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映画「間諜未だ死せず」前編

2023-02-28 | 映画


昭和17年、日米開戦直後に、防諜を啓蒙する目的で制作された国策映画です。

また例によって教条主義まるだしの異世界的綺麗事映画か、
とあまり期待もせずにたまたま目についた作品を取り上げたのですが、
なかなかエンターテイメント性が盛り込まれていて、
映画としてそれなりに見応えがあったのは認めます。

しかし、日米戦争真っ只中に作られた映画であるため、
アメリカ人役の俳優が調達できず、濃い化粧した日本人俳優が、
時々怪しげな英語を挟みながら日本語のセリフをペラペラ喋る設定には、
いくらなんでも斬新すぎて度肝を抜かれました。

加えて、スポンサーをお上として制作したという国策映画であること、
日米開戦を礼賛する痛いラストシーンにしてしまったことから、
本作は映画作品としてまともに認められていないようで、
監督の吉村公三郎、脚本を手がけた木下恵介(後監督)、
主演の佐分利信の出演歴にはそのタイトルはなかったことにされています。



松竹映画は大船撮影所にエキストラを含め述べ二万人を動員したそうです。
親方日の丸の強みってやつですか。



指導が憲兵司令部、陸軍憲兵少佐の白濱宏、
後援防諜協会という文字が真っ先に出てきます。

憲兵司令部とは 陸軍で全国の憲兵に関する事務を総轄する官庁でした。
おそらくこの白濱少佐はその中の宣伝担当だったのでしょう。



昭和16年7月、重慶。
映画はなんと日本軍による重慶爆撃のシーンから始まります。

日中戦争の最中、当時中華民国の首都であった重慶に行われた
都市爆撃を含む戦略爆撃で、16年7月の爆撃は、
もうその作戦が開始されてから3年目となり、
実質上無差別爆撃となっていた頃という設定ですね。

それを全く隠さず、むしろ事実として最初のシーンに持ってくるあたり、
国策映画といいながらなかなかのバランス感覚に思えます。

ちなみに昭和14年からは海軍航空隊も参加しますが、
この攻撃を主導したのは、当時支那方面艦隊参謀長だった井上成美でした。



割れた窓ガラス越しに爆発の猛火から逃げ惑う重慶の人々が描かれますが、
これが「二万人を動員した」モブシーンだと思われます。



そんな街角に佇む中国軍の軍人がいました。
彼の名は王友邦少尉。
演じるのはこのころの戦争映画の常連俳優原保美です。



路傍に置き去りにされて泣いている子供を抱き上げ、
安全な場所に押し込んで、王はどこかへと向かいました。



彼は地下室にある中国陸軍の司令部に到着しました。

そこで司令部の軍人との話が始まるのですが、案の定会話は全て日本語です。
アメリカ人ですら日本人に演じさせるしかないこの状況で、
中国人役を日本人俳優で固めるのは当然とは思いますが、
言い回しや動作が日本人ぽすぎるのはちょっと問題かも。



上官から「香港のFBIからの要求」として彼に言い渡された任務とは、
日本滞在経験のある彼にスパイとして東京に行かせ、情報収集を行い、
日米交渉に向けて市場を撹乱するというものでした。

「日本人は口が軽い。
特に日本の女は外国人に対して不思議な憧れを持っている。
君は、君の若さを持ってその弱点を突くのも一興だよ」


などと、いきなり日本人を馬鹿にするのも忘れていません。

それにしても思うのは、日中戦争が始まって相当年数が経っているのに、
中国人の入国は全く制限されていなかったらしいということです。



さっそく民間人に身をやつした王少尉、香港から上海に飛び、
そこで手筈を整えて待つ関係者から指示を受けることになりました。



「マドロスパイプをくわえた男から指示を受けよ」

ふむ、こいつだね。

どこかで見た男だと思ったら、映画「水兵さん」で
主人公の少年の父親だった人じゃないですか。

原保美も「水兵さん」の海軍士官役だったし。



ところがそのとき、偶然王は東京時代の友人であり、
恩師の息子である津村とばったり遭遇してしまいます。

仕方がないので、連絡役に後をつけさせたまま、
二人は食堂に入り旧交を温めることになりました。


「もう7年になりますね」

「僕が高等学校の頃だからな」

「よく銀座を散歩しましたね」

話の流れで、津村は日本に行ったら自分の家に滞在すればいいと勧めました。
父親のいない彼の家には、老母と妹の文子が住んでいます。



「ついでに僕の写真なんかも持っていってやってくれないか」

うーん、これはどう見てもプロマイド。



津村と別れたあと、連絡係の男は不気味なことを言い出します。

「今彼と会わなければもう一生会えなかったでしょうな。
彼は中華日報の新入り記者です。
どうも邪魔になっていけない」

どうも、津村と出会ったのは偶然ではなかったようなのです。
記者がなぜ邪魔になるのかわかりませんが。



「僕の親友です。彼だけはやらないでください」

驚いていう王に、

「君は日本に行けばよろしい」

平然と言いながら書類や拳銃を彼に渡す連絡係。



ここは上海憲兵隊司令部。

真ん中のパリッとしたのは上原謙
上海憲兵隊長(なぜ私服なのかわかりませんが)だそうです。



この下っ端憲兵ですが、忘れもしないこの間伸びした顔、
「水兵さん」で主人公の同期山鳥くんを演じていた子じゃないですか。

もしかしたら「水兵さん」俳優総出演か。



上原謙は、王と連絡係が会っていたお店のウェイトレスから、
密告情報を受けていました。(多分お金が出てる)



「確かにこの男だったか?」

憲兵隊は、連絡係の男を張っていたのでした。

そして、王が近々東京に潜入すると判断し、内地の憲兵隊に通信します。

ところで、上原謙は出演者に大々的に名前を連ねてはいますが、
出演はこのシーンだけで、ほんの一瞬です。
おそらく女性客ホイホイ的キャスティングでしょう。



上原謙憲兵隊長が情報を送信した東京の憲兵隊長武田少佐(佐分利信)が、
ちょうどNHKで啓蒙放送を行なっています。

「この防諜は老若男女誰でも参加しなければならぬ、
国防上の義務であります。
この目に見えざる敵との戦いを我々は秘密戦と申します」


そして、宣伝と謀略に気をつけよ、と。
防諜協会がこの映画で宣伝したかったことなので、
くどくどと映画の長尺をを使って演説は行われます。

おそらく、実在の白濱宏憲兵隊少佐とやらにヨイショ、
いや敬意を表して、主演格の佐分利信に演じさせていると思われます。


さて、ここからが問題のシーンです。
場面は変わり、ここはアメリカ大使館。

「メイジャー・ロバートソン」

と呼ばれたアメリカ軍将校を演じている純度100%の日本人。

小津安二郎作品にも出た斉藤達雄という俳優ですが、
この人の「水兵さん」での役は「町のご隠居」でした。

もちろん彼のバイオグラフィにもこの作品に出たことは書かれていません。



そこに「グッドアフタヌーン・サー」と入ってきたのもご覧の通り日本人。

映画の情報がなさすぎて、演じている人の名前もはっきりしませんが、
消去法で三枡万豊という俳優だと見当をつけました。

挨拶の後は普通に日本語での会話が始まりますが、
その会話の合間に口笛をヒュー!と吹いたり(下手)、
手振りをつけたり、それらしく見せる努力は惜しみません。

後から来た男、ノーランは情報屋というか、日本の国内事情をあれこれ探って
米軍の諜報に報告し、株の操作などを含めた工作で憲兵少佐いうところの
「人心を不安にする情報戦」を仕掛けようとしているようです。

アメリカ側にすれば、日本の民心に厭戦気分を蔓延させることで、
こちらが有利な条件を安易に飲ませることができれば勝ちというわけです。



場面は変わってここはレッドリーというバー。
マグカップで酒を飲んでいるのは、もしかしたらさっきの憲兵隊少佐?


そこにノーランがふらりと現れます。

するとバーのマダム、ユリ(小暮美千代)はいきなりノーランに向かって、
今聞いたばかりの「信じられない話」をペラペラ喋り出すのでした。

「武田さんに散々揶揄われてんの。
ゆうべね、重慶で蒋介石が死んだんですって」



ノーランはそれを聞いて一瞬表情をこわばらせ、
それを盗み見る武田少佐の目は全く笑っていません。



そしてそのバーの片隅で泥酔したふりをしているのは、
おや、王さんではありませんか。

実は王さん、ノーランの指示を受けに、
つまり諜報活動の真っ最中なのです。

ノーランは王が帰った後も、

「徴用令が無理やり出されている」

「米は内地で足りないのに中国で捕虜に食べさせている」


などとデマを吹聴するのに余念がありません。



王は上海で会った旧友津村の家に下宿していました。

妹の文子を演じるのは水戸光子。
この組み合わせも見覚えありませんか?

これも「水兵さん」で、出征する海軍士官とその妻でしたよね。

歯並びのせいで見ていると不安になる容貌、などと
前回失礼な評価をしてしまいましたが、基本的に今回も感想は同じ。

しかしこれはわたしが知らなかっただけで、実は当時の女優、
桑野通子、高峰三枝子、原節子らと同格くらい人気があったそうです。

特にあの小野田寛郎元少尉が、ルバング島から帰国後、
「好きな女性のタイプ」としたことで話題になったとか。



確かに写真ではすごい美人。
国策映画ということで、女優を綺麗に見せるなどという撮影のこだわりが
「水兵さん」同様あまりなかったせいかもしれません。



さて、二人が何をしているかというと、兄が王に託した上海土産の
「中国の花嫁行列人形」を飾っているわけです。



なんだかよくわからない人形ですが、婚礼の行列を再現したもので、
王がその人形の並べ方を説明をしてやっているうちに、
すっかり二人はいいムードに。

「賑やかな音楽に送られて、行列がいくんです。
その頃はちょうど杏の花の真っ盛りで・・一面春の風に烟ってるんです」

「今度お帰りになったらあなたも早速おもらいになるのね」

「来てくれる人がいるかな」

「あら、いくらでもいますわ」


「いや、あなたのような方でないと」


うーん、王さんやるね。
これもスパイ活動の一環ですか。



ところがそのとき、王のために帯を出そうとしてタンスが揺れ、
上に飾ってあった文子兄の写真が落ち、割れてしまいます。



それとほとんど同時に、不吉な電話の音が鳴り響きました。


兄が上海で暗殺されたという知らせでした。
彼を撃ったのは上海で王の連絡役になった男です。




兄の運命をあらかじめ知っていたとは口が裂けても言えない王でした。



文子は興亜学館という国際学校で箏を教えていました。



授業を始めようとすると、中国人の生徒たちは、兄が中国で殺されたのに、
それでも中国人を恨まないのか、とダイレクトに聞いてきます。

文子は、兄を殺した中国人とあなたがたは関係がないし、
中国で親兄弟を失った日本人もそんなことは考えていないと答えます。

「わたしたちの敵は蒋政権です」



しかし、そんな文子と生徒たちの様子を覗き見しながら、
王は中国人留学生に工作を試みようとします。

つまり、日本政府の中国政策に(新政府への支援)に疑問を抱かせ、
反感を持たせるための扇動を行うのです。



戦地に米を送っているので国内に米が足りない、あるいは
無理やり徴用に引っ張り出されて皆が迷惑している、
こんな噂を電車の乗客がしているのを聞き、
自分達の工作がうまくいっているとほくそ笑む王でした。



さて、こちらは横浜の本牧にあるユリの豪華な部屋。



これがこの頃の日本人が考えるところのお金のかかったモダンな家?
この豪勢な家は、金持ちのパトロン(兼夫)に買ってもらったものです。

彼女は外から呼ぶパトロン兼夫の声に反応して
バルコニーに駆け出しますが、家の中なのにパンプスを履いています。

これも当時の日本人の考える「夢のようなゴージャスな家」の証です。



彼女のパトロンになっている男は、これも日本人にしか見えませんが、
ラウル・ゼナローサというフィリピン人スパイでした。
(ちなみに住所は中区本牧小湊30番地)

帰ってくるなり日本の株式市況をラジオで聴き始めます。

「東洋汽船」「日産汽船」「石川島」

などという実在の会社名が聞こえています。



王とラウルは、いわば「スパイ仲間」。

徒然に交わす会話で、なぜこんな因果な商売をしているのかという問いに、
王は自分の国を愛しているから、と答えますが、
フィリピン人と広東人のハーフであるラウルは、
故郷のダバオはもはやアメリカのものであって我々の祖国ではない、
と根無草の自分の運命を自嘲するのでした。



そして、フィリピン独立運動の英雄であり、スペインに処刑された
ホセ・リサール(1861ー1896)の話をしながら、激しく咳き込みます。

どうやら胸の病でおそらくもう長くないのでしょう。

本牧から見える夜の海を見ながら、ラウルは王に忠告します。

「アメリカやイギリスに操られちゃいけませんよ。
わたしは自分の仕事をビジネスと割り切ってやっているが」


若い王は、それは不誠実ではないかとなじりますが、
ラウルはそれでも自分は仕事をやり遂げるだけだと宣言するのでした。


続く。