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書斎からの眺め〜東郷亭・軍港の街舞鶴を訪ねて

2015-10-07 | 海軍

舞鶴鎮守府長官邸跡、通称「東郷邸」。
終戦までの間、 36人もの司令長官並びに司令がここに居住したわけですが、
初代長官が聖将東郷平八郎だったため、すっかり東郷邸となってしまっております。

ところで度々名前を出しますが、要港部司令官を務めた清河純一中将は、
日露戦争の時参謀として東郷大将に仕えました。
何人かの自衛官に

「これってすなわち東郷さんの副官だったということなんでしょうか」

と尋ねると、おそらくそうであろうと答えたので、そうと仮定しての話ですが、
副官として身近で東郷元帥を知っていた清河大尉は、この時代に上司として、
そして人間としての元帥に心酔し、その気持ちを一生持ち続けていたのでしょう。

何が言いたいかというと、清河中将は、舞鶴要港部司令に任命された時、
東郷元帥がかつて務めたことのあるこの職に就くことを、
それゆえこの上ない名誉と考えたのではないかということなのです。

 
たとえ日露戦争終結後の舞鶴が「閑職」ということになっていたのだとしても。



さて、昭和9年、東郷元帥が病に倒れた時、日本中がその回復を必死で祈りました。




小学校4年生の子供が東郷元帥に当てて出した手紙。
副官の掲げているのは、治癒祈願のために血でしたためられた手紙です。


国民の祈りの甲斐もなく元帥が逝去した時、清河中将は、すでに予備役でしたが、
東郷邸から日比谷公園までの総距離1キロ半に渡る葬列に、
日露戦争時
「三笠」勤務だった将士とともに加わり、
五十日祭の明けるまで
いかなる天気の日にも休まず、謹直に墓参を続けました。


そして、翌年の3月に57歳で亡くなっていますが、その病因は
東郷元帥の逝去以降の心労と墓参のためであったとも言われたそうです。




さて、そんな清河中将が舞鶴赴任時には、「ここにかつて元帥が・・・」
と感激しながら住んでいたに違いない、官舎内部を見ていきます。



おそらく最初からずっとここにあって、38人の司令の姿を
毎日写してきたに違いない壁掛けの鏡。



和室の欄間の透かし彫りは、藤の花の意匠でしょうか。



現在でも海上自衛隊の幹部が会合を行う和室。
昔はここが司令官の居室であり、押入れなどもあることから
ここに布団を敷いて寝ていたのだと思われます。
(というか他にそれらしい部屋もありませんでしたし)

ですから当時は当然このような掘りごたつなどはなかったと思われます。
掘りごたつを覗いて見てみましたが、最新型のものでした。

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部屋は真ん中で仕切ることができるようで、床の間が二つあります。
この掛け軸についての説明はありませんでしたが、座敷にはなぜか

国雖大好戦必芒 天下雖平、忘戦必危

(どんな国が大きくても戦争が好きであれば必ず滅びる。
どんなに天下泰平であっても戦争の準備を怠れば危険が訪れる)

という、今の日本とその隣の国に聞かせてやりたい「司馬法」の言葉が
書かれた木版が畳の上に置かれていました。

掛け軸も東郷元帥の署名があり、二箇所読めない字があるのですが、

こちらもつまり

「戦いに備えなければ平和はない」

というようなことが書かれていると思います。



加賀の金箔、京都正絹の忍緒、京都錦織の座布団?江戸の金細工。
当時考えうる限りの「ブランド」を使って設えられた兜。



庭の緑が座った位置から見られるように、障子は下がガラスです。
昔は雪見障子になっていたのではないでしょうか。




消化器を隠す木の収納箱も雰囲気を壊さぬように配慮。
おそらく昔は雨戸が外付けになっていて毎晩引かれたに違いありません。



消火栓入れを内側から見たところ。



そしてここが書斎です。
開かれた窓にはいつ点されたのか、蚊取り線香が煙をくゆらせていました。

「蚊が多いんですよ」

と海将補。
まあ、わざわざ水を貯めて作った人工池があればそうなるでしょうな。
海将補も、舞鶴赴任になって以来、こんな感じの歴史的な官舎にお住まいで、
これがまた住むのが大変なのだ、ということでした。

それはともかく、この書斎に座って、舞鶴鎮守府時代の東郷長官は
何事かを思い庭を見る日々が続いていたのです。

巷間、東郷平八郎が連合艦隊の司令長官に任命される前、舞鶴鎮守府初代長官に
指名されたのは「左遷だった」という説があります。

説明してくれた海将補も、そういう職にあった東郷を抜擢するにあたって、
海軍大臣であった
山本権兵衛が、天皇陛下に

「東郷は運のいい男にございます」

と奏上したとおっしゃっていましたし、わたしも同じことを当ブログで書いたことがあります。
しかし実際は、山本が、扱いにくい日高壮之丞を第1艦隊司令長官にするのを嫌い、
おとなしくていうことを聞く東郷を抜擢したにすぎず、さらにそのときの言葉は

「この人が、ちょっといいんです」

であったという証言があるのです。
いずれにしても山本権兵衛が陛下に対してタメ口なのが驚きですね。



「これは当時のままですか」

と訪ね、そうだという返事を聞いて撮った天井の写真。
東郷平八郎が書の合間にきっと眺めることもあったであろう天井です。


「ガラスに歪みがありますね」

わたしがいうと、広報の方が

「よく気付かれましたね。このガラスは当時のままのものですが、
舞鶴に工場を持つ日本板硝子に依頼しても、同じものはできないとのことです」



呉鎮守府長官公邸もそうでしたが、当時のガラスは歪んでいて、
それがまた味があるというか、風情を感じるものです。
耐用年数の長いガラスは、今も東郷元帥がこれを通して外を見たままに
同じ景色をそれを通して見ることができるのです。



一般にこういった歴史的な建築物が機能性・居住性に優れているはずがありません。
にもかかわらず、自衛隊の所有であるこれらの建物に住み続けなくてはいけないというのも、
伝統墨守を旨とする海上自衛隊の偉い人の宿命というものなのです。

「わたしのいる官舎がまた大変なんです」

と切々と訴えられる海将補(笑)
なんでも舞鶴というのは昼間暑く夜は寒い、冬になると部屋の中も零下、
というような気候だそうで、特にこういった昔の家屋は夏の通気には優れているが
冬はそれこそ部屋の中でテントを張って生活している将官もいたのだとか。

しかも、海将補の官舎には蜂が巣を作り、その駆除と
ハチとの戦いで精魂尽き果てそうな毎日だと、海将補はおっしゃいました。

しかも、市の文化財などに指定されてしまうと、改装改造の類はご法度です。

「こちらに来て体を壊してしまった者もいました・・・」

遠い目をされる海将補。
せめてそんな環境でも滋養をつけていただこうと、帰宅してから海将補に
すっぽんのおじやをお送りさせていただいたわたしたちです。



おおおおお、とつい声が出てしまった映画「日本のいちばん長い日」パンフ。
実は舞鶴でこの映画のロケが多数行われているわけですが、
この東郷亭でも、鈴木首相(山崎努)が帰宅して着替えをするシーンが
(本人は何もせず着物を肩からかけてもらったりしていたあれ)撮影されているそうです。

映画を見たのがこの何日か前であったので、記憶は鮮明でした。

右側の菊の御門の巻物は、日露戦争の終戦の勅です。

そしていきなりこんな空間が・・・。
かなりの人数分の食器やグラスを収納した棚、電化製品、座卓。
食事を運ぶワゴンまであって、まるで人のうちの台所を見ている気分です。



飲みかけのお茶なんかが出ているところをみると誰かいる?

「いつも管理の人が詰めています」

電話は設置されておらず、携帯が置かれていました。
ちなみに奥の張り紙は、「電解還元水・酸性水の使用例」だそうです。

いきなりこんな生活じみた光景が現れるあたりが実際に
使用されているということなんだろうなと納得しました。



この適当に書かれた感じが、いかにも直筆らしい(笑)。
色紙を出されたのでさらさらっと書いてみました感溢れる東郷平八郎書、

「勝って兜の緒を締めよ」

 その辺の人が言うのではなく、連合艦隊解散之辞において、この言葉を選んだ本人が
書いているのですからありがたさ倍増。ってことなんだと思います。


舞鶴鎮守府長官の職が果たして閑職であり、つまり東郷中将は左遷されていたのか、
については必ずしもそうではないという考え方もあります。
つまりこのころ、日露戦争の火種はもうとっくに興りつつあり、舞鶴は
来る対露戦を想定してロシアのウラジオストック軍港に対峙する形で設置された
重要ポストであり、決して閑職というわけではなかったというのです。

これらは、東郷元帥が閑職から運だけを買われて大抜擢されただけなのに、
日本海海戦でのあっと驚く名采配によって聖将とまで言われた、という、日本人好みの
大逆転サクセスストーリー、いわば東郷元帥を称える「スイカに塩」的な味付けとして
流布された悪意のない脚色ではないかとわたしは思っています。 


しかしながら、東郷中将本人がこれを「閑職」と考えていたとすれば話は別です。
どうもいろんな資料を見ても、外からの評価はともかく、本人は左遷されたと感じ、
早く中央に帰りたい、と思っていたことは事実で、 つまりここに起居していた2年間、
海将補がおっしゃるところの

「書斎から庭を眺めながら鬱々と物思っていた

というプチ臥薪嘗胆な日々を過ごしたことは間違いありません。

亡くなったとき小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文が
新聞を飾ったことに象徴されるように、日本国民の神様になってしまった東郷元帥ですが、
機関科問題が起きた時「竈焚き風情が」などと思わず言っちまったことなどを見ても、
案外権威主義で、序列に拘泥するような俗な部分もあったのかもしれませんね。


というわけで、深い崇敬の念を持ちつつも、東郷元帥の神格化には異を唱えていた
井上成美大将に、僭越ながらわたしもまた賛同するのでした。



続く。