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「シルバーサイズ」二人の艦長と一人の副長

2022-10-01 | 海軍人物伝

ミシガン州マスキーゴンに係留展示されている
第二次世界大戦次の「ガトー」級潜水艦、「シルバーサイズ」。
その哨戒活動を研究する試みも、いよいよ最後となりました。

謎の艦長ジョン・ニコルズ中佐の指揮のもと、第12次哨戒で
当事者は確認できぬまま、陸軍輸送船だった「馬来丸」を撃沈していた、
ということを前回検証しましたので、今回は、前回とほぼ同じコースで
哨戒活動を行った、第13次哨戒からです。

しかしながら、またもやちょっとした資料を見つけてしまったので、
まず、これまでにも登場した「シルバーサイズ」初代艦長、
バーリンゲーム中佐と、コイ中佐について、その軍歴を記すことにします。

■ クリード・カードウェル・バーリンゲーム少将


1941年12月15日、メア・アイランドで行われた
「シルバーサイズ」の就役式に出席したバーリンゲーム中佐

Creed Cardwell Burlingame
 (February 27, 1905 – October 21, 1985)
 Rear Admiral in the United States Navy

ニックネーム  バーリー
1905年2月27日生まれ
ケンタッキー州ルイビル
1985年10月21日没(享年80歳)
アーリントン国立墓地にて埋葬
所属・支部 米国海軍
在籍年数 1927-1957
階級 少将
担当コマンド USS Roanoke
潜水艦部門 182
USS「シルバーサイズ」
USS S-30
USS S-36

賞 海軍十字章 (3)
シルバースター (2)
レジオン・オブ・メリット

1927年6月、海軍兵学校卒業
戦艦USS「ユタ」乗組
1930年にコネチカット州ニューロンドンの潜水艦学校を卒業

1936〜1939 USS 「S-36」艦長
1939〜1940 ニューロンドン潜水艦基地
1940〜1941 USS 「S-30」艦長
1941年12月15日〜1943年7月20日 USS「シルバーサイズ」艤装、艦長


ここまでが「シルバーサイズ」艦長までの軍歴です。
「シルバーサイズ」指揮については以下の通り。

一応アメリカ海軍公式の記録となります。

潜水艦 USS「シルバーサイズ」(236)

1942年4月4日
試運転と初期訓練を終え、真珠湾に到着した。

1942年4月30日
第1回哨戒のため真珠湾を出発した。
日本本国海域の紀伊水道沖の哨戒を命じられる。

1942年5月7日(位置33.14、150.58)
マーカス島の北約540海里、北緯33度14分、東経150度58分で、
警備船第五戎丸に砲撃を加えて損害を与えた。

1942年5月17日 (位置 33.28, 135.33)
本州南部、潮岬沖で、
兵員輸送船鳥取丸 (5973 GRT) と
商船テームズ丸 (5871 GRT) に魚雷を撃ち、損害
を与えた。

1942年5月22日(位置33.30、135.27)
紀伊水道の河口、一夜崎と潮岬の間、33°30'N、135°27'E位置で
輸送船旭山丸(4551 GRT)を魚雷攻撃し、損傷させた。

1942年6月21日
真珠湾にて第1次哨戒を終了。

1942年7月15日
第2次哨戒のためパールハーバーを出発した。
再び日本本土の紀伊水道沖の哨戒を命じられた。

1942年8月8日(位置33.33、135.23)
北緯33度33分、東経135度23分の一夜崎付近、紀伊水道で
商船日経丸 (5783 GRT) を魚雷で沈没させた。

1942年8月31日 (位置 33.51, 149.39)
北緯33°51'、東経149°39'の太平洋北部で、
漁船2隻を砲撃で沈める

1942年9月8日
真珠湾にて第2次哨戒を終了した。

1942年10月3日
第3回目のパトロールのため真珠湾を出発した。
カロリン諸島方面への哨戒を命じられる。

1942年11月25日
オーストラリアのブリスベンで第3次哨戒活動を終了した。

1942年12月17日
第4次哨戒のためブリスベンを出発した。
ニューアイルランド沖の哨戒を命じられる。

1943年1月18日 (位置6.19、150.15)
トラック南西約90海里、北緯06度19分、東経150度15分の位置で
タンカー東栄丸 (10022 GRT, offsite link) を魚雷で沈め、轟沈させた。

1943年1月20日 (位置 3.52, 153.26)
北緯03度52分、東経153度26分の位置で、
トラックの南約290海里の日本軍輸
送船明王丸 (8230 GRT)、
スラバヤ丸 (4391 GRT) とシンデン丸 (5148 GRT) を魚雷で沈没
させた。

1943年1月31日
パールハーバーにて第4次哨戒を終了。

1943年5月17日
オーバーホールの後、第5次哨戒のためパールハーバーを出発した。
ソロモン諸島方面での哨戒を命じられる。

1943年6月4日
ニューハノーバー、ニューアイルランド間ステファン海峡に機雷を敷設する。

1943年6月10日 (位置 2.43, 152.00)
北緯02度43分、東経152度00分、ニューアイルランド北部で
輸送船日の出丸 (5256 GRT) を魚雷攻撃し沈没させた。

1943年7月15日 (位置 -2.36, 150.34)
軽巡洋艦長良は、南緯02度36分、東経150度34分のKavieng沖で触雷
(1943年6月4日に「シルバーサイズ」または
オーストラリアのカタリナ飛行船が設置した可能性)により損害を受ける。

1943年7月16日
ブリスベンでの第5回哨戒を終了した。


「乗員」が自慢していたように、バーリンゲーム中佐は、その後、

1943〜1945年 潜水艦第10082師団長
1944〜1945年1月 潜水艦第18戦隊司令官代理

と、潜水艦隊で出世していっていますが、それは戦争中の
「シルバーサイズ」の哨戒を成功させたからに他なりません。

公式な記録として残されているその戦績は、

5回の哨戒で、8隻の敵艦、合計44,000トンを撃沈

となっています。

バーリンゲーム艦長指揮下で、艦と乗組員は大統領表彰を受け、艦長として
2つのシルバースターと3つの海軍十字勲章を獲得しています。


第二次世界大戦後、もバーリンゲームは海軍でのキャリアを歩み、
1957年に退役すると同時に少将の階級となりました。


■ ジョン・スター・『ジャック』・コイ少将



John S. Coye Jr.
(April 24, 1911-November 26, 2002)
 Rear Adm. in USN 

次に、やはり少将にまでなったというコイJr.についてです。

二次世界大戦中、潜水艦U.S.S.「シルバーサイズ」艦長として
6回の哨戒を行い、それに対して各種勲章を受けた海軍士官とされます。

「シルバーサイズ」艦長として記録されている軍歴は以下の通り。

潜水艦 USS「シルバーサイズ」(236)

1943年7月21日
第6回目の哨戒のためにブリスベンを出発した。
ソロモン諸島とカロリン諸島の間の哨戒を命じられた。

1943年8月5日(位置1.53、153.52)
ラバウルの北北東、01°53'N, 153°52'E の位置で
機雷船ツガルに魚雷で損傷を与える。

1943年9月4日
ブリスベンでの第6回哨戒を終了した。

1943年9月16日 (位置 -2.36, 150.34)
補助砲艦「セイカイ丸」(2693GRT)触雷沈没。
南緯02度36分、東経150度34分のKavieng沖に
「シルバーサイズ」が1943年6月4日、設置したもの。

1943年10月2日 (位置 -2.36, 150.34)

Kavieng沖の02°36'S, 150°34'Eの位置で日本の
掃海艇W-28触雷損害
「シルバーサイズ」が1943年6月4日に設置。

1943年10月5日
第7回目の哨戒のためにブリスベンを出発した。
ソロモン諸島/ニューギニア方面の哨戒を命じられる。

1943年10月18日(位置1.00、143.16)
ニューギニアのWewakの北、北緯01度00分、東経143度16分の位置で
貨物船Tタイリンマル(1915 GRT) を魚雷攻撃し沈没させた。

1943年10月23日 (位置2.30, 144.45)
ビスマルク群島の北西で
タンカー天南丸 (5407 GRT) と
貨物船ジョホール丸 (6187 GRT) と華山丸 (1893 GRT) を撃沈。

02度30分北、144度45分Eの位置。

1943年11月4日 (位置 -2.36, 150.34)
貨物船「リョウサン丸」と測量船「筑紫」(1400トン)触雷沈没。
南緯02度36分、東経150度34分のKavieng沖に、
「シルバーサイズ」が1943年6月4日に設置。

また、
軽巡洋艦五十鈴と日本の駆逐艦五十風も損害を受ける。

8 11月 1943
パールハーバーで第7回哨戒を終了。

1943年12月5日
第8回目哨戒ためパールハーバーを出発した。
パラオ沖の哨戒を命じられる。

1943年12月29日(位置8.09、133.51)
パラオ沖の日本軍輸送船団に対する攻撃中に、
北緯08度09分、東経133度51分の位置で
輸送船天保山丸(1970トン)
北緯08度00分、東経133度51分の位置で
貨物船七星丸(1911トン)
北緯08度03分、東経134度04分の位置で
商船龍虎丸(3311トン)
魚雷攻撃して沈没させた。

また、
陸軍の貨物船、備中丸に損害を与える。

1944年1月15日
パールハーバーで第8回哨戒を終了。

1944年2月15日
第9回目のパトロールのために真珠湾を出港した。
マリアナ諸島西方への哨戒を命じられる。

1944年2月22日(位置-2.36、150.34)
日本の
補助潜水艦29(130トン)が触雷沈没。
Kavieng沖の位置02°36'S、150°34'Eに
「シルバーサイズ」が1943年6月4日に設置。

パラオの南東約225海里、北緯00°28'、東経136°56'において、
貨物船コウフク丸 (1919 GRT) を魚雷で沈没させた。

1944年3月28日
ニューギニアのマノカワニ沖で
上陸船SS-3 (948トン)を魚雷で沈没させた。

1944年4月8日
オーストラリア・フリーマントルで第9次哨戒を終了。

1944年4月25日
第10次哨戒のためフリーマントルを出発した。
マリアナ諸島沖の哨戒を命じられる。

1944年5月10日 (位置 11.26, 143.46)
グアムの南南西約120海里の日本輸送船団に対し、魚雷を撃ち、
敷設船沖縄丸(2221GRT)と日本の補助砲艦第2長安丸(2632GRT)
と第18御影丸(4319GRT)を沈没
させる。


1944年5月20日 (位置 13.32, 144.36)
サイパン沖の北緯13度32分、東経144度36分の位置で、
補助砲艦松星丸 (998 GRT) を魚雷攻撃し沈没させた。

1944年5月29日 (位置16.23、144.59)
サイパンの北北西約100海里、16°23'N, 144°59'E の位置で
輸送船蓬莱山丸 (1998 GRT) とショウケン丸 (1942 GRT) を魚雷で沈めた。

1944年6月11日
真珠湾にて第10回哨戒を大成功に終える。
オーバーホールのため、メアアイランド海軍工廠に送られる。

1944年9月12日
オーバーホールを終え、真珠湾に帰還する。

1944年9月24日
11回目哨戒のためにパールハーバーを出港した。九州沖の哨戒を命じられる。

1944年11月15日 (位置 30.10, 137.23)
USS「スターレット」とともに、
警備船第12那智隆丸(97GRT)に損傷を与える

1944年11月3日
ミッドウェイでの第11次戦時哨戒を終了した。

以上です。
ついでと言ってはなんですが、コイ提督の「墓碑銘」は以下の通り。

コイ少将と彼の乗組員は、太平洋で3位となるトン数を沈め、
彼は「並外れた英雄的行為に対して」2つの金星を持つ海軍十字章を受けた。

ジャックは、5人の孫と2人のひ孫の訪問を楽しみながら、
カリフォルニア州オーハイで、91歳の生涯を閉じた。

1775年にマサチューセッツ州レキシントンでミニットマン隊の隊長を務めた
ジョン・パーカーの直系の子孫、5番目の甥である。


1933年に米国海軍兵学校を卒業後、35年間、
潜水艦、重巡洋艦、水陸両用軍団、NATOの司令官の任務に就いた。

1968年、カリフォルニア州コロナドに引退し、30年間、
自身のヨットCal-25「シー・ドッグ」でセーリングとレースを楽しんだ。

生涯の趣味は、オルガン演奏、木工、世界一周クルーズの写真撮影。



■ コイ少将の娘



ちなみに少将の娘、ベス・コイ(Beth Coye)
も海軍軍人になりました。

父親の転勤のため、彼女はほとんど1年ごとに転校させられていました。
海軍軍人の妻の中には、転勤しない(つまり夫を単身赴任させる)
人もいましたが、彼女の母は一緒にいることを選んだのです。

彼女は当然のように父の後を追って海軍に入りました。
彼女自身がインタビューで、
「自分の血は青と金でできている」
と言っていることから考えても、彼女に
父親の仕事に対する反発はなかったものと思われます。



アメリカでは、昔から、海軍軍人の親を持つ海軍軍人のことを、
「ネイビー・ジュニア」と言います。

陸軍では陸軍軍人を親に持つ人のことを、
「Born, Raised, Transferred」で「BRATSーブラッツ」と言い、
海軍でも「ネイビーブラッツ」と呼ばれることもあるのですが、
ベス・コイはまさにネイビージュニアであり、ネイビーブラッツでした。

超難関ウェルズリー大学卒の優秀な軍人で、情報将校を務めましたが、
当時は女性ゆえ、その能力に対し出世の道は限られていました。

60年代前半の当時は、女性が出世するチャンスはあまりなく、
35歳になって初めて下級幹部になることができるという状態。
今はそんなことはありませんが、当時はそういう時代だったのです。

さらに問題?だったのは彼女がゲイだったことでした。

海軍での女性の扱い(彼女は常に男性軍人の中でもトップだったが、
優秀な男性軍人がたどるようなコースには決して乗れなかった)
に限界を感じていた彼女が、41歳の時、
ゲイであることをカミングアウトして海軍をやめると言ったとき、
コイ准将は、娘に、

「ベス、お前は海軍にいるべきだ。
少なくともキャプテンになれるし、女性提督にだってなれるんだから」

と言って引き止めましたが、彼女は自分の意見を変えることなく退役し、
外側から海軍の同性愛者の人権のためにロビー活動を続けました。

彼女が後に、その「戦い」についての本を出版する計画を立てた時、
父コイ少将は、軍での自分の立場もあり、反対したと言います。

ベス・コイによると、父少将は、娘が本を書くのであれば、
自分が乗っていた「シルバーサイズ」について書いてくれることを
望んでいたというのですが、最終的には娘の意思を尊重し、
本の出版費用を1万ドル出資しています。


■ロイ・ダヴェンポート副長



もう一人、趣味のトロンボーン演奏で「シルバーサイズ」総員を
恐怖のどん底に陥れたことが個人的に忘れられない、
ダヴェンポート副長のその後についても書いておきます。

Roy Milton Davenport
Rear Admiral in United States Navy
June 18, 1909〜December 24, 1987 (aged 78)

「シルバーサイズ」は、その第二次世界大戦中の哨戒を成功させ、
戦果を挙げたことから、指揮官は悉く出世していますが、
(第3代艦長ニコルス中佐のぞく)
副長だったダヴェンポートがもしかしたら一番有名かもしれません。

その紹介には次のような一文があります。

He is the first sailor to be awarded five Navy Crosses, 
the United States
military's second highest decoration for valor.

「セイラー」というのは彼が兵卒だったという意味ではありません。
念のため。


■「シルバーサイズ」副長として

海軍兵学校を1933年卒業したダヴェンポートは、
戦艦USS「テキサス」乗組後、
コネチカット州ニューロンドンの潜水艦学校を卒業します。

第二次世界大戦が勃発した1941年、USS「シルバーサイズ」で、
クリード・バーリンゲーム中佐の下、副長として勤務。

4回の哨戒を終えた時、バーリンゲーム中佐は、
優秀な彼を自らの指揮下に入れるよう推薦しています。

彼の優秀さについてはいくつも逸話が残されているようですが、
時にはその機転が乗員全員の命を救ったこともあります。

「シルバーサイズ」がその紹介で艦船攻撃を行った後、
日本機に直接3つの爆弾を落とされたことがありました。

直撃は免れましたが、「バウ・プレーン」(艦首部の潜舵)が
何らかの原因で固まってしまったまま急速潜航し、
そのため艦体が設計深度を超えて沈んでいったのです。

そのまま海底に激突するかと思われた最後の瞬間、
ダヴェンポート副長は咄嗟にコッター・キー?を外し、
潜水艦を水平にすることに成功し、危機から脱出しました。

また、(これは当ブログでも取り上げましたが)
魚雷が発射室に半分詰まってしまい、再射撃を行うことになった時も、
副長は艦長と共に冷静に問題を解決しました。

また、ある時は、サイコロゲームでイカサマをされたと思い込み、
酔っ払って暴れた砲手を取り押さえ、銃を取り上げるというような仕事も
ダヴェンポート副長は無事に治めています。

(この水兵は拘束衣を着せられて潜水艦から降ろされることになりました)

コイ中佐、「シルバーサイズ」では、少なくともトロンボーン以外では
満点の副長として皆に信頼され、尊敬されていたことがよくわかります。



潜水艦隊司令ロックウッド少将に「シルバーサイズ」哨戒に対し
授与されたシルバースター勲章を付けてもらうダヴェンポート副長。

冒頭の写真で、ダヴェンポートはおそらく
真ん中のバーリンゲーム艦長の左側にいる人物だと思われます。

■「シルバーサイズ」以降の指揮

「シルバーサイズ」の任務を降りたダヴェンポートは、
アート・テイラー中佐の後任として、USS「ハドック」艦長に就任しました。

ちなみに、このテイラー中佐は、当時現場の潜水艦指揮官クラスから
絶賛不評だった当時の潜水艦隊司令、ロバート・イングリッシュ少将
その側近を批判する文書(subversive literature破壊文学と書かれている)
を流したとして、解任されたという話があります。

「ハドック」では3回の哨戒を率い、
第一次哨戒でのパラオ諸島沖で「東洋丸」・「有馬丸」を撃沈。
第2次哨戒では5,533トンの「サイパン丸」を沈め、
初の海軍十字章を、そしてその次の哨戒で2度目を授与されました。

3回目の哨戒では3隻、合計39,200トンを撃沈。

4回目の哨戒では、2隻のタンカーを撃沈したと報告し、
第二次トラック哨戒で護衛艦を含む5隻32,600トンの撃沈、
1隻4,000トンのダメージを主張しています。

が、これらの被害は、戦後にJANACで照合したところ存在しませんでした。

しかし、ダヴェンポートと彼の副官らは、最後まで日本側が、連合国に、
タンカーが健在であると思わせようとしていたと考えていたようです。

てか、そんなことをして今更日本に何の得があるかって話なんですが。


ちなみに、JANACによる「シルバーサイズ」の現実の戦果は以下の通り。
括弧の中青字は、「シルバーサイズ」の戦時中の主張です。

哨戒次数 14

撃沈数23隻(26隻)

撃沈撃破 総トン数90,080t 
(143,700t)


撃沈数だけはまあまあ近い線行ってますね。

「ハドック」を降りたダヴェンポートは、USS「トレパン」艦長に就任。
1944年9月から1944年12月まで、10回の哨戒を行い、
「トレパン」での通算成績として、
合計22本の魚雷を発射し、4隻35000トン撃沈を主張しましたが、
戦後にこれは13000トン、魚雷3本という数に減らされました。

■その後の経歴と引退

艦を降りたダヴェンポートは陸上勤務を希望し、
アナポリスで海事工学の教官を務めました。

彼は、ディック(リチャード)・オカーン(オケイン)などの
名誉勲章受賞者を除けば、潜水艦部隊で最も勲功のある軍人と言われました。

彼が少将に昇任したのは、やはり退役と同時のこと。
1987年のクリスマスイブに78歳で死去したということです。



続く。


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2 Comments

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これじゃ、戦争には勝てないわ (Unknown)
2022-10-01 19:46:59
>1942年5月22日(位置33.30、135.27)紀伊水道の河口、一夜崎と潮岬の間、33°30'N、135°27'E位置で輸送船旭山丸(4551 GRT)を魚雷攻撃し、損傷させた。

33°30'N、135°27'Eって、南紀白浜と串本(潮岬)の間で、海岸線から沖合10キロくらいですよ。1942年5月って、ミッドウェイ海戦の直前ですが、戦争のそんな早い時期に、こんなに本土から目と鼻の先で、アメリカの潜水艦に攻撃されていたんですね。これじゃ、戦争には勝てないわ(涙)
返信する
イ号21潜 (お節介船屋)
2022-10-02 09:38:09
日本側の潜水艦長では米空母ワスプ撃沈のイ号19潜木梨鷹一艦長等名を成した艦長は少ない事はその作戦や性能等もあり、致し方ないものと思います。

ただ数少ない著名な日本海軍潜水艦長としてイ号21潜松村寛治中佐艦長を挙げておきたいと思います。
戦前はロ号艦長を歴任し、昭和16年7月15日神戸川崎造船所で竣工したイ号21潜艦長となり、開戦時、ハワイ攻撃機動部隊の前方警戒で参戦、その後、米西岸でタンカー2隻撃沈しました。
昭和17年4月呉出港、豪州東岸方面行動、5月シドニー飛行偵察、6月ニューカッスル砲撃、シドニー沖で貨物船1隻撃沈、横須賀帰投。
昭和17年8月横須賀出港、ソロモン東方海域進出、貨物船1隻撃沈、12月トラック出港、ガタルカナル物資輸送、次いでブナ物資輸送。
昭和18年1月ラバウル出港、豪州東岸方面進出、シドニー沖で貨物船5隻撃沈、3月横須賀帰投修理、艦長を稲田洋中佐と交代。

豪州東岸行動中、ニューカッスル沖で大型船を発見した時の事でした。
追跡を実施し、病院船である事が分かりました。
松村艦長は国際法から攻撃中止を命じました。納まらないのは乗員で「敵もやったではないとか。お互い様だ。攻撃しましょう。」と上申しましたが松村艦長は「敵がどんな仕打ちをしようとも、国際法は国際法である。病院船として確認した以上、人道を無視した行動は取れない。法を無視することはすでに敗者のやることである。艦長として攻撃を断念する。」と命じました。

陸上勤務の後、松村大佐は潜水隊司令としてイ号177潜に乗艦、昭和19年10月3日パラオ北西方で米護衛駆逐艦に攻撃され乗艦は戦没、戦死されました。なお功績で2階級特進で中将に昇任されました。

参照光人社「写真日本の軍艦第12巻潜水艦」、海人社「世界の艦船」潜水艦100のトリビア
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