前回二式大艇の記事でこの写真を掲載したところ、
読者の方からこのようなコメントを戴きました。
射撃を受ける大艇の写真ですが、あの姿勢のまま海に突っ込んだと思われます。
撃墜されたのですね。
文林堂の「世界の傑作機・二式大艇」に
同写真の鮮明なものが出ていますが、解説によれば801空の79号機との事です。
おそらくPB4Yが装備する数基の旋回銃塔の指向可能なもの、
数にして12.7mm機銃7~8丁の集中射撃を浴びたのでしょう。
同書には他にも77号機の同様な写真が有り、
日本側・米軍側の それぞれに出撃時と撃墜時の様子が残されていて、
これらは割合静かな?感じが漂う様な写真なのですが、
それだけに現実の厳しさを感じます。
機番号が判っているこれらの遺族の方々はどうされているのかとも思いました。
また、この二式大艇の「天敵」である米軍機について、
http://www.militaryfactory.com/aircraft/compare-aircraft.asp
12.7mm機銃を8丁も突き出している、見るからに凶暴な機首。
ご存知でしょうか?
大戦時末期のアメリカ軍B25爆撃機の襲撃用に特化したとも言える、
武装強化型です。
ドーリットル隊の東京空襲に参加した機首が爆撃手席で
ガラス張りの鳥かご型の、成れの果ての姿です。
この箇所以外にも機首胴体両側面に12.7mm機銃を
3~4丁ずつカバー付きで装備していたかも知れません。
ひどいでしょう!!えげつ無いと言うか、品が無いというか、アメリカ的というか、
機首前方に十数丁も機銃 が集中射撃出来るのですよ。反則ですよね!
日本機には無い意地汚さ。
大戦末期の日本側輸送船団を構成 していた艦艇は、
この型の攻撃に大損害を受けてます。
写真で良く見かける、艦艇のマストをスレスレの低空で交わして行くB25はこの型らしいです。
二式大艇の乗員達も、これには出くわさない様に冷や冷やだったそう、
というか悲しい事にかなり墜されているそうです。
さて、しばらくの間川西航空機製作の名作飛行艇、
二式大艇について集中してお話しした来たわけですが、
このとき読んだ何冊かの本の中に、
同じ詫間の飛行隊の中の隊長と、予科練出身の兵曹長が
同じシーンについて記述しているのを見つけました。
他でもない、二式大艇三機が出撃を命じられた
昭和19年3月11日発動の第二次丹作戦が下命される瞬間です。
何度か二式大艇について話す過程で出てきたこの別名「梓特攻」、
どのような背景のもとに発令されたのでしょうか。
宇垣纏中将の「戦藻録」からわかりやすくまとめると
19年春、メジュロの米軍根拠地を奇襲攻撃しようとした
↓
丹作戦部隊を編成して訓練中、台湾沖航空戦に注入されて部隊が全滅
↓
再び丹作戦部隊編成し、トラックに進出しようとしたが暗号解読されてダメ
↓
仕方なく丹作戦部隊を鹿屋に移してウルシー片道攻撃を計画
国内は九州方面に度重なるB29の攻撃を受けており、
日本近海を敵機動部隊が我が物顔で往来していました。
ここにおいて、敵の機動部隊を叩くには、かれらがウルシーに停泊するのを待って、
これに内地鹿屋から片道攻撃をかけることしか残されていなかったのです。
戦後一般に「片道特攻は無かった」という説も存在し、あったとしてもそれは
死の覚悟を示す単なる象徴的な表現で、実際には充分な量の燃料を積んで
出撃していたはずである、という話もあるようです。
しかし目的地が遠ければたとえ満タンにしたところで帰って来られないのですから、
結果的に片道になってしまった作戦もあるというのが実のところです。
そして、この第二次丹作戦はその、「片道特攻」でした。
編成は次の通り。
攻撃隊 銀河24機
天偵機 二式飛行艇1機
誘導機 同2機
二式大艇に課せられた任務は、ウルシーまでがあまりにも遠距離で、
双発最新鋭機の銀河といえど航法能力の限界を超えているので、
二式大艇2機がこれらを誘導すること。
そして、天偵の一機は本体の4時間前に発信して、天候状況を報告すること。
つまり銀河隊は行程の二分の一を過ぎてしまえば、たとえ天候不良であっても
燃料片道であるから帰投することはできません。
その場合二式大艇は市販されているいかなる地図にも載っていないような南洋の小島を
発見し全機を誘導させるという任務を与えられたのでした。
二式大艇には突入の命令は出されていません。
しかし、特攻機を誘導し戦果を見届け、また長路帰投することが
ほとんど不可能であることも事実です。
命令が発せられたとき、隊員たちが自らの覚悟を決めたのも当然でしょう。
以前、丹作戦下命の瞬間について、隊長であった海兵64期の日辻常雄少佐が
このように書きのこしていることをエントリで挙げました。
「今回、当隊は三機を以て神風とけ別攻撃隊を
編成することになった。梓部隊と命名される」
一瞬室内がシーンとなった。
食器室の蒸気の音までがぴたりとやんだ。
「万歳ッ、その命令を待っていたんだッ、やるぞーッ!」
歓声とも怒声ともつかぬ叫びが飛び交った。
いままでにはなやかな攻撃隊のかげに、
捨石となってただ黙々と戦い、
そして莞爾と死んでいった大艇隊員。
やはり神風の命名を待ちわびていたのだ。
ついで総員が指名を申し出た。
散るさくら、残るさくらも散るさくら―
思わず心のなかにこの一句をよみながら、
わたしは心の迷いを吹き消して三機を指名した。
「有難うございます!」杉田中尉の大声とともに、
「わーっ」という大歓声が深夜の士官室を揺るがした。
いつ伝わったのか搭乗員室には「総員起こし」がかけられ、
三機のクルーを中心に割れかえるような歓喜の渦が
巻き起こったのである。
私はただひとり呆然として感涙にむせんでいた。
(大いなる愛機「二式大艇」奇跡の飛行日誌 日辻常雄)
日辻少佐はこの作戦について自らが司令部から下命されたとき、
「今回の作戦の指揮官は銀河攻撃隊の隊長であるから、
日辻隊長は 行ってはならない」と念を押されていました。
少佐は一晩苦悩しました。
それは勿論部下に対する憐憫からなどではなく、軍隊統率の神髄は
戦場において部下を敢然として死地に赴かせることにあり、
自らがその至難の重責を、
はたして自分が残って部下だけを死地に追いやるというこの状況で
果たせるかどうか、ということに対してのものだったと思われます。
ともあれ、このような形でそれは払拭され、隊長は感激した、
ということなのですが・・・・・。
もう一冊の本は
「二式大艇空戦記」。
長峰五郎という八〇一空搭乗員で、飛曹長であった人物の記述です。
壇上の飛行隊長はおのれを励ますような口調で語をついだ。
「その三機の梓隊員は神風特攻であり、諸子からの志願によって選抜し、
命令せられるべきであるが、全員が志願するであろうと確信されるので
こちらからそのペアを発表する」
隊長がしばらく言葉を切った。
500名を超える整列した総員、粛として咳一つなく数秒のときが流れた。
せいぜい5,6秒の間であったろうが、命を捧げる運命の岐路に立つ
我々には、ずしんと重く応える長い時間であった。
そのとき私は、さあっと、頭から顔面から血液が下がって行くの覚え、
同時に膝から下の感覚が失われていき、膝頭が小さく震えた。
膝頭が震える、というのは、私は一種の比喩だと思っていた。
だが、私以外のなにものかが私のなかにあって、
膝の震えを制御できないのをはっきり覚えた。
異様な緊張感から、咳一つなかった総員の間に、ふうっとため息をつく者、
顔を見合わせる者、声を発しないざわめきが総員の胸に押し寄せた。
私は隣の河野兵曹を見た。
百戦錬磨、偵察の至宝と言われる彼の浅黒い顔も、
蒼白になってひきつれゆがんだ。
長峰氏は戦後、往った戦友のために慰霊をしながら、
水産会社の経営をした人物です。
戦後出版された神風特攻に関する出版物の多くが、指揮、命令者の書いたもので、
従って「彼らは進んで志願し、死生を超越し、笑いながら淡々と往った」
というような一面的な記述では彼らの実相を伝えていない、とこの著書で述べています。
いかに立派な態度であった者も、その苦しみは等しく同じであり、
出撃のそのときまでそれを訴え現わすことなく、救国の大義に殉じたことを
理解するべきだ、と。
二人に語られた八〇一航空隊の梓特攻下命の瞬間の様子にも、
微妙に温度差があるのに気づきます。
勿論、日辻少佐が深夜に特攻を命じたのは准士官以上で、
長峰兵曹長が下命されたのはその後、下士官以下の集まりであることが
人数の記述により明らかではありますが、日辻少佐の言うように
「総員起こしが掛けられ、出撃するクルーを囲んで歓喜の渦が起こった」
ということが実際にあったとはどこにも書かれていません。
しかし、これはどちらが間違っていてどちらが正しいというものでなく、
おそらくどちらの記述もお互いにとっては正しいことだったのでしょう。
下命する者とされる者、いかに「散るさくらと残るさくら」であったとしても
その瞬間見える光景はまるで違うものになっていて当然です。
長峰氏はまた、隊長の日辻氏の記述では全く触れられなかった
(もしかしたら知らなかったのかもしれませんが)「逃げた者」についても書いています。
誘導一番機の某は、編成が発表されるやすぐに腹痛を訴え、
仮病を使って医務室に入室し、編成から外されました。
この隊員の代わりに、彼よりずっと年下の隊員が命じられます。
「代わりに私が行くことになりましたので、よろしく」
彼は温厚な青年でにこにこしながらこのようにあいさつしました。
長峰兵曹が憤慨し、仮病を使った隊員を殴りに行かんとするのを
かれはいつものように微笑みを湛えながら
「いいんです、いいんです」
と押しとどめたそうです。
この仮病を使って特攻から逃げた隊員は、その後内地に戻り、
空襲の直撃弾を受けて死んだということでした。
そしていよいよ出撃のときがきました。
長峰兵曹乗り組む二式大艇は、ウルシーに向かう航行中、
司令長官豊田副武からの無電を受け取りました。
「皇国の興廃懸りてこの壮挙に在り、
全機必中を確信す、GF司令長官」
これを見た二式大艇の搭乗員は歓喜しました。
長峰兵曹が銀河隊もこれを受信しただろうか、と編隊を振り返りると、
後続の銀河は、傍受した無電の感激を翼いっぱいに表し、
編隊を詰めて寄合ってきていました。
長峰兵曹が持っていたサイダー瓶を風防ガラス越しに差し上げると、
銀河からこちらに顔を寄せてきていた三人の搭乗員が、
やはり同じようにサイダー瓶をこちらに向かって上げるのが見えました。
中央席の操縦員は私より年長に見えるが、やや丸顔で眉きりりと引き締まり、
鼻筋の通った美しい顔立ちだった。
彼は毅然とした姿勢の中で、体をこちらに乗りださんばかりにして、
右に操縦桿、左にサイダー瓶を捧げながら、満面に笑みを湛え、
口をパクパクさせて話しかけてきた。
私も大口を開け「がんばりましょう!」と答え、再び乾杯をした。
飛行帽の中の、凜とした彼ら三人の純粋無垢の笑顔!
それは何時間かの後に800キロ爆弾を抱いて真っすぐに
敵艦に体当たりしていく者とは到底思えぬ、すがすがしい笑顔であった。
長峰氏は戦後、仕事を犠牲にしてまでも梓隊の英霊供養と、
予科練戦没者の慰霊顕彰に努力を捧げつづけました。
それは、ウルシーの夜空に上がった9本の火柱と、このとき
サイダーで乾杯を交し合った搭乗員の微笑みの記憶が、
生き残った長峰氏のそれからの人生観を支配してきたからなのです。
「特攻を憐れむな」
というのはわたしが昔「彼らに捧げる言葉」というエントリで主張したことですが、
逆に笑って往ったからといって彼らが「死生を超越して喜んで死んでいった」
などという美辞麗句で謳いあげるのもまた間違っていると言えます。
彼らも自らの死に対する恐怖から、心の底では懊悩したでしょう。
本来未来があるべき健康な青年の肉体は、本能が死を拒否したでしょう。
心の底から喜んで死ぬ人間などいるわけはありません。
そして、彼らの家族もまた、遺書に託された「泣かないでください」
という言葉の後ろに隠された綴れない言葉、家族にだけわかる思いを受け取り、
愛するものを失う悲しみに、人知れず涙を流しあるいは慟哭したことでしょう。
しかし、やっぱり、彼らは笑って往ったのです。
終生長峰氏の記憶の中で乾杯をし続けた銀河搭乗員のように。
笑うことによって自らの死の意味を最後まで肯定しながら。