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新明和 飛行艇の系譜〜岩国航空基地見学

2019-02-09 | 自衛隊

前回、US-2に搭乗、などと思わせぶりな表現をしたため、体験搭乗で実際に
その辺を飛んできたような含みを持たせてしまってすみません<(_ _)>

流石に新明和の研究技術陣でもない限り、実際に飛んで着水し、
救難訓練を行なってまた離水して帰ってくる体験搭乗などというのは無理です(笑)

5機しか存在しないこのUS-2機体の中を実際に見られるだけでも
僥倖だったのは確かですが、しかし、今にして思えば、

「何か特に見学したい機体はありますか」

と尋ねられて「US-2!」と即答しなければどうなっていたでしょうか。

岩国基地所属の海自航空機は、他に掃海ヘリと電子戦機、標的機です。
電子戦機は、まず機密的観点から見学は不可能となると、どう考えても
MCH−101かUS-2のどちらかになっていたような気がします。

さて、US-2の見学を終え、また機体からまっすぐエプロン端まで行って
シャキーン!と直角に曲がるあの歩き方で(笑)格納庫まで戻ってきました。

消火器と自転車が並列駐車されています。

向こうにはエプロンにあるMCHー101が写っています。
その向こうはF-35がタッチアンドゴーを繰り返していた滑走路ですが、
残念なことに、幸い写真には何も写っていませんでした。

も、もちろん、もし写っててもこんなところに上げませんよ?

 

の格納庫のこちら壁には二階に上がる階段があり、
そこには航空隊司令がおっしゃったようにちょっとした資料館があります。

これは美しい。同時に編隊着水するPS−1。
まるでシンクロナイズドスイミングをしているようです。
これは誤変換でなく「変態着水」と言ってもいいのではないか(笑)

上の「エミリー(二式大艇)の系譜」(勝手に命名)を見ていただければわかりますが、
戦後初めて海上自衛隊として取得した飛行艇、それがこのPS-1です。

PS-1は対潜哨戒機として生まれた飛行艇です。

今からはちょっと考えられない方法ですが、つまり潜水艦を探すため、
飛行艇が海面に着水してソナーを海中に吊るしていたんですね。

しかし、PS-1のために弁明しておくと、

「潜水艦を”船でなく”飛行機で探す」

というのは、当時としては画期的な新機軸だったのです。
速度の遅い潜水艦にすればこれは大変な恐怖?ですからね。

その話で思い出したので、ちょっと余談です。

よく潜水艦の人が、

「P-3Cが空を飛んでいるのを見ただけでイヤーな気持ちになる」

というくらい哨戒機が嫌いらしい、というのが、わたしの知っている
ごく少ないサンプルからも薄々浮き彫りになっているわけですが、
逆の話、つまり固定翼の人が「潜水艦が憎い」とわざわざ言っているのを
これまで寡聞にして一度も聞いたことがないのです。

「なんでだろうね?」

先日、そういうことに全く知識のないTOに、ふと世間話のついでに
(どんな世間話だ)言ったところ、

「そりゃ、上から飛行機で探される方が嫌に決まってるでしょうよ」

なるほど、探す方と探される方、どちらがより相手に忌避感が起こるかって話か。

だから、PS-1(パトロールシップ=PS)が登場したときにも、おそらく
潜水艦隊の人たちはかなーり嫌なものができたな、と思ったに違いないのです。

PS-1はそもそもディッピングソナーの運用というのがアウトオブデイズで、
高い調達費をかけた割にはイマイチな哨戒機、という烙印を押されてしまったのですが、
飛行艇としての機体の完成度は非常に高かったため、これを哨戒用でなく
多用途、ひいては救難用にしようと方向転換したことが、のちに繋がったのです。

下右側の立派なUS−1Aの写真額は、新明和工業から防衛省に送られた

「US-1A型救難艇完納記念」

で、日付は平成17年2月22日となっています。
このとき、防衛省は通算20機目の、機体番号9090をもって
US-1Aの生産を正式に終了することを決めたということでもあります。

左上は平成6年、父島にご出発される両陛下のお写真。

その二つ右は、平成15年度観艦式で3機編隊で飛ぶUS-1Aです。

資料館のほとんどがUS-1Aの偉業を称えるコーナーのようになっていました。
これが新明和が最後に納入した機体番号9090のUS-1Aです。

綺麗に角度を合わせて飛ぶ三機のUS-1A。
機体番号9088、9089、そして9090は

「最後のUS-1A」

の三機ということになります。
ところでこの写真をご覧くださいます?

この日、格納庫にあった機体番号9089のUS-1Aです。

「もしかして、今解体してます?」

「そうですよ」

「ということは、もう次に来た時には・・・無くなっている?」

「そうなると思います」

「しゃ、写真撮っていいですか!」

「どうぞどうぞ」

2017年に最後の飛行を行った「最後の機体」は9090ですから、
その一つ手前の89が今解体の前の作業をここで行っているということです。

この時聞いた話によると、90はもうすでにこの世におられないとか(-人-)ナムー

機体の右翼側に回り込んで、機体番号を写真に収めました。

窓にはビニールでカバーがされ、ノーズは無くなっています。
おそらく、今は中の部品を取り出している段階なのだと思われます。

この話を知人に後日話したところ、

「機体、壊してしまうんですね。勿体無い」

「アメリカなら一機くらいは航空博物館に残すでしょうけどね」

「維持費がかかるからダメかな」

各務原の航空博物館にはもう展示スペースはないのでしょうか。

 

それではあらためて、US-1Aとはどんな救難機だったのでしょう。

それに言及することは、上位変換種のUS−2が「補った部分」でもあるのですが。
まず、一言でいうと

「哨戒機とペアを組むことで初めて哨戒活動が可能になる水上艇」

であったと言えます。

まずP3ーCなどが現場に駆けつけ、捜索を行って目印を投下し、
後から駆けつけたUSー1Aが着水して救難活動を行っていました。

しかしながら、それでも固定翼機であるUS-1Aがヘリよりも速く
現場に到達することができるというのは、一刻を争う救難活動において
従前より優れた方法であったのも確かです。

 

コメント欄でもunknownさんがおっしゃっていたように、
US-1Aの後継機はV-22オスプレイになる予定でしたが、
オスプレイが試作機の段階で全損事故などを起こしてしまったので、
調達の目処がつかなくなり、結果的に飛行艇の後継であるUS-1A改、
のちのUS-2の開発に繋がったという経緯がありますね。

意地の悪い言い方をあえてするならば、新明和工業にとって
「敵失」による棚ぼたのようなプライムメーカー獲得ではありましたが、
それもこれも

「飛行艇の後継機は(ヘリではなく)飛行艇でなければならない」

という同社の執念が、これも敢えて言えば「天に通じた」のかもしれません。

(個人の感想です)

 

しかし、実際問題として、巨大なティルトローター機であるオスプレイが
救難活動をすることを想像してみると、救難はそのローターの引き起こす
盛大なダウンウォッシュの中で行われるわけです。

地上でもローターの下に立つだけでもかなりの恐怖があるのに、水上で、
そのダウンウォッシュの中、ホバリングしたヘリに揚収されるのは
要救助者にとってかなりの心理的な恐怖ではないかと思われるのです。

US-2の誕生はこの点から言っても正解だったのではないでしょうか。

より、冒頭写真に挙げた「飛行艇の系譜」が途切れることなく
未来に繋がっていく可能性が生まれたことの意義はあまりにも大きいと言えましょう。

第71飛行隊に贈られた各国からの記念の品々。

左上から、

●昭和59年12月9日、トルコ駐日大使ご夫妻から
US-1搭乗記念として贈られた飾り皿

(やっぱり搭乗って、こういう時に使うべきですね)

●インド海軍アニルチョプラ中将から
日印SAREX記念として贈られる

SAREXというのはサーチアンドレスキューを目的とした
国際組織の略称だと思われます。

●韓国参謀総長KIM CHON-HO大将より昭和63年12月17日

理由はわかりません。
海軍大将が訪問し、メダルの交換を行ったということでしょうか。

●平成21年4月21日 在日海軍司令部SNFJ-J2
情報幕僚 ペンス海軍大佐より贈られた時計と磁石

●統合幕僚長折木陸相が搭乗した記念メダル
平成22年3月2日

下段左より、

●「海梅」の輪沙恵船長を救ってくれた感謝の意
中華人民共和国寄贈 77年12月14日

調べましたがネットには全く情報が上がっていません。

奥ゆかしいというのか、自衛隊はどこの国の人を助けた!などと
全く発表しないため、こんなことがあっても史実として人の目に触れることは
まずないので、おそらく中国の人たちも全く知らないのだと思います。

●フランス海軍参謀総長イブ・R・ボナルト大将より贈呈される
1983年9月7日

そもそもこの贈呈された物体の正体がわからないんですが・・・。

●新庁舎落成記念 南鳥島航空派遣隊より贈呈
平成21年5月9日

南鳥島には自衛艦が定期的に派遣されますが(聞いたところ
期間は週単位でそんなに長くないらしい)その送り迎えには
必ず水上艇が使われます。

フランス海軍参謀総長 ベルナール・ルソー大将から
US-1搭乗記念として贈られる(厚木〜江田島)
平成元年12月13日

江田内のあの内海にUS-1は着水を行ったということなのでしょう。

ところで、冒頭の資料館に飾ってあった絵ですが、
下から順番にUSー2に至るまでの水上艇の系譜が描かれています。

上からUS-2、US-1A、PS-1、そして帝国海軍の二式大艇。
ここまでは今までお話ししてきたところですが、その下の
二機についても触れておきます。

まず二式の下が、川西飛行機の

川西H6K 九七式飛行艇

通称「九七大艇」「九七式大艇」などと言い、コードネームは「Mavis」。
メイヴィス・・・なんか宮崎駿のアニメに出てきそうな名前ですね。

新明和の前身、川西機械製作所は、その前に日本初の本格的水上機、

川西K-5水上郵便機

なるものを送り出していました。
それが一番下の複葉機だと思われます。

つまり日本は、川西のおかげで、海外の飛行機にこだわらない独自技術が、
水上機という分野にこの時期に根付いたということもできそうですね。

 

そもそも、日本で最初にできた飛行機制作会社は、川西航空機の創業者
川西清兵衛と、中島飛行機の創業者中島知久平によって作られた
日本飛行機製作所でした。(2年で解散し、お互い川西と中島を作る)

その川西航空機における主力商品の一つが大型飛行艇だったのは皆さまご存知の通り。

大型飛行艇の系譜は、このように受け継がれていきます。
97式飛行艇が高速の能力を得て「二式大艇」に。
二式がさらなる高耐波性を得て「PS-1」に。
「高速性」「耐波性」「航続距離」全ての能力が補強されて「PS-2」へと。

最初にK-5ができた1922年からUS-2の誕生する2003年に至るまで、
そしてUS−2が生まれた後も最終形に至ることなく進化を続ける機体の系譜は、

このように100年もの間、脈々と受け継がれてきたのです。

 

ちなみに、戦後開発された水上艇の離水所要時間は、

PS-1US−1 約30秒

US-1A   約20秒

US−2    約10秒

と10秒ずつ縮まってきているそうです。

たかが10秒、されどこの10秒の短縮が救難救急の現場でいかに偉大な進歩か、
それは、実際にそれらに乗って幾多の命を救ってきた
第71航空隊の「飛行艇乗り」が一番よく知っているはずです。

 

続く。