ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ヒラー航空博物館・メッサーシュミットと「戦犯企業」

2014-05-02 | 航空機

サンフランシスコ空港近くのサンカルロスにあるヒラー航空博物館は、
勿論航空博物館なのですが、このような展示物もあります。

メッサーシュミット”キャビンスクーター”


昔、景山民夫のエッセイ(この人のエッセイ本、面白かったですよね)に
高速の車線内側に景山さんのスバル?とメッサーシュミットと忘れたけど
何かもう一台似たような車が信号待ちで並んでいて、そのとたんお互いの間に
瞬時に「やる気」が伝わり、青信号と同時に三台のレースがスタート、
息詰るようなデッドヒートが繰り広げられているその外側車線を他の車が
ブンブン追い抜いていった、という話を読んだことがあり、

「メッサーシュミットって、名前はかっこいいのにこんなに遅い車なんだ」

と、勿論その名前を持つ戦闘機があることなど、全く知らなかったわたしは
この逸話をその名前とともに印象深く刻んだものでした。

ここにはそのメッサーシュミットがあります。

なんだって航空博物館なのに車を展示しているのだろう、と思ったのですが、



ここにはこのようなアンティークカーも展示されていますし、
その理由をあまり深く考えませんでした。
この博物館の素晴らしい点は、時代が一目でわかるこのようなマネキンを置き、
ただ展示するだけでなく視覚に訴える演出がされていることです。
マネキンが来ている洋服も古着には見えず、このためにわざわざ作ったのかと思うくらいです。



ついでですので、わたしが一番好きなマネキン演出を。

映画の一シーンのようです。
もしかしたらカサブランカ?と思ったのですが、この男性の制服の正体が
まったく映画とは関係なさそうだし、ここにあるのは



BUHL AUTOGIRO 1931

1931年に制作されたオートジャイロなので、ヴィシー政権下のフランスを描いた
カサブランカとは縁もゆかりもないことになります。

写真が出たついでに説明しておくと、このオートジャイロ「ブール」は、
165馬力の「コンチネンタルA70」という7気筒空冷式エンジンを使った
世界最初の航空機です。

ここアメリカではなくスペイン飛行機会社がオートジャイロを最初に開発しました。
開発者はスペイン人のフアン・デ・ラ・シエルバ

オートジャイロとヘリコプターは似ているようで別のものです。
その違いは回転翼に駆動装置がついているかいないかです。
簡単に言うと、オートジャイロはプロペラがまず回転し、そのプロペラの風や
推進時の風力によって回転翼が初めて回転して揚力を得るという仕組みです。
まあ、単純にその違いについては

「オートジャイロはホヴァリングできない」

ということだけ押さえていただければいいかと思います。

勿論ヘリコプターが発達したのでオートジャイロは実用性を失い、
今ではスポーツ競技用に使用されるのみとなっています。



機体の後ろに見えている木製のプロペラがまず回転し、
その推進力による気流で回転翼が回るという仕組みです。

この機種を当時の日本では朝日新聞社が購入して持っていました。
朝日はこのオートジャイロで空中遊覧のルポをし、

「空中道中膝栗毛」

というコーナーを連載していたそうです。



さて、メッサーシュミットの話に戻りましょう。
このメッサーシュミットもおそらくベイエリア在住の篤志家からの
寄付だと思われますが、航空博物館としてはこれが航空機製造会社の
メッサーシュミット製品であるというつながりからこれを受け、
このように



アルバトロス飛行艇(一番向こう)、アルバトロス練習機(その左)
そして手前の・・・何だっけ、まあその隣に展示されるという
「破格の扱い」を受けているものと思われます。

この”キャビンスクーター”は1958年製。

この車の前にある解説にはまずこのような出だしで説明が始まります。

”第二次世界大戦後、ドイツは荒廃しました。
メッサーシュミットのような会社は航空機の製造や、あるいは武器製造に
かかわるもの全てから、何年かもの間『忘れられ』 ていました”

 
へー、何だかとーっても他人事。
まるで自分の国が全くその荒廃の原因となった産業不振と関係ないかのようね。 
どうしてメッサーシュミットが「忘れられていた」のかって?
アメリカさんともあろう国がその理由を知らないはずないでしょ?
とぼけちゃって。


まず、この英語のwikiを見ていただけるかな?

Following World War II, Messerschmitt was tried by a denazification court
for using slave labor, and in 1948 was convicted of being a "fellow traveller."
After two years in prison, he was released and resumed his position
as head of his company.

メッサーシュミット社の創立者、ウィリー・メッサーシュミットの記事です。
日本語のwikiだと、上記の「非ナチ化」裁判、あるいはその下の
「同伴者」(戦犯とまではいかないが協力した者)という説明がなかったので
あえて英語wikiを載せました。

元々この非ナチ化は米英ソの三国によって決められ、アメリカは占領政府のもと、
ドイツの非ナチ化を行うべく、戦犯裁判において自らがナチ党員だけではなく、
ナチズムと軍国主義の支持者全員の公職、準公職から排除することとしました。
また、社会の要職につく人々とナチ党との関係を審査し、
その結果公務員の3分の1が解雇されたということです。

ところが日本に対する厳格なやり方とは違い、アメリカはここでドイツ人に対し
アンケートをしてその結果を裁定する、という甘々な方法をとったため、
誰も本当のことを答えませんでした。

そりゃま普通そうなりますわね。

そこでアメリカはドイツ政府にその「非ナチ化」をドイツの法律として制定させ、
それらをドイツ人の手に任せたわけです。

ここからが問題。

同胞がそれを決定するということになれば、今度は身内の庇い合い、
実力者のコネで無罪を勝ち取る、恨みを買うのを恐れて告発することをためらう、
こういったプチ暗黒社会化とでもいうべき当然の成り行きが待っています。
そもそもそんな告発委員会のメンバーになど誰もなりたがりません。

しかしさすがはドイツ人、そんなときにも組織はさくさく機能したため、
景気よく?ドイツもこいつも戦犯として牢屋に入ることになってしまい、
そのためドイツ社会は人手不足が深刻になってしまって当然産業は空洞化し、

「ドイツは荒廃し」ます。

つまり、アメリカが戦後日本にもやったように、戦時中の基幹産業を
すべて「戦犯」の名の下に駆逐してしまったこともまた、

「ドイツの荒廃を招いた」

ということだったんですよ。
というわけで、どこのドイツが直接この国を「ruined」させたか、
分かっていただけたかな?ヒラー博物館の人。


メッサーシュミットは強制労働をさせた罪でアイン・シュトリンケンデ・マールツァイト
(臭い飯)を2年間喰らって娑婆に出てきて再び社長になりましたが、
メッサーシュミット社は航空機の製造や研究を1955年まで禁止されていました。

それで、プレハブ住宅やこういった小型自動車を作って堪え難きを耐えていたわけです。
日本でも、戦時中に航空機を作っていた会社は殆どがその製造を禁止され、
例えば川西航空機はお菓子のあられまで作って耐えたという話がありましたが、
この会社の場合、転んでもただでは起きなかったので、このときの何でもやった経験が
戦後の事業にうまく結びつき、多角化に成功して今日に至ります。


さて、その頃メッサーシュミットが制作したのが、この「キャビンスクーター」でした。
低燃費で長距離を走ることのできる「バブルカー」キャノピーがバブルのようだから。
バブル時代に六本木カローラと言われたベンツやBMWのことではありません)
というカテゴリのミニカーです。

やはり戦時中、ユンカース、フォッケウルフのエンジンを製造して来たBMW社
(バイエルン・モトーレン・ウェルケ)も、戦時中に
捕虜収容所の囚人を3万人労働させたということで3年間操業停止処分を受けましたが、
解禁後まず二輪車、そして次は「イセッタ」という、やはりバブルカーの
ライセンス生産をしながら次第に生産を軌道に乗せていっています。

このイセッタ、わたしは今回初めて写真を見たのですが、ドアが前にあるんですね。
ハンドルがジャマで出られないような太った人は乗るな、というコンセプトですか。
かわいいというか・・・・キモカワイイ、って感じ?

しかし、BMWはこの「イセッタ」に、バイエルン州の州旗からとったブルーと白の
マークは付けても、1933年からシンボルデザインとしていた「キドニーグリル」
(フロントグリルの豚の鼻のような肝臓を象った窓)を使っていません。

BMWのプライドかな?と思ったのですが、この車にはフロントグリル要りませんよね。




実に愛らしい。こんな犬いますよね。

同じようなコンセプトだったフォルクスワーゲンほど一般的には
なりませんでしたが、今日でも蒐集家に取っては垂涎の一品となっています。

元々「雨を避けることのできるスクーター」というコンセプトなので、
名前も「カビネンローラー」(キャビンスクーター)と名乗ったりしていましたが、
これがこのバブルカーの総称にもなっています。

エンジンはコンパクトで、強制空冷単気筒の200cc。
バイクだとしても中型ですね。
4段階マニュアルトランスミッションで、バイクと違うのはバックもできること。
最高時速99キロ、(十分ですよね)
ガソリン1ガロン(3、79L)あたりの燃費は100マイル(160キロ)
つまり、リッター・・・・

42キロメートル・・・・・だと・・・・・。(愕然)




ブルーエンジェルスのコクピットもありますよ。


さて、「戦犯企業指名」なんですけどね。
どうしてもこういう言葉にこだわらずにはいられないエリス中尉としては、
「戦犯」って何なのよ、ってことをちょっとだけ書いてみます。


これつまりは「戦争に負けた」から負けただけのハンディを負わされただけなんですよ。
もしアメリカとイギリスが負けていたら、グラマンもシコルスキーもヴォートも
レイセオンも、ソッピースもスーパーマリンも戦犯企業として操業を停止され、
たとえばこんな玩具みたいな車を作って糊口をしのがなくてはならなかったってことですよね?


つまり「戦犯」という言葉は、戦争当事者同士の間にのみ存在するべきで、
しかもその「ペナルティ」を受け終われば、もう消滅すべきものなのです。

と こ ろ が 。

なぜか、日本と戦争していたわけでもなく、徴兵されたわけでもない国が、
戦後70年にもなっているのにいまだにこの言葉が大のお気に入り。
つい最近も「戦犯企業は戦時中の労働に対する賠償を云々」
などという案件を裁判沙汰にして、賠償金をむしり取ろうとしているんですね。

なんなんですかこれ。

日本を「戦犯」と呼んでいいのは、日本と戦って勝った国だけです。
日本と一緒になって戦っていた国にそれを言う資格はないのです。

しかもその「罪状」は、東京裁判の結果、国家指導者を首吊りにして生け贄にされ、
公職追放の嵐は吹き捲くってGHQの思想統制は国民を席巻し 、全ての価値観を変えられ
・・・・、しかし、そんな悪夢のときを経て曲がりなりにも独立に至った、
あの時点で法的には勿論歴史的にもすっかり消え失せていると思うんですがねえ。

だいたい反省せよというならばあの時期を反省期間と言わずして何というのか。
戦争に負けて反省する必要があるとはわたしはみじんも思いませんが、
あの時期、日本は占領下で「反省」の言葉と共に散々辛酸を嘗めたではありませんか。


何度も言いますが、戦争に善も悪もないのです。
あるのは、勝ち負けだけで、負ければ「罰ゲーム」が待っている、
それだけのことなんです。
罰ゲームで運が悪ければ国が無くなりますが、国さえ残れば、
罰ゲームをとっとと終えて、後は何の遠慮もなく国を復興隆盛させてもいいんですよ。
そして、それを引け目に思ったり、ましてや反省する必要などないのです。


かつて世界に「戦犯国」と呼ばれた国が二つあります。
どちらの国
も敗戦の痛手から立ち上がり、戦犯国としてのペナルティを受けた後も
工業技術の分野で世界のトップ集団に返り咲いて
戦後の繁栄を成し遂げました。
そして 

「世界にいい影響を与えている国」

のアンケート結果は、2012年・2013年とこの両国が占めています。
いまや(世界でただ一カ国を除いて)この二カ国を戦犯国などと呼ぶ国はありません。








チェコスロバキア製の高速ジェット練習機、

L−39アルバトロス

の前のおじいちゃんと孫。
この博物館で夏の間開催されているサマースクールの生徒で、
おじいちゃんはお迎えにきたみたいです。
今日やったプロジェクトをまず見せて報告をしているのでしょうか。


彼らが前に座っている飛行機はまだ現役で、ロシアでも運用されているそうですし、
フランスではアクロバットチームが運用したりしています。

チェコスロバキアはその後チェコとスロバキアに分かれましたが、
その際、仲良くこのアルバトロスをスロバキア14機、チェコ30機、と分けたようです。

ご存知かもしれませんが、チェコスロバキアはベルリンの壁崩壊をきっかけに
「ビロード革命」という流血の全くない(デモ隊と政府のぶつかり合いは勿論あった)
革命を経て二つに分かれた国ですから、こういう場合も遺恨を残すことなく
すんなりと分配が進んだのかもしれません。

少なくとも、独立戦争後どちらかが片方を「戦犯」としてマイルールで裁く、
などという支配被支配の歴史を作るようなことにならなかったのは
両国民に取って幸せなことであったに違いありません。


・・・と、無理矢理話を結びつけてみました。
ふう、落語の三題噺を終えた高座の気分。

 


 


USS「ランドルフ」と梓特攻・銀河搭乗員の酸素マスク

2014-05-01 | 海軍

去年の夏サンフランシスコのアラメダにある空母「ホーネット」を訪ね、
博物館となっているその艦内を二度にわたって見学しました。
艦載機にはじまり、艦内、そして艦橋ツァーと何度かエントリに挙げてきましたが、
このUSSランドルフ展示室についてはぜひお話したかった部分です。

冒頭画像でお分かりのように、このエセックス級空母には、日本の特攻機が突入し、
甲板の後方に激突、その機体とともに搭乗員の遺品が残されたからです。 





ホーネットのハンガーデッキから一階下に下りたセカンドデッキでは、
かつての居室を利用したいくつかの海軍艦船のメモリアルルームとなっており、
資料等が展示されています。

そのうちの一つ、USS「ランドルフ」のコーナーもありました。




ランドルフ、(USS  RANDOLPH,CV/CVA/CVS-15)は、
アメリカ海軍のエセックス級航空母艦です。
前回説明したように、

CV=航空母艦、
CVA=攻撃空母、CVS =対潜水艦支援空母

の全ての機能を兼ねているということです。
アメリカにはドラッグストアのチェーン店に CVSというのがありますが、
これは空母とは全く関係なく、

"Customer, Value, and Service"
 (顧客、価値、サービス)

という意味だそうです。蛇足ですが。

ランドルフというのはこの空母が作られたバージニア州生まれの
バージニア州議会議長であったペイトン・ランドルフの名から取られました。
就役は1944年10月9日。

大東亜戦争で日本の敗戦色が濃くなって来た頃で、日本ではちょうど
同じ月の16日後、組織された特攻隊の第一号である神風特別攻撃隊
関行男海軍大尉の率いる敷島隊として組織され、出撃をしています。



まずは当たり障りのない展示からどうぞ(笑)

就役してすぐのクリスマスディナーのメニューです。
サンタの乗ったトナカイのそりを、飛行甲板の誘導員が
例のうちわのようなもので誘導しています。

メニューは

トマトクリームスープ

雄の七面鳥のロースト(TOM TURKEYとある)

スウィートポテトかホイップしたポテト

いずれもクランベリーソース添え

ターキードレッシングをかけたウォルドーフ・サラダ(リンゴとクルミがけサラダ)

豆の炒めたの

スタッフドオリーブ、冷たいセロリ

パンプキンパイ、アイスクリーム、フルーツケーキ、

葉巻、キャンディ、タバコ、ロールパン、バター、コーヒー





ランドルフの艦載機パイロットが着用していた飛行帽とゴーグル、
そして写真集など。

ランドルフは1945年1月、サンフランシスコを(ここアラメダです)を出航、
ウルシー環礁に到着しました。
最初に与えられた任務は、

2月16日 東京飛行場(羽田)および日立航空機立川発動機製作所

2月18日 父島 硫黄島

2月25日 関東地区の飛行場、八丈島

への攻撃でした。





本土爆撃のために出撃したパイロットと艦載機に搭載された
500パウンド爆弾(220キロくらい?)の記念写真。
ぎっしりと乗員によって書かれたメッセージがありますが、
大きなデバイスで読める方は何が書いてあるのかちょっと読んでみて下さい。
(ちょっと閲覧注意)

そして、これをグリーティングカード仕立てにし、

「これは500パウンドのお見舞い状(get-well card)です。
145パウンド(65kg)のよく訓練された海軍戦闘機パイロットによって配達されます」

とわざわざレターをつけております。
まあ、なんでも好きなようにふざけるといいよ。戦争はお互いさまだからね。




ヴァージニアタイムス、というのはランドルフの母港の町の新聞社です。
1945年の2月18日に書かれた記事ということは、ランドルフがウルシー環礁から
最初の任務として本土爆撃を行ったことをまさに報じているわけです。

タイトルは

「コーリング・カードを置いてきました」

 で、このcalling cardは現在ではテレフォンカードのことですが、このころは
訪問したことを示すために残す印刷された、あるいは手書きの書面という意味でした。 
そのコーリングカードが、「ランドルフ」の甲板から大量に撒かれた爆弾で、
水兵は微笑みながらこう言っています。

「君たちが真珠湾でやったことを思い出してもらうために戻って来たよ。
どう、思い出した?」

まあ、どうでも好きなように楽しむといいよ。戦争はお互いさまですからね。

 

このときにランドルフが搭載していたのはご存知ヘルキャットで、
その勇姿を描いたこの絵なんですが、なんと、これ

ハセガワの模型の入っていた箱

です。 
これを寄贈した人(つまりヘルキャットの模型をハセガワから買った人)の
名前がわざわざ書かれているんですけど、そんな人の名前より
これを描いた日本人のイラストレーターの名前を書くべきじゃないのかね?ああ?

しかも、表記が

Has"A"gawa Hobby Kit cover art

って・・・・・・。
気の利いたイラストの描ける人間が滅多に回りにいないんだったら、
ちょっとは日本に感謝して、せめて名称は間違えないようにしような?



と、いちいち気を荒立てるエリス中尉。

戦後70年たって日米は同盟国。
完全に対等とは言えないものの、
取りあえず敗戦後どうされても文句が言えなかった状態の日本を
曲がりなりにも独立させ、発展の足がかりを作ってくれたという恩義は忘れておらんが、
それにしてもこういうのを見ると日本人としてやはり穏やかな気分ではいられんのだ。


上の地図は1945年の7月10日から始まった本土攻撃の図で、
このとき「ランドルフ」はハルゼー提督率いる第三艦隊の一部として
関東地区の飛行場に8度の攻撃を行っています。

数字5の、7月18日の攻撃は、横須賀基地の桟橋に偽装されて停泊していた
戦艦「長門」への攻撃を意味しています。

このときの本州攻撃は数日間継続され、軍施設だけを攻撃したパールハーバーを
日本人に「思い出させる」ために、アメリカ海軍は大量の民間人を攻撃し、
爆弾の雨を無差別に降らせて多くを殺戮しました。



おそらくそのとき津軽海峡に向かうランドルフの艦載機。
津軽海峡では二隻の青函連絡船(もちろん民間船です)を撃沈し、他の民間船3隻を大破させました。
この地域の飛行場ももちろんもれなく爆撃されています。

そして、8月15日。
日本が降伏を受け入れそれを宣言したこの日、ランドルフは木更津にいました。
木更津飛行場と周辺施設への攻撃を行っていたのです。



そこに飛び込んで来た日本降伏のニュース。

「ジャップが降伏したぞ」

一方的な優勢攻撃だったとはいえ、艦載機が撃墜されるということも多々有りましたし、
米海軍の将兵が命を賭けて出撃していたことに違いは有りません。
そこに入って来た終戦の知らせ。
それは嬉しかったでしょう。
いかに追いつめたと見えても、日本軍を相手にしている限り、彼らは常に

「自分の命を盾にこちらを道連れにやってくる特攻隊」

の恐怖と戦わなくてはいけなかったからです。
そして、「ランドルフ」の乗組員はそれを「よく」知っていました。



1945年3月11日。
それは「ランドルフ」が前述の初出撃による日本本土の攻撃を終え、
ウルシー泊地へと帰投した直後のことでした。

九州の鹿屋基地から発進した梓特別攻撃隊の銀河が、
「ランドルフ」の甲板後部に突入し、この攻撃で25名が死亡、
106名が負傷したのです。

梓特別攻撃隊については「銀河搭乗員の乾杯」というエントリのほか、
二式大艇の記事でも何度か触れたのですが、このときの日本側の攻撃は

”国内は九州方面に度重なるB29の攻撃を受けており、
日本近海を敵機動部隊が我が物顔で往来していました。
 ここにおいて、敵の機動部隊を叩くには、かれらがウルシーに停泊するのを待って、
これに内地鹿屋から片道攻撃をかけることしか残されていなかったのです”
(当ブログ銀河搭乗員の乾杯より)

という事情で行われたものでした。
つまり、「ランドルフ」にすれば日本本土の攻撃を済ませ、
帰って来たばかりでほっとしているところを急襲されたということです。

鹿屋基地を飛び立つ銀河

このとき鹿屋から出撃したのは800キロ爆弾を抱いた爆撃機銀河。
24機の銀河は鹿屋上空で別の基地から出発した二機の二式大艇と合流し
ウルシーに向かう予定でしたが、二式大艇のうち一機が離水に失敗し、
三度それを試みているうちに出発が遅れてしまいました。

コースを変え、二式はゆっくり飛んでいた梓特攻の前方に出ることに成功しましたが、
PB4Y−2プライベーターの哨戒機に見つかり、そのうち一機が撃墜されます。

「銀河搭乗員の乾杯」で冒頭に挙げた写真はまさにそのときのものと思われます。


プライベーターは先導機である二式を一機撃墜しましたが、銀河隊には気づかず、
そのおかげで全機は以降攻撃されることなくウルシーに向かいました。
ヤップ島に到達できたのは鹿屋を発った24機のうちの15機。
9機はエンジントラブルによる不時着、あるいは鹿屋に帰還しました。

この15機のうち目的を達したのは「ランドルフ」に突入した唯一機だけです。

ある1機はソレン島を空母だと勘違いして突入したと言われており、
(そこにもアメリカ軍が駐留していたので死者重傷者計8名がでましたが)
4機がヤップ島に不時着し、9機が海に落ちたとされています。

作戦失敗の最大の原因は、当初の目標であった薄暮攻撃が時間の遅れで果たせず、
到着が夜間になってしまったことでした。
ウルシーに到達したにもかかわらず搭乗員は全く目標を認識できず、
中には平文で

「クライ、クライ」

と打電してきた機もあったということです。

また不時着したうちの一機は、なんとヤップに駐留していた日本軍の攻撃を受け、
パイロットが重傷を負ったために着陸を余儀なくされています。

これも夜間で日本軍が銀河を敵機と誤認したための悲劇でした。

翌日、トラック島から偵察のためにウルシーに飛んだ「彩雲」は、
ウルシー泊地の空母の数に変化がなかったことから、作戦失敗との報告しています。 



しかし唯一攻撃が成功した「ランドルフ」はこういうことになっていました。
先ほども書いたように、25名死亡(うち3名行方不明)、負傷者106名。
前にも「バンカー・ヒルの物語~小川清の時計」で書いたように、これまで

「全く相手の死体を見ることもなく快適な戦争をしていた」

「ランドルフ」の乗組員を恐慌とでもいうべきショックが襲ったことでしょう。 
それを思うと、終戦が訪れたと知ったときの「ランドルフ」の乗組員の笑顔には
ただの安堵とはいえない複雑な思いも込められていたに違いありません。



このとき「ランドルフ」に突入したとされる銀河搭乗員の最後の姿です。 

左から、

偵察 上飛曹 井貝武志  (廣島・電練49期)

操縦 大尉  福田幸悦  (北海道・海兵70期)

電信 上飛曹 太田健司  (愛知・乙飛14期)

 
現地時間の午後8時1分と8時4分、福田機は無線でこれから突入することを打電し、
「ランドルフ」の行動調書によると銀河は8時7分に突入したことが記されています。
梓特攻隊で他に突入を打電して来た機はありませんでした。

福田機が突入したという明確な証拠のひとつは、「ランドルフ」艦上で発見された
三遺体のうち一体は海軍大尉の階級章をつけていたことだそうです。

梓特攻隊には福田大尉を含め三人の海軍士官がいましたが、
一人はヤップ島に不時着した後終戦まで生き残り、もう一人は
「ランドルフ」が突入された30分後に、最終の無電を打って来ています。


(註*
この部分をわたしはある英文のサイトから引用したのですが、
実際の連合艦隊発表による梓特攻の名簿には大尉は二人しかいません。
おそらく、こちらが間違いだと思うのですが一応そのまま記します)




もうお分かりでしょう。
この酸素マスクは、「ランドルフ」に突入した銀河搭乗員の誰か—、
福田大尉か、太田上飛曹か、井貝上飛曹のいずれかが装着していたものです。



後甲板でそれが発見されたとき取得し持ち帰っていた「ランドルフ」の乗組員
ヴェーン・ナイバイ?から寄贈されたとこれには書いてあります。

実際に見ても不思議なくらいダメージがなく、欠損も汚れもないことから、
突入の瞬間「銀河」の搭乗員は酸素マスクをしておらず、
機内にあったものが機体の損壊と共に転がり落ちたと考えるのが良さそうです。
しかも、この状態を見るに当時は全くの新品だったのではないでしょうか。




この作戦のために銀河搭乗員42名、二式大艇の搭乗員12名、
計53名が一挙に戦死することになりました。
「ランドルフ」の被害は決して少なくはありませんでしたが、それでも突入後、
修理も1ヶ月弱ですませ、4月には沖縄攻略部隊に参加しているのです。

つまり悲願であった有力な米機動部隊の侵攻の阻止はなりませんでした。

ここで考えずにいられないのは、この作戦の合理性とでもいうべきで、
つまり犠牲の多大さに比してあまりにも効果が僅少であったことです。

銀河一機には三人もの搭乗員が乗っていました。
実際部隊の中には「電信員まで死なせる必要があるのか」という声があったそうです。
いかに当時の日本の戦況が切羽詰まった状態であったとはいえ、いや、だからこそ
誰かせめてこの人員の「無駄遣い」に意見具申するべきではなかったかと思うのは
所詮わたしが戦後の感覚でものごとを見ているからでしょうか。

特攻に向かう若者たちの純粋な熱意や尊い覚悟などを、上層部は
このころになると「濫用」していたのではないかとすら思えるのです。



梓特攻に参加した菊水部隊梓特攻隊の出撃前の写真。

阿南正範一飛曹が友人に宛てて書いた遺書は次のようなものです。
これをそのサイトは「典型的なこの頃の特攻隊の遺書」と書いています。
英文を訳しているので原文とは違っていると思いますが。

手紙をありがとう。
君が元気でやっているようでとても嬉しい。
そして、僕がお国のためにご奉公できることを君に伝えられるのを喜ばしく思う。
戦況はますます深刻なものになってきた。
我々日本男児が立つべき危急のときが来ている。
いや、男だけではなく、日本国民全てが覚悟を決めるときが来たのだ。

今日本本土は戦場となっている。
しかし僕が体当たり攻撃に出れば、勝利することができるだろう。

火の玉精神で攻撃すれば成功あるのみ。




突入の後、「ランドルフ」の25名もの乗組員の命を奪い、100人以上に負傷を負わせた
憎き「カミカゼ・パイロット」三人の遺体はどうなったでしょうか。
もしかしたら目ぼしい戦利品をもぎ取られた上でゴミのように海に投棄されたでしょうか。

しかしながら、自分の命と引き換えにこちらの命を取ろうとするこの戦法は
いずれにしてもアメリカ人に底知れない恐怖と、おそらく畏怖をも与えたに違いありません。



「ランドルフ」の展示室にわざわざ黒髪を短髪にしたマネキンを用意し、
装着した状態でマスクが展示してあることに、わたしは戦後アメリカ人の理解と許容と、
こう言っていいならば特攻隊員への敬意をも感じ、わずかながら慰められるような気がしました。




終戦相成ってUSS「ランドルフ」は誇らしげに日本軍に対してあげた戦果を記し、
占領のために日本に進駐してきました。

1945年9月のことです。