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大和ミュージアム・進水式展~「筑波」の進水式失敗

2014-11-07 | 海軍

大和ミュージアムで偶然遭遇した「進水式展」。
限られた時間の中では写真を撮って来るのが精一杯でしたが、
こうやって後から画像を見ると、新たに知ることも多く、
全部語り終えた頃にはきっと「進水式博士」になっているのではないか、
というくらい充実したものであるのに驚いています。

しかも、写真撮影が自由!

この大和ミュージアムの太っ腹な計らいのおかげで、
こうしてここで説明をしつつ自分自身も知識の拡充ができるというわけ。

いやー、正直なところ、博物館や展覧会会場で見て終わるのと、
こうやって細部を点検して後からそれについて調べるのでは、
得るものに全く大きな違いがあるものです。



の重巡洋艦「筑波」についても興味深いことが分かりました。
前回、

「進水式で沈没するなんて中国ぐらいのものだろう」

みたいなことを書いたのですが、なんと我が海軍軍艦にも、
進水式の事故がないわけではなかったのですね。

その一つがこの「筑波」の事故。

戦艦に準ずる戦闘力を持つ巡洋艦として、計画後急造され、
わずか1年で進水式に漕ぎ着けたまでは良かったのですが、
進水時に船体が滑り落ちる進水台のうちの一つ、
海中に設置されていた台の錘が作業中に落ちてしまい、
進水式当日、台が水中に浮き上がってしまったのです。

それが分かった時点で、造船部長はすぐさま進退伺いを提出しましたが、
工廠長はそれを許さず(そらそうだ)、進水式の中止を決定しました。

うーん。
これが中国だったら気づかないか、気づいていても適当に台を沈めて
無理矢理進水させて事故を起こすかでしょうが、さすがは日本。

しかし、この進水式にはよりによって皇太子殿下(後の大正天皇)
のご臨席を仰ぐという事態になっていたのですから、
関係者の心痛はいかばかりであったかと慮られます。

その後、報知新聞にこのような記事が掲載されました。

筑波艦進水式
  故障の為め失敗

進水式の責任者

去る12日をもって呉軍港に挙行せらるる可き筈なりし
筑波艦の進水式が、不時の天災の為に失敗に了りたるは、
公然の事実なり。

不時の天災とあらばやむを得ずとは云ふものの、
東宮殿下の御臨場を仰ぐまでその故障を発せず、
愈々臨御の後ちに於いて、始めてこれを発見したりと云ふに至りては、
実に恐懼に絶へざる次第なるが、此の失態に対しては、
誰が果たして其の責めに任ずるものぞ。

山田呉海軍工廠長は勿論、現場に臨める山本海軍大臣も、
断じて其責を辞すること能はずと、某貴族院議員は語れり。


まあ要するに、殿下には大変申し訳ないことをしたけど、
事故なら仕方ないよね、といっておるわけですね。
某貴族院議員が本当にいたのかどうか、もしこれが現代の新聞なら
大変疑わしいところですが、此の時代ですのでおそらく
新聞記者もそんな飛ばし記事は書かないと思われます。(勿論皮肉です)


何と言っても不具合を発見した段階で中止したという英断によって、
事故を未然に防いだのですから、非難のしようがありません。

今のマスコミならおそらく責任の所在をあげつらって

「永田町の周辺からは、今回の事故についての防衛省の
管理責任について見直しを問う
厳しい声も聞かれる」


なんてやっちゃうところでしょう。ああ目に見えるようだ(笑)

この後、筑波の進水式は2週間後に改めて無事に行われました。
造船部長、辞めてる場合じゃなかったってことですね。



進水式そのものとは全く関係ないような気もするけど、

展覧会ならではの特大模型もこれ見よがしに展示されていました。

余りにも大きいので、5mくらい離れないと全部写りません。
これは戦艦「伊勢」。



せっかくですので進水記念はがきをもう一度。
左の進水記念の図柄ですが、カモメを三羽手前に描いて
肝心の伊勢は一番奥に小さくいるあたりにセンスを感じます。

近年この手の意匠は、全て細密部までわかる写真に代わり、
それが当たり前となっていますが、ここにある葉書の
それぞれ創意工夫を凝らした図柄を見ていると、写真だけというのも
少し味気ないような気がしてくるのは、わたしだけでしょうか。



こちらは長門。

建造された1920年(大正9)当時の世界最新型でした。
のみならず数ある海軍艦の中で、ある意味最も国民に親しまれた、
海軍軍艦といってもいいかもしれません。

今は戦艦といえば「大和」ですが、なんといっても大和型は
国民に情報が秘匿されていたため、親しみも何も其の存在すら
知られていませんでした。

そして、長門は海軍の戦艦の中で可動可能な状態で生き残った
たった一つのフネとなり、その数奇な生涯は

「戦艦長門の生涯」

という著書にまでなっています。


東日本大震災における自衛隊の目覚ましい活躍は
まだ記憶に新しいところですが、戦後の自衛隊が「国民の為に」
を何よりも第一義に掲げているのに対し、戦前戦中の軍隊は
まるで国民に対して強圧的で威張り散らしていたような、
そんなイメージを持っている方はおられませんでしょうか。

それは全く戦後のイメージ操作によって齎された間違いで、
戦前の軍隊もまた、「天皇」という首長を象徴とする
「国民」のためにあろうとしていたのに違いはないのです。

あの関東大震災が起こったとき、長門は、そのとき行われていた
演習を中止し、最大速度で救援物資を積み被災地に向かいました。
当時長門の最大速度は機密のため低めに公表されており、
それを無視して最大速度を出すというのは長門幹部たちにとって
処分覚悟の英断であったそうです。

国民は長門の勇姿に熱狂し、それ以来一層長門は陸奥と共に
「国民のアイドル」となったのでした。



この「ネガポジ旭日旗」の正体がすぐ分かる方はおられますか?
これは、戦艦「長門」の先任旗です。
先任旗とは、同港内に2艘以上の軍艦が碇泊し、司令長官又は司令官が不在のときに、
先任艦長が後檣頂に掲げる旗です。(檣=しょう・ほばしら)
先任旗は代将旗の紅白を交換した配色になっています。


この旗を当ミュージアムに寄贈したのは俳優の石坂浩二氏。

戦後、戦艦「長門」を接収した米軍人がこの旗を持ち帰ったのですが、
石坂氏が司会をされているテレビ番組「開運!なんでも鑑定団」に、
同じく持ち帰っていた戦艦「長門」の「軍艦旗」と「少将旗」とともに
3点が鑑定に出されました。

 
それを石坂氏が個人で購入し、「軍艦旗」と「少将旗」の2点については、
すでに平成18年に大和ミュージアムへ贈呈していたのですが、
平成26年7月9日、講演のため来呉していた氏がこれも贈呈したのです。

氏の贈呈した軍艦旗は、現在大和の10分の1モデルの横で展示されています。 



伊号72潜の進水式で配られた記念の置物。

潜水艦のモデルというのは、水面から上だけのものが多いですが、
右上はさらにそれが波を受けて走行している様子を表現しています。

裏側には、昭和10年12月15日に、三菱重工業の神戸造船所で
この伊潜が進水式をしたことが刻印されています。



以前お話ししたことのある戦時徴用船、「あるぜんちな丸」。

徴用されて改装を施され、昭和18年航空母艦「海鷹」になりました。

船団護衛任務でサイパンやフィリピンなどに出撃していますが、
そのときは全く無事で、終戦の年に呉港で爆弾を受け、
その後触雷し、終戦直前に直撃弾を受けるなどの被害により、
放置された末、戦後3年経って解体されました。

しかし、なぜここに「海鷹」の写真があったのかわかりませんでした。

進水式に関して言えば、「あるぜんちな丸」のときには行ったでしょうが、
「海鷹」のときにはすでに海に浮かぶことは実証済みだし、どうしたのでしょうか。



1/100スケールの空母「瑞鶴」。


わたしがこれを観ていると、近くにいた母娘が説明を観て

「これなんて読むんだっけ」「えーと、これは確か・・・・」

と悩んでいたので、差し出がましいかと思いましたが

「ずいかくです」

と教えて差し上げました。
最近はこういった層もこのような展示に興味を持つのか、
と感心したのですが、その母娘は、娘が大学生くらい、母親は大変若くて、
ちょっと見お姉さんかな?というくらい歳が近く見えました。



甲板の上もこのリアリティ。
甲板脇にネットが張られていますが、これは何の為でしょうか。
こんなもので飛行機を受け止めることなどできないと思うのですが。



飛行隊の離艦を帽振れで見送る甲板整備員たち。

たった一人だけ、帽振れをしていない飛行服の人物がいますが、
飛行隊長でしょうか。

上部にラインのある旭日旗は中将旗。
将旗は、指揮権を帯びた将官が乗艦した際揚げます。

昭和19年10月のレイテ沖海戦の際、瑞鶴は小沢治三郎中将が指揮する
第一機動艦隊の旗艦として出撃、同25日に戦没しました。



Wikipediaより。
総員発着甲板の命令が下り、降旗する軍艦旗に敬礼する瑞鶴乗組員達。
この直後、総員で万歳をする写真も残されています。




たった今気づいたのですが、瑞鶴の沈んだ10月25日は息子の誕生日です。

それだけなら別に何でもないのですが、息子の名前には
瑞鶴の「瑞」の字が含まれるので、ちょっとした縁を感じます。



一等巡洋艦「利根」士官室の鏡。

もうこの辺りになって来ると、進水式のことは
あまり関係のない展示が増えてきます。

「利根」はレイテ沖を生き残り、江田島の海軍兵学校で
練習艦となっていましたが、昭和20年終戦2週間前の空襲で大破着底。

その際、 士官次室にあったこの鏡を、ガンルームの住人であった
海軍少尉が、沈み往く船体から持ちだしました。 

海軍軍人は身だしなみにいつも気を遣うことを旨としており、
少尉・中尉など若手士官の居住室であったガンルームの入り口の鏡は、
部屋を出入りするたびにそれを見て身なりをチェックしたものでした。




本品ハ重巡利根備品ナリシモ
昭和二十年七月二十八日本艦沈没ニ際シ取出セリ

落合國雄

本時 海軍少尉 二十二才
 
「魂」「重」 

この余白に不規則な向きで書かれた魂と重という文字は、
いかなる意味が込められたものでしょうか。


続きます。




 



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4 Comments

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安全ネット (雷蔵)
2014-11-07 20:36:07
甲板上のネットは、乗員が飛行甲板から落ちた際に受け止めるための安全ネットです。今の護衛艦にもあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%82%86%E3%81%8D_(%E8%AD%B7%E8%A1%9B%E8%89%A6)#mediaviewer/File:Haruyuki_reardeck.JPG

写真は護衛艦はるゆきの左舷です。格納庫の後に立っているネットがそうで、航海中は倒します。倒すと瑞鶴の模型と同じ形状になります。

瑞鶴の模型だと立っている空中線(無線用アンテナ)支柱は、沈没前の万歳三唱の写真では倒れているのが分かります。飛行作業(発着艦)がある際に倒し、飛行作業がない時には立てていたようです。
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筑波 (佳太郎)
2014-11-07 22:22:00
筑波は進水式で失敗を起こしていたのですか…
進水式でなにか失敗するとその船は不幸になるといいますが、実際筑波は火薬庫の爆発が原因で沈んでいますので案外迷信ではないのかもしれないですね…
戦艦土佐(薬玉が割れなかった)しかり、ロシアのK19(進水式でシャンパンの瓶が割れなかった)もありますからね。
地元の山なので「護衛艦つくば」って出てこないかなと思うこの頃です。
返信する
人員救助網 (エリス中尉)
2014-11-09 16:31:45
ネットは当時「人員救助網」と言ったようですね。
万が一艦載機が誤って自分の方にやってきたとき、避けたらそこは海!
というようなことも可能性としてはあるからなんでしょうね。

それから、瑞鶴の写真で倒れているアンテナ支柱が謎だったんですよ。
この向きだと、皆が今立っているのはフネの側壁にしか見えませんよね。
そんな状態なのに皆あまりにも悠長じゃないかと。

まあ、これが甲板であったところでこれだけの人数が救助艇に乗り移れたとは思えません。
しかも、誰一人救命具をつけてもおりません。
なのに、画面には我先にというパニックの様子が微塵も見えず、
この後全員で「万歳」をしたりしているわけです。

戦争ですから当たり前とはいえ、皆本当に死する覚悟だったのだなあと、見てしまいます。

それから本文中の甲板写真、冒頭のを含めて「赤城」のものではないかというご指摘を頂きました。
そうだと思います。(いい加減~)

進水式というのは洋の東西を問わずそのフネの行く末を占うという儀式ですから、
何かケチがついたときに後から「進水式でああだったから」と言われることが多いですよね。

K-19の進水式のシーンは映画「K-19ウィドウメーカー」(この映画好き)でやってましたね。
関係ない話ですが、わたしはこの「Widow maker」(後家作り)をしばらく
「Wind maker」だと思っていました。扇風機じゃないっつの。
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空母の写真 (雷蔵)
2014-11-09 20:06:24
細かいことを言いますが、冒頭の模型と三番目が「赤城」で二番目と四番目が「瑞鶴」です。

「赤城」は艦橋が左舷にありますが、三番目の模型の写真はそうなっています。日本の空母は飛行機から母艦を識別しやすいように頭文字(カタカナ)を甲板に書いていましたが、一番目の写真には「赤城」を示す「ア」の文字が見えます。

二番目の模型は右舷に艦橋があります。よく見れば分かりますが、飛行甲板上の艦載機の数も違います。二番目の写真と四番目の写真の艦載機の数は同じに見えます。

模型を作っているとどうも細かくなっていけません(笑)
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