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撃沈されていた「馬来丸」〜潜水艦「シルバーサイズ」第12次哨戒

2022-09-29 | 軍艦

さて、潜水艦「シルバーサイズ」のウォー・パトロール(哨戒)を
残された資料から検証していく作業も終わりに近づいてきました。

前回は、第3代目艦長となったジョン・ニコルズ中佐
不可思議な軍歴について取り上げてみたわけですが、
潜水艦「スクアーラス」の沈没事故から生還した後、艦長となって、
「ソーリー」「スティールヘッド」の任務を、それぞれ5日、12日という
非常な短期間で辞めてしまったその理由についてはわからないままです。

そもそも本人の軍歴が「シルバーサイズ」でストップしているため、
何をどう推測しても、今や真実が明らかになることはありません。

ただ、第11次哨戒を終えてコイ艦長が艦を降り、艦長就任して1カ月後、
少なくとも普通に次の哨戒に出撃するに至ったことから、
ニコルズ艦長と「シルバーサイズ」乗員の間には、
前2隻のクルーとの間に軋轢などは起こらなかったことは確かです。


■ ニコルズ艦長指揮下最初の哨戒


ニコルス艦長の指揮下行われた哨戒は、合計3回。

いずれも判で押したように、真珠湾かミッドウェイからサイパン、
そしてそこから東シナ海付近で行動して、帰るという同じコースです。

これは何を表しているかというと、日本軍が死守しようとした
サイパンが、1944年7月に玉砕して、ここを足がかりに、
米軍が本土と近海への攻撃を激化させていったということでしょう。

ここまでアメリカ有利に来れば、哨戒にやってくる潜水艦にとっても
ある程度のプライオリティは約束されていたわけです。

ゆえに、真珠湾から太平洋を通過し、オーストラリアに寄港するまで、
強力な護衛艦と航空機の攻撃を絶えず受けながら、
輸送船団を探して哨戒していたバーリンゲームとコイ艦長の頃に比べると、
言うてはなんですが、段違いに楽勝な任務という気がします。


■デパーミング(船体消磁)


しかし、口で言うほど戦時哨戒とは簡単でも楽でもないのは当然です。

これは、残された実際の「シルバーサイズ」の行動日誌の1ページですが、
潜水艦の行動日誌というのは、何かあっても何もなくても
分刻みでその記録を残さなければならないものなので、
正直、気が遠くなりそうなくらい辛気臭い記述が続きます。

念のために、このページを解説を入れながら翻訳しておきます。
第12次哨戒が開始された最初のページであり、それは
11回目の哨戒の終了と、艦長交代について記すところから始まっています。

(A) 前記

「シルバーサイズ」は11月19日に第11回目の哨戒を完了した。
通常の再任務は、ミッドウェイ潜水艦基地と、
第61潜水艦隊のリリーフ・クルー(交代した乗員)によって行われた。

入渠

11月19日、ジョン・C・ニコルズ(USN)中佐は、
ジョン・S・コイJr.(USN)中佐を指揮官として解任した。


「ニコルズ中佐着任、コイ中佐転出」を形式的に書くとこうなります。
[A relieved B] と書くと、まるでAがBを辞めさせたように見えますが、
面白いので?そのまま直訳してみました。


1944年12月8日、乗組員と士官が乗艦。

12月9日、サウンドテストを実施。

12月11日、8日間の訓練期間が開始され、演習用魚雷を6基発射。

12月19〜20日、2日間の積み込み期間完了。
署名後は
デパーミング、ワイプせず。


「デパーミング」については説明が必要です。

この用語は艦艇乗り組みの海上自衛官ならご存知のことと思いますが、
「船体消磁」主に軍艦の艦体を消磁(磁力を消す)することです。

軍艦は、磁気を帯びた艦体のままだと、敵に発見・攻撃される恐れや、
磁気感応式機雷に反応するリスクが高まるので、それを行うのです。

わたしたちが普通に生きていたら一生知らないことの一つですが、
海上自衛隊は、横須賀に「消磁所」なる設備を持っており、
そこで船体の永久磁気を定期的に消磁する作業を行っています。

そして、日本では「デパーミング」というと、
特に水上鋼鉄艦艇の艦首艦尾方向の消磁のことを言います。

具体的にどうやるかというと、船体外周に大きなコイルをゆっくりと通して、
電流の極性を変えながら徐々に弱くしていくことで、磁気を消すのです。


横須賀消磁所で絶賛消磁中の「すおう」(wiki)

しかし「シルバーサイズ」の頃と違い、現代の潜水艦は、
あらかじめ誘導磁気を打ち消す、船体永久磁気を付けているそうです。

また、垂直方向の消磁作業のことを「フラッシング」と言います。



さて、話を戻して、「シルバーサイズ」行動日誌、続きです。

1944年12月21日 出港準備。

士官二名転勤、新士官二名着任。

修理は潜水艦師団242リリーフクルーによって完了す。

●修理中の主な変更点

1、 ピコメーターとログ・ロッドメーターのポジティブストップ

2、 
4インチ砲を後方に移動しアンテナを前方に移動



え?4インチ砲ってこれのことですよね。
やっぱりこれは、元々後方ではなく、前方にあったものなのか・・・。



確かにこれは前甲板であるように見えなくもありません。

ちなみに、この写真は第一回目の哨戒で漁船と銃撃戦になった時のもの。

砲弾を装填しているハービン水兵が、この直後、
機関銃の弾に当たって死んだ、ということについては先に述べました。



ということは、このプレートは、本来、ハービン水兵が亡くなった場所、
前甲板に置かれるべきだったのではないのかしら・・・。

まあいいや。よくないけど。

続きです。

B)ナラティブ

12月22日 

0800
COMSUBPACの作戦命令413−44に従い、

USS「タウトッグ」(Tautog)と共に第12次哨戒開始。
サイパンに向かう。

0845-0925
ツリムダイブ実施。

12月22日〜30日
毎日の潜水訓練、レーダー追跡訓練、
レーダーと潜水攻撃のシミュレーション、銃撃テスト、
サイパンまでの航路でウルフパック訓練コード周波数、
VHFとSJ信号でCWと音声による通信の演習を行う

12月22日
180度子午線を越え、12月23日を暦から落とす

12月25日
🎅クリスマスを祝う🎄
ホノルルの赤十字社から寄贈されたプレゼント🎁は、
USS「エーギー」(Aegir、潜水艦母艦?)の従軍司祭を通じて受け取り、
乗員全員には大変感謝された。👏

12月30日
0677
(77ってこの時間は何?)
USS「PC 1126」と、サイパンへの西回り安全な航路でランデブー。
1303右舷側を「PC 1126」に接舷。
給油艦「フルトン」に「パイプフィッシュ」「タウトッグ」共に接舷。

12月31日
USS「フルトン」から29,340ガロンの燃料油を補給受ける


まあ、こんな感じで行動日誌は延々と続くわけです。

■ 第12次哨戒



「シルバーサイズ」第12次ウォー・パトロールは、ミッドウェイを出発し、
サイパンを経て東シナ海の哨戒活動を行いました。

「積極的な探索にも関わらず、彼女は価値ある目標を
全く見つけることができないまま1ヶ月が経過しました」


と、日本側、アメリカ側ともに同じ記述があります。

「しかし、ようやくチャンスが訪れ、
『シルバーサイズ』は、それを最大限に活かしました」

先ほどの行動日誌より、この日のページの内容を書き出してみます。

●攻撃データ

USS「シルバーサイズ」魚雷攻撃No.1
第12次哨戒 1945年1月25日 1350
北緯31度18分 東経130度09分

ターゲットデータ 撃破

●ターゲット詳細(EU)

縦列2隻の貨物船が海岸より0.5マイルの位置にあり、
ピート(零式観測機)1機、フランシス(銀河)1機、
ベティ(一式陸攻)1機
の航空援護あり。

先導1隻、大型AK(貨物船)同型エンパイアクラス、6,800トンAK、
他の船は小型の沿岸AK

●沈没・・・・・・・・・なし

損傷を与え、沈没させた可能性あり・・・・大型貨物船(6,800トン)

ダメージは次のように判断される;
2つの明確な強い衝撃、
最初の激突音の後、プロペラ音が消滅。
のちに1つのプロペラ音が復活する。
列2番目の船と判断される。

●ターゲットドラフト(省略)

●自艦データ

速度3ノット、コース057 深度六十五フィート 角度3ダイブ

●射撃管制と魚雷データ

タイプ:日中水中攻撃

発砲開始時:デプスコントロールが失われる。
最初の2発は狙い通りに広がり、
最後の狙ったポイントから1.5乖離にシフトした。

5番と6番の魚雷発射管故障。
5番発射管は再装填できず、6番も発射せず。

夜間浮上時に詰まっていた魚雷を排出する。

発射に際するバラストタンクからの気泡の排出で
ターゲットになる恐れがあった。

●アタックデータ(下図)



●対潜対策と回避戦術

全ての船団のサイトは低高度で近接カバーを可能にする空中援護あり。
わずか1隻の水上護衛が坊ノ岬付近で確認される。
大船団は確認されず。

ある夜、ダンジョ・グントウの西で、2隻の小型護衛艦からなる
「ハンターキラー」らしきグループあり、
絶えずピンを打っているのが確認された。

ハンターキラーというのは映画のタイトルにもなりましたが、
軍事用語で、航空機や艦船を組み合わせて行う、
対潜水艦掃討作戦、またはそれを行うグループを指します。

ダンジョグントウとは男女群島のことだとすれば、
これは五島列島福江島の南南西およそ70kmの東シナ海に浮かぶ島嶼群です。

陸上レーダーを使用して多くの接触が行われたが、
攻撃後の瞬間を除いて、我々が検出されることはなかった。

レーダーを搭載した夜間探索機に満月の夜の前後発見され2回爆撃を受けた。
夜間飛行機は300mcsのレーダーを搭載していた。



■ 第12回哨戒の戦果〜「馬来丸」撃沈

行動日誌を見ると、「シルバーサイズ」は、貨物船に損害を与え、
魚雷が1発は命中したように思える、と認識していましたが、
実は、この時攻撃した戦時徴用船、

輸送船「馬来(マレー)」丸(八馬汽船、4,556トン)

は、戦没していたのです。


「馬来丸」

「馬来丸」は陸軍に徴用され、1945年1月、満州の陸軍第三大隊を乗せ、
やはり陸軍部隊を乗せた「くらいど丸」「明秀丸」と共に出港、
「明秀丸」が引き返したため「くらいど丸」と船団を組み、航行していました。

そして鹿児島県久志湾口北側付近を航行中、
第12次哨戒中でそれまで全くターゲットに恵まれていなかった
「シルバーサイズ」に補足されてしまうのです。

「シルバーサイズ」の放った最初の魚雷は、監視兵に発見されますが、
その直後右舷二番艙付近に、そして第二弾が船橋下部に命中し、
「馬来丸」は、1353、海中に没しました。

「シルバーサイズ」の記録によると、攻撃開始が1350、
つまり攻撃が始まって3分後には轟沈していたことになります。

「戦時徴用船」のページによると、この時の状況は以下の通り。

湾の沖で大きな爆発音が二回して地響きが起こり、大爆発と共に
水柱をたてて海中に沈んでいくのが山の畑からも見えたという。

しかし、このような状況だったのにも関わらず、
「シルバーサイズ」が撃沈を認識していなかったたのはなぜでしょうか。

推察されるその理由は、「シルバーサイズ」の行動調書にあるように、
この時の攻撃が水中からのものであったからです。

水中に居ながらの攻撃で、魚雷がヒットしたかどうかは、
激突音とか、プロペラ音が消失したとか、聴覚に頼るしかなく、
その時は、最初の魚雷の激突音と同時に轟沈していることなども、
確認のしようがなかったのであろうと思われます。

加えて、当時の天候は「北寄りの風が吹き、波浪が高く、
水平線一帯に雪が混じった降雨」
であったことから、
潜望鏡を出しての確認も不可能だったのでしょう。


この時の「シルバーサイズ」の戦果は、せいぜい撃破とされていましたが、
戦争が終わってから、実は撃沈であったことが明らかになり、
戦果も訂正されることになりました。


また、「戦時徴用船」のページには、こんなことも記されています。
 
漁師達は一勢に船を駆り出して救助に向かったが、
その日は雪まじりの悪天候で風・波ともに強く、
村人の必死の救助にもかかわらず、時化と寒さで作業は困難を極め、
救助を待ち切れずに亡くなっていったらしい。

一帯の海岸には多くの将兵の遺体が並び荼毘に付された。
乗船部隊・船砲隊・船員 1,612名が戦死。


鹿児島県の坊津町には、この時「シルバーサイズ」に撃沈されていた
「馬来丸」の戦没者慰霊碑が建立されてます。

碑文は以下の通り。

碑文

大東亜戦争の苛烈を極めていた昭和二十年一月、
陸軍輸送船馬来丸(四、五五六屯)は、

ソ連国境警備隊から南方転進を命ぜられた第十二師団隷下部隊
(関門周辺で編入された部隊を含む)の兵員二、〇五五名を乗せ、
ほかに軍馬、軍需品を満載して門司港を出航し、
途中、海軍艦艇の護衛を受け、伊万里湾、牛深港に仮泊のあと、
同月二十五日午後一時五十分、鹿児島県川辺郡坊津町久志湾の沖合を航行中、

突如として、見張兵が敵潜水艦の雷跡を発見、
「魚雷」と絶叫した瞬間、第一弾は、右舷二番船倉付近に大音響を発して命中、
続く第二弾も、船橋下部付近に命中し、
船体は急速に右舷に傾斜して沈下しはじめ、
輸送指揮官が総員退船を命じたときは、既に船首より鯱立ちとなり、
午後一時五十三分、船影は完全に海中に没したのであります。
 
沈没地点、北緯三一度一八分。東経一三〇度一〇分、水深一二六米
 
当時、海上は北寄りの風強く、波浪高く、
水平線一帯に雪まじりの降雨という、視界不良の悪天候でありました。

天地を揺がす爆発音によって、馬来丸の遭難を知った地元久志湾沿岸の住民は、
直ちに、あらゆる発動船、漁船を出動させ、
枕崎湾から馳せつけた軍用救助艇と共に、
必死の救出活動を展開したのでありますが、時化と寒気に阻まれて、
作業は困難を極め、実に、
          
一、船体と運命をともにし、再び浮上することなく、
或いは、脱出後、海中に呑まれて戦死。一、四九九名。
          
一、陸地に漂着して遺体が確認され、或いは、陸地で力尽きて戦死。七六名。
          
一、殉職した船員。三七名。

併せて、一、六一二名の尊い犠牲を強いられたのであります。


戦う術のない徴用船の船員たちは、敵の襲来があれば、
それによって死を覚悟するしかありませんでしたが、
しかし、それ以上に、逃げ場のない船倉にただ詰め込まれたまま、
沈没する船と運命を共にすることを知った時、「馬来丸」の陸軍軍人たちが
最後に直面した死への恐怖は、いかほどのものだったでしょうか。


この日から2月12日まで、「シルバーサイズ」には戦闘はなく、
50日間の行動を終えて、ミッドウェー島に帰投しました。



続く。






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3 Comments

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昭和20年1月の船舶被害 (お節介船屋)
2022-09-29 10:59:46
昭和20年1月の米潜水艦による日本商船被害は昭和19年の毎月被害より少なくなり22隻、93,800総トンでした。
しかし米機動部隊の艦載機による商船被害は実に83隻、283,000総トンに上り、海軍航空機艦艇の行動に必要な油輸送のタンカーが180,000総トンも含まれていました。海上だけでなく、サイゴン,高雄、香港等港停泊中の船舶も徹底的に撃沈されました。
特にヒ87船団はタンカー4隻、貨物船6隻で南方から資源を満載し、サイゴンから内地への重要資源輸送でしたが護衛は練習巡洋艦「香椎」旗艦で海防艦6隻の第101戦隊でした。
サイゴン出港後仏印沿岸でハルゼイ艦隊の空襲を受け、全商船、旗艦、海防艦3隻が易々と撃沈されました。僅かな護衛戦闘機も居ましたが撃墜されました。なおこの悲報で香港に避泊していた海軍給油艦「神威」を含めた1万トン以上のタンカー5隻は駆逐艦1隻、海防艦10隻が回りを護衛していましたが戦闘機の掩護がなく、撃沈されてしまいました。このように南シナ海、仏印沿岸ももはや航路を維持できなくなってしまい、船舶行動困難な状態でした。
僅かな船舶移動も通信位置情報がばれており、潜水艦による被害は続きました。米潜水艦の20年1月の保有数は236隻に増加していましたが日本商船の数も行動も激減しており、撃沈された数は6月の43隻が最大でしたが総トン数は92,000tでした。

参照原書房大井篤著「海上護衛参謀の回想」

本土近傍でも陸軍輸送の「馬来丸」ように撃沈されても反撃が出来もせず、護衛艦艇は何をしていたのでしょうか?護衛がおれば荒天とは言え、漁船等が救助する前に救助も速やかに実施できたでしょう。

>ピート(零式観測機)1機、フランシス(銀河)1機、
>ベティ(一式陸攻)1機の航空援護あり。

対潜哨戒用航空機は零式水偵、九七艦攻、九六陸攻等を当てていましたが目視での哨戒であり、一部にレーダー装備機もありましたが、艦船攻撃に回されたりで護衛総隊にはほぼ対潜用航空機が無く、昭和19年哨戒機「東海」が製造され昭和20年1月から制式採用で投入されました。
電探と磁探を装備し、爆雷2個搭載でしたが電探の性能も悪く、製造メーカーの九州飛行機の不慣れさもあり、トラブル続きで好機に恵まれずあまり知られていません。

参照光人社佐貫亦男監修「日本軍用機写真総集」
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ソッコー退避? (Unknown)
2022-09-29 12:29:17
馬来丸襲撃ですが、陸岸から見えるくらいに近い海域なら、戦果確認なんて悠長なことをやっている余裕はなく、ソッコー退避したと思います。もし、陸岸に砲台があったら、潜望鏡を上げていたら、撃たれちゃいますよ。

消磁ですが、写真の船のうしろに見えるコンクリートの構造物に船を係留し、上甲板に消磁コイル(太いワイヤーを直径1メートルくらいの円形に結わえたコイル。一巻き20キロくらい?)を置き、通電します。このコイルを運荷船から自分の船に上げるのは、乗員の手作業なので、大変です。

走りながらするものではないので、写真は単に消磁所が写っているだけです。
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戦果確認 (お節介船屋)
2022-09-29 15:23:23
攻撃した相手や沈没か損傷かの確認は難しいことです。
特に夜間や荒天や霧の天象気象の影響もあり、攻撃後の反撃にも備えるため深く沈降したり、避退したりで不確定な事象となります。
魚雷は調定針路や深度を必ずしも保持しない代物でもあり、ソーナー性能や海中状況での差異もあるでしょう。
前コメントのように米海軍情報収集解析は優秀で通信収集解読され商船の位置情報がばれており、相手情報を確実に把握して攻撃、日本海軍の対潜戦の拙さから戦果の写真記録等も撮影されており、多くの艦艇、商船が撃沈され確認されての残念な結果となっていました。
その他硫黄島近傍でも悠々と墜落、不時着水パイロットの救出を任務として米潜水艦は実施しました。

日本海軍は被害が多く、戦果確認が確実に出来ないばかりか、自軍の航空機墜落の火柱まで戦果として報告されたり、温情でそれらの報告を分析せず、過大な発表までしてしまい、特に台湾沖航空戦でのほとんどなかった戦果を過大な戦果報道発表までしてしまい、国民どころ陸軍のフィリピン作戦まで誤らせてしまいました。

日本潜水艦の使用は敵艦隊攻撃であり、戦果あまり無く、130隻近い被害はほぼ消息不明となってしまいました。緒戦で潜水艦長所見で敵の対潜戦の鋭さや長さやもあり、敵艦隊攻撃は困難との報告も艦隊司令部は卑怯者呼ばわりで取り上げず、困難な移動も強要し、劣悪な艦内環境も改善せず、探知機の改良や電探装備も進まず、ガ島やアッツ、キスカ島への物資、人員輸送に使用したりで、消耗してしまいました。特に潜水艦は物資搭載は無理であり、陸揚げ箇所も限定されるので位置がばれて攻撃待機されるにも関わらず使用と潜水艦の秘匿性をわざわざ消す作戦を強要しています。また哨戒位置も固定して一挙に5隻も撃沈されたりして、潜水艦の何たるかも理解していない第6艦隊であり、サイパン陥落時、6艦司令部の脱出のため、呼び寄せられたイ号10潜は不成功どころか撃沈されてもしまいました。
要するに敵を知らず、己を知らず、ただ敵艦隊攻撃一辺倒の潜水艦使用でした。
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