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昭和18年4月18日山本長官護衛直援の6機の零戦パイロットのその後を詳しく描いた本でした。
森崎茂中尉指揮の第1小隊3番機が杉田庄一飛長でした。ちなみに指揮官兼第1小隊長森崎中尉、2番機辻野上豊光1飛曹、第2小隊長日高義己上飛曹、2番機岡崎靖2飛曹、3番機柳谷謙治飛長でした。
p-38を1機撃墜しましたが長官、参謀長搭乗の1式陸攻2機とも撃墜され長官戦死、護衛戦闘機は全機無事でしたのでその後の6名は悲惨と思われる行く末でした。
杉田庄一は新潟出身で元気の良い若者であったと書かれていました。
B-17を衝突で撃墜し、大破した零戦をどうにか着陸させて帰着したのに衝突で零戦を破損させて消沈して指揮官に励まされていました。
8月26日空中戦で被弾、落下傘降下しましたが火傷で内地に後送されました。階級は2飛曹でした。
教官等を経て、昭和20年4月紫電改で迎撃に離陸しているところを攻撃され戦死。
参照朝日ソノラマ第204海軍航空隊編「ラバウル空戦記」
これは戦後盲腸炎を誤診され、2年に渡り手術、闘病生活の後昭和30年2人の子供を残し他界されましたが夫人の元の残されていた多くのノートを秦郁彦が昭和62年今日の話題社から発刊した「零戦撃墜王」の抜粋です。
この抜粋は昭和18年11月14日281空派遣隊としてラバウルに着任、201空所属となって11月28日の出来事が記されています。
ただ一人の実戦経験者として16機を率いてラバウルに派遣され、ただちに迎撃や攻撃に列機を率いて参戦した模様が良く分かります。
特に無線のモールス信号で状況や攻撃の指示をして列機の行動も良く掴み、戦闘を行っています。経験不足の指揮官の補佐を実施していますが搭乗員の墓場と言われたラバウルで劣勢の時期、良く戦い生き延びたのもと思います。
戦場を良く判断し、的確に指示や行動を実施し、戦っており、闇雲に戦いを挑んでおらず、その行動が撃墜王でありながらまた酷使された日本海軍戦闘機パイロットでありながら戦い抜いて生き延びた勝因でしょう。
ニュース映画にも撮られ、終戦まで生き延びて、奥様から慕われましたが戦後の生活は厳しく、公職追放等で職を転々として体調を崩し、誤診から長い闘病生活で病名不明での死去、本当に悲しい最後でした。