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映画「海軍」昭和18年版〜真珠湾突入

2017-04-19 | 映画

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3 Comments(10/1 コメント投稿終了予定)

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特務艦「浅間」 (お節介船屋)
2017-04-20 10:17:47
Unknownさんの指摘で再度調べました。
真継不二夫氏撮影の「海軍兵学校」の写真には2等巡洋艦「平戸」(5,000トン1912年川崎造船所竣工)が1940年廃艦11号兵学校練習船として表桟橋の向こう、ポンドのこちら側に写っており飛び込みの練習等に使用されています。
1943年12月岩国分校用として移動されました。
その後用として旧装甲巡洋艦、海防艦「浅間」が練習特務艦として「平戸」の代わりとなり、この位置に係留されました。
「浅間」は昭和10年9月安芸灘で座礁し、艦底に大損傷、離礁後、呉に回航、復旧を断念し漏水止め後、呉軍港第1上陸場近くに係留、呉海兵団の練習艦として利用せれていました。
昭和17年海防艦から特務艦に転じ、その後旧軍艦「平戸」と交代し、生徒の教育用として利用しましたが、終戦前、下関六連島に曳航、宿泊用ハルクとなりました。
昭和21年8月日立造船因島で解体されました。
浅間要目9,700トン、21ノット、1899年英国で竣工、装甲(1等)巡洋艦、20センチ連装砲2基15センチ砲14門等、昭和10年から非稼働、兵装も撤去。なお浅間の損傷復旧が出来ない事が練習巡洋艦「香取」型の新造の機運となった。
KKベストセラーズ刊福井静夫著「海軍艦艇史」2巡洋艦及び出版共同社刊福井静夫著「終戦と帝国艦艇」参照
なお前コメントで練習艦「八雲」としましたが訂正します。係留ではなく兵学校練習艦として稼働していました。
「八雲」はエリス中尉の掲載された写真でも艦首部、艦尾部が違いました。
資料でも違う記載もありますが、故福井静夫元海軍技術少佐の資料が一番正しいので、謹んで訂正します。
Unknownさんありがとうございました。
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カッター (Unknown)
2017-04-19 20:57:11
兵学校生徒が漕いでいるのは、今も変わらぬ9mカッターです。艇長、艇指揮と漕者12名(片舷6名)の14名が定員ですが、スタートと漕いでいる最中の写真では片舷5名しか漕者が見えません。

カッターでは、前を向いているのは艇尾に座っている艇長、艇指揮だけで漕者はみんな後ろを向いて漕ぐので、舳先に座っているというのは間違いで、実際は艫です。

艇指揮と漕者がアップになる写真では、一番後ろの漕者がオールを置くポジションに櫂座栓がしてあるので、片舷5人で漕いでいるようですが、レースが終わって櫂立ての写真では櫂が11本(野村生徒欠)立っているので、編集ミスでしょうか。

この頃は、恐らく兵学校の練習艦として「浅間」が繋留されていたのではないかと思いますが、立派です。自衛隊になってからは、戦後の国産一番艦「はるかぜ」が同じ場所に繋留されていましたが、かなり小さかったです。

陸奥砲塔横の建屋は今(自衛隊)も昔(海軍)も砲術講堂と呼ばれています。
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練習艦「八雲」 (お節介船屋)
2017-04-19 20:47:28
表桟橋の向こう、ポンドのこちら側に写っている艦は海軍兵学校練習艦「八雲」です。
装甲巡洋艦としてドイツで建造され明治33年竣工日露戦争参加等を経て、昭和15年頃まで候補生の遠洋航海用でしたが呉鎮守府警備艦、海防艦、一等巡洋艦と変更され、兵学校練習艦となり係留されていました。
昭和20年初頭20センチ主砲を撤去し、12.7センチ連装高角砲2基、対空機銃を装備しました。終戦まで健在で戦後復員輸送にも従事し、昭和22年4月1日舞鶴で解体されました。
常備排水量9.800トン、速力20ノット、20センチ砲4門、15センチ砲8門、
終戦時公試排水量10,493トン、速力9ノット、15.2センチ砲4門、12,7センチ連装高角砲2基、7.6センチ高角砲1基、25ミリ3連装機銃2基、連装2基、単装2基

候補生等が帽振れを行う写真の練習艦は練習巡洋艦「香取」か「鹿島」どちらかです。
2隻とも昭和15年竣工し、日本海軍最後の遠洋練習航海を国内の後、中国方面で実施しています。
エリス中尉も購入された「写真・太平洋戦争の日本軍艦」に昭和15年9月上旬の旗艦「香取」の遠航時、上海での写真が掲載されています。
基準排水量5,890トン、速力18ノット、兵装14センチ連装砲2基、魚雷発射管連装2基等、候補生275名収容。
3番艦「香椎」は昭和16年7月竣工のため練習航海に使用されないで艦隊旗艦として使用。
「香取」「香椎」は戦没、「鹿島」は戦後復員輸送に従事し、その後解体。

その下の2隻の練習航海の写真は
遠洋航海練習艦となった「磐手」「八雲」と思います。
「磐手」は大正5年から昭和14年まで15回、「八雲」は大正6年から昭和14年まで13回も少尉候補生の遠洋練習航海に使用されており、多くの写真を撮られています。
3本煙突、2本マスト、旧装甲巡洋艦、海防艦として候補生練習航海に従事。
なおもう1隻同じような「出雲」が居るが遠洋航海は大正10年から昭和6年まで6回で、その後は中国方面に派遣され艦隊旗艦として昭和18年まで中国で戦ったのでこの写真の艦ではないと思われる。
参照「日本海軍艦艇総覧」新人物往来社刊
「写真・太平洋戦争の日本軍艦」KKベストセラーズ刊
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