サンフランシスコ空港近くのサンカルロスにあるヒラー航空博物館は、
勿論航空博物館なのですが、このような展示物もあります。
メッサーシュミット”キャビンスクーター”。
昔、景山民夫のエッセイ(この人のエッセイ本、面白かったですよね)に
高速の車線内側に景山さんのスバル?とメッサーシュミットと忘れたけど
何かもう一台似たような車が信号待ちで並んでいて、そのとたんお互いの間に
瞬時に「やる気」が伝わり、青信号と同時に三台のレースがスタート、
息詰るようなデッドヒートが繰り広げられているその外側車線を他の車が
ブンブン追い抜いていった、という話を読んだことがあり、
「メッサーシュミットって、名前はかっこいいのにこんなに遅い車なんだ」
と、勿論その名前を持つ戦闘機があることなど、全く知らなかったわたしは
この逸話をその名前とともに印象深く刻んだものでした。
ここにはそのメッサーシュミットがあります。
なんだって航空博物館なのに車を展示しているのだろう、と思ったのですが、
ここにはこのようなアンティークカーも展示されていますし、
その理由をあまり深く考えませんでした。
この博物館の素晴らしい点は、時代が一目でわかるこのようなマネキンを置き、
ただ展示するだけでなく視覚に訴える演出がされていることです。
マネキンが来ている洋服も古着には見えず、このためにわざわざ作ったのかと思うくらいです。
ついでですので、わたしが一番好きなマネキン演出を。
映画の一シーンのようです。
もしかしたらカサブランカ?と思ったのですが、この男性の制服の正体が
まったく映画とは関係なさそうだし、ここにあるのは
BUHL AUTOGIRO 1931
1931年に制作されたオートジャイロなので、ヴィシー政権下のフランスを描いた
カサブランカとは縁もゆかりもないことになります。
写真が出たついでに説明しておくと、このオートジャイロ「ブール」は、
165馬力の「コンチネンタルA70」という7気筒空冷式エンジンを使った
世界最初の航空機です。
ここアメリカではなくスペイン飛行機会社がオートジャイロを最初に開発しました。
開発者はスペイン人のフアン・デ・ラ・シエルバ。
オートジャイロとヘリコプターは似ているようで別のものです。
その違いは回転翼に駆動装置がついているかいないかです。
簡単に言うと、オートジャイロはプロペラがまず回転し、そのプロペラの風や
推進時の風力によって回転翼が初めて回転して揚力を得るという仕組みです。
まあ、単純にその違いについては
「オートジャイロはホヴァリングできない」
ということだけ押さえていただければいいかと思います。
勿論ヘリコプターが発達したのでオートジャイロは実用性を失い、
今ではスポーツ競技用に使用されるのみとなっています。
機体の後ろに見えている木製のプロペラがまず回転し、
その推進力による気流で回転翼が回るという仕組みです。
この機種を当時の日本では朝日新聞社が購入して持っていました。
朝日はこのオートジャイロで空中遊覧のルポをし、
「空中道中膝栗毛」
というコーナーを連載していたそうです。
さて、メッサーシュミットの話に戻りましょう。
このメッサーシュミットもおそらくベイエリア在住の篤志家からの
寄付だと思われますが、航空博物館としてはこれが航空機製造会社の
メッサーシュミット製品であるというつながりからこれを受け、
このように
アルバトロス飛行艇(一番向こう)、アルバトロス練習機(その左)
そして手前の・・・何だっけ、まあその隣に展示されるという
「破格の扱い」を受けているものと思われます。
この”キャビンスクーター”は1958年製。
この車の前にある解説にはまずこのような出だしで説明が始まります。
”第二次世界大戦後、ドイツは荒廃しました。
メッサーシュミットのような会社は航空機の製造や、あるいは武器製造に
かかわるもの全てから、何年かもの間『忘れられ』 ていました”
へー、何だかとーっても他人事。
まるで自分の国が全くその荒廃の原因となった産業不振と関係ないかのようね。
どうしてメッサーシュミットが「忘れられていた」のかって?
アメリカさんともあろう国がその理由を知らないはずないでしょ?
とぼけちゃって。
まず、この英語のwikiを見ていただけるかな?
Following World War II, Messerschmitt was tried by a denazification court
for using slave labor, and in 1948 was convicted of being a "fellow traveller."
After two years in prison, he was released and resumed his position
as head of his company.
メッサーシュミット社の創立者、ウィリー・メッサーシュミットの記事です。
日本語のwikiだと、上記の「非ナチ化」裁判、あるいはその下の
「同伴者」(戦犯とまではいかないが協力した者)という説明がなかったので
あえて英語wikiを載せました。
元々この非ナチ化は米英ソの三国によって決められ、アメリカは占領政府のもと、
ドイツの非ナチ化を行うべく、戦犯裁判において自らがナチ党員だけではなく、
ナチズムと軍国主義の支持者全員の公職、準公職から排除することとしました。
また、社会の要職につく人々とナチ党との関係を審査し、
その結果公務員の3分の1が解雇されたということです。
ところが日本に対する厳格なやり方とは違い、アメリカはここでドイツ人に対し
アンケートをしてその結果を裁定する、という甘々な方法をとったため、
誰も本当のことを答えませんでした。
そりゃま普通そうなりますわね。
そこでアメリカはドイツ政府にその「非ナチ化」をドイツの法律として制定させ、
それらをドイツ人の手に任せたわけです。
ここからが問題。
同胞がそれを決定するということになれば、今度は身内の庇い合い、
実力者のコネで無罪を勝ち取る、恨みを買うのを恐れて告発することをためらう、
こういったプチ暗黒社会化とでもいうべき当然の成り行きが待っています。
そもそもそんな告発委員会のメンバーになど誰もなりたがりません。
しかしさすがはドイツ人、そんなときにも組織はさくさく機能したため、
景気よく?ドイツもこいつも戦犯として牢屋に入ることになってしまい、
そのためドイツ社会は人手不足が深刻になってしまって当然産業は空洞化し、
「ドイツは荒廃し」ます。
つまり、アメリカが戦後日本にもやったように、戦時中の基幹産業を
すべて「戦犯」の名の下に駆逐してしまったこともまた、
「ドイツの荒廃を招いた」
ということだったんですよ。
というわけで、どこのドイツが直接この国を「ruined」させたか、
分かっていただけたかな?ヒラー博物館の人。
メッサーシュミットは強制労働をさせた罪でアイン・シュトリンケンデ・マールツァイト
(臭い飯)を2年間喰らって娑婆に出てきて再び社長になりましたが、
メッサーシュミット社は航空機の製造や研究を1955年まで禁止されていました。
それで、プレハブ住宅やこういった小型自動車を作って堪え難きを耐えていたわけです。
日本でも、戦時中に航空機を作っていた会社は殆どがその製造を禁止され、
例えば川西航空機はお菓子のあられまで作って耐えたという話がありましたが、
この会社の場合、転んでもただでは起きなかったので、このときの何でもやった経験が
戦後の事業にうまく結びつき、多角化に成功して今日に至ります。
さて、その頃メッサーシュミットが制作したのが、この「キャビンスクーター」でした。
低燃費で長距離を走ることのできる「バブルカー」(キャノピーがバブルのようだから。
バブル時代に六本木カローラと言われたベンツやBMWのことではありません)
というカテゴリのミニカーです。
やはり戦時中、ユンカース、フォッケウルフのエンジンを製造して来たBMW社
(バイエルン・モトーレン・ウェルケ)も、戦時中に
捕虜収容所の囚人を3万人労働させたということで3年間操業停止処分を受けましたが、
解禁後まず二輪車、そして次は「イセッタ」という、やはりバブルカーの
ライセンス生産をしながら次第に生産を軌道に乗せていっています。
このイセッタ、わたしは今回初めて写真を見たのですが、ドアが前にあるんですね。
ハンドルがジャマで出られないような太った人は乗るな、というコンセプトですか。
かわいいというか・・・・キモカワイイ、って感じ?
しかし、BMWはこの「イセッタ」に、バイエルン州の州旗からとったブルーと白の
マークは付けても、1933年からシンボルデザインとしていた「キドニーグリル」
(フロントグリルの豚の鼻のような肝臓を象った窓)を使っていません。
BMWのプライドかな?と思ったのですが、この車にはフロントグリル要りませんよね。
実に愛らしい。こんな犬いますよね。
同じようなコンセプトだったフォルクスワーゲンほど一般的には
なりませんでしたが、今日でも蒐集家に取っては垂涎の一品となっています。
元々「雨を避けることのできるスクーター」というコンセプトなので、
名前も「カビネンローラー」(キャビンスクーター)と名乗ったりしていましたが、
これがこのバブルカーの総称にもなっています。
エンジンはコンパクトで、強制空冷単気筒の200cc。
バイクだとしても中型ですね。
4段階マニュアルトランスミッションで、バイクと違うのはバックもできること。
最高時速99キロ、(十分ですよね)
ガソリン1ガロン(3、79L)あたりの燃費は100マイル(160キロ)。
つまり、リッター・・・・
42キロメートル・・・・・だと・・・・・。(愕然)
ブルーエンジェルスのコクピットもありますよ。
さて、「戦犯企業指名」なんですけどね。
どうしてもこういう言葉にこだわらずにはいられないエリス中尉としては、
「戦犯」って何なのよ、ってことをちょっとだけ書いてみます。
これつまりは「戦争に負けた」から負けただけのハンディを負わされただけなんですよ。
もしアメリカとイギリスが負けていたら、グラマンもシコルスキーもヴォートも
レイセオンも、ソッピースもスーパーマリンも戦犯企業として操業を停止され、
たとえばこんな玩具みたいな車を作って糊口をしのがなくてはならなかったってことですよね?
つまり「戦犯」という言葉は、戦争当事者同士の間にのみ存在するべきで、
しかもその「ペナルティ」を受け終われば、もう消滅すべきものなのです。
と こ ろ が 。
なぜか、日本と戦争していたわけでもなく、徴兵されたわけでもない国が、
戦後70年にもなっているのにいまだにこの言葉が大のお気に入り。
つい最近も「戦犯企業は戦時中の労働に対する賠償を云々」
などという案件を裁判沙汰にして、賠償金をむしり取ろうとしているんですね。
なんなんですかこれ。
日本を「戦犯」と呼んでいいのは、日本と戦って勝った国だけです。
日本と一緒になって戦っていた国にそれを言う資格はないのです。
しかもその「罪状」は、東京裁判の結果、国家指導者を首吊りにして生け贄にされ、
公職追放の嵐は吹き捲くってGHQの思想統制は国民を席巻し 、全ての価値観を変えられ
・・・・、しかし、そんな悪夢のときを経て曲がりなりにも独立に至った、
あの時点で法的には勿論歴史的にもすっかり消え失せていると思うんですがねえ。
だいたい反省せよというならばあの時期を反省期間と言わずして何というのか。
戦争に負けて反省する必要があるとはわたしはみじんも思いませんが、
あの時期、日本は占領下で「反省」の言葉と共に散々辛酸を嘗めたではありませんか。
何度も言いますが、戦争に善も悪もないのです。
あるのは、勝ち負けだけで、負ければ「罰ゲーム」が待っている、
それだけのことなんです。
罰ゲームで運が悪ければ国が無くなりますが、国さえ残れば、
罰ゲームをとっとと終えて、後は何の遠慮もなく国を復興隆盛させてもいいんですよ。
そして、それを引け目に思ったり、ましてや反省する必要などないのです。
かつて世界に「戦犯国」と呼ばれた国が二つあります。
どちらの国も敗戦の痛手から立ち上がり、戦犯国としてのペナルティを受けた後も
工業技術の分野で世界のトップ集団に返り咲いて戦後の繁栄を成し遂げました。
そして
「世界にいい影響を与えている国」
のアンケート結果は、2012年・2013年とこの両国が占めています。
いまや(世界でただ一カ国を除いて)この二カ国を戦犯国などと呼ぶ国はありません。
チェコスロバキア製の高速ジェット練習機、
L−39アルバトロス
の前のおじいちゃんと孫。
この博物館で夏の間開催されているサマースクールの生徒で、
おじいちゃんはお迎えにきたみたいです。
今日やったプロジェクトをまず見せて報告をしているのでしょうか。
彼らが前に座っている飛行機はまだ現役で、ロシアでも運用されているそうですし、
フランスではアクロバットチームが運用したりしています。
チェコスロバキアはその後チェコとスロバキアに分かれましたが、
その際、仲良くこのアルバトロスをスロバキア14機、チェコ30機、と分けたようです。
ご存知かもしれませんが、チェコスロバキアはベルリンの壁崩壊をきっかけに
「ビロード革命」という流血の全くない(デモ隊と政府のぶつかり合いは勿論あった)
革命を経て二つに分かれた国ですから、こういう場合も遺恨を残すことなく
すんなりと分配が進んだのかもしれません。
少なくとも、独立戦争後どちらかが片方を「戦犯」としてマイルールで裁く、
などという支配被支配の歴史を作るようなことにならなかったのは
両国民に取って幸せなことであったに違いありません。
・・・と、無理矢理話を結びつけてみました。
ふう、落語の三題噺を終えた高座の気分。