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「ライトフライヤー号をアメリカに帰そう」作戦〜シカゴ科学産業博物館

2023-07-09 | 歴史

MSIの時間潰し航空機見学ツァー、最後に、
原初の動力飛行機であるところのライト・フライヤーと、
逆にここにある最新の飛行機であるボーイング727をご紹介します。

今日はライト兄弟のフライヤー、「キティホーク」から。

■ ライト・フライヤー『キティホーク』


MSIのトランスポーテーション(交通)ギャラリー東側バルコニーには、
1903年製のライトフライヤーの精巧なレプリカが置かれています。

これは、ライト兄弟の初飛行から100年の節目にあたる年、
2003年に、動力飛行を実際に行った米国初のレプリカです。




「グレン・エルリンの魂」と呼ばれるこの複葉機のレプリカは、
初期の革新的な飛行の現実と大胆さを間近で垣間見ることができます。



1903 年12月17日、オーヴィルとウィルバーのライト兄弟は
世界初の飛行機で有人飛行の夢を実現しました。

写真は、同日ノースカロライナ州キティーホークにおける歴史的瞬間。

ライト フライヤーは自力で離陸し、ほぼ 1 分間飛行を維持し、
パイロット 3 名の制御下で飛行しました。

これまで他のどの飛行機でも達成されたことのない偉業を成し遂げたのです。

オハイオ州デイトン出身の独学のエンジニア、プリンター、
自転車整備士が、航空時代を開始し、世界を永遠に変えた瞬間でした。



「飛行時代の夜明け」と記されたライト兄弟の写真。
上のキティホークでの初飛行で、コントロールしているのがオービル、
見守っているのがウィルバーです。

キティホークは初飛行の場所ですが、
ライトフライヤーの別名でもあります。

ご存知のように、これが有人重飛行機hevier-than-airの初の持続飛行でした。



アンヘドラル(垂れ下がった)翼、
前部エレベーター(カナード)、
後部ラダーを備えた単葉複葉機です。

12馬力のガソリンエンジンを搭載し、
2枚のプッシャープロペラを動かして操縦を行います。
(というよりただ乗っているだけ?)

最初の機体は不安定で飛行が非常に困難だったため、
4回目の飛行で260m飛んで着陸時に破損し、
その数分後に強力な突風で吹き飛ばされて大破しました。

その後オーヴィルによって修復され、現在は、色々あった後、
ワシントンD.C.の国立航空宇宙博物館に展示されています。

■オーヴィル・ライトとスミソニアンの確執

この間実は色々あって、「キティホーク」はロンドンにいた時期があります。
アメリカ人の魂と呼んでもいいようなライトフライヤーがなぜ?

それは、オーヴィルとスミソニアン協会の間の確執にありました。

地質学者チャールズ・ウォルコット

当時のスミソニアン協会長官チャールズ・ウォルコットが、
ライト兄弟が初めて動力による制御飛行を行ったという功績を認めず、
それは、ライト兄弟のテストが成功する9日前に、
同じようなチャレンジをして失敗したサミュエル・ピアポン・ラングレー
「史上初」であることにしようとしたからだと言われています。


ラングレー


ラングレーの実験(飛行時間5秒)
っていうかもう落ちにかかってるし

これは、ウォルコットが、サミュエル・ラングレーの友人だったことから、
なんとか彼を「史上初」にしたかったという情実からきたゴリ押しでした。

ちなみにラングレーはスミソニアン協会の事務局長でした。
(日本語のWikiでは長官となっているがこれは間違い)


エアロドーム(陸軍がラングレーに依頼した)

ラングレーがエアロドーム号を使ってポトマック川で行った実験は
失敗でしたが、友人の航空史における地位回復を臨むウォルコットは、
やはりライト兄弟と訴訟問題で揉めていたグレン・カーティスと組んで、
もう一度エアロドームをスミソニアンの展示から引っ張り出して
ニューヨークのケウカ湖で飛ばそうとしました。

カーティスは、ライト兄弟と飛行機の特許で争っていたため、
エアロドームで制御されたパイロット飛行が可能であることを証明し、
ライト兄弟の広範な特許を無効化しようとしたのです。

カーティスはここでエアロドームにこっそり改良を加えました。
エアロドームが「人類初の飛行機」かどうかを証明するためには
やってはいけないことでしたが、カーティスはなんやかんや言い訳して、
特許弁護士や評論家からは、

「いやこれ原型留めてねーし」

といわれるくらい改造して飛ばそうとしたのです。
しかし、前述のように湖面から数フィートの高さで5秒間飛んだだけでした。

しかも、訴訟で裁判所はライト兄弟の特許を認める判決を出しました。

それはともかく、スミソニアンが「ラングレー推し」し出した頃、
オーヴィルは当然それに激怒し、

「もし私たちの偉業をスミソニアンが認めないつもりなら、
『キティホーク』をロンドンの博物館に送るがそれでもいいか?」


と脅したのですが、全く効果はありませんでした。
そこで引っ込みがつかなくなったオーヴィルは、
本当に機体をロンドンに送ってしまったのでした。


ロンドンの科学博物館に展示されていた「キティホーク」
柵もなにもなく、その気になれば触り放題という


そのうち第二次世界大戦が始まり、「キティホーク」は
爆撃の多い市街地を避けて、地下貯蔵施設に避難していましたが、
まだ戦争真っ只中の1942年、ウォルコット長官が死去したことを受けて
新長官となったチャールズ・アボットが、
これまでのスミソニアンの公言を撤回する考えを示しました。


スミソニアンの誤りを認めた男、アボット長官(天文学者)

新長官が就任に際して言及した「4つの後悔」の中の一つが、

「人が乗って自由に飛行できる最初の飛行機」が
ラングレーのものであると認定してしまったこと

とであり、長官は、

「1903年12月17日にノースカロライナ州キティホークで
ライト兄弟が初めて空気より重い機械で持続飛行したことは認められている。

ライト博士が飛行機を(スミソニアンに)預けることを決めたら...
それにふさわしい最高の名誉が与えられるだろう」

と翌年の年次報告で表明しました。
(ちなみに後三つの『後悔』がなんだったかはわかりませんでした)

翌年、オーヴィルはアボットと何通かの手紙を交わした後、
フライヤーを米国に返還することに同意しました。

フライヤーはその後、いくつかの契約条件のもとで
スミソニアン博物館に売却されることになりましたが、
そのうちのひとつには、こう書かれています。

スミソニアン協会またはその後継者が、アメリカ合衆国のために
管理する博物館やその他の機関、局、施設において、
1903年のライトフライヤーよりも古い時代の航空機モデル、
または設計された航空機が、制御飛行において
自力で人間を運ぶことができると主張する声明、
またはラベルを公表したり表示することを許可しない


■ オペレーション・ホームカミング

「キティホーク」がロンドンに「出張」していたのは意外に長く、
1928年から1948年までの20年間でした。

オーヴィル・ライトとアボット長官の間でようやく話がまとまったため、
アメリカはフライヤーをアメリカに戻す計画として、
「オペレーション・ホームカミング(里帰り作戦)」を展開しました。

アメリカは何でも「オペレーション」にしてしまいますが、
とくにこの「ホームカミング」という言葉が好きらしく、
一般にこの名前で知られるのは、1973年にニクソン政権で行われた
ベトナム戦争の捕虜を一気に家に帰す帰還作戦です。

そのせいで、こちらの作戦はライト・フライヤーの件でしか語られませんが、
ともあれ20年間海外にあった飛行機を、アメリカに戻すというのは
当時のアメリカにとってそれなりに大変なことだったのです。

ホームカミング作戦では、「キティホーク」が20年間の海外生活を経て、
空母「パラオ」の輸送によりアメリカに戻されました。



1948年10月18日、イギリスの様々な飛行組織の代表や、
サー・アリオット・ヴァードン・ロー(イギリスの航空エンジニア、企業家。
自作の飛行機で自国の空を飛んだ最初のイギリス人)
など、イギリスの航空界の先駆者が出席した式典で、
「キティホーク」の正式な引き渡しが行われました。

執行者となったのは、アメリカ民間航空局の
リビングストン・L・サタースウェイトでした。

そして11月11日、「キティホーク」は1,111人の乗客とともに
「マウレタニア」号で北米に到着しました。

定期船がノバスコシア州ハリファックスに停泊すると、
スミソニアン国立航空博物館のポール E. ガーバーが機体を出迎え、
アメリカ海軍空母USS「パラオ」に載せ、ニューヨーク港経由で送還。

そこからワシントンまでは、フラットベッド・トラックで移送されました。

アメリカの道路を走っていると、時々「OVERLOAD」と書かれた
超重量物を運ぶ特別輸送トラックを目撃することがありますが、
おそらくこのときも、「キティホーク」を載せたトラックは
周りを守られて、ゆっくりとスミソニアンに向かったのでしょう。

■ スミソニアンの「キティホーク」



そして、現在のスミソニアン博物館には、
ライトフライヤーを据えた「ライト兄弟コーナー」があります。



オーヴィル愛用のマンドリンの展示の横に座る見学者。

わたしが実際スミソニアンに訪れて撮った写真です。
スミソニアンライト兄弟コーナーはまた日を改めて紹介すると思います。



コロナといえば、これはコロナ前のスミソニアンの展示。


MSIのライトフライヤー レプリカの展示。



オーヴィルは黒マスク派でした。

■ 「ライトフライヤー」飛行 100周年

2003年12月17日の100周年が近づくにつれ、米国飛行100年委員会などが、
ライト・フライヤーの飛行を再現する企業の入札を開始しました。

このとき落札したライト・エクスペリエンスは、
オリジナルのライトフライヤー、試作のグライダーやカイト、
その後のライト航空機の多くを丹念に再現し、
実際に12月17日、それを飛行させようと試みました。

事前のテスト飛行では成功していたそうですが、
天候不良、雨、弱い風のため記念日には飛行できなかったそうです。

この複製は、ミシガン州のヘンリー・フォード博物館に展示されています。

このほかにも、アメリカ航空宇宙学会(AIAA)ロサンゼルス支部が、
1979年から1993年にかけて製作した実物大レプリカ。

この航空機は、カリフォルニア州のマーチフィールド航空博物館にあります。

このほかにも、米国内はもとより、世界各地に静態展示のみの
飛行しない複製機が多数展示されており、
「パイオニア」時代の単一の航空機としては、
史上最もたくさん複製された機体となっています。


続く。




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