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「航空戦術の父」第一次世界大戦のエース・オスヴァルト・ベルケ

2020-11-02 | 飛行家列伝

            

スミソニアン博物館の「第一次世界大戦のエース」のコーナーで
ドイツ空軍に最初に登場したエースの一人、
オスヴァルト・ベルケ ( Oswald Boelcke 1891-1916)について書きましたが、
エースとしてではなく、その後の空中戦術の基礎を築いた戦術家であり、
教育者としての面を持つ彼に興味を持ったので、あらためて語りたいと思います。

■ 幼少期

オスヴァルト・ベルケは、ザクセン州の学校長の息子として生まれました。
彼の姓はもともと「Bölcke」という綴りですが、彼はウムラウトを省略し、
ラテン語式の綴りを採用していました。

ベルケは3歳のときに百日咳にかかったせいで終生喘息体質でしたが、
運動神経はよく、成長すると陸上競技に目を向けました。

ベルケの家族は保守的な考えを持っており、 軍の経歴が
いわゆる上級国民への近道だと信じていたということもあって、
ベルケは若い頃から熱烈な軍人志望でした。

結局士官学校にはいきませんでしたが、ギムナジウムに通っていた17歳のとき、
彼は「ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト将軍の軍事改革」
「フェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵の航空実験前の人生」
そして「初の飛行船の飛行」という3つの科目を選んでいます。

 

■ 空への興味と個人的特性

ベルケの身長は170センチくらいで、ドイツ人としては短身でしたが、
肩幅が広くバランスの良い体格をしており、
なにより敏捷性と「無尽蔵の強さ」を備えていました。 

学校での彼は級友などとはもちろん、教師ともうまく付き合い、
率直で親しみやすい態度のため人から好かれる生徒だったようです。

ブロンドの髪、濃い青い目の彼は、誰にとっても印象的な少年でした。
当時を知る者は、運動能力もさることながら、彼が数学と物理学に
大変熱心で優れていたと述べています。

彼はサッカーやテニスに興じ、スケートをしたり、踊るのも好き。
とにかく運動にかけては何をやらせても群を抜いていて、
学校一の運動神経の持ち主だった彼ですが、水泳とダイビングは
大会での受賞歴を持っており、17歳のときにはアルピニストにもなっています。

カリスマ性のある彼は競技場で人気のリーダーでした。

しかし、決して脳筋などではなく、読書にも親しみ、
民族主義作家のハインリッヒ・フォン・トライチュケを愛読していました。

トライチュケは反ユダヤ主義の論陣を張る思想の旗頭だったので、
ベルケも当然同じ考えだった可能性は大いにあります。

後世の歴史家が、彼はナチスとかかわらずに死んだことを
強調しているようですが、もし彼がもう少し長生きしていたら
ナチスの思想に傾倒していた可能性はあるのではないかと思います。


人生の早くからベルケはこんなことを言っています。

「自然に振る舞い、尊大な上司を演じたりしなければ、
部下たちの信頼を勝ち取ることができる」 



彼はマンフレッド・フォン・リヒトホーフェンの師でもありました。
彼はベルケについて次のようにコメントしています。

「ベルケには個人的な敵はいませんでした。
誰にでも礼儀正しく、人によって態度を変えることをしませんでした」

その謙虚な姿勢は、生涯変わることはなく、戦闘パイロットとして
成功の秘訣を尋ねられた彼は

「対戦相手のヘルメットにゴーグルストラップが見えたときだけ発砲します」

と述べています。

■ 兵役への参入

学校卒業後の1911年、ベルケは電信大隊に士官候補生として加わり、
翌年彼はクリーグシューレ (陸軍士官学校)に通い始めました。

学生時代の彼は、クラスの休みを利用して空いた時間を
いつも近くの飛行場で飛行機を見て過ごしていました。

陸士の彼の卒業時の成績はおおむね良で、とくに
リーダーシップスキルは「優秀」と見なされていました。 

1912年7月に彼は卒業し、同時に任官するわけですが、
電信兵を訓練する毎日のルーチンをこなしながら、このころの生活は

「素敵で、陽気で、活発な生活」

に費やされ、青春を謳歌したようです。

そのころ、彼はフランスの曲べき飛行の先駆者である
アドルフ・ペグードによるパフォーマンスを目撃しています。

1914年、彼は将校だけで行われるスポーツ大会で五種競技選手として
三位を獲得し、1916年に行われる予定だったベルリンオリンピックの出場権を得ています。

この年のオリンピックは第一次世界大戦勃発のため中止になりました。

 

■ 第一次世界大戦

1914年、彼は家族に何も知らせずに空挺部隊への移動を申請しましたが、
なぜかパイロット過程に受け入れられることになり、資格試験に合格しました。

そして第一次世界大戦が8月4日に始まります。

出陣を待ち望んでいたベルケは、兄のヴィルヘルムと一緒の飛行隊に入り、
兄弟で出撃しまくって、他の搭乗員よりも頻繁に長い飛行時間を記録したため、
それは部隊内にいくらかの恨みを引き起こしていたといいます。

天候が悪化し、対抗する軍隊の活動が塹壕戦に停滞し始めたときでさえ、
二人のベルケは全くお構いなしに出撃して飛びまくりました。

その後着任した指揮官は、兄弟を別の航空隊に引き離そうとしますが、
彼らは別々に飛ぶことを拒否し、上に直訴したりして大騒ぎしました(笑)
しかし最終的にそれを承諾し、離れ離れになっています。

兄と別れた弟ベルケはフランスに派遣されました。 
新しいユニットで彼はすでに最も経験豊富なパイロットでした。

この任務は彼にマックス・インメルマンとの友情をもたらすことになります。

 

このころ、フランスのギルベール、ペグードなどの戦闘機パイロットが
「ラズ」またはエースと称賛されるようになってきます。
聴衆にとって、孤独な空の英雄のシンプルな物語は大きな魅力を持っていました。

戦争が進むにつれて、各国政府はそれを大いに利用するようになります。
彼らは新聞や雑誌にプレスリリースを提供し、
人気のある飛行士の写真がプロマイドや葉書になりました。

Oswald Boelcke - Wikipediaベルケの葉書

ベルケとインメルマンはこのころしばしば一緒に飛行しています。
それは 古典的なウィングマンの動きで、互いに補完し合うチーム戦術が
このときに完成を見たと考えられます。


■ エース競争

1915年9月、 ベルケとインメルマンはそれぞれ2機撃墜しました。
不世出のパイロット二人の間に「撃墜競争」が始まります。

 

このころ、フランスの地元の人々が運河に突き出した橋で
釣りをしているのをベルケが飛行中の機上から見ていると、

10代の少年が桟橋から落水しました。

彼はすぐに急降下し、飛び込んで子供を溺死から救っています。
観ていたフランス人たちが皆で彼の勇気をたたえましたが、彼は
ただ濡れた制服のままで恥ずかしそうにしていました。

1915年の終わりまでに、インメルマンは7回、 ベルケは6回勝利を上げました。

 

1916年1月5日、ベルケはイギリス王立航空機BE.2を撃墜。

このとき墜落した機の近くに着陸すると、パイロット二人は生きていて、
彼らはドイツ語を話せる上、ベルケのことを知っていたので、
ベルケは偵察飛行士たちを病院に連れて行ってやっています。

その後、彼は読み物などを持って病院に彼らを見舞いましたが、
彼はすでに当時有名人だったので、このことは新聞の一面で報じられました。


1月12日、ベルケとインメルマンは同じ日に8機目を撃墜し、
ドイツ帝国で最も権威のあるプール・ル・メリテが受賞されることになりました。
インメルマンが受賞したことから「ブルーマックス」と呼ばれるようになった
勲章です。

ベルケは今や国内外で有名になり、うっかり繁華街を歩いたり
オペラを観ることもできなくなりました。


将軍や貴族まで若い中尉と知己を得るのに夢中になり、
皇太子の友人までができました。

1916年、ベルケはフォッカーアインデッカー試作機の評価を任されました。
彼は、銃の取り付けが不正確であり、エンジンにも限界がある、
と客観的に欠点を指摘し、これを ドイツの空軍が使用するのは
「惨め」なことだと痛烈に批判した覚書を提出しています。

3月12日、ベルケは10勝目を挙げました。
次の日、インメルマンが11勝目を上げて デッドヒートは一週間続きましたが、
結局勝利数12でベルケが上回っています。

 ベルケが1916年5月21日に2機の敵機を撃墜したとき、
皇帝は大尉への昇進は30歳以上とする軍の規制を無視して
25歳と10日のベルケを昇進させました。
彼はドイツで最年少の大尉となっています。

■ エース競争の終焉

エース競争は1916年6月18日終止符が打たれました。
ライバル、インメルマンが17回目の勝利の後に戦死したのです。

当時18勝していたベルケは、たった一人のエースになりました。

立て続けにエースを失うことを懸念した皇帝ヴィルヘルム2世は、
ベルケに1か月間待機するように命じました。
自粛の通達が出る前に、ベルケは19機目を撃墜しています。 

ベルケは飛行停止に大いに不満でしたが、この期間を利用して
彼は経験から有効な戦術と作戦を明文化することにしました。

いわゆるDicta Boelcke(ディクタ・ベルケ)です。

 以前このディクタを当ブログに掲載したときお読みになった方は
その8つの格言は当たり前すぎて当然であるように思われたかもしれませんが、
 ベルケが言葉にする前には全く未知の理論だったのです。

ディクタは、その後戦闘機の戦術に関するオリジナルのト訓練マニュアルとして
広くパンフレットで公開されました。

 

■ リヒトホーフェン

中央、リヒトホーフェンとベルケ。

1916年、ベルケは新しく編成された航空隊の指揮官に任命されました。
自らパイロットの人選を行い、2人のパイロットを採用しましたが、
その一人が若い騎兵士官、 マンフレッド・フォン・リヒトホーフェンでした。

    

ベルケのFokker D.III戦闘機です。
彼はこの飛行機で1916年8回勝利を納めました。

 9月2日、 ベルケは20勝利目となるR・E・ウィルソン大尉機を撃墜しました。
翌日彼はウィルソンが捕虜になる前に、彼を客としてもてなしています。

 

新基地では施設が建設され、パイロットの訓練が始まりました。
ベルケが指導者としての資質をはっきりと表したのはこのときです。
機関銃の発射とトラブル回避などの地上訓練、また、航空機の認識、
敵国航空機の強みと欠陥について、生徒たちはベルケから講義を受けました。 

ベルケは彼の生徒たち自分が得た戦術をもとに訓練しました。
リーダーとウィングマンをペアリングすること、
部隊でフォーメーションを作り飛行することなどです。

空戦になると彼らはペアに分かれましたが、隊長機は戦闘を控え、
全体を俯瞰することなどもベルケの教えでした。

■ 戦闘

部隊に新しい戦闘機が到着しました。
ベルケのためのアルバトロスD.IIと、5機のアルバトロスD.Iです。

この新型機は以前のドイツ機や敵の航空機よりも優れていました。
強力なエンジンによりより速く、より高速で上昇できるうえ、
機銃を二丁搭載していました。

新型機による初めての空戦で ベルケは27機目を撃ち落とし、
彼の部下たちも4機を撃墜するなど絶好調でした。

出撃前にブリーフィングを綿密に行い、その結果出撃命令が出され、
帰投後は飛行報告をするのもベルケから始まった航空隊の慣習です。

このころのベルケは出撃ごとに必ず撃墜数を伸ばしていましたが、
小さい時に肺を患って以降持病の喘息に悩まされていました。
天候が悪くなると彼の喘息は悪化し、時として飛行もできないほどでした。

 

■ 最後の任務

10月27日の夜、ベルケは見るからに疲れて意気消沈した様子でした。

彼は食堂での大騒ぎについて従兵(batman)に不平を言い、
それから暖炉の前に座って火を見つめていたといいます。

ウィングマンの一人ベームが彼に話しかけ、
二人はその後長い間いろいろなことを語り合っていました。

翌日は霧がかかっていましたが、中隊は午前中に4つのミッションをこなし、
午後にも飛行任務に出撃しました。

この日6回目のミッションで、ベルケと5人のパイロットが、
第24飛行隊RFCの編隊と交戦になり、 ベルケとベームは
アーサー・ジェラルド・ナイト大尉エアコDH.2を追いかけ、
一方、リヒトホーフェンはアルフレッド・エドウィン・マッケイ大尉
DH.2を追いかけていました。

マッケイはナイトの後ろを横断し、ベルケとベームを間において
リヒトホーフェンを回避する策をとったため、彼らは二人とも
マッケイとの衝突を避けるために飛行機を上昇させました。

不幸だったのは、そのとき航空機の翼によって互いが見えず、
どちらも相手の存在に気がついていなかったことです。

ベームとベルケの機体は接触し、ベルケのアルバトロスの翼の生地が裂け、
揚力を失った機は螺旋を描きながら墜落していきました。

墜落直後の彼はまだ生きているかのように見えたそうですが、
彼はヘルメットを着用しておらず、安全ベルトも締めていなかったため、
頭蓋骨を骨折しており、まもなく死亡しました。

基地に戻った時のベームは恐怖と後悔で半狂乱になるほど取り乱しており、
着陸に失敗して機体を横転させて負傷しました。

彼はのちに

「運命というのは大抵最悪の馬鹿げた結論が選択されるものだ」

と嘆いています。
公式の調査では、ベルケの墜落は彼の過失による事故ではないとされました。

ベームの着陸の失敗については、負傷の苦痛で心の傷を覆い隠し、
また、自らを罰しようとする気持ちが働いたのではとも言われました。

 

■ 追悼

中隊の搭乗員たちは、ベルケがまだ生きていることを期待して
機体が墜落した陸軍砲兵の駐留地に急ぎましたが、
砲手たちはすでに冷たくなったもの言わぬベルケの体を彼らに手渡しました。

ベルケはプロテスタントでしたが、現地での追悼式は二日後の10月31日に
カトリックのカンブレ大聖堂で行われました。

届けられた多くの花輪の中に、彼と交戦したウィルソン大尉と
捕虜となっていた搭乗員の3人からのものがあり、そのリボンには

「私たちが高く評価し尊敬している対戦相手に」

と記されていました。

また、特別な許可によって、告別式の最中、王立飛行隊が
空中から花輪を墓地に投下していきました。
その花輪には

「勇敢な英雄である対戦相手、ベルケ大尉の記憶に」

と書いてあったといいます。


葬列が大聖堂を離れると、リヒトホーフェンは棺に先行し、
黒いベルベットのクッションにベルケの勲章を飾りました。

棺桶が銃を運ぶための砲車の上に置かれた瞬間、太陽の光が雲を突き抜け、
英雄の死を顕彰する飛行機が墓地の上空を通過しました。

特別に用意された汽車まで運ばれる棺はカラーガードに守られ、
弔銃発射と敬礼の中、賛美歌が響き渡るのでした。

翌日、棺は彼の母教会であるセントジョンズに運ばれました。
そこで祭壇の前の彼の棺にはオナーガードが付き添っっていました。

ヨーロッパ中の王室や後続からからお悔やみ、オナーメダルが殺到しました。
11月2日の午後の葬儀に出席したのはほとんどが王族、将軍、貴族ででした。


■ レガシー

ベルケは空対空戦闘戦術、戦闘飛行隊編成、早期警戒システムを発明した
ドイツ空軍の先駆者と見なされ、 「空戦の父」と呼ばれています。

彼の最初の勝利以降、その成功のニュースは国中の模範でした。
帝国ドイツ空軍が空中戦術を教えるためのスタシューレ (戦闘学校)
を設立したのは彼の提言によるものですし、

「ディクタベルケ」の公布は、ドイツの戦闘機の戦術を基礎付けました。

西部戦線で当初ドイツの航空権を獲得したのは彼の功績によるものと言われます。

第二航空中隊は 、「ヤークトシュタッフェル・ベルケJagdstaffel Boelcke」
と改名され、彼の死後もドイツの最高の戦闘飛行隊の1つであり続けました。

 

ベルケが面接して隊員にした最初の15人のパイロットのうち、
8人がエースになり、全員が戦闘指揮官になり、
そのうち4名のエースは第二次世界大戦中に将軍になっています。

ベルケの最初の「パイロット名簿」で最も成功した、レッドバロン、
マンフレッド・フォン・リヒトホーフェンは、ベルケに倣って
「リヒトホーフェン・ディクタ」を制作しました。

彼の作戦戦術マニュアルの冒頭の文章は、ベルケに捧げられています。

 

「ベルケは、ナチスが設立される前に戦死したため、
ナチの大義との関係によって傷つけられなかった
第一次世界大戦の数少ないドイツの英雄の1人だった」

と言われます。
しかし彼の愛読書から推察して、早くに死んだことは彼にとって
幸いなことだったとわたしには思われます。(意味深)

ただ、第三帝国は死後の彼の名声を放っておいてはくれず、
ドイツ空軍の中型爆撃機部隊に彼の名前が付けられました。

彼にちなんで名付けられたドイツ空軍の兵舎は、皮肉にも
後に ミッテルバウ・ドーラ強制収容所の予備キャンプになっています。

■ 今に生きるベルケ

彼の名前は、現在のドイツ空軍の第31戦闘爆撃航空団の紋章に記載されています。
隊員は毎年命日にベルケの墓への参拝を行っています。

Taktisches Luftwaffengeschwader 31 - Wikipedia

ネルフェニッヒ空軍基地飛行場でも彼の名は記念されています。

基地建物の壁画、ホールに肖像写真、そして本部入口に胸像があります。
隊内雑誌の名前は「ベルケ」。

飛行機尾部には、彼の名前とフォッカーの絵が描かれています。

ディクタ・ベルケは、時間の経過しても決して廃れず、
世界中の空軍向けの戦術、技法、およびマニュアルなど広く応用されてきました。

米国合同参謀本部 (JCS)、米国海軍(USN)、米国空軍(USAF)には、
ディクタ・ベルケをベースにしたそれぞれ独自の航空戦術マニュアルがあり、
北大西洋条約機構 (NATO)の後援組織であるUSAFには、
ディクタ・ベルケの末裔となる航空戦術マニュアルが存在します。

そこではドイツ、オランダ、ノルウェー、トルコ、イタリア、
ギリシャの戦闘パイロットが今日もそのディクタを受け継いでいるのです。