当作品は2015年リリースなので立派な新作の範疇に入るのですが、
わたしにはこれが公開された時どころかDVDリリースの記憶が全くありません。
これは、この映画がハリウッド制作ではなくイタリア映画で、しかも
ハリウッドが蛇蝎のように悪魔視するナチス 、しかもSS隊員の視点から語られた、
「ある方面からは非常に不愉快な映画」だからではないかと思います。
美しい音楽、愛する妻に送る手紙の淡々とした朗読、最強の部隊と言われながらも
殺す殺されることに苦悩する一人の人間として彼らを語ること。
これら全てをタブーとしてきた戦後の全ての媒体を思うとき、
この映画の意義はたいへん大きなものであると断じざるを得ません。
■ ロシア戦線
さて、師団はイタリアでパルチザンとの戦いに参加したのち、
情勢がさらに悪化したロシア戦線に送られることになりました。
またしても彼らのいうところの「イワン」とのおわりなき戦いが始まるのです。
背嚢には飯盒炊爨のセットとともに髭剃りセットも入っています。
本作で重要な要素として語られるのが捕虜の扱いです。
戦闘中はともかく、基本的に捕虜は取らないとなっている状況下で
不幸にして敵が生き残っていた場合・・・。
相手を一人も許さないと決めたシュタイナーは捕虜を殺すのに逡巡しません。
しかしヘルケルは、手袋を取り上げられ、必死で命乞いするロシア兵を
新兵に射殺させようとする彼を見ながら心でつぶやきます。
「何かを止める力があるのに 許されないのは辛い」
ライプシュタンダルテの創始者であるディートリッヒが肉屋の息子だったように、
彼らはほとんどが貧困の出であり、食べるために軍隊に入隊しています。
新兵のショルはナポラ(ナチス政権獲得後に民族共同体教育施設として設けられた、
中等教育レベルの寄宿学校《ギムナジウム》)出身ですが、
ナポラは必ずしも入隊を強制しておらず、彼自身
「学業を続ける級友が多いけれど、僕はSSに志願しました」
と説明しています。
つまり彼はナチス的教義に共鳴し入隊を決めたのですが、
どんな思想にもたやすく心酔する十代前半の少年にはありがちなことでした。
ヘルケルも貧困ゆえ入隊しましたが、出征し帰ってこなかった父を
誇りに思うように、自分のことも妻に誇りにしてほしいといいます。
そして、ハリウッド映画はもちろん、現代のドイツ人が決して語ろうとしない
ある事実にさらりと言及するのです。
「そこはドイツではなくなっていた。
母はする仕事が全くなくなった。
それはユダヤ人が経済を握っていたからだ。
当然俺たち(ドイツ人)よりユダヤ人が優遇される。
干し草に寝なければならないこともあった。
そんなときナチスが母に仕事をくれた」
そして出征して死んだ父を初めて国家にねぎらってもらったことが、
「ここにいる理由だ」というのでした。
ヘルケルが率いる小隊は、シュタイナー、ショル、総員4人です。
この映画は戦闘シーンと同じ比重を持って自然の描写がなされます。
兵士と自然が共存する、心がしんとするような構図。
この手法はもちろん本作が初めてではありません。
「シン・レッド・ライン」などに取り入れられたのと同様の試みですが、
あちらが南洋であるのに対し、こちらはロシアの大地という大きな違いがあります。
1943年の12月、師団は東部戦線を西部から攻撃していましたが、
16日まで続いた戦闘でソ連第16軍の大半を壊滅させています。
12月24日、この日は装甲軍団の戦線が突破されたため、
前面で防御線を張っていたときでした。
雪上迷彩を制服の上につけた彼らは、ヘルメットに立てた蝋燭を囲み、
互いに「メリークリスマス」とだけ言い合います。
BGMには各自の脳裏に流れているであろう「きよしこの夜」の歌が・・・。
「兵士に何ができる?
指導者たちを信じ、忠誠を誓ったのだから
今は塹壕を掘って掘って掘るしかない」
■ ノルマンディ
ノルマンディ上陸作戦当時、ヒトラーはこれを陽動作戦とみなしていたため、
ライプシュタンダルテはベルギーに駐留していましたが、その後6月下旬、
陽動作戦でないことが分かった時点で現地に派遣されました。
「イワン」と戦っていた彼らは、英米軍と干戈を交えることになります。
雪の中で凍えていたかと思ったら、こんどはフランスです。
この頃になるとドイツは徴集兵で人員を補填するようになったため、
『SSが徴集兵』というちょっとおかしなことになっていました。
つまり最強も何もあったものではありませんが、
国民総動員体制だったので仕方ありません。
コルベ少尉は、総党本部への異動を断って前線に残ることを志願しました。
ヘルケルはそんな彼を心から尊敬しています。
ノルマンディではイギリス軍が発動した「グッドウッド作戦」に対応するのが使命です。
といいつつ、始まった戦闘シーンにはなぜかアメリカ陸軍の戦車が登場。
そしてこの映画は相変わらずエモーショナルなコーラスによるせつない音楽をそれにかぶせ、
ヘルケルが囁くような声で不安で押しつぶされそうな心情を語り続けるのでした。
痛みで喚く瀕死の兵、逃げようとして後ろから打たれる者、
手を上げて捕虜になる者・・。
超人的で勇敢な兵士も、カリスマ指揮官も登場しません。
戦闘が終わってヘルケルの意識が戻ると、彼は一人になっていました。
森を彷徨していると一人の国防軍兵士、ディートヴォルフと出会います。
彼は偶然ヘルケルと同じ故郷出身で、スペイン人とのハーフでした。
彼はいきなり、ヘルケルをゲルマン民族の代表のように、
「何故ユダヤ人を憎む?」
と聞いてきます。
そして、ナチスが行っているという虐殺のことを語り始めました。
彼はポーランドで収容所に送られるユダヤ人を見て彼らの運命を知ったといい、
妻の父がユダヤ人なので心配だ、といいながらヘルケルに青いリボンを見せます。
彼は脱走してアメリカ軍に投降し助けてもらうつもりでした。
ヘルケルに、コルベ少尉は強制的に休暇を与えました。
前線では誰もが遠慮して自分からは休みを申し出なかったのです。
与えられたわずかな時間を存分に味わおうとする二人です。
「人は責務を免れない」
「しかし愛がなくては人は生きてはいられない」
ヘルケルは、ふと町内にあるというディートヴォルフの妻、エレノアの家を訪れました。
彼が無事だったということだけ伝えたかったのです。
帰ろうとした彼はゲシュタポの二人とすれ違いました。
彼らは夫が脱走したことをうけ彼女を捕らえにきたのです。
彼女は逃げ出したため、撃たれてしまいます。
「ユダヤ人に決まっている」
ヘルケルの中に、自分が属する組織、信奉する大義、
そして命をかけて戦う意味に対する疑問が湧いてきた瞬間でした。
■ アルデンヌの戦い
復帰とともに軍曹に昇進した彼は、部下を率いる手前
そのような気持ちをみせるわけにいかない、と苦悩するのですが、
コルベ少尉にはしっかり見ぬかれていました。
ついヘルケルは言い返してしまいます。
「無駄な戦いです」
特務曹長にもその態度は軍法会議ものだ、と怒られてしまいました。
ここを出発するという特務曹長に、ヘルケルは思わず
「脱出ですか」
と嫌味を言ってしまい、
「何様のつもりだ」
と激怒されます。
その晩、コルベ少尉は昼間叱責したことを謝ってきました。
そして、少尉自身が体験した民間人の虐殺について語ります。
大佐の査察に同行していて、武器を摘発した家の家族(おそらく無実)を
射殺することを命じられたのでした。
そこでヘルケルはこういいます。
「戦争が終わったら世界は我々をどう思うでしょう」
コルベ少尉はそれに対し、
「戦争に負ければ我々は永遠に呪われる」
これはある意味この映画の核心たる言葉です。
負ければそれは犯罪となる、しかし負けなければ。
戦争である限り、どちらかだけが残虐だったなどということはあり得ません。
ユダヤ人虐殺のような計画された戦争犯罪こそなかったとはいえ、
このころのアメリカ軍はノルマンディで投降した捕虜を全員射殺していました。
しかし、米軍の「戦争犯罪」は告発されることはありませんでした。
なぜなら、アメリカは戦争に勝ったからです。
そんなとき、ヘルケルの部隊にアメリカ軍の捕虜が連れてこられました。
チラッと見える彼の腕のマークから、彼はレンジャー部隊であり、
偵察隊の唯一の生き残りだという説明がされます。
アメリカ捕虜の検分を命じられたヘルケルは、彼がおそらく殺したのであろう
ドイツ兵の認識票とともに、青いリボンを見つけました。
米軍に投降すると言っていたディートヴォルフを、彼らは殺したのでしょうか。
それとも戦闘後、死体から略取したものなのでしょうか。
逆上した彼はアメリカ兵に詰め寄り、皆が驚く中
振り向きざまに何発も銃弾を浴びせて殺してしまいます。
「エレノア、ディートヴォルフ。
ひとりは敵に、ひとりは我々に殺された」
斥候中、ヘルケルはばったり遭遇したアメリカ兵(この顔を覚えておいてください)を、
至近距離であったにもかかわらず撃つのを躊躇い、見逃してしまいました。
そしてこのアメリカ兵の反撃によって、部下であり戦友でもあるシュタイナーを失うことに。
その晩彼とショルは幻想を見ました。
何事もなかったかのように帰ってきたシュタイナーと3人で酒を組み交わす幻想を。
コルベ少尉も次の行軍であまりにも呆気なく戦死してしまいます。
ついさっきまで「妻と祖国のために戦う」と言っていたのに。
少尉のお悔やみに言いにきた上官に、ヘルケルは突っかかってしまいます。
「何故戦うんですか」
するとこの高官はその態度に怒ることなく、
「わたしは祖国を愛しているからだ。
もう政治などはどうでもいい。愛するもののために戦う」
そして彼の肩を叩いて去ります。
彼はすぐに捕虜になって処刑される運命です。
そして、そんな彼の最後がやってきました。
あまりにも唐突に。あまりにもあっけなく、まるで日常の続きのように。
彼とその小隊を取り囲んだのは、ヘルケルが射殺したアメリカ兵の部隊でした。
「愛するマルガリーテ
何が真の務めか見出せないなか、僕は最善を尽くした」
「兵士の模範になろうと努め 苦境でも諦めなかった」
「君に会って抱きしめたい
僕は全力を尽くしたと伝えたい」
「僕は君のため 家と故郷のために戦った
心から愛してる」
彼が自分を殺す男の顔を凝視すると、相手も自分を凝視していました。
見覚えのある顔。
かつて自分が撃った敵が最後に見たであろう兵士の顔でもあります。
ところで、最後にナレーションが女性の声で流れるのですが、
この女性は誰なのでしょうか。
「わたしたちは自由のため独裁と戦った
だが彼らは自分の命と祖国のために戦った
多くは2度目の敗戦を恐れた
敵が自分の街や家に踏み入るのを恐れたのだ
だから戦うしかなかったのだ」
「朝起きて小銃を手にし 指導者が始めた戦いに臨む」
「ドイツ指導部は非人道犯罪に問われた
だが罪人はドイツ軍人だけだろうか
彼らは手を尽くさずにはいられなかった
悲しみと 絶望と 必死の思いで」
「彼らの名誉は忠誠
将軍たちは総統のために命をかけ兵士たちは家族や戦友のために命をかけた」
「政治はときとして道を誤る
だが兵士たちは祖国に忠誠を誓った」
「わたしの夫と同じように」
この映画には二人の「妻」が出てきますが、これが
ヘルケル軍曹の妻ではないことは確かです。
「わたしたちは常に安全な位置に立とうとする
原子爆弾投下の是非も問おうとはしない
多くの命が失われ続けていても何もしない」
「歴史は勝者が作る
何が起き 何が悪いのか勝者は世界に語ることができる
敵軍の犯罪を暴き 自軍の罪を隠せる
わたしたちは知らないことも批判する
常に悪者探しをして安易な道へ逃げる
だがそんな”邪悪な”独軍兵士のおかげで 夫は命拾いしたのだ」
1946年、ミネソタで一人の女性がこれを書いています。
彼女を迎えに現れた男性の顔は映画を見て確認していただくとして、
女性が・・・どうもあのエレノアと同一人物に見えます。
この正誤は観る人の解釈に委ねられているのでしょう。
アルデンヌの森を最後に生き残っていたショルが匍匐しています。
彼を迎えにきたのはヘルケル軍曹とシュタイナーでした。
「伍長、精一杯やりました もうダメです」
ヘルケルは優しく微笑んで彼を引き起こし、3人で歩いていきます。
どこまでも。
美しい自然を共に描くことによって、戦争という人間が行う行為の無意味さ、
虚しさと対比させ、さらにこれまで省みられなかったナチス親衛隊の兵士の視点から
彼らがどう戦ったかを後世に残そうと試みた作品。
そこにはやや平凡ではありますが、細やかな人物描写とともに
決してこれまでの定型にはめずに戦争を描こうとする努力があります。
ほとんどがイタリア人のキャストによるドイツ軍ものなので、
ドイツ語の吹き替えはこの映画に多少の雑さを与えていますが、
低予算ながらクォリティの高い映像は観るべき価値があります。
そうまでしてペペ監督が描きたかったものはなんだろうかと考えると、
それはやはり最後のナレーションに集約されていると思うのです。
「歴史は勝者が作る」
第二次世界大戦を扱った他の映画に欠けている決定的な視点を表すこの一言ゆえ、
この作品はこれまでほぼ話題にならなかったのでしょうし、残念ながら、
アメリカの配給業界ではすぐに消えていく運命だと思われますが、
この作品に哀しい共鳴を覚えた鑑賞者は、決してわたしだけではなかったと信じます。
終わり