ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「簀巻の人」 栗田富太郎機関長〜旅順閉塞作戦記念帖

2020-08-02 | 歴史

古本屋がオークションに出品した昭和2年海軍兵学校発行の
「旅順閉塞戦記念帳」を最初からご紹介してきましたが、
この写真に行き当たったとき、わたしは他の作戦前記念のそれとは
随分雰囲気の違う場所で撮られたようだと感じました。

フランス窓のある西洋造りの建物の廊下に、士官二人を中央に座らせ、
海軍の序列は守りながらも、何人もが刀や銃を手にし、何人かは
壁にもたれるなど、公式の写真にはない並び方であることや、
何より彼ら全体から立ち昇る「殺気」のようなものが異様です。

あらためて説明を読んでみました。

「芝罘(しふう)帝国領事館に於ける仁川丸及び武州丸乗員

第一次閉塞結構後、両船乗員の乗れる短艇は不幸にして収容に洩れ、
老鐵山(ろうてつさん)南方の北隍城(ほっこうじょう)に漂着し
此処より『ジャンク』四隻にて登州に渡り陸行して
芝罘帝国領事館に至りしものにして幹部は齋藤大尉、
島崎中尉、南澤大機関士、杉少機関士なり。」


それにしても芝罘帝国とはなんぞや。

というかこの漢字見るのも初めてで読み方も「ふ」であろうことしかわかりません。
というわけで、「手書き検索」で調べたところ、

「罘」=ふう・うさぎあみ

と読むことがわかりました。
意味は・・・うさぎを獲る網のことだそうですorz

それでさらに検索すると芝罘とは中華人民共和国山東省煙台
旧名であったことがわかりました。

つまり、この写真はすでにお話ししたところの、

収容され損なった「仁川丸」「武州丸」の乗員たち

であるということです。
偶然合流することができた両船の乗員たちは、協力して清国に辿り着き、
四隻のジャンク船をチャーターして上陸し、領事館に辿りついて
無事たどり着いた記念に写真を撮ったというわけなのです。

仁川丸・武州丸指揮官

漂流してきたわりには皆こざっぱりと軍服を身につけているのが不思議ですね。


士官の右側は「仁川丸」指揮官の齋藤七五郎大尉
ちゃんと飾尾のついた軍服で写っています。

この格好のまま作戦を行い、この格好で流されてきたのかしら。

左の人の方が偉そうですが、こちらは「武州丸」指揮官、
島崎保三中尉です。

此処に写っているメンバーの下士官兵は帰国後解散し、
第二次作戦に参加したのはこの二人の士官、並びに
南澤安雄大機関士(機関大尉)、杉政少機関士(機関少尉)
だけとなりますが、前述したように、彼ら4人は
日本に帰国をするにあたって、中立国の清に対し、

「帰国する目的は戦闘の参加ではありません」
(=帰っても戦争には行きません)

と宣誓しておきながら国際法違反していることになります。

首に包帯している人が一人だけいます。
領事館に来るまでの道中、怪我をしてしまったのでしょうか。

それにしても、全員に漲る気迫が凄い。
死地を脱して尚士気盛んな様子が溢れています。

この段階では全員が次回も参加するつもりだったに違いありません。

「報国丸」乗員

第一次閉塞作戦の時の「報国丸」の乗員です。

廣瀬指揮官(中央)

腕組みをしている廣瀬指揮官の隣に機関長がいますが、
実を言うと皆さんよく閉塞作戦の資料で見ているはずの人なのです。

種明かしは後に譲るとして、第一次作戦のときの「報国丸」は
四隻の参加船の中で唯一、湾口に自沈させることのできた船でした。

この写真帳の解説によると、乗員のうち3名、

「角久間二等兵曹」「藤本一等機関兵」「武野二等機関兵」

が負傷したということです。

廣瀬の左側に複雑な怪我をした人が一人、(鼻の下とか)
この人がおそらく角久間二等兵曹、その左の全身包帯の人(火傷でしょうか)
が藤本一等機関兵、簀巻にされて戦友二人が心配そうに見下ろしているのが
武野二等兵であろうと思われます。

海軍はこういう写真も厳密に階級を反映しますから。

第二次作戦後の「福井丸」乗員

そしてあまりにも有名なこの写真です。
説明をそのまま記します。

第二次閉塞後に於ける福井丸乗員

前列の一人が手にせる小箱の大なるは廣瀬指揮官の肉片
又小なるは杉野指揮官附の遺髪を収めたるもの
簀巻の負傷者は栗田機関長にして、左右の棺は
菅沼一等信号兵曹、小池一等機関兵の遺骸なり」

この写真については以前閉塞作戦についてお話ししたときに
全く同じ情報をここで書いたわけですが、「簀巻の人」が
機関士官であることは今回初めて知りました。

第一次作戦で廣瀬の右側で写真を撮っていた栗田大機関士だったのですね。

栗田富太郎

この栗田機関士についても経歴がわかりましたので書いておきます。

青森県弘前に生まれ、幼少の頃に父を亡くす。
母は再婚を勧められるも応ぜず、遂に自刃した。

東京に出て苦学し海軍を志したが20歳を過ぎていたため
海軍兵学校をあきらめ、明治24年近衛工兵隊として陸軍に入隊した。

翌年、海軍機関学校生徒募集に最優等を以て合格し
初志の海軍への道を歩み始める。

29年海軍機関学校を卒業、日露戦争では旅順港閉塞作戦で
「福井丸」に乗船し、敵弾により重傷を負った。

大正4年、海軍機関大佐に昇進し練習艦隊機関長、機関校練習科長、
第1艦隊と第2艦隊の機関長を経て大正9年、海軍機関少将に昇った。

舞鶴鎮守府機関長を務めて予備役編入となった。
昭和7年11月に62歳で逝去。

閉塞作戦にいかに優秀な機関士官が参加していたかがわかります。
写真は有名ですが、簀巻の人にまで言及している資料がなかったので、
また一つなんの役にも立たないとはいえ知っておきたかった知識が増えました。

 

第二次閉塞作戦総指揮官と「千代丸」乗員

第二次作戦で指揮官有馬良橘が座乗しいていた「千代丸」乗員です。

第二次作戦では「千代丸」は1番船として砲台や敵駆逐艦からの砲撃を受けながら
前進したものの、港口を発見できないまま、港口から100mの地点で自爆しました。

この頃の軍人はどんな写真でもにこりともせず悲痛な顔で写っていますが、
特にこの写真の全員が特に暗いように見えるのは、作戦失敗のせいもあったかもしれません。

しかし、この写真で見る有馬良橘閣下は大変イケメンでいらっしゃいます。
昔、「坂の上の雲」で有馬を加藤雅也が演じたことについて、

「山口多聞を阿部寛が演じる世界だから」

などとあの放送事故レベルのキャスティングと並べて語ってしまいましたが、
この写真を見る限り加藤雅也が演じたって何の違和感もありません。
(というか、むしろモッくんが演じてもいいくらい?)

そして有馬閣下の左は指揮官附である芝罘(しふう)帝国帰りの
島崎保三中尉
総指揮官が乗っているので「千代丸」に指揮官はいません。

そしてこの短艇は「千代丸」乗組の閉塞隊員17名が
有馬良橘とともに引き揚げに使ったものです。

大きさは正確にはわかりませんが、この短艇で一晩海を彷徨い、
誰一人として脱落せず異国の地に漕ぎ着いて命を存えた
「武州丸」と「仁川丸」の乗員はさすがに凄かったと思わずにいられません。

だてに初等教育の頃から死ぬほどカッター漕ぎさせられてる海軍軍人ではないですね。

 

第二次閉塞「米山丸」乗員たち

「米山丸」だけ、船を中心に全員の写真が残されていました。
指揮官は正木義太大尉、そして指揮官附として島崎保三中尉
機関長は第一次作戦の時に軍帽で短艇の海水をかい出して
帰還を果たした杉少機関士です。

 

第二次作戦で「米山丸」は港口水道中央で投錨したところ、
被雷し、水道左岸で沈没したとされます。

本作戦における戦死者は15名ということですが、「米山丸」の
乗員の犠牲者が一番多かったのではないかと推察されます。

今回そのことを調べるためにアジ暦の資料を当たったのですが、
どういうわけか廣瀬少佐の姓名だけしか記載がなく、
下士官卒の戦死者については全く記録が残っていません。

それどころか閉塞隊員の戦死者は3名となっているのが大いに謎です。

もしかしたら、その三名とは、

廣瀬少佐(肉片があるから?多分死亡)

菅沼一等信号兵曹と小池一等機関兵(遺体があるから死亡確定)

であり、

残りの12名は記録作成の段階では遺体がない=
行方不明・未帰還扱いでまだ生死不明

という扱いになっていたのかもしれません。

左上は杉機関士が短艇の海水をかい出した軍帽ですが、
それ以外の寄贈品は、「米山丸」の司令官、正木大尉が着用していた防寒頭巾、
下は同じく正木大尉の防寒胴衣です。

この記念帖作成の頃すでに中将になっていた正木氏は、
これらの記念品を兵学校の求めに応じて寄贈しました。

なお、正木大尉は「米山丸」が港口に差し掛かったとき、
敵の銃弾が左耳をかすめ、右肩を貫かれて怪我をしていますが、
帽子と胴着にはそのときの血液が付着しています。

しかし「貫かれた」というわりには血液が少ないような気もします。

右上:廣瀬中佐が兵学校時代所持していた「勅諭寫(写)」

いわゆる軍人直喩のハンディ版?を直喩写といって皆がもっていたようです。

「日本男児百も拝読して急く可からず」

は廣瀬自身が記したものでしょうか。

上中:廣瀬中佐遺書「航南私記」

廣瀬中佐の少尉時代の詩文を集めたもの。

左上:軍艦朝日艦内通達簿

廣瀬中佐以下6名が閉塞作戦のために退艦したことを記録したページ

下:廣瀬中佐から八代海軍大佐に贈った書簡

右上:閉塞船として徴用する際、下船した「福井丸」の船長に
廣瀬が与えた遺墨

下:廣瀬中佐の血潮で染まった栗田機関長の軍服上下。
栗田機関長は廣瀬の隣にいて重傷を置い、廣瀬は直撃弾を受けて死亡した。

左:廣瀬中佐の肉片と血痕が付着した海図

「肉片」「血痕」とわざわざ付箋を貼って説明しています。
今でもこれは江田島の教育参考館に秘蔵されているのでしょうか。

そして東郷平八郎連合艦隊司令長官が閉塞作戦後発した感状です。
いかにも適当な人(あまり達筆ではない)が急いで作った風で、
東郷平八郎の署名もなんだかぞんざい(というかヘタ)なのが気になりますが。

読みやすいように現代文で書き直しておきます。

感状 第二回閉塞船隊

明治37年3月37日、危険を犯して旅順港第二次作戦を決行し、
その目的の一部を遂げただけでなく、特に廣瀬海軍中佐の指揮した
「福井丸」はますます武人の意気を発揮して後世に艦隊の模範を残し、
その無形の効果は実に偉大なものであることを認め、ここに
感状を授与するものである

明治38年1月12日 聯合艦隊司令長官東郷平八郎

 

続く。


最新の画像もっと見る

8 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
まぶしい (Unknown)
2020-08-03 07:24:13
栗田機関長。父母もおらず、苦学して海軍へ。閉塞作戦は決死行なので、生還出来たら、それなりの処遇が考えられていたと思います。参加者は皆、人生を賭けていた。その気合が写真から感じられます。

兵隊から叩き上げの知人の米軍士官。「勤務評定はずっとストレートAで来た。ここで前線に行って成果を出せば、定年まで海軍にいられるんだ」と言って、湾岸戦争に行きました。結婚もしているし、お子さんもいる。自分の人生の主人公になりきっていました。まぶしかったです。
返信する
水兵服・帽 (お節介船屋)
2020-08-03 10:52:48
明治16年から37年まで水兵と2・3等兵曹が水兵服でした。
37年改訂で2等兵曹は詰襟服となり、3等兵曹以下が水兵服でした。40年改訂で下士が詰襟、兵が水兵服となりました。
エリス中尉の記述の角久間2等兵曹は水兵服着用していますので改訂前後で水兵服を着用していたのでしょうか?階級章が分かりませんが2等兵曹は錨2個が交差した上に桜花1輪でした。通常であれば改訂後の詰襟です。
明治の水兵は五等卒まであり一等卒だけ官職区分章がありました。大正3年四等なでとなり三等兵まで官職区分章が制定されました。写真に写っている水兵でこの章のなく大きな善行章のみの人物がいるでしょう。

水兵帽は紺羅紗製、ペンネントは黒の八丈織リボンで所属の艦・隊・校・団・所が書かれていますが字が読めませんね。

水兵服は胴の横一線の切り替えがあり、昭和期と比べゆったりした身巾で丈が短い。水兵の間に着丈、袖丈の短いのが恰好が良いとされ勝手に寸法を詰める事が流行り、明治41年禁止令が出ました。
表地は紺の厚サージで明治から昭和初期に俗称「ヘル」と言った生地でした。上衣の下は生厚木綿製の中着で白線入りの青い四角い襟を軍服の紺無地の四角い襟の上に重ねています。胸に三角で覗くのは青い縁取りのある白い水兵襦袢、襟飾りは黒色の毛繻子の2尺2寸の正方形の布で畳んで襟の下を潜らせ、胸の正面の巾4分の黒テープの襟紐で結び留めています。白い紐が首から掛かっていますが「白い折りメス紐」で明治の水兵の粋な風情ですが左胸に「折メス」と呼ばれた折り畳みナイフの紐環に繋がっており、左胸ポケットにこのナイフを入れていました。

水兵も士官も通常軍服であり、明治37年軍服と呼ばれ、通常の勤務服であり水兵は弾帯を付けたり、明治34年制定の防寒外套を着用している者もいます。2列5個のダブルボタンで頭巾の裏地の白フランネルも分かります。
暖房があまりない当時この外套は好評でしたがサイズが一つのみで合わない身長や体格の人は着ていないのでしょう。

日本海海戦等では戦闘時に艦内で着る戦闘服として消毒した襦袢、上衣に着替えていました。事業服か煙管服に紺足袋を一組消毒して保管する事が軍医から注意されていました。これは負傷時着服の布も弾片等と一緒に体内に入り化膿するのを防ぐ事でした。

敵陣に向かうことから通常軍服で閉塞に向かったのではないでしょうか。
参照並木書房柳生悦子著「日本海軍軍装図鑑」
返信する
第2次閉塞 (お節介船屋)
2020-08-03 11:13:18
旅順第6次攻撃として第二回閉塞は
3月27日午前3時30分旅順港外に達し、港口に進撃、陸上砲台と哨戒艦の砲撃により、千代丸が方向を見失って黄金山南側海岸に近づいて爆沈、福井丸はロシア駆逐艦の水雷で撃沈、弥彦丸は福井丸の左側で爆沈、米山丸は水道に達したが惰力で老虎尾半島の灯台下に移動、水雷を受けて撃沈されたと参照文献に記されています。失敗でした。
死傷者も12名となっています。
参照海上自衛隊幹部学校研究部「世界海戦史概説第二巻」
返信する
教育参考館 (お節介船屋)
2020-08-03 13:40:50
手元に古い第1術科学校現状説明資料があります。いつの日付か不明です。
最後のページに
1 沿革
 S.11.3 竣工 建設費 約500,000円
 全海軍将校の拠出金及び一般の寄付金によって建造、終戦までは、財団法人海軍教育参考館の所有

2 現状
 旧海軍兵学校当時約40,000点の遺品や海軍関係資料が陳列され、生徒等の精神教育に供せられた。
 終戦時資料の大部分は散逸し、S.31年当校移転後あらためて、資料の収集に努め、現在東郷元帥の遺髪をはじめ、約4,000点(うち大東亜戦争関係約1,000点)の資料を保管し、常時在校学生、職員に縦覧させ、また一般の参観に供している。
 なお、散逸した資料はもちろんのこと、新資料についても、極力収集に努めている。
以上

なお資料の内容から昭和41年度までの見学者数の記入があり、昭和42年当時の資料であろう。

敗戦時資料の焼却やオーストラリア軍の進駐で戦艦扶桑の模型等も破壊されたり,他の資料も廃棄されており、海軍兵学校当時の残置していた資料はこの当時までに返還や収集され増加していないものと思われます。
一時5,000点と聞いたこともあり、これ以降は大東亜戦争関連の遺書等、新資料等の増加ではと思料します。
エリス中尉の記述の資料等は見た事がないように思いますので永遠に失われてたのではないかと思い、記述、掲載された資料の写真は貴重なものと考えます。感謝!
返信する
記念写真 (ウェップス)
2020-08-03 19:04:05
 1枚目なかなか興味深い写真です。
 そもそも何で領事館の狭い一角を撮影場所に選んだのか、ひな壇なんてないでしょうから、後列の人は机か何か持ち込んで立っていたか、脇の人は壁にすがりついて姿勢を保っているようにも見えますね。
 死線をくぐった者の迫力に加えて、(特に下級兵士にとって)一生に一度あるかないかの写真撮影に対する意気込みが感じられますね(''ω'')
返信する
杉野兵曹長妻、遺児 (お節介船屋)
2020-08-07 10:37:19
28歳で夫を失った柳子、三重県栄村で和裁仕立ての仕事をしながら8歳の長男以下3人の遺児を育てました。皇族から「勇士に対する礼でない」と指摘された県は出身校の津高等女学校の嘱託職員として採用しようとしたところ柳子は資格も技能もないとして辞退しました。3児を連れて上京し、シンガーミシン洋裁女学院に入学し。教師の資格を取り、帰郷、改めて津高等女学校の教員となりました。
2人の遺児は杉野の希望とおり、海軍兵学校に入校、柳子が46歳で没した時、長兄修一は海軍中尉、次兄は海軍少尉、三男は高等商業学校生でした。
なお修一は大東亜戦争終結時海軍大佐で父が戦死した旅順で方面特別根拠地隊教育部長で学徒出陣兵の教育を実施中で戦艦「長門」最後の艦長を発令されましたが帰国できず一度も乗艦することなく終戦を迎えました。部下をしかったことがない温厚な性格で幾つかの逸話が残っていました。
転記参照文献産経新聞「日露戦争その百年目の真実」
返信する
第2回閉塞死傷者 (お節介船屋)
2020-08-07 11:05:31
参照文献では福井丸の広瀬少佐の他、小池2等機関兵右胸から左胸銃創即死、菅波(菅沼でなく)2等兵曹腰と左足銃創戦死計3名戦死、杉野上等兵曹行方不明、栗田等4名負傷、他3船で重軽傷計6名で戦死者なしとなっています。
広瀬が杉野捜索で時間がかかり福井丸からの脱出が遅れ犠牲が多くなったので戦死傷が第2回閉塞12名中8名となりました。脱出が遅れたボートは集中砲火を浴び、漕ぎ手が負傷し速力が出ませんでした。
参照文献産経新聞「日露戦争その百年目の真実」
返信する
広瀬少佐 (お節介船屋)
2020-08-08 11:19:46
軍神として余りにも有名となった広瀬少佐、第3回閉塞で多くの指揮官、将兵が戦死したにも関わらず霞んでしまう事なりました。

36歳で戦死しましたが軍人無妻論で妻子がいないため、兄勝比古の娘馨子を我が子のようにかわいがっていましたので葬儀の喪主を務めました。その葬儀は高官等が出席し、東京・水交社で行われましたが下士卒の尊敬を集めており、400人近い下士卒が出席しました。
兄勝比古は武夫の5期先輩で海兵10期、日清戦争で東郷平八郎艦長の浪速で砲術長、日露戦争では戦艦「富士」「筑波」艦長で少将で退官しました。
武夫が軍神となったため後継ぎに馨子の婿養子に選んだのが海兵39期の広瀬末人、選んだ理由が姓、気鋭の若者が姓が変わってはわいそうとの配慮でした。海兵在学中に養子となったのですが成績が150人中108番、勝比古は気にしませんでしたが妻春江は昇進はしないであろうと思い、借家を3軒持つと同時に孫の教育は激しく、着るものはお下がりで質素な生活で無駄使いはさせませんでした。
末人は特別の人事扱いはありませんでしたが大正7年海軍大学校卒で大東亜戦争開戦時佐世保防備隊司令官、終戦時スマトラのサバン島第9特別根拠地司令官、少将でした。バリックババン特別根拠地司令官も務めており、戦犯になる覚悟で調べられましたがならず、伊豆で椎茸栽培等で生活しました。
私も読んで持っていますが島田謹二著の「ロシアにおける広瀬武夫」が出版され再評価、末人は「広瀬神社」の再興に宮司に推され、3年であったが79歳で没するまで勤めました。

9軍神、広瀬軍神も戦後の扱いは本当に残念では済ませられない不当な扱いです。
参照産経新聞「日露戦争その百年目の真実」
返信する

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。