ピッツバーグのハインツ歴史センター「ベトナム戦争展」は、
決してベトナムにおける戦闘そのものに焦点を当てていません。
むしろ、発生に至る経緯から戦争継続中の世論、大統領選、
そして反戦運動など、アメリカ国内がそのときどうだったか、
という面から語っていることの方が多いと感じました。
というわけで、国内を席巻した学生運動や公民権運動など、
全米を巻き込んだ反政府運動の色々から、今日は
来月本当に行われるかどうかさえわかっていないものの、
もうすぐ東京オリンピックなので(なんか変な響きだな)冒頭写真の、
オリンピックの表彰台で起きた事件についてお話しします。
ちなみに昨日所用で六本木に行きましたが、ガイジンサンの姿が多数観られ、
近隣のホテルには関係者がすでに宿泊しているとのことでした。
ほんとにやるみたいですね。
■ BLACK POWER SALUTE
1968年10月16日。
メキシコシティのオリンピックスタジアムで行われたメダル授与式で、
200メートル走で金メダルと銅メダルを獲得したアフリカ系アメリカ人選手の
トミー・スミスとジョン・カルロスの二人は、
アメリカ国歌の演奏中に、それぞれ黒い手袋をはめた拳を上げ、
表彰台でアメリカの国旗に向かって、国歌が終わるまで手を上げ続けました。
おそらく皆さんも一度はこの写真をご覧になったことがあるでしょう。
そしてぜひ心に留めておいて欲しいのは、このとき銀メダルだった
オーストラリア選手、ピーター・ノーマンもまた、スミスとカルロスが
ユニフォームに付けているのと同じ人権バッジを胸につけていたことです。
約30年後に出版された自叙伝『Silent Gesture』の中で、
スミスは、あのジェスチャーは「ブラックパワー」そのものではなく、
「人権」のための敬礼だったとしています。
「ブラックパワー・サリュート」は、近代オリンピックの歴史の中で、
最もはっきりした政治的主張ののひとつとされています。
この競技でトミー・スミスは19秒83の世界記録を出して優勝しました。
オーストラリアのピーター・ノーマンは20秒06で2位、そして
ジョン・カルロスは20秒10で3位となりました。
レース終了後、3人は表彰台に上がり、メダルが授与されました。
スミスは「ブラック・プライド」(黒人の誇り)を表す黒いスカーフを巻き、
カルロスはアメリカのブルーカラー労働者との連帯を示すために
トラックスーツのジッパーを開け、
「リンチされたり、殺されたり、誰も祈ってくれなかったり、
吊るされたり、タールを塗られたりした人たちのために」
という意味を持つビーズのネックレスを見せるようにしました。
公民権運動を受けて、メキシコオリンピックでは
黒人選手に大会のボイコットを呼びかける運動家もしました。
彼らの行動は、彼らのに触発されたものだと言われています。
■ 表彰台
両選手はアピールのための黒い手袋を持参するつもりでしたが、
カルロスは手袋を忘れてオリンピック村に置いてきてしまいました。
そこで彼にスミスの左手用グローブをつけることを提案したのが、
オーストラリアの銀メダリスト、ピーター・ノーマンだったのです。
この「黒い敬礼」は世界中で一面のニュースとなりました。
スミスはこういっています。
「もしわたしが勝てば、勝ったのは黒人ではなく『アメリカ人だった』と言われ、
逆にもし何か悪いことをしたら、そのときは『黒人だった』と言われるでしょう。
我々は黒人であり、黒人であることを誇りに思っています。
ブラック・アメリカは我々が今夜やったことを理解してくれるでしょう」
■ 国際オリンピック委員会の対応
国際オリンピック委員会(IOC)の会長であるエイブリー・ブランデージは、
自身もアメリカ人であることから、このデモンストレーションは
オリンピックという非政治的で国際的な場にふさわしくない政治的主張であると判断し、
両選手の競技参加停止とオリンピック村への立ち入り禁止を命じました。
米国オリンピック委員会がこれを拒否すると、ブランデージは
「米国のトラック競技チーム全員を追放する」
と脅しました。
これにアメリカ側は屈し、2人のアスリートは大会から追放されました。
ただし、このときIOCはメダルの返還を強制していません。
このときIOCに寄せられた非難の一つに、
「ブランデージは 米国オリンピック委員会の会長を務めていた
1936年のベルリンオリンピックの際、ナチスの敬礼に対して
異議を唱えていなかったではないか」
というものがあります。
しかし、彼は
「ナチスの敬礼は当時の国家の敬礼であり、国家間の競争では許容されるが、
彼らのパフォーマンスは国家を代表したものではないため許容されない」
と主張しました。
ナチスが戦後絶対悪とされたという歴史を考慮したとしても、わたしには
正直ブランデージのこの理屈はそんなに無茶なものではないと思えます。
国内の政治主張をオリンピックで行ってもそれが罰せられない、
という前例を作れば、我も我もと表彰台をアピールの場に利用する選手が
後を絶たない、という結果になるのは誰が見ても明らかだからです。
しかしながら、人権派から見て、このブランデージという人物は、
第二次世界大戦勃発後もアメリカで最も著名なナチスシンパの一人として告発された
つまり「戦犯」であり、彼をIOC会長から解任することは
「人権のためのオリンピック・プロジェクト」
の目的のひとつになっていたくらいですから、彼らには
この主張も受け入れられるはずがありませんでした。
■ 余波
スミスとカルロスは、アメリカのスポーツ界からほとんど追放され、
激しい批判にさらされました。
1968年10月25日付の『タイム』誌は、
「『より速く、より高く、より強く』がオリンピックのモットーであるはずなのに、
メキシコシティでは『怒り、悪意、醜さ』が表された」
と彼らの行動を強い口調で非難しました。
故郷でもスミスとカルロスの二人は罵倒の対象となり、
彼らとその家族は殺害の脅迫まで受けることになりました。
「黒皮を被ったストーム・トルーパー・カップル」
「無節操で」「幼稚で」「想像力に欠けている」
こんな非難が公的に浴びせかけられたのです。
ちなみに、いまどき「ストームトルーパー」というと、皆さんは
スターウォーズのあの人(?)たちというイメージしかないかもしれませんが、
スターウォーズが誕生するのはこの10年も後のことであり、この時この言葉は、
ナチスの突撃隊(Sturmabteilung=SA)
を意味していました。
オリンピックでの競技資格は剥奪されたものの、スミスはその後も陸上競技を続け、
フットボールのNFLのシンシナティ・ベンガルズでプレーした後、
桜美林大学の体育学の助教授を務めていましたが、1995年には、
コーチとして世界室内選手権でアメリカチームに復帰しています。
彼が一時期日本に渡ったのは大変賢明で、その間に世界の人権状況も代わり、
アメリカでも彼個人は非難の対象にならなくなっていました。
1999年には、
「カリフォルニア・ブラック・スポーツマン・オブ・ザ・ミレニアム賞」
を受賞。
現在は講演活動を行っています。
カルロスのキャリアも同様の道をたどりました。
オリンピックの翌年には100ヤード走の世界記録に挑戦し、
彼もプロフットボールの選手としての道を模索しました。
その後、家庭内の問題から鬱になったりしましたが、1984年のオリンピック、
ロサンゼルス大会の組織委員会で職に就くことができました。
その後高校のチームコーチを経て同校のカウンセラーを務めています。
オリンピック直後こそ非難の矢面に立った二人ですが、時代の変遷を経て
世論も代わり、2008年のESPRY賞で、彼らの表彰台での行動を称える
アーサー・アッシュ・カレッジ賞
を受賞しました。
BLMムーブメントが左に振れ切った現在では、彼らを非難する者など
少なくともアメリカには皆無になったと思われます。
■ もう一人の「抵抗者」ピーター・ノーマン
さて、メキシコオリンピック200メートル走で銀メダルを獲得したノーマンは、
先ほども少し触れたように、スミスとカルロスの主張に共鳴し、彼らに助言を行い、
同じようにシンボルを身につけて表彰台に立ちました。
あまり言及されることはありませんが、彼はあの瞬間傍観者ではなく、
二人の抵抗者の側に立った「当事者」だったのです。
1968年のオリンピックの200メートル競技は、10月15日に始まり16日に終了しました。
ノーマンは、準々決勝では優勝、準決勝では2位となりました。
決勝でノーマン選手はアメリカのジョン・カルロス選手に追いつき、
最終的には追い越して、20秒06のタイムで2位になりました。
ノーマンのタイムは自己ベストであり、現在もオセアニアではこの記録は破られていません。
この時ノーマンが表彰台で
「オリンピック・プロジェクト・フォー・ヒューマンライツ(OPHR)」
を支援するバッジをつけるに至った経緯は以下のようなものです。
決勝戦の後、カルロス選手とスミス選手はノーマンに、セレモニーで
自分たちが何をしようとしているのかを話しました。
彼らはノーマンに、人権を信じているか、と尋ね、ノーマンが
「信じている」
と答えると、さらに続いて神を信じているかと尋ねました。
救世軍にいたこともあるノーマンは、
「強く信じている」
と答えました。
カルロスは後年、このときのことをこう語っています。
「わたしたちがやろうとしていることは、どんなスポーツの偉業よりも
はるかに大きなものだとわかっていました。
そして彼は我々に『君たちののそばにいるよ』と言ってくれました。
わたしは彼が感じているかもしれない恐怖を予想して
その目を覗き込むと、そこには愛だけがありました」
メダル授与式に向かう途中、ノーマンはアメリカボートチームの白人メンバーである
ポール・ホフマンが、OPHRバッジを付けているのを見て、ホフマンに
それを貸してくれないか、と頼んでいます。
カルロスが手袋を忘れたことを聞いて、スミスとカルロスに、
二人がそれぞれ右拳と左拳に手袋を付け、その手を挙げてはどうか、
と提案したのも、他ならぬノーマンでした。
しかしながら、「ブラック・サリュート」に加担したノーマンのキャリアは、
その後困難にさらされることになりました。
このイベントの "忘れられた男 "でありながら、非公式の制裁と嘲笑を受け、
「パリア」(インドカーストの最下層民、嫌われ者の意)として帰国したのです。
そして彼は二度とオリンピックに出ることはできませんでした。
メキシコの次、1972年のミュンヘンオリンピックでは、ノーマンは
幾度か予選タイムを記録していたにもかかわらず代表に選ばれず、
後述しますが、30年後のシドニー大会でも歓迎されませんでした。
ノーマンの運命について、カルロスは後に、
「ピーターは国家に立ち向かい、たった一人で苦しんでいた」
と述べています。
ただし、ノーマンがミュンヘンオリンピック選手選考に漏れたことについて、
オーストラリアオリンピック委員会は、その理由を、
オリンピックの予選基準(20.9)と同等かそれ以上のタイムを出し
国内陸上競技選手権で信用できる成績を収めた選手でなければならない
という選考基準が満たされていなかったからだと主張しました。
ノーマンが記録を出したのは規定の大会ではなかったから、という理由です。
こんにち、ノーマンがミュンヘンに出場できなかったことについて賛否が分かれます。
しかし、選手権で事実ノーマンは勝てなかった(3位)わけですから、
選考委員会としても選びようがなかった、というのが真実だったのだろうと思われます。
彼はもともとサッカーチームのトレーナーの仕事をしていましたが、
選考に漏れた1972年以降は選手として67試合に出場し、その後はコーチになりました。
しかし1985年、チャリティーレース中にアキレス腱を断裂して壊疽を起こし、
危うく脚を切断するかもしれないという事故にみまわれ、その後しばらく、
鬱病、大量の飲酒、鎮痛剤の中毒に苦しみました。
2000年にシドニーでオリンピックが開催されたとき、
不調から立ち直ってスポーツ管理者となっていたノーマンは、
オーストラリアのオリンピックチームに貢献したにもかかわらず、
シドニーで行われた祝賀会に招待されませんでした。
このことを知ったアメリカの選手団は、ノーマンを
シドニーで行われたアメリカチームの祝賀会に招待しています。
2006年、ピーター・ノーマンはメルボルンで心臓発作のため死去しました。
64歳でした。
米国陸上競技連盟は、彼の葬儀が行われた10月9日を
「ピーター・ノーマン・デー」
とすることを宣言しました。
三人の男たちが表彰台に立って歴史に名を残してから38年後、
トミー・スミスとジョン・カルロスの二人が残る一人の葬儀の喪主を務めました。
2012年、オーストラリア下院はノーマンへの謝罪を正式に可決し、
アンドリュー・リー議員は議会で、ブラック・サルートを
「人種的不平等に対する国際的な認識を前進させた、
ヒロイズムと謙虚さの瞬間だった」
と評価しました。
また、2018年、オーストラリアのオリンピック委員会は、抗議活動に関与したことに対し、
ノーマンに、AOC功労勲章を授与し、ジョン・コーツAOC会長は
「当時彼が果たした役割を認識していなかったのは我々の怠慢だった」
と述べました。
しかし、こんにちスミスとカルロスについては、英雄化され、例えば
サンノゼ大学のキャンパスにはこのような像が建てられたりしているのに対し、
この誰もいない表彰台が象徴するように、ノーマンの存在はないことになっています。
この理由が、「ノーマンが白人だったから」ということに起因するなら、
それは現代のBLMにある「逆差別」「逆特権」、つまり黒人のみが人権を主張し
間違ったことも間違っていると言わせない「おかしさ」に通じるものがあるような気がします。
ちなみに、これをわたしが発言できるのはわたしが日本人だからであって、
もしこういうことをアメリカで発言すると、社会的バッシングを受けるでしょう。
それもまた普通に「おかしい」んじゃないの、と誰も言えなくなっているのが現代のアメリカです。
ちなみに、1972年のミュンヘン大会で、金・銀を獲得した
アメリカのアフリカ系選手、ウェイン・コレットとヴィンセント・マシューズは、
国歌が流れている間、落ち着きなく不遜な態度を取り、これを咎められると
「わざとじゃない」と言い訳し、二人ともオリンピックからの永久追放となりました。
ちなみにこれがそのときの映像。
Premiazione Matthews e Collett
こんな態度に対しても、「ブラックパワー・サリュートだ」という
弁護の声があったというんですが・・いくらなんでもだめだろこりゃ(呆)
続く。