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反対者たちと支持者たち(と反対の反対者たち)〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-06-18 | 歴史

かつてマサチューセッツ州の共和党知事、フランシス・サージャント

"The war ιs costing American it's soul. "
(戦争が犠牲にしたのはアメリカの魂そのものだ」

といいました。

■ DISSENTERS(反対者たち)

というコーナーで紹介されているのは、文字通り戦争反対者たちが
どのような活動を行ったかです。

冒頭写真は1972年サンフランシスコで行われたデモの様子です。

雨の中アメリカの旗を傘がわりに?行進するのはベトナム帰還兵たちで、
車椅子の青年は
戦地で負った負傷が元で歩けなくなったベテランでしょう。

1969年に行われた大規模な反戦キャンペーンとデモ行進を
「モラトリアム」と呼ぶことはすでに当シリーズでお話ししましたが、
このモラトリアム行進に参加したアメリカ人の数は200万人にも上りました。

全米各地で人々は仕事や学校を休んで、「沈黙の警戒運動」、討論、そして
行進に参加することで反戦の意思を表明しようとしました。

Silent Vigil=沈黙の監視を行う人々。
これはMLK、キング牧師暗殺に対する静かな抗議活動です。

あかちゃん本人はまだ何もわかっていませんが、ベビーチェアの背中に

「ぼくを平和の中で成長させてください」

というメッセージが貼られています。
これはモラトリアムデーが行われた1969年10月、
シンシナティのガバメントスクエアの光景です。

モラトリアム行進に参加したのは、戦争に嫌気が差した一般人が多く、
さらにそのほとんどが平和活動を行うのが初めてという人々でした。

1969年の秋から数年間にわたって起こった反戦デモは、ニクソン政権が
国民の幅広い層からその戦争政策を支持されていないことを示していました。

「ベトナム・モラトリアム」

「今すぐ爆撃を止めろ!撤退せよ!」

「今!平和を」

「労働者行進 ワシントン11月15日 戦争をやめよ」

「徴兵制を終わらせ、戦争を終わらせよ

「5月5日行進 闘争」「ブロンクスを戦争から解放せよ」

「平和のためのアジア系アメリカ人団体」

「10月13日 今すぐ撤退」「反戦退役軍人 サポート」

こんな「ポリティカルバッジ」のコレクションです。

「平和のための労働」のモラトリアムポスター。

いつものように仕事をやめなさい

上院議員に手紙を書きましょう

議会に手紙を書きましょう

大統領に手紙を書きましょう

大統領への公開書簡に署名してください

10月25日の行進に参加しましょう

今すぐ戦争をやめてください!

行動すること、それ以外の現実はありません

その名も「モラトリアム」という機関紙です。

1969年11月号の「THE ALLY」は、陸軍将校が兵士たちを「騙している」と非難し、
モラトリアムに共感するGIたちに焦点を当てました。
この雑誌は世界中にある米軍基地に2万部発行部数があり、皆がこれを読んだことになります。

ここに展示されている手紙の中で、南ベトナムのチューライというところにいる軍人は、
100部の「The Alley」配布を要求しています。

「The Ally」は1968年いカリフォルニアのバークレーで発行され、
反戦のいわゆる「ホットスポット」となっていました。

軍の駐屯地に配られる新聞や雑誌で、堂々と反戦が語られていたのです。

「ハードハット」と呼ばれる抵抗者たちは、「反戦者に対する抵抗者」でした。

1970年4月30日、ニクソン大統領はカンボジアでの軍事作戦を発表しました。
8万人の米軍とARVN軍が、敵の根拠地と補給線を破壊することを命令され、
多くのアメリカ人たちはこれを戦争の拡大と見做しました。

そして全国の大学で抗議運動が炎上し、5月4日、ついに
オハイオのケント大学で銃撃による学生の死者が出ました。

反戦団体はウォール街で集会を行いました。
正午過ぎ、200名の旗を振る建設労働者たちが彼らに相対する形で
抗議運動に対する抗議を行い、この「ハードハット暴動」
七十人以上が負傷するという惨事になりました。

この抗議活動によって、ヘルメットは

「戦争を支持するブルーカラー」

「抗議運動への反対の象徴」

になったのです。
(日本では正反対の学生たちの象徴でしたが)

このとき、アメリカの世論はより複雑な状況となっていました。

1970年までに、大学の学位を持たないアメリカ人たちは、
大学教育を受けたものより、戦争に反対する傾向にあったと言われています。


■ SUPPORTERS 支持者たち

何度もいうように、反戦運動が盛り上がっていても、アメリカという国は
全く一つの意見でまとまることはほぼないといっていいでしょう。

「北ベトナムはアメリカ合衆国を打ち負かしたり屈辱を与えることはできない。
それができるのはアメリカ人だけなのだ」

1969年11月、ニクソン大統領は反戦運動についてテレビ出演し、

「わたしの支持者である、偉大なサイレントマジョリティーの皆さん」

に向かって演説を行いました。
有名な「サイレントマジョリティ演説」です。

さりげにトリビアですが、「サイレントマジョリティ」という言葉が
一般的になったきっかけは、このときのニクソン演説なのです。
(最初にその言葉を使ったのはクーリッジ大統領演説だった)

具体的にはニクソンの演説の一節、原文はこうです。

"And so tonight—to you,
the great silent majority of my fellow Americans—

I ask for your support."

この言葉は、当時のベトナム戦争反対の大規模なデモに参加せず、
カウンターカルチャーにも参加せず、言論活動にも参加しない層を指しました。

ニクソンは、他の多くの人々とともに、このミドルアメリカンのグループが、
声高な少数派の人々とメディアの影で「沈黙」していると考えていました。

1969年10月15日、第1回目の「ベトナム戦争終結のためのモラトリアム」のあと、
 自分の状況が「包囲されている」と感じたニクソンは、この反論演説を行い、
ベトナムでの「戦争を終わらせるための私の計画」を説明しました。

このときに使われた言葉が、前回出てきた

「ベトナミーズ」=ベトナム化政策

です。
南ベトナム軍に戦争の責任を負わせることでアメリカの損失を減らし、
北ベトナムが南ベトナムを承認することを条件に、アメリカが妥協すること、
もしそれでも戦争が継続するならば北ベトナムに対して

「強力で効果的な措置」

を取る、と言ったわけです。

強力で効果的な措置って何かしら。原子爆弾かな(棒)

しかし、戦争が始まるように仕組んでおいて、片方に責任を負わせ、
自分たちが分割した国が戦争をやめなければ核を使うぞ、(たぶんね)
とは、なんたる言い草でしょうか。

わたしがアメリカという国に嫌いなところがあるとすれば、
軍産複合体
(とくにウォール街や経済界)のしがらみで戦争を始めては、
その尻拭いをこのときのように
放棄し、知らん顔して、
「名誉ある撤退」などとしれっと言い放つその体質にあります。

そんな戦争をしたい連中から見れば、任期中一度も戦争しなかったトランプ大統領は
さぞかし自分たちの「商売」に邪魔な存在だったんだろうな、とも。

さて、ニクソンはこんな言葉でスピーチを締めくくりました。

「そして今夜、わたしは偉大なるサイレントマジョリティである
アメリカ国民の皆さんに、支援をお願いしたいのです。

我々は平和のために団結しよう。
敗北に対して団結しましょう。

なぜなら、私たちは理解しているからです。
北ベトナムは米国を敗北させたり、辱めたりすることはできない。

それができるのはアメリカ人だけなのです」

このスピーチは、いつものようにスピーチライターの手によるものではなく、
特に「サイレントマジョリティ」の言葉を始め、
すべてニクソン本人が書いたものだといわれています。

ともあれ、「全てのアメリカ男性を故郷に戻す」ということについての
ニクソンの言葉は、聴衆の心を打ったのは事実です。

彼の「忍耐」についての呼びかけもそうでした。

大統領の支持者は、たとえ戦争そのものについてどのように考えていたとしても、
そのほとんどが、敗北を回避しようとする彼の努力を支持しており、
一方で、反戦運動については否定的だったということになります。

沈黙を忠誠心と同一視し、反対意見の声を忠誠心のなさと同一視した
この大統領の演説は、アメリカ人たちを、敵対する二つの陣営に分けたのでした。

リチャード・ニクソン大統領とH・R・ハルドマン国務長官

山と積まれているのは、「サイレント・マジョリティ」演説の後

送られてきた(主に激励と賛同の)手紙です。

ホワイトハウスの前で1970年に行われた「ビクトリーマーチ」
ワシントンDCを行進する彼らは

「神はベトナムに勝利を与える」

という旗を掲げていました。

彼らを率いたカルヴァン派の神学者、カール・マッキンタイアは、

「わたしたちは、モラトリアム行進や、即時全面撤退という
”ヒッピーの概念”に挑戦しているのである。
それは降伏を意味する。

このイベントは、キリスト教徒と愛国者のための行進である」

とも述べています。

「ベトナムにいる息子たちを支援せよ」

「誇りを持って」

「それ(降伏)をハノイに言ってやれ」

などというバッジに混じって、右下に

「カリー中尉を即時釈放せよ」

というのがあります。
カリー中尉とは、他ならぬソンミ村虐殺事件で命令を下した責任で起訴され、
一度は有罪判決になっていた

ウィリアム・カリー中尉(William Laws Calley)

のことです。

マッキンタイア牧師と彼の支持者は、カリー中尉の無罪を訴えていました。
戦争犯罪に関する22の罪状でウィリアム・カリー中尉が起訴され有罪判決を受けたのは、
ベトナムにおけるアメリカ政府の「勝ち目のない政策」のせいだという理由です。

■ 政府の監視

ニューヨーク市警察は、反戦活動家たちを監視していました。

このファイルは、平和のための婦人運動の更新に関する報告書です。
調査員はまた参加者の特定を行うためにデモを写真撮影していました。

こういった監視はニクソン政権下で大幅に強化されました。

この増加に加担したのは州および地方の警察署、大学のセキュリティオフィス、
FBI、CIA、NSA、そして陸海空軍の諜報機関などでした。

諜報活動員は盗聴を行い、手紙を開封し、情報提供者を募りました。
彼らはまた、反戦活動を撹乱するために個人的な信用を失墜させる工作を行いました。

具体的な工作は、その人物について嘘を広め、結婚を破壊する、
職場を解雇させる、そして損害を与えるような競争を誘発することなどが含まれます。

1971年、ある反戦活動家がFBIのオフィスに強盗に入り、監視や妨害行為など
工作の証拠を明らかにするファイルを見つけました。

1975年、フランク・チャーチ上院議員が率いる超党派の上院委員会が
この件について調査を行った結果、

「実質的に不正である諜報活動が行われたことは事実であり、
これらの工作は、アメリカ人の憲法上の人権保護に反する」

と結論づけています。

 

 

続く。