艦見学、
そして海軍記念館の見学を駆け足で行いました。

海軍記念館は大講堂の控え室に当たる部分です。

昭和8年、天皇陛下の舞鶴御行啓が行われることになり、
海軍機関学校が置かれていた小高い土地に、天皇をお迎えし
御臨降を賜るための場所が作られることになりました。

当時のお金で6万円、今の3億円くらいの費用をかけ、
わずか3ヶ月の工事で完成させたのが、この大講堂とそれに付随する記念館の部分です。

中に入ってみると、江田島の海軍兵学校大講堂ほどではないとはいえ、
突貫工事で作られたというのに築80年越えてなお美しさを維持しており、
いかに堅牢に当時の建築物が作られていたのかが伺い知れます。



大講堂の正面から見て左手の壁にはこのような巨大な油絵がかかっています。

東城 鉦太郎作、「旅順港閉塞作戦」

ご覧の通り、日露戦争の旅順港閉塞作戦において、「福井丸」からいままさに
脱出せんとする乗組員たちを描いたものです。

ロシア海軍の旅順艦隊は、旅順港を根城にして兵力の温存をはかるとともに、
そこから出撃しては日本近海での攻撃を繰り返し、連合艦隊はこれに苦しめられていました。
有馬良橘中将の発案で行われたこの作戦は、瓶の口のような形の旅順港の入り口に
船を沈没させて中に旅順艦隊を閉じ込めてしまうというものでした。

そこで、三次にわたって閉塞のための決死隊が派出されます。
この絵はご覧のように、第二次作戦で戦死し、軍神と称えられた広瀬武夫中佐が
戦死する前の退避行動を描いているのですが、作者の非凡さを感じるのはこの構図です。



絵の中心となっているのは被弾した「福井丸」から脱出するボートに
今ロープ伝いに移乗しようとする乗組員であり、ボートの乗組員たちとなっています。

この絵における「主人公」のはずの広瀬少佐(当時)は、脱出する部下の上で
舷(ふなばた)から身を乗り出して気遣わしげに見守っているものの、
その姿は闇に溶け込むように判然とせず、顔すら明確に描かれていません。

ご存知のようにこれはあの悲劇の戦死の起こる前を描いたものであり、
広瀬中佐はこの直後、杉野孫七上等兵兵曹を探して弾倉に降り、
見つからないまま部下に促されてボートに乗り移ったところで戦死します。

それは一瞬のことで、隣に座っていた乗組員もその最期を見ませんでした。
まさに一瞬で広瀬の体は消え、隣に座っていた者はマントに血糊を浴びました。
そのマントは、現在江田島の教育参考館に保存されているそうです。 

画面の右上にはロシア軍のサーチライトが数条光っており、息をひそめながら
ボートで待機する「福井丸」の乗員をサーチライトが一瞬照らし出しています。

この後、このサーチライトで発見された「福井丸」が、ロシア軍の砲撃を受け、
その砲弾がボート最後尾に座っていた広瀬中佐の体に直撃し、
一片の肉塊を残して海中に没するという運命がおとずれることを、
この絵の前に立つ日本人なら全てが知っているからこそ、(ここ伏線)
この瞬間を描いた絵は
より一層ドラマティックであり、悲劇を感じさせるのです。



「額縁をよく見てください」

案内の自衛官が指差しました。
金の縁取りに囲まれた木材の所々には瑕疵にもみえる何かが見えます。

「これは、閉塞作戦で広瀬中佐が乗っていた船の木材なんですよ」

日露戦争終結後、旅順港の「福井丸」は引き揚げられ、その船体は
様々な「記念品」に加工され、世に出回ったのですが、この額縁もその一部です。

以前「三笠刀」といって、三笠の艦体から作った刀についてお話ししましたが、
このころはこういう記念品を作っている「余裕」があったということなのでしょう。

引き揚げられるまでの期間に付着した牡蠣の殻、そして船喰い虫の跡、
「福井丸」に使われた金属部分までが残されているのです。



本講堂は現在でも舞鶴地方総監部が式典などで現役使用中です。

「対して舞台の右側正面の絵をご覧ください」

 

バランスをとるように、こちらにもほぼ同じ大きさの絵画をわざわざ制作したようです。

「伊勢神宮に行かれたことがありますか」

「はい」(二人揃って返事)

「それではここがどこかお分かりですか」

「御手洗場(みたらしば)ですね」

こういうことを即答するのはわたしではなくTOの方です。
伊勢神宮の内宮には、まず五十鈴川という、自動車会社の「いすゞ」の
名前の元になったという川があり、そこにかかる橋を渡っていきます。
(軍艦『五十鈴』、護衛艦『いすず』ともにこの川に因んでいます)

この橋、宇治橋は聖俗界を分ける境界といわれ、ここを渡ったら
まず御手洗場で手と口を清めてお参りをするのです。 



絵の額に使われているのは伊勢神宮の遷宮の際に出た神殿の木材です。
この額の製作には、職員が斎戒沐浴してあたったということです。


さらに絵の一部を拡大したものをご覧ください。

御手洗場の今も残る石段には三人の人物が見えます。
一人は神職であり、後のふたりはセーラー服の水兵とその母親です。
息子は先に手を清めたらしく、手拭いを使っており、その母親は
息子に手拭いを渡してから今度は自分が水辺に膝まづいています。

作者の中村研一画伯は、ジョージ6世戴冠式の折には軍艦「足柄」に乗って
渡欧した経歴があり、おそらくその関係からか、藤田嗣治などとともに
戦争画と呼ばれる作品を19点(これは藤田よりも多い)戦時中に作成しています。

有名なのはマレー沖海戦を描いた作品でしょうか。
藤田はご存知のように戦後そのことを糾弾されてフランスに行ってしまいましたが(笑)、
中村画伯の経歴にはそのようなパージに遭ったとは書かれていません。

なぜここに伊勢神宮の絵を海軍が依頼したかですが、最初に
「福井丸」の廃材を使って作った閉塞作戦の絵ができ、もう一対バランスをとるために
やはり伊勢神宮の遷宮の際に出るお下がりの木材を使って額を作ることが、
まずここに飾る絵のアイデアとして出たのではないかと思われます。

そのアイデアありきで山下画伯に依頼されたのが、御手洗場の絵だったのでは・・。



大講堂天井。

見る限り、はめ込み式の灯りや大型の送風機が最近付けられたようです。
現在も自衛隊の式典が行われるのですから、送風機は夏場対策ですね。

かまぼこ型の天井には変わった形のシャンデリアがありますが、



なんと、これは舵輪をそのまま利用しています。
江田島の大講堂の照明は「舵輪をかたどったもの」ですが、これはそのまま。





さて、ここで御行啓のときの写真をご覧いただきましょう。
巨大な国旗の交差したアーチを、天皇陛下のお車が今通り過ぎんとするところですが、
左に見えている軍楽隊のいる方に上がっていけば、海軍記念館があるはずです。

右には今も残る海軍機関学校の校舎らしきものが見え、
その前には、すでに一種軍服に身を包んだ海軍軍人が整列しているのが見えます。

手前には線路が見えていますが、これは、



今回地方総監の近くで目撃したこの汽車と関係あるでしょうか。
これがいわゆる「阪鶴鉄道」というやつかな?
「知り鉄」の方、どなたかご存知でしたら教えてください。



さらに陛下のお車が現在の海軍記念館の車寄せに停まっている様子。



参考までに現在の海軍記念館。
昔は全くなかった木が立派に生い茂っています。

 


昭和8年、天皇陛下御行啓の際の大講堂の写真。
「旅順港閉塞」の絵が左端に見えています。
おそらくこちら側の壁には「旅順港」と向かい合わせに「御手洗場」があるのでしょう。

あと大きく現在と変わっているのが天皇陛下のお立ちになっている部分です。
GHQに接収されたあと、講堂は畏れ多くも()ダンスホールとなっていました。
陛下のおられた場所はこちらも畏れ多くもダンスバンドのステージとなり、
そのため、この頃より一段高く改装工事がなされることになりました。
現在でも
舞台袖にあるドアは、床が高くなってしまった分、低いまま使われています。

しかし、米軍はこれら2枚の絵には手をつけませんでした。

やはり山下画伯の描いた「マレー沖海戦」のようなものであれば撤去したでしょうが、

「閉塞作戦」の絵も、広瀬中佐を知らないほとんどのアメリカ人にとっては
「兵員が船に乗り移って脱出しているだけ」の絵であり、(そもそも日露戦争の絵だし) 

ましてや御手洗場の絵は「ただの風景画」にしか見えなかったからに違いありません。

しかし、そのおかげで、この二枚の絵は、現在も昭和8年当時から変わらず、
ずっとここにあるのです。



大講堂の説明を終わり、もう一度記念館の展示室を通り抜けて外に出ます。
ところでここに海軍記念館を作ることになったきっかけというのは、これでした。



記念館入り口に鎮座する東郷平八郎元帥の胸像。

昭和20年、敗戦となって日本に進駐軍がやってくることがわかったとき、
関係者は様々な軍資料を廃棄しましたが、この胸像はアメリカ人の手に渡って
「見世物」になったり損壊されるのを防ぐため、ある場所に隠されました。

そして、戦後の混乱期、おそらくはそれを隠した本人もそのことを忘れたか、
あるいはこの世を去ってしまい、そのまま18年が経ちました。

昭和38年、西舞鶴港
埠頭をパトロールしていた警官が偶然埠頭に埋められていた
東郷元帥の彫塑を発見し、海上自衛隊に寄贈したのですが、それを契機として
ここに海軍記念館を作るという運びとなったのです。


舞鶴の海軍関係者からゆかりの品の寄贈を募り、それらの収集品を展示する
海軍記念館が出来たのは、
彫像発見の次の年である昭和39年のことでした。



続く。 




 


海軍記念館の展示品~軍港の街舞鶴を訪ねて

2015-10-02 | 海軍

さて、舞鶴訪問の続きと参りましょう。

岸壁で「あたご」を見学した後は、海軍資料館です。

案内をしてくださった広報の隊員の運転する車の後をついて行き、
道を隔ててほとんど向かいのところにある地方総監部へ。

というか、さっき間違えてこちらに先にきてしまったんですけどね。

今度は帰れと言われることもなく(さっきも別にそう言われたわけではありませんが)
東郷平八郎も車で登ったであろう坂道を上っていくと、
坂の上の開けた部分には舞鶴地方総監の建物と、芝生の美しい広場があります。



左の部分はどう見ても後から付け足した感じ。
現在は舞鶴地方総監部の第一庁舎として機能していますが、
かつてはここに海軍機関学校がありました。
兵学校の同窓会でグループは「江田島」「舞鶴」と表示されていました。

もともと横須賀にあった海軍機関学校ですが、関東大震災で校舎が倒壊し、
ここに移ってきて、その後昭和5年に新築した校舎がこれです。

この右側に白い建物があり、パッと見た目戦後のものに思えたので、
写真を撮りませんでしたが、じつはそちらも海軍機関学校時代の建築だとか。

芝生の囲いが艦砲弾の形をしているのに注目。



芝生は立ち入り禁止、という札がわざわざ立てられていますが、これは
この日海軍資料館が一般公開されるためだったようです。



こちら海軍資料館。
こちらはじつは「裏口」というべきで、この建物は昔「大講堂」でした。
昭和8年、天皇陛下御行幸をお迎えすることが決まり、そのために建てられたのだそうです。
天皇陛下をお迎えするためとはいえ、そのためだけにこのような大掛かりなものを
建ててしまうというのもすごい話です。



正面に立つと、旭日旗の前に東郷元帥のブロンズ像が。

冒頭写真でもごらんいただけるこの旭日旗は、海軍が建造した最初の飛行艇母艦
「秋津州」の軍艦旗でした。
「秋津州」は昭和17年4月29日(つまり当時の天皇陛下の誕生日)に完成し、
第11飛行隊とともにソロモン方面で活動していましたが、
昭和19年9月フィリピンのコロン湾で、米軍艦載機の攻撃を受け戦没しています。

この旗は、沈没の際、乗組員によって持ち出されたものです。



この大きさから実際に軍艦で使われていた時鐘だと思われます。

ところで、案内の方はここに入る前に、

「大変申し訳ないのですが、ここは駆け足で回ります」

と言われました。
わたしの勘違いでスタートが5分遅れた上、「あたご」の見学に時間がかかり、
予定が押してきてしまったようです。

後からわかったことなのですが、この後の東郷邸見学は、
ご紹介いただいた地方総監部の偉い人の解説を仰ぐということになっており、
ずれ込むと偉い人を外で立ったまま待たせることになるのでした。

ですから、わたしにとって垂涎の海軍資料の前はほとんど立ち止まることなく、
通り過ぎながらの見学と成ってしまいました(T_T)

皆がさっさか歩いて行くのに少し遅れ、せめて写真をとシャッターを押しまくるわたし。
資料館の最初は、「海軍の歴史」。

嘉永6年、1853年にペリーが浦賀に来航した時から歴史は始まります。
このときアメリカが日本の門を叩き、無理やり開国させたことから、
その52年後の日露戦争の勝利も、日本が武器をとった戦争も起こることになったのです。
逆説的に言えば、このとき開国しなかったら、日本は戦う必要もなかったということになります。

東京裁判のとき、

「日本の戦争責任を日清、日露戦争まで裁くというなら、ペリーを連れてこい。
鎖国していた日本を無理やり開国させたのは君達ではないのか」


といった

石原莞爾の一言が真実です。

ここには坂本龍馬、観光丸(幕府がアメリカから受領した最初の海軍艦)、
西郷隆盛などの写真があり、



「海軍創設トリオ」、勝海舟、西郷従道、山本権兵衛の写真があります。
この資料で今まで考えてみたこともなかった「日本最初の海戦」(合戦じゃないよ)
がいつ行われたかもわかりました。

戊辰戦争の際、蒸気艦によって行われた、「阿波沖海戦」です。
そういえば靖国神社には、戊辰戦争以来の戦死者が祀られているんですね。



兵式を、海軍はイギリス、陸軍はフランス式にすることが決まったときに、
制服もこの形に決められ、それは終戦まで変わることはありませんでした。



正装用のタキシードと外套。



六分儀と時計。
時計の箱は鍵付きです。



「峯風」「春雨」「野分」「初雪」・・・・。

右上と左下が分かる方おられますか?
舞鶴所属の駆逐艦です。



昭和19年の1月に撮影された、高木惣吉少将とその家族。
高木少将の行った終戦工作については、このブログでもお話ししたことがあります。
奥方が上品でお美しい。



初代東郷平八郎、二代目日高壮之丞。
歴代舞鶴鎮守府長官の写真。
皆正装で写真を撮っていますが、7代目の名和又八郎と14代目の小林宗之助は通常服です。
それはともかく、この写真みてくださいます?



名前を見て思わずわたしが「おおっ!」と内心叫んでしまったのは、
8代目舞鶴要港長官の清川純一少将。



東郷平八郎元帥と秋山真之参謀が一緒に写っている、
確か「三笠」艦上で後ろに立っている若き参謀、(当時第一参謀)
このイケメンが清河純一大尉(当時)であることを、
セイルタワーの見学で突き止めたわたしですが、その後清河大尉が
どのようになったのか知れる写真は今まで見たことがありませんでした。

ここにあったよ。ここに。
ウィキによると、清河純一は海大を首席で卒業し、その容姿も買われたか、
伏見宮博恭王付きの武官を務めたり、ロンドン軍縮会議にも出たりして、
この舞鶴要港司令官を最後に予備役についたということです。

若き日のイケメンは歳を重ねてもなおシブい。
娘は三菱財閥の岩崎家に嫁いだということなので、良家の出だったのでしょう。



これは東郷平八郎の関連資料。
珍しい家族の写真なども展示されています。

左上は噂の「トーゴービール」。
解説してくださった方は、このビールを作ったフィンランドは
日本がフィンランドを統治していた憎きロシアをやっつけたので、
喜んでこのようなビールを作った、とおっしゃったのですが、調べてみると、
この会社は特に東郷さんだけのビールを作ったわけではなく、
「世界の提督シリーズ」として、
ネルソン、ロジェストベンスキー、マカロフ、
そして東郷など6人のラベルを冠したビールを当初売っていたようです。


このビールの存在はずっと知られていなかったのですが、昭和58年に
フィンランドからこれを買ってきた人が、東郷神社にお供えしたことから知られるようになり、
今では舞鶴でも買えたりするそうですが(案内してくれた自衛官談)
提督の数はその後増えて、最終的には山本五十六ビールも実際にはあったのだとか。



「海軍精神注入棒」という名前のバッターかと思いましたが、説明には

「東郷元帥の訓示が彫り込まれた訓示棒」

とあります。
彫り込まれた文句は日本海海戦の時の「皇国の荒廃・・」というあれです。



東郷元帥の直筆手紙。
故郷鹿児島の義理の姉に出した手紙で、日本海海戦より前、ここ舞鶴で
「無聊を囲っていた」ころに出されたものだそうです。

上は、日本海海戦後の「感想」として書かれた短歌で、

日本海海戦後言志 

日の本
乃 海にとどろく かちときは 御稜威かしこむ 聲とこそしれ

とあります。




日露戦争を報じる海外の新聞。
急いで撮ったので何語かもわかりませんが、明治天皇が
とてもカッコよく描かれているのはよくわかった。



東郷平八郎ともなると、あちこちに揮毫を頼まれるわけですが、現存する
東郷平八郎直筆といわれるものの多くは贋作なのだそうです。
丸いお皿に書かれているのは、

愚かなる 心につくす誠とは みそなはしてよ 天地(あめつち)の神

だと説明にありますが、二行目は「つくす」ではないような気が・・。

左のフォークと砂糖壺は、東郷元帥が「三笠」艦上で実際に使用していたものです。


砂糖壺の上の書類は、なんと

「日露戦争 日本海海戦参加人名表」

下の欄に、「三笠艦上の図」の絵で左端にかがんでいた、
海軍兵学校33期首席卒の男、枝原百合一(当時大尉)の名前もあります。

この名前が気になって仕方がない(笑)わたしですが、枝原大尉は、
その後海軍初の航空工廠のトップに就任します。
航空機の時代の先駆けであり、その後の零式艦上機などの誕生につながる
「7試計画」を立案したという歴史的な任務を負った人物でした。




砂糖壺の上にもちゃんと海軍のマークが刻印されています。
これらは銀のサビで真っ黒になっていたのですが(なるよねー、シルバーのアクセサリーって)
自衛隊員が「一生懸命磨いた」ということで、ピカピカでした。



舞鶴工廠で作られた羅針儀。
二つの鉄球はなんの役目を果たすのかな?
それから、下にまるでテーブルの上にありそうな木のお椀がありますが、
どうやらこれは羅針儀の「蓋」である模様。
竹らしい木材を編んだものを表面に貼って、ニスをかけ、
さらに取っ手をつけるなど、手の込んだ細工です。


さて、これだけの写真を(実はもっと撮ったけど、急いで撮ったのでぶれていたり)
撮りながら皆の後をついて行きますと、この海軍資料館の本体、大講堂の部分に出てきました。

天皇陛下御行幸の際に、ここで陛下がお言葉を皆に賜ったという場所です。


続く。

 







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午餐会〜航空基地開設記念式典

2015-10-01 | 自衛隊

記念式典に続き、儀仗隊のドリル、放水デモが終わりました。
ここまでが招待された参加者の必須参加となります。

遠方から参加した人の中には帰ってしまう人もいたようですが、
大抵の人たちにとっては待ちに待った午餐会となります。



格納庫前の式典会場から皆三々五々午餐会会場まで移動します。
広い基地ゆえこの距離はだいぶありました。

道中見つけた看板には、

「給養班事務室」→
「幹部・搭乗員食堂」→
「隊員食堂」←

という案内。
士官と下士官兵が違う食堂であることは旧軍の昔からの倣い。

現在でもその慣習は踏襲されていてますが、旧軍と違って
「搭乗員」は幹部と同じ扱いであるということを改めて知りました。 



多くの人が一つの建物に入っていきます。

本日の午餐会は会費制で、一人1000円の参加費が徴収されました。
「いずも」「ふゆづき」の引き渡し式はJMU、三井造船による「お振る舞い」で、
特にJMUなど、パーティーコンパニオンまで投入するという豪華なものでしたが、
さすがに自衛隊主宰ともなると、全くの持ち出しはご予算的に厳しいのかと思われます。

会場の手前には荷物預かり所と控え室を兼ねた部屋があり、そこには
本日の式典に寄せられた祝電が掲示されていました。



そのなかのひとつ、自民党の佐藤正久議員の祝電。

先日の安保法案可決時には、議長代理として大活躍?

議長(密接な関係にある他国)に対する小西議員のダイビング(武力攻撃)が発生したので、
小西議員を押し戻し(集団的自衛権を発動)自ら法案の必要性を証明した功労者です。

招待されていた自民党議員は全員代理出席でしたが、一応の可決を見るまでは
ほとんど休みなしでそれに向けて当たってきたはずですから、
とりあえず一息ついているのか、それとも成立に向けてなお一層多忙なのか・・。



また控え室では、当基地での自衛官たちの様子がパネル写真で紹介されていました。



搭乗員学生が、救難信号銃の発射訓練をしています。



飛行準備中の搭乗員学生。
何をしているかというと、P-3Cの機体下部にあるソノブイ投射孔に充填中。
ソノブイって、こうやって入れるんだ・・・。

P-3Cは対潜哨戒機であり、ソノブイとは海中での潜水艦の動向を探るソナーです。
昔はソナー員が耳で解析をしていたそうですが、潜水艦の静粛性が進歩した今は、
潜水艦の艦体そのものが生じる極低周波を探知可能なローファーブイ
(Low Frequency SONAR Buoy)が採用されています。



夜間、P-3Cを誘導している列線員。



構内を移動している時に見かけた列線事務室。
第203列線整備隊の看板があります。
植え込みにはCOS(部隊略称?)の刈り込みがあります。



P-3Cを整備中の整備員。



同じく。
専用の高さの整備台があるようですが、ずっと中腰は辛い作業じゃないかと思います。



救命用の落下傘を整備している隊員。
どんな作業でも基本そうですが、特に落下傘の整備不良は直接命に関わります。



給養員カレー作成中。

ここの「特別カレー」を、今日はいただくことができます。楽しみ♪

しかしこの鍋の巨大なこと。
右側には蓋が見えていますが、どうも人力ではなく蓋の開け閉めは機械で行うようです。
かき混ぜるだけでもものすごい力が要りそうですし、おそらく夏は地獄です。

この後どうやってこの鍋を洗うのか、気になって仕方がありません。



さて、そんな写真を見ながらざっと30分くらいは待ったでしょうか。
会場がオープンになり、入り口に近いところで写真を見ていた私たちが
入室すると、こんな状態でした。



入り口には基地司令が一人一人に挨拶をするために立っているので、
会場にどっと人が流れ込むことはありません。



段に一番近いテーブルには、賓客(政治家など)の名前が小さな紙に書いて貼ってあります。
立食ですが前の方はVIP席となっているわけです。



会場の隅にはすでに料理の運搬などをする隊員が待機。



招待客はほとんどが協力会や防衛団体、協力会社などの方です。

デザートのフルーツ皿にはたった二つだけエッグタルトがあります。
これが美味しそうなので、ぜひ食べてみたいと狙っていたのですが、
各テーブルに二つずつしかないので、あっという間になくなってしまいました。

TOと「あれ食べたかったねー」と言いながらふとVIPテーブルを見ると、
全く手をつけられていないままのエッグタルト二つ確認!!

速やかかつ迅速に場所移動し、それを狙っている人、つまり競合者

周りに誰もいなさそうなのを確かめ、素早く確保して
一つづついただきました。
美味しかったです。 


本日食べたものの中で、カレーとこれが最も美味しかったという意見の一致を見ました。



さすが海自、ちゃんとお刺身用の船を完備。



VIPテーブルには、他自衛隊の幹部などもいたようです。

それはともかく、TOははこのとき前に立っている隊員たちを見てこんなことを言いました。

「自衛隊なのに太ってる人がいるんだけど。あれっていいの?」

「いや、自衛隊と一言で言ってもいろんな職種があるから。
事務職だってあるし、一日モニター見ている仕事もあるし」

「あ!もしかしたら相撲部かも」

そういえば司令官の部屋のある棟の入り口に、相撲大会優勝したというお知らせもあったな。

「いや・・、調理する係の可能性が高いかな。味見があるから」

そんな会話をしていたら、基地司令が一通りの挨拶を済ませてから段の下に並ぶ
4人を指し、

「今日ここに並ぶ午餐のメニューを作った給養員を紹介します」



「ほらー!やっぱりそうだった!わたしってすげー!」

壇上に上がって紹介を受ける4人の給養員(のうちの一人)をみて勝ち誇るわたし。
教育航空群司令が料理長に当たる給養責任者に、

「自己紹介と本日のお料理のお勧めポイントなどを」

と促すと、マイクを持った隊員は、まず自分の出身地などを言ってから、

「本日のお勧めはローストビーフです。リブロースという部位を使用していて、
厚みのあるロースなので、キメが細くて美味しいです。
リブロースはローストビーフやステーキなどに使われ・・・」


とリブロースについてひとしきり熱く語ってから(´・ω・`)

「どうぞご賞味ください」

と締めくくりました。



シェフの一押し、ローストビーフとリブロースのステーキ。
わたしはどちらもなんとなく食べ損ねました。
向こうの深川飯風ご飯はいただきました。美味しかったです。



教育航空集団司令の乾杯の発声。
この日は司令の奥方も地方からわざわざ来ておられました。
午餐会が始まるやいなや、司令の前には挨拶をしようとする人の列ができ、
みている限り海将も基地司令も昼食どころか、食べ物を一口も口にできない状態でした。

兵学校同期会の会合で元海将が講演を行った時には、会の進行役が

「聞いてみたいことはあると思いますが、最初は食事をさせてあげて下さい」

と「押しかけ挨拶」を前もって牽制していたものですが、ここは自衛隊。
間違っても客に対してそんなことは言いません。


司令は1時間最初から最後まで挨拶のしっぱなし、さらには夫人は、

その横でニコニコと何回も頭を下げ続けて、本当に将官の奥さんは大変だと思いました。




会食が始まるなりわたしとTOはカレーの屋台に突進しました。
給養員を紹介した時に、

「自慢のカレーは数に限りがありますのでお早めに」

とか司令がいうものだから、早々に屋台に列ができてしまったのです。
屋台では三人の配膳係が目にも留まらぬ速さで小さなお椀にカレーをよそっていました。

さすがは海自のカレー、こっくりと溶け込んだルーは甘口で、
大鍋で煮込まれた
野菜はまだ原形をとどめているも、まろやかな舌触り。

やはり今日のお料理で一番美味しかったのがカレーでした。




刺身はあっという間に大量のツマを残してこの通り食い尽くされました。
わたしがこの写真を撮っていると、前にいたおじさまが

「ほら、ここ(菊の花の下)に身が隠れてるよ〜」

と教えてくれたので、せっかくだからそれをいただきました。美味しかったです。



宴会も終盤、集合していた陸空海自衛官らが全員で記念撮影。
真ん中に三人幹部がいる以外は准尉、曹長クラスです。

同階級での三自衛隊における横のつながりというのがあるのかもしれません。



会場の舞台両脇に、ピラミッド状に積まれた枡がありますが、これは
樽からの振る舞い酒を受け取って飲み、持って帰ってもいいことになっていました。

木の香りも清々しいこの枡を、夫婦ともにお酒の飲めないわたしたちですが、
せっかくなので二ついただいてきました。

ところでビニール袋に詰め込めるだけ詰め込んで持って帰ろうとしている

おじさんがいましたが、何に使うのでしょうか。



さて、1時間にわたる午餐会は和やかに終了し、わたしたちが海将に挨拶してから

会場を後にしようとすると、海将の副官らしき若い自衛官が追いかけてきて

「P-3Cの体験搭乗の受付の場所、おわかりですか?」

と尋ね、知らないと答えるとそれを丁寧に教えてくれました。
そう、わたしはこの日、P-3Cに乗って空を飛ぶ、体験搭乗に参加したのです。


続く。