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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「軍艦旗」掲揚〜第四十七回 呉海軍墓地合同追悼式

2017-09-25 | 海軍

呉市街から休山新道を北東に登っていくと、傾斜地に
長迫公園、旧海軍墓地があります。

海軍兵学校の同期会で元兵学校生徒だった方々とここに訪れ、
上から下まで写真を撮ってここで紹介したこともあるわたしにとって、
ここで年一度行われる合同追悼式の出席が叶ったことは大変な光栄でした。

10時半からの開式ということで、羽田初0700の始発に乗り、
空港で朝食をとってから現地へ。
公園の前の道は狭く、こんなことでもあると人の乗せおろしも大変です。

公園にはその後友人と一度、撮りそびれた写真のために来ましたが、
その時には公園にはほぼ誰もおらず、深閑としていました。
今日は開始までまだ30分以上あるにもかかわらず、すでにこんなに人が!

テントで来賓受付をすると、そこで控えていた中学生の女子が、
赤いリボンを胸につけ、席まで案内してくれました。
近隣の中学(多分和庄中)のボランティアのようです。

近隣住民や自衛隊、そして近隣の学校の生徒は、率先して
この長迫公園の清掃などを普段から行なっているということです。

時間があったので、戦艦「大和」の碑の辺りまで行ってみました。
時代を感じさせる「軍艦大和」と刻まれた額に入った「大和」の写真が
白百合と白い石楠花、千福などのお供え物に囲まれて置かれています。

「大和」の慰霊碑のところからふと上を見上げると、
潜水艦戦死者の慰霊碑前に白い礼装で立つ自衛官の姿があります。

呉地方総監部の潜水艦隊の幹部たちが慰霊式をしているようです。

碑に「潜水艦戦死者慰霊碑」と読めますが、現地で購入した
慰霊碑の便覧と戦死者名簿を兼ねた冊子

「海ゆかば」

には、潜水艦戦死者慰霊碑の記載がありません。
さらにネットを検索したところ、平成三年と比較的新しく建立されたもので、
戦没潜水艦35隻、潜水艦の戦死者三千余柱を合祀した碑であることがわかりました。

先日の呉音楽隊の呉での演奏会の時、隣同士に座り、開演までの少しの間
潜水艦のお話を聞かせていただいた司令がおられるに違いありません。

席に戻ろうとしたら、儀仗隊がスタンバイしていました。
海曹が各自の服装と装備を点検してまわっています。

呉音楽隊もスタンバイ中。

慰霊式台には国旗と軍艦旗が掲げられ、その前には
戦死者の霊に手向けられた白菊が美しく活けられています。

大小の白菊を使った、白菊の咲く丘に竜胆や向日葵が咲いている
風景画のような飾り付けには、呉の人々のこの慰霊式に対する
深い関心と畏敬の気持ちが表れているようでした。

この白菊もそうでしたが、この日のわたしは特に居並ぶ慰霊碑について
当ブログで語るために戦歴を調べたという思い入れのせいか、
少しのことで感情がリミッター解除されてしまい、
感極まっておりました。

受付そのものは0830から始まっていたそうですが、
1000(ヒトマルマルマル)に正面の鐘で時刻を表す
四点鐘(カンカーン カンカーン)が鳴らされました。

鐘を鳴らしているのも中学生のようです。

1025には総員着席し、1030には
時刻を表す五点鐘(カンカーン カンカーン カーン)
鳴らされて、式典が開始されました。

公益財団法人「呉海軍墓地顕彰保存会」の委員長は、
式辞の中で、

「戦死された英霊よ、願わくば天上からここに降りて我らの慰霊を受けられんことを」

(記憶ママ)

と述べられましたが、時鐘の点打を聞きつけて、「降(くだ)ってきた」
英霊もあるいはいるやもしれない、とわたしは密かに思っていました。

儀仗隊の入場です。

式典次第をアナウンスする声が、

「国旗・軍艦旗掲揚」

と言ったとき、わたしは思わず心の中であっと声をあげました。
見れば配られた式次第にもちゃんと「軍艦旗」と書かれています。

十六条の旭日旗は、海軍時代は軍艦旗とされていましたが、戦後になって
海上自衛隊の旗を決めるときに、米内光政の親戚である米内穂豊画伯が、
旭光をモチーフにした新しい旗を依頼され、

「黄金分割による形状、日章の大きさ、位置、光線の配合、
これ以上の図案は考えようがない」

という主張のもとに全く旧軍時代と同じ意匠を提出したことにより、
結果として全く変わらない旗を使い続けているということになっています。

ただし、その名称は「自衛隊旗」であり「軍艦旗」とは全く別のもの。

のはずだったのですが、ここではこれをまさに「軍艦旗」と呼んだのです。


米内画伯と、さらにそれを認めた当時の吉田茂首相の英断もしなかりせば、
例えばこの海軍墓地における今日の慰霊祭にはどんな旗が翻っていたのか。

海軍英霊の慰霊のために旧軍艦旗を揚げることは、今の自衛隊に果たして可能だったか。

歴史のIFは言い出せばキリがありませんが、少なくともこの点に関しては
神の配慮とでもいうべき完璧なる偶然(画家と施政者が誰であったかという)の結果、
自衛隊で現行使用中の十六条旭日旗を
堂々と?海軍追悼式に掲げることができるのです。

時鐘の音を聞きつけた英霊がこの日天から降(くだ)ったとして、海軍墓地に翻っているのが
他ならぬ旭日軍艦旗であることは、彼らの魂をいかに慰めることでしょうか。

海軍墓地が最初にこの長迫に生まれたのは、明治23年3月22日でした。
当時は葬場上屋及び番舎をもち、

「海軍葬儀場」

と呼ばれていたそうです。
墓地だけでなく、ここで葬儀も執り行われていたということですね。

ちなみに戦前はほとんど個人墓が中心であり、例えば
昭和2年の呉鎮守府による埋葬規則を見てみると、

「埋葬は准士候官以上は親族より指令長官に出願、海軍兵学校生徒と
下士官兵は所轄長もしくは海兵団長より建築部に協議せよ」

「甲乙丙丁の四等に区別し、
甲=将官 乙=左官、尉官、特務士官、候補生
丙=准士官、海軍兵学校生徒 丁=兵 と埋葬する」

「死刑に処せられたるものは建築部長に区割りを相談」

というなかなか興味深い記述が見られます。

死刑にされた者でも海軍墓地に葬っても良いというのは、
一度でも海軍の釜の飯を食んだものに対する温情でしょうか。

 

さて、終戦とともに荒廃していたこの地でしたが、戦後になって
軍艦や部隊の生存者が中心となってここに慰霊碑の建立が進みました。
実はここにある慰霊碑で、戦前にあったものは個人墓を除けば

「厳島」「比叡」「広丙(こうへい)」「天龍」
「高砂」「矢矧」「早蕨」「深雪」「吉野」

などの軍艦慰霊碑、そして

「上海事変」「第四艦隊事件」

の慰霊碑の合計11基だけなのです。
あとは全て戦後のものになります。

かつてこの慰霊祭には、各慰霊碑の前に生存者、関係者が集い、
慰霊碑横の竿に軍艦旗を揚げて、そこから下の広場で行われる式典を見守る、
という光景が見られたものだそうですが、
今日では生存者も減り、
ついに人の集わなくなってしまった慰霊碑も少なくないそうです。

わたしの座っていたところからは軍艦「信濃」の碑がよく見えましたが、
そこに一人のご老人がずっと立っておられました。(冒頭写真)

かつて「信濃」に乗っておられたのでしょうか。

保存会委員長の式辞の後、追悼の辞は広島県知事と呉市長が行いました。

「日本の現在の繁栄は英霊の皆様の犠牲の上にある」

「日本は今武力による現状変更を行うならず者国家に囲まれている」

「しかし強固な意志と団結力、国際協力の元に平和を希求し
戦争のない平和を築いていくことこそ、英霊の皆様に報いる道である」

というようなことが形を変えてスピーチされたと思います。

 

 

先般、国会で河野外務大臣に向かって共産党の議員が
その”ならず者国家”へのアメリカの圧力を非難し、

「両国に軍事的衝突があったら日本に累が及ぶので絶対に避けろ!」 

「アメリカの抑止力は脅しだからすぐにやめて今こそ対話せよ!」

としつこく今更の対話路線を強調(というか強要)するということがありました。
あたかもアメリカが
北朝鮮を一方的に挑発しているような物言いに、河野大臣は

「緊張を一方的にエスカレートさせてるのは北朝鮮である」

「対話を繰り返してきた結果が現状である」

の2フレーズを答弁のたびに繰り返すことで、暗に

「オメーは一体どこの国の議員なんだ」

と共産党議員を批難しておりましたね。

軍事的衝突を避けるには、いかなる武力的圧力に対しても武力で対抗せず、
対話による解決を追求し、さらには相手に対する刺激となることすら避け、
要するにひたすら頭を下げて敵国の機嫌をとるべし、というお花畑的考え方が
右ではなく、政府の取る現実路線の対立軸として存在するのが、
今の日本という国です。



口で「戦争のなき平和」を語るのは実に簡単なことでありますが、
しかしここで国に殉じた英霊を前に、

「戦争のない世界を希求していくのが皆様へのご恩返し」

と言ったところで、実際に本土上空にミサイルを撃ちまくる国が隣にいる現状では、
何か大事なことをあえて見ないふりをしていると思えてなりません。


かつて帝国海軍は、

「座して死を待つことなく相手を先に攻撃することで国を護る」

という言葉の下に真珠湾攻撃を挙行し、それをもって大東亜戦争は火蓋を切りました。

その戦争に殉じた英霊の前で、現在進行形で国土の上をミサイルが飛んでいくのを
指をくわえて(しかも防衛をアメリカ頼みで)見ていながら、口では

「平和を希求し戦争のない世界を」

と言ったところで、英霊諸氏にはその「平和」の意味は到底理解できないのではないか。

「何が平和だ」

「もうすでにお前たちは国土を蹂躙されているではないか」

「大和民族の誇りはどうしたのだ」

彼らの殉じた大義を思うとき、わたしは彼らが今日の我々に投げつけてくるであろう
そんな言葉さえ容易に想像することができます。


そもそも、

「戦争しないこと’だけ’が平和である」

という九条の旗のもとに、他国に国防の主権を握られている、
国家的自己撞着に陥った日本という国の現状を英霊がもし見たら、一様に

「こんな国にするために我らは戦ったのではない」

と怒りを覚えるのではないかとさえわたしは思うのです。


もちろんこういう挨拶をされた来賓の方々を責める意図でそういうのではなく、
さらには責める資格もわたしには全くありません。

わたしもまた、そんな日本で平和の安寧を貪り、たとえミサイルが飛んできていても、
心のどこかで、本土に実際に落ちるわけなどない、さらには戦争など起こるわけがない、
と思いたい、正常バイアスのかかりきった愚者の楽園の住民でなのですから。


続く。





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7 Comments(10/1 コメント投稿終了予定)

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駆逐艦「深雪」 (お節介船屋)
2017-09-25 20:24:33
1934年6月29日済州島南方で演習中、駆逐艦「電」と衝突、沈没しました。
「電」が「深雪」の艦橋前方左舷に激突、「深雪」はFr46より艦首部が切断転覆した。
引き続き「電」は「深雪」に接触を続け、烹水所、第1、2缶室、両室の舷側重油タンク側外板、Fr62水防隔壁端部を損傷させた。
深雪は衝突20分後、第1缶室浸水満水となり前トリム状態となり、隔壁破孔から第2缶室に浸水が始まる。
第2缶室内2号缶強圧通風囲を支柱で補強したが防水効果なく、隔壁破孔の閉鎖を試みるも出来なかった。
第2缶室は2時間後満水となり、沈没に至った。
参照海人社岡田幸和著「艦艇工学入門」
なおこの事故で深雪は3名の死亡と2名の行方不明者を出しています。電は1名の死者が出ています。
沈没に至ったのは前記にもあるように
乗員が船体構造を熟知せず、破孔部の防水、補強が実施されていない事です。
特型駆逐艦の一番早い喪失であり、唯一の平時での喪失でした。
その後の応急措置に教訓を与えた事象でした。

就役1929年6月29日浦賀船渠「吹雪」型4番艦、沈没1934年6月29日
就役後5年で同じ日に沈没。
参照光人社片桐大自著「連合艦隊軍艦銘銘伝」
返信する
感慨深い列席でした…… (鉄火お嬢)
2017-09-25 22:32:52
最近「呉定期便」と化しているエリス中尉ですが、私の呉行きには何もレスポンス無かったが……と思いながら周りを見渡したら、いきなりお姿があって驚きました(笑)
あの場で聴くから余計に心沁みる呉音楽隊の演奏だけでも、名古屋から夜行バスで駆けつけた甲斐はあったと思いましたが、呉市長の演説は「おお、随分踏み込んだ」と息を呑む感じで聞いておりました。ただ、小学生のは……致し方ない面もあるのかなあ……長岡まつりで飛び込み参列した平和祈念式典の中学生の言葉と同じに、学校での平和教育の偏向性と限界を露呈していました。人が沢山死ぬから、家族が引き裂かれるから、物資や食べ物が無くなるから、学校に行けなくなるから、だから戦争はしてはいけない?大量死も飢えや貧困も戦争以外の場でいくらでも起きている。「戦争はしてはいけない」 で思考停止してしまうのは、なぜなのか。戦争をしたくないなら、それ以前に権謀術数と外交努力、文化、経済力、国家パワーの全てを総動員しなくてはならない。日本の置かれている現状、どうやったら戦争を回避できるのか、攻めようという相手を諦めさせる事ができるのか。そこまで議論させてはじめて平和教育だろうと。こういう式典で子供たちに話させる(多分に学校の指導が入った)言葉を聞くたびにイラっとするのは、私だけではないと思いますが。
返信する
お言葉ですが (Unknown)
2017-09-26 05:07:53
「他国に国防の主権を握られている」はちょっと言い過ぎではないかと思います。

自衛隊が出来て、民主党政権になるまでの約五十年間、日本の防衛には「基盤的防衛力」という考え方がありました。これは冷戦当時、大きな脅威であったソ連が樺太や北方領土から北海道に侵攻して来た場合、米軍が来援してくれるまでの間、自衛隊だけで日本を守り抜くのに必要な防衛力という意味で、その整備を目標として来ました。防衛白書にもそう書いてあります。

米軍は空母を持ち、我が国に取っては頼もしい存在ではありますが、では米軍だけが日本を守っていたのかというとそうではないと思います。憲法違反と言われても税金泥棒と言われても、訓練や災害派遣を頑張って来た自衛隊は立派に日本を守って来たと思います。

海軍は自衛隊とは比較にならないくらい立派でした。軍縮条約の時代、国民は食うや食わずだったにも関わらず、Big 7と呼ばれる大戦艦を二隻も保有していたし、対米戦争を始めた頃には正規空母を六隻も持っていました。

今の自衛隊に、バンバン空母が必要かというと(私は)そこまでは要らないと思いますが、弾道ミサイルによる威嚇や領海侵犯のように「大規模侵攻」以下の事態に対しては、守勢一辺倒ではなく、状況次第では自衛隊単独で反撃出来る態勢を整えないといけないと多くの国民は考え出しているのではないでしょうか。

自民党の支持率の高さと野党の低さがそれを示していると思います。「酒を酌み交わす」と言っていた人が来た挑戦に行ったという話は聞きません。精々「元気ですかー」という人くらいでしょう。

本当に危なくなったらきれい事は言っていられないので、お花畑の人達はいざという時には頼りにならないとみんな分かっていると思います。
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6月29日のもう一つの事故 (お節介船屋)
2017-09-26 10:26:31
最早40年以上前の事であり、海自からクレームが来ないであろうと思い紹介します。
1993年6月29日房総半島千葉県沖で起きた掃海艇「こしき」とパナマ船籍の貨物船の衝突です。
「こしき」機械室区画右舷に直角に貨物船の船首が衝突、甲板は左舷残り約1m、船底は中心のキール部分まで食い込んで大破孔、押され左に大きく傾き、貨物船の行き足が止まった時、こしきは右に傾き、マストが貨物船に触れ大きく曲がりました。
夜間であり、発電機、主機とも海水浸水及び破損で止まり、衝突部分で船体は前部と後部は左舷外板で繋がっているのみで大きく捻れました。
紹介したいのはこの時の応急員の対応です。
記憶が確かでないのですが、海士の応急員だったと思いますが、一人で暗いなか、後部側倉庫の防水を実施し、他の乗組員と協力して船体が分離しないように前後の船体をロープ、ワイヤーで繋ぐ作業を実施しました。
応急員の活躍は聞いた話ですが事故調査、復旧方針決定、予算の見積、承認等の関係から結構長く応急復旧で係留されており、船屋として見る機会があり、関心した事を記憶しています。
「こしき」は完成後12年経過しており、損傷復旧には大きな費用と年月が掛かるので掃海艇に復する事が出来ず、特務船として残りの年月は過ごしました。
不都合な内容ではありませんので紹介が海自の業務や広報の支障になりませんように。
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誤り訂正 (お節介船屋)
2017-09-26 13:42:49
1993年でなく1973年の誤りです。
書き間違いです。訂正します。
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これからの日本 (共産趣味)
2017-09-26 20:26:19
北朝鮮情勢に関しては、最近一定の周期でヒートアップを繰り返しているので私もミサイルが発射されたぐらいじゃ動じないようになってしまいました。
しかし、今回に関しては国土を通過してのミサイル実験及び核実験でただ事じゃないと感じるようになりました(結局はアメリカと北のプロレスでしょうが)。
今こそ、国民全体で平和を謳うだけでは何も守れないということを自覚し、憲法9条を改正する時が来たのじゃないでしょうか?
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現役高校生として (共産趣味)
2017-09-26 20:43:13
鉄火お嬢さんのコメントを読んで思うことがあったので現役の学生としてコメントしたいと思います。
私は中学校で事あるごとに平和や戦争(決まって第二次大戦)に関する作文を書かされました。
そして、市(地区だったかも?)の事業として広島への平和式典にも参列させていただきました。
体験したから言える事ですが、結果的に「戦争はいけない」と締める作文を書かざるを得ないという事です。なぜかというと決まって教師が「なぜ戦争はいけないのか」や「平和の大切さ」をテーマに書かせるように指導するからに違いないでしょう。現に私もそうして来ました(一度だけ「何故太平洋戦争が起こり、敗れたのか、またその戦訓」というテーマで執筆しましたが赤ペンで大きなバツがついて即日帰って来ました(笑))。
実際問題、これからの日本を変えるには腐りきった今の世代では無理でしょう。教師のあり方を大きく変え、何十年もの長いスパンで考える必要があると思います。
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