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目黒・防衛省~秋山真之像のあれこれ

2013-07-27 | 海軍

「秋山真之像」を画像検索すると、いくつかの写真が出てきますが、
それは記念艦三笠内か、あるいは愛媛県松山市秋山兄弟生誕の地のもので、
いずれもレプリカということになっています。
松山には「坂の上の雲ミュージアム」というのがあるそうですが、
ここにこの彫像のレプリカがあるかどうかはわかりません。


この「坂の上の雲」人気にあやかったと思われるミュージアムですが、
ミュージアムグッズ販売もしているのでどれどれ何が買えるんだろう、と
覗いてみたら、マグネットや携帯ストラップ、図録に絵葉書、
司馬遼太郎ゆかりのものはわかるとして、なぜか

安藤忠雄オリジナルハガキセット

いやまあ、ここが安藤忠雄大先生の建築で、それがウリというのはわかりますが。

わたしは、東京駅の駅舎がオリジナルの復刻というコンセプトで改築されたことを
心の底から評価する人間の一人で、そのことを話すときには

「安藤忠雄に依頼していたら、きっととんでもないことになっていただろう」

とつい逆説のマクラとして名前を出してしまうような認識しかこの人に持っていないので、
このミュージアムも、

「安藤忠雄に頼むお金があれば、レンガ造りの兵学校風にすればいいのに」

などとつい意地の悪いことを考えずにはいられないのですが、
行ったことも見たこともないので建物そのものに対する評価は控えます。


閑話休題。

今回目黒の防衛省地区に潜入し、といっても堂々とご招待を受けて
内部に立ち入ったわけですが、それはこの秋山真之像を含む、
防衛省所蔵の海軍ゆかりの品を拝見させていただくのが目的でした。


この秋山真之像は、三笠内にあるのと違い大変大きなものです。
四国松山の秋山兄弟出生の地にあるものは、

「許可を得て複製させていただいた」

という説明がされているようでしたが、大きさは同じではないかと思われました。


この胸像ができた由来について少しお話ししておきましょう。
日露戦争に第一艦隊参謀として参加、あの旅順港の閉塞作戦には
第一次、第二次共に指揮官として参加した、兵学校20期の

斉藤七五郎中将(1870~1926)

が、尽力し、秋山真之が海軍大学で教えた卒業生が中心となって
大正14年(1925年)にこの胸像を完成させました。

斉藤中将は秋山中将の兵学校は三期下。
日露戦争でも閉塞作戦でも参謀として参加した「同僚」でした。
大正7年(1914)、秋山真之が49歳の若さで病死してのち、
この偉大な天才参謀のよすがを残そうと胸像の建造に踏み切ったものと思われます。

そのときイタリア駐在武官であった都留信人(海兵33期・朝日特務艦長)は
海大では甲種15期卒で、やはり秋山の薫陶を受けた教え子ですが、
彼が窓口となって、イタリア人の彫刻家リナルディに制作を依頼します。


「リナルディ」としか名前が伝わっていないので、この彫刻家がどの程度
イタリアで評価されていたかはわかりません。
リナルド・リナルディという彫刻家がいたのは確かですが、彼は1873年に死亡しています。
もしかしたらこのリナルディはこの有名な巨匠の息子で、
当時はそれなりにイタリアでは活躍していたのかもしれません。

とにかく、都留駐在武官はリナルディに秋山真之の写真を二枚渡し、

「これで実物より大きな銅像を造ってくださいヘペルファボーレ」

困ったのはリナルディ。

「たったこれだけの写真で胸像造れって?
これはウンポーコ、ってかモルトモールト困りっシモ。シニョール・ツル」

「しかし写真しかないのですマエストロ。本人はモルトつまり死んじゃったから。
これが本当のモルトモルト。誰がうまいこと言えと」


というわけで、仕方ありません。
大変苦労しながらマエストロ、秋山像を完成しました。




写真でしか見たことはないけど、これ、似てるんじゃないですか?
まあ、写真に似せたから似ている、とも言えますかね。

しかし、リナルディも写真だけとはいえ、目鼻立ちのはっきりした美男である
秋山を彫塑することは、さして難しいことではなかったのではないでしょうか。

日本人には昔からこのようなくっきりした顔立ちが結構な確率でいますが、
秋山家もどうやらこの系統であったようです。
真之の兄の好古を演じたのは「ザ・濃い顔」代表の阿部寛ですが、今までの実在の人物に比べると
最もこの好古役は違和感を感じずに済むキャスティングだったと思います。

(しつこいようだけど、阿部寛に山口多門を演じさせた
『聯合艦隊司令長官山本五十六』をわたしは決して評価しません)

現存する好古の写真は晩年のものが多く、若いときにその容貌を称えられたという
美男ぶりは残念ながら想像するほかありません。
ただ、画像検索していると必ず出てくる、片目に包帯を巻いた写真、
これがもし秋山好古だとしたら、これは男前度は映画俳優レベルだったと思われます。

本人は「男、ましてや軍人に容貌の良しあしなどまったく論ずる必要なし」
という、これもどこまで本当かはわかりませんが、司馬遼太郎によると
どうもそういう質実剛健を絵に描いた男だったようです。

きっと女性は謹厳で酒席でも融通の利かなさそうな好古を敬遠したでしょうし、
弟は弟で、兄より若干やわらかかったとはいえ、こちらはかなりの変人で、
立小便したその直後、その手でアメリカ人女性に握手したり、出物腫れ物所構わず、
人前で平気で放屁し恥じる様子もなかった、という伝説から察するに、
容貌の割にはモテてモテて仕方がないというわけではなかったのではないでしょうか。
いざとなると女性がどんびきするようなことを言ったりやったり空気読まなかったり、
一般的にこういう男性がモテるなどということはあまりないものです。




・・・という与太話はともかく、彫像は完成。
1914年、六月にははるばるイタリアから日本に到着した秋山像。
その年の10月に、軍令部における贈呈式が、企画立案者の斉藤中将によって
行われ、秋山真之の未亡人が受取人となりました。

ただ、受け取ってもこの巨大な彫像、自宅に置くには忍びなかったのか、
その日のうちに改めて未亡人はこれを海大に寄贈することに決めました。



海軍大学は関東大震災によって罹災し、その後上大崎に移転しました。
戦前戦後を通じてこの像は海大と共にあったわけですが、
1945年5月には、おそらく戦局の悪化のため、海大は機能そのものを停止しており。
さらに終戦とともに廃止となりました。

そして、終戦後の嵐のような「軍パージ」が始まるわけです。

海軍大学関係者は、この像がGHQによって取り壊しを命じられたり、
あるいは混乱の中で遺失することを危惧し、その結果、
もとの所有者である秋山真之未亡人に依頼し、逗子の秋山家に密かに移管させました。

旧軍人が連合軍によってどのように自分が処せられるのか戦々恐々とする中、
日露戦争の功績者とはいえ、すでに死去している軍人の家に隠すとは、海大も考えたものです。

というわけで、戦後しばらくこの胸像は秋山家のどこか、人目に付かないところに
ひっそりと秘匿されていました。

そして昭和38年、ふたたび秋山家から自衛隊に彫像は返還され、
その後かつての海大であるここ海上自衛隊幹部学校が所蔵しているのです。


・・・・という大変に歴史的価値のあると思われるこの秋山像。
しかしそれにしては、なんだか落ち着きのないところにあるなと思われませんでした?
そう、ここは・・・・・・・・

エレベーターホールなのです。

倉敷に行ったときに当地の美術品収集で有名な地銀を見学したとき、
各界のエレベーターホールに必ず小さな彫塑が飾ってありましたが、
まさにあんな感じの場所です。
大変広いスペースには違いないんですけどね。

所有が幹部学校で、しかも幹部校は見たところこのビルのワンフロアを
使っているという規模であったので、これが一番妥当な場所であったのでしょうが。

実はここ幹部学校を訪れる訪問者は本来ならばこのエレベーターでこのフロアに上がり、
まず真っ先に秋山中将像を目にするはずなのです。
しかし、わたしが見学に訪れたこの日には正面のホールが強風のために閉まっており、
別の入り口から案内していただいたため、この像を見たのは他の所蔵品を見学した後でした。

全体が海上自衛隊だけの所有ではなく、
このときも1階のフロアにはカーキの軍団がたむろしていましたし、
正面玄関にどーんと、というわけにはいかないのかと思われますが、
他でもない、今や海軍を象徴する人物となっている秋山真之の、
しかも、海大関係者が進駐軍から守ったこの胸像、
もう少し改まったところで観ることができればという気がしないでもありません。

この日見せていただいたいくつかの所蔵品と共に、
まさに倉敷で観たような独立した資料室にして展示できないものかとふと考えた次第です。










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