ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

POW(戦争捕虜)とMIA(戦闘時不明者)おまけ;マケインの’正体’〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

2021-02-20 | 歴史

POW(Prisner of war)=戦争捕虜、
MIA(Missing In Action)=戦闘時行方不明者

に対する対策は、戦争を遂行する、あるいはした国家にとって重要課題です。

「あなた方は忘れられていない」

戦死傷者については、亡くなれば国家の名でそれを悼み、顕彰を行い、
負傷者については治癒と社会的復帰を支援するという対処がありますが、
POW/MIA についてはいずれも相手国との折衝を介在させなければ
解決には結びつかないことですし、なんといっても家族が国家に向ける期待値は
戦死傷者のそれより格段に切実なものになることは必至だからです。

以前も当ブログではPOW/MIAについて触れていますが、ここピッツバーグの
兵士と水兵のための記念博物館にもそのコーナーがあったので、取り上げます。

まず、ガラスケースの内部は収容所のような鉄条網のディスプレイがあり、
そこには冒頭写真のようによく見ると捕虜になった将兵の名前が刻まれた
金属製のブレスレットがいくつも掛けられています。

「ベトナム戦争の期間、POW/MIA兵士に対する社会認識は、
我々にとって世界的な問題ともなりました」

ここでもこのような書き出しで説明が始まります。

1970年初頭、草の根活動として、ここにあるような、戦闘行動で
行方不明になったり捕虜になったと思われる軍関係者の名前を刻んだ
ブレスレットが認知を広く深めるためにに活用され出した時期がありました。

多くの人々がこのブレスレットを着用することで、南東アジアで行方不明になった
兵士たちの名前を決して忘れないという約束と、そして
POW/MIAのたどった運命が明らかになるその日まで、
決してこれを外さないという意志の表明を行ったのでした。

 

■ 南北戦争

まずここにある版画?は、南北戦争の初期に北軍兵士の捕虜を収容するためにあった
アンダーソンビル捕虜収容所の全景です。

同じアメリカ人同士でも分かれて戦争すれば捕虜にもなる訳ですが、
この頃はヨーロッパ方式で、基本的に捕虜交換システムによって
元の軍に戻ることができる仕組みでした。

交換を待つ間捕虜を収容していたのがこれらの施設です。

この交換システムが崩壊したのは、人種差別による理由でした。
つまり、南軍が、白人と黒人の捕虜の価値を同等に扱うことを拒否したので
交換システムが成り立たなくなったのです。

アンダーソンビルはジョージア州にあり、今ここには博物館ができているそうです。
ここに投獄された4万5千人の北軍兵士のうち、1万3千人が死亡しました。

南北戦争時の捕虜収容所は両軍側にいくつもありましたが、
ここは最悪の収容所となりました。

かろうじて収容期間を生き延びた(生きてるのか?)北軍兵士。
アンダーソンビルでは食料の供給が行き届かず、南軍の兵士ですら
上に苦しんだそうですから、捕虜は尚更酷い待遇に置かれてこうなりました。

 

南北戦争時代に捕虜になったハミー・クロウという人が妹か姉かに送った手紙です。
こんなことでもないとこの手紙が日の目を見ることもないと思うので、
全文翻訳しておきます。

ソールズベリー(sic)N.C. 1862年4月8日

ぼくの愛しい、愛しいサリー姉さんに手紙が書けることになりとても嬉しい。

ああ、サリー、我が家や友人たちから100マイルも離れたところにいるにもかかわらず
戦争捕虜になっている僕たちが毎朝、そして毎晩、我等の天の父上に
お守りくださいますように、そして我が家へ帰らせてくださいますようにと
お祈りすることがどんなに楽しみなことか、姉さんにわかるだろうか。

僕は毎日姉さんのことを考え、我が家で再会することを楽しみにしている。

姉さん、長い手紙を書きたいのはやまやまだけど、許してください。
僕らに許された手紙は便箋一枚だけなんだ。

僕は今のところとても元気でそれなりにここの生活を楽しんでいるよ。
220人の野郎どもの立てる騒音だけはちょっといただけないけど。

連中の一部は捕虜になって10ヶ月だが、僕はまだ1ヶ月だ。
今まで3〜4回家に手紙を書いたけど、僕がどのように捕まって、
どこに連れて行かれたかは新聞で読んで知っていると思います。

僕はここにきてから聖書をもう半分読み終えました。
おそらくここを離れるまでに全部読み終わることができるでしょう。

ヘッティーに会ったら自分自身とチャーリーの身体には
十分気をつけるように言ってください。
数ヶ月以内にもし捕虜交換で帰れたら、そのときはもう一度
彼女を抱きしめることができます。

もっと手紙を書きたいのだけど、手紙一通につき10セント取られるし、
だいたいちゃんと届くかどうかも怪しいからね。

全て順調であることを知らせるために少しずつでいいから
頻繁に手紙をください。

あなたの弟 ハミー・クロウ

おそらく彼の本名はハミルトンか何かだと思われます。
罫のために一枚しかもらえなかった紙を何重にも折って、
そこにぎっしりと書き込んでいます。

 

■ 第一次世界大戦

まずは第一次世界大戦時の資料からです。

「フランス軍の捕虜になったドイツ軍兵士のユニフォーム」

というのがなぜここにあるのか訝られるのですが、これは
1918年、フランスで戦死したアメリカ歩兵が、どこかで入手して
珍しい記念品として実家に送ってきたものなのだとか。

持ち主の所属は

Ulanen Reg. Von Katsler(Schlesisches)

カッツラーのウラネン連隊(シレジア)ということでいいんでしょうか。

Ordre de bataille de l'armée allemande en 1914 - Wikiwand

調べてみると、この連隊の制服は確かにここにあるのと同じです。

ところで、帽子の天辺に「PG」と縫い付けられていますが、これはフランス語の

「Prisoner De Guerre」

POW兵士であることを意味しています。
帽子に縫い付けさせられたんでしょうかね。

■ 第二次世界大戦

続いて第二次世界大戦における戦争捕虜についてです。

エリス・ニュートン(Ellis Newton)はバルジの戦いに第99分隊で参加したとき
22歳で軍曹でした。

ニュートン軍曹

戦闘初日となる1944年の1月初旬、ニュートンはドイツ軍の戦車隊に捕らえられ、
銃殺刑に処せられるところだったのですが、幸運なことにドイツ陸軍の高位の将校が
彼とその他のアメリカ軍捕虜の処刑についてとりなしてくれ、命は救われました。

そして彼の妻と8歳になる子供は、ニュートンがドイツ軍捕虜となったと知らされました。

この鎖には、アメリカ軍の認識票と、真っ二つに割れてしまっている
ドイツ軍の捕虜であることを証明するドッグタグが繋げられてます。

ちなみにこれがドイツ軍捕虜に与えられる捕虜認識票。
どうしてドイツたる国の軍でこのような仕様のタグが制作されたのか
若干理解に苦しみますが、いかにも経年劣化で二つに割れそうなデザインですよね。

捕虜収容所の食糧と医療は基準を下回り、多くの囚人が課せられた困難に屈しました。

ニュートンの体重は開放された時ヨーロッパ到着時の86キロから54キロになり、
81歳で亡くなるまで捕虜時代の身体的、精神的ストレスは彼を苦しめました。
栄養状態が劣悪だったせいで、すべての歯が抜け落ちるなど、悪影響は援護も続きました。

(とあるのですが、歯が抜け落ちるのは栄養というより衛生状態の問題だったと思います)

上の割れていないドッグタグは、99分隊のメル・ウェイドナー軍曹のもので、
タグには囚人番号とどこで捕虜になったかも記されているそうです。

ウェイドナー軍曹

ウェイドナーはバルジの戦いで「ドアトゥドア・ファイティング」
の結果捕虜となりました。
Door to door fighting とはもちろん「戸別訪問」ではなく、市街戦のことだと思います。

1945年2月、コレヒドールとバターンで3年間投獄されていた陸軍看護師たちが
開放されてアメリカに帰国するためにトラックに乗り込んでいるところだそうです。

看護師たちはそれまでの着古した服の代わりに新調した制服を与えられました。

 

■ 朝鮮戦争

1952年12月、海軍予備士官パイロットのウィリアム・M・フランコビッチ大尉は、
厳重に防御された鉄道橋を航空爆撃するというミッションを成功させ、
その功績に対して殊勲飛行十字章を授与されましたが、そのわずか3週間後、
彼の乗った飛行機が(コルセア?)エンジントラブルを起こし、
彼はそれっきり行方不明になったため、MIAと認定されました。

ここに展示されているブレスレットにはフランコビッチ大尉のものもあります。
彼の弟であるマーク・フランコビッチは、当博物館にそれを寄付しました。

戦後アメリカは戦闘のあった地域で朝鮮戦争時の遺体をいくつか持ち帰りましたが、
マークは海軍からもしDNA照合などの呼びかけがあっても答えないだろう、
といっているそうです。

「もう50年も前のことだから・・・・」

このあたりのアメリカ人の死と遺体に対する考え方は
日本のそれとは宗教観の相違もあって、ずいぶん違うものです。

日航機の墜落の時に亡くなったアメリカ人の家族が、
息子の遺体については全くその特定に無関心だったことは
当時の日本人にある意味カルチャーショックを与えました。

もちろんそれがアメリカ人全ての考えではないとは思いますが、
キリスト教の場合特にその傾向はあるようです。

 

■ ベトナム戦争

「サイレント・リマインダー」(物言わぬ遺留品)として、ここには
1996年にベトナムで採取された戦争の遺留品が展示されています。

これらは1970年に戦闘が行われていたシャン・バレーの旧戦場で見つかったものです。

506歩兵大隊の第101空挺部隊であったゲイリー・ラドフォードは、
1996年に捕虜帰還事業で帰国することのできたただ一人のアメリカ人でした。

彼は当時同じ戦場から避難する前に目撃した同じ部隊の
二人の兵士の最後の居場所を指摘するのに情報を提供しました。

その残された二人は結局見つけられることはありませんでしたが、そのかわり、
このM60機関銃と錆びたヘルメットが彼の示した場所近くから見つかりました。

26年の時を経るあいだ、これらはずっとジャングルの中に置き去りにされていたのです。

 

■ ベトナム戦争のPOW おまけ;ジョン・マケイン”疑惑”

さて、ところで、「あなたを忘れない」として当時ブレスレットに名前を記された
一人の捕虜に、アメリカ海軍のパイロット、ジョン・マケイン少佐という人物がいました。

あのマケイン・Jr.の息子であり、のちに共和党の上院議員になったマケイン三世です。

マケインの暗い過去 / 「ハノイ・ホテル」での囚人生活 : 無敵の太陽救出されたマケイン

いきなり展示の意図とは離れてしかも脱線しますが、それにしても皆さん、
この救出されたばかりのマケイン三世の様子をごらんください。

5年間というもの拘束され、その間拷問されていたというわりには
弱ってないどころかむしろ元気すぎやしないか、と思われませんか?

前回当ブログで

「マケインは捕虜となって拷問されていたたらしい」

などと世間一般の認識をそのまま何の検証もなく載せてしまったわけですが、
なんだかこの艶々した顔を見ていると、猛烈に疑問が湧いてきてしまい、
目の前の便利な箱で調べてみたところ、このカンは当たっていました。

 

1967年10月26日、海軍パイロット、マケイン少佐は、A-4スカイホークでの任務中、
北ベトナム軍に地対空ミサイルで撃墜され、脱出したところを捕虜になりました。

彼は脚と腕を負傷しており、拷問の痕だということになっていましたが、
実はこれ、脱出の際に負傷しただけで、拷問でも何でもなかったというんですね。

それどころか、北ベトナム軍(ロシア)はマケインが「大物」の息子であることから
彼の治療を行い、(同時期に捕虜になったアメリカ人は治療してもらえなかったと証言)
5年間「ハノイホテル」
(収容所)の特別室で丁重に扱われていたという噂があるのです。

目的は何かというと、懐柔して治療をはじめとする好待遇の代償に、
マケインからアメリカ軍の情報を聞き出すためであり、マケインさんたら
唯々諾々とそれに従って口を割ったというのです。

口を割れば無事に返してあげよう、拷問されたことにして帰国すれば
君は英雄になれるよ、そしたらゆくゆくは政治家になって・・・
とかなんとかささやかれたんでしょうか。

関係者の間ではマケインは「ソングバード・ジョンと呼ばれていたそうです。
これってよっぽど「よく歌った」という意味でしょっていう。

というのがメディアは報じない「マケインの黒い過去」らしいです。

しかも、帰還してきて捕虜生活を耐え抜いた英雄として政界に進出、
(ついでに糟糠の妻を捨てて財界の大物のお嬢様と再婚)
大物となった1991年、ソ連が崩壊し、KGBの機密書類が流出すると、

マケインは上院の外交委員会での立場を利用して機密ファイルを封印し、
戦争捕虜を取り戻すチャンスを潰してしまったというのです。

自分が捕虜として苦難を舐めたのに、どうして捕虜奪還のために
公開すべき情報をここで握り潰してしまったのかって話ですよ。

これは、つまりマケインのようなソングバード的アメリカ人捕虜が
定期的にソ連の諜報将校から尋問を受けていて、得た情報がファイルにあったため、

それによってマケインが情報を売り渡していたという事実が明らかになる、
ということで隠蔽のために強権発動したっぽいですね。

 


マケインが死んだとき、アメリカのCNNを始めとする左派メディアが、
(彼らの嫌いな共和党の議員なのに)不自然なくらい持ち上げて、
ヒラリーやオバマ、
クリントンがいかにその死を悼んでいるかを報道する一方、
マケインがトランプ大統領を嫌っていて、絶対葬式に呼ぶなといったとかなんとか、
そんな報道が世の中を席巻していた訳がやっとわかりました。

さすがはソングバード・ジョン。
マケイン三世さんてば、そちら側の方だったんですねー(棒)

そして、

「葬式に呼ぶな」

といったくらい、マケインがトランプを憎んでいた原因はというと、
トランプがマケインのベトナムでのことを大統領という立場上知ったうえで、
「彼は負け犬じゃないか」(シャレじゃないよ)と侮辱したことがあったのだとか。

(本当はもっと違う理由もあるようなんですが、ここは一応穏便に)

 

当時のわたしには全く見えていませんでしたが、マケイン議員本人の政策そのものも
共和党議員なのに、こと移民に関しては妙に左よりで(だからメディア受けがよかった?)
それどころか、死んでからアルカイダのメンバーと仲良く写った写真なんかも出てきたし、

彼らの資金提供の窓口になってテロをさせていたという情報公開もされたというじゃありませんの。

逃亡防止のGPS足輪を隠すためか、右や左に日替わりでギプスも嵌めてた写真もありましたし。

ヒラリー、オバマなど、葬式における「マケインアゲアゲ」のメンバーを見れば、
2021年の今となっては、だれでもいろいろと察してしまうというものです。

いまさらながらにあの時感じた違和感に思い当るわたしでした。

 

海軍軍人出身というだけで清廉な政治家だと信じていた自分が情けない(´・ω・`)

 

続く。



最新の画像もっと見る

3 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
バルジの戦い (ウェップス)
2021-02-20 22:15:39
 バルジの戦いで捕えられ銃殺されそうになった…という経緯は同会戦の”マルメディの虐殺”を想起しますし、映画の筋書き上関与したことにされたヘスラー大佐のパンツァーリートの名場面に当然帰着します。(ドイツ軍が歌を歌ってry)
返信する
どうなんでしょう (Unknown)
2021-02-21 09:05:17
>ソ連が崩壊し、KGBの機密書類が流出すると、マケインは上院の外交委員会での立場を利用して機密ファイルを封印し、戦争捕虜を取り戻すチャンスを潰してしまったというのです。

えらいさんの息子だから、捕虜の間に丁重に扱われたことはあったかもしれませんが、外交委員会は一人ではないので、たとえ、自分に不利な情報でも、完全に握り潰すのは難しいんじゃないかと思います。
返信する
Unknown (20b)
2021-03-04 13:04:24
こんにちは!大変お久しぶりです。ドイツ軍の捕虜認識票ですが、私も初めて見ました。ドイツ軍の認識票は楕円形で同じく真ん中で分割出来る様になっています。同様に上下それぞれに同じ内容が打刻されています。そもそもプロイセン軍から用いられた認識票ですが、アメリカ軍の様に軍人が二枚持つ二枚式と、ドイツ軍の様に一枚式に別れており、むしろ一枚式はそれなりに合理的な物です。兵士が戦場で命を落とした際、二枚式なら一枚回収、一枚式なら半分に折って回収する事により、戦死者の姓名、認識番号が把握でき、その枚数で人数も確認可能となります。認識票を全て回収してしまうと、仮埋葬後回収する場合も誰の遺体かもわからなくなってしまいます。つまりはそう言う目的の用具であり、ドイツ軍は現在の連邦軍も一枚式で運用しています。なお二枚式は重なり合って音が鳴るため、サイレンサー(ゴムの枠)を取り付けるぐらいですから、やはり流石のドイツの合理性では無いかなと思います。それにしても捕虜認識票という物が有ることに驚きました。他の軍でも有ったのでしょうか?
返信する

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。