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二式大艇からPS-2まで〜岩国航空基地 史料館

2019-02-05 | 自衛隊

海上自衛隊岩国基地内にある史料館は、かつてここにあった
海軍時代の史料の紹介と、戦後の接収を経て海上自衛隊が
アメリカ海兵隊と共同使用するようになってからの史料、
二つに別れています。

現在の岩国基地のジオラマ模型があり、ここで基地の歴史などの説明を受けます。
昭和13年から帝国海軍が軍用飛行場として運用を始め、
主に教育隊、練習隊の航空基地となり、前回にもお話ししたように、
予科練と海軍兵学校岩国分校がありました。

戦争末期には連合国の空襲を受け、多くの施設が被害を受けています。
前回見学した零戦の掩体壕にも、空襲の跡の銃痕が生々しく残っていました。

戦後海兵隊により接収されてイギリス連邦占領軍が駐留し、
占領解除と共にイギリス連邦軍は日本に返還したのですが、
どっこいアメリカ軍がこれを返そうとせず、しばらく空軍の所有に。

日米同盟が締結されたので、5年後には日米の共有基地となり、
アメリカ軍は再び海兵隊が駐留することになりました。

 

車で基地内を案内されながら、

「ここが旧滑走路です」

と説明された広大な地帯がありました。
移転は、旧滑走路の延長に石油コンビナートがあったこと、そして
岩国市商店街や住宅街に隣接しており騒音公害が問題となったからです。

もともと飛行場の施設は全て日本の税金によって賄われているので、
滑走路の移設も全て日本政府がまかなっています。

海側に埋め立てて作られた滑走路が運用を始めたのが2010年。
同時に旧滑走路は閉鎖されましたが、今は空き地になっているだけで、
どう使用するつもりかはわかってないようでした。

さて、ここからが「海自資料コーナー」です。
何かワケありげな柱時計が目についたので、

「これはどこかに飾られていたものですか」

と聞いてみましたが、特に意味はないそうです。

部品や写真などがガラスケースに展示されておりますが・・。

目を引いたのがあの海軍の飛行艇、「二式大艇」でした。
二式については、当ブログでもかなり詳しくお話ししたことがあります。

川西航空機が製作した、当時世界才能の性能とまで言われた傑作機、
川西 H8K 二式飛行艇は、ご存知のようにその後、系譜が受け継がれていきます。
まず新明和 PS-1。

鹿屋に展示されていたものだと思われます。
呉地方総監部で行われる殉職者追悼式で、わたしは総監から

「PS-1の事故が皆ここの管轄になるので呉の殉職者が多いのです」

と聞いたことがあります。
PS-1は退役までに6機が事故に遭い、37名もの乗員が殉職しています。

 

そして新明和 US-1。

つい最近全機退役したUS-1ですが、実は対潜哨戒機として開発された
PS-1に救難機器を設置、救難飛行艇化したものです。

そして現在活躍中のUS-2へ。

二式はこれらの「二式の系譜」を受け継いだ救難水上艇を生みました。
岩国基地は救難艇を運用する第71航空隊が所属しております。

じ・つ・は !

今回の基地表敬訪問に当たって、アレンジをしてくださった司令副官が、

「訪問の際特に見学をしたい飛行機はありますか」

と聞いてくださったわけです。
例によってその辺のことには全く無知であるTOが、その電話の後、

「と言ってくださってるけど、どの飛行機」

「US-2!」

TOは先方にこのように返事をしました。

「即答でUS-2だと言っております」

この後、US-2の見学をさせてもらうことに決まっていたわたしは
特にこの部分をワクワクしながら見ておりました。

 

二式大艇のマニュアル複写です。

橋口義男氏は海軍造船大尉出身で、広工廠勤務の時には
日本で初めてとなる一五飛行艇の設計主務者として開発し、さらには
その後川西航空機で紫電改の設計を行っています。

川西航空機で二式の設計陣であった橋口氏は、老後も
新明和のお膝元関西で過ごしたらしいことがこのプロフィールから伺えます。

そういえば、わたしの関西の実家近くには新明和の寮があったので、
小さな時からその名前を知っていました。

発動機の部品のほんの一部が展示されています。
これは水の中から引き上げたものではないでしょうか。

皇太子時代の天皇陛下ご夫妻がUS-1に御登場賜られたことがありました。

その時限り(だと思いますが)機内には赤絨毯が敷き詰められ、
なぜか靴べらまで用意されたようです。

天皇陛下ご夫妻のために特別に用意された茶器や菓子皿。
透明の皿は水菓子でも供されたのかもしれません。

救難機ではない、つまり朱色の塗装がないPS-1は
哨戒機としての機体です。

右側の風向計は実際に機体に付いていた本物。

こうして改めて見ると、背中のシェイプがユニークですね。
おそらく重量を減らすための工夫ではないかと思われます。

モックアップと言うのでしょうか、風洞試験用の模型もありました。

戦後二式大艇を持ち帰り試験飛行したアメリカの航空機会社はその性能に驚き、
新明和興業(川西航空機)に新飛行艇を作らせたのですが、中でもグラマンは
設計者の菊原静男に自国の飛行艇UF-2をポンと気前よく与えました。

「これを元に試作品を作りたまえ」

そうして開発されたのがUF-XS
試験用に作られた機体で、この実験結果から新明和は
US-1そしてUS-2を生み出して行くことになります。

 UF-XSの本体は、現在かがみはら航空宇宙博物館に展示されています。

また、元になった「アルバトロス」については、わたしはかつて
アメリカの航空博物館で見学したものをここで扱ったことがあります。

なんだか恐竜のようなノーズですね。

UF-SXの実験飛行が成功し、防衛庁における対潜哨戒を目的とした
新型飛行艇の開発が始まりました。

1966年、新型飛行艇開発第1号機、PX-Sの開発プロジェクトが立ち上がります。
PX-S開発の目的は「波高3メートルの荒海で離着水可能であること」でした。

1968年、PX-1は海上自衛隊に引渡しを完了し、
1970年10月に同機は、海上自衛隊の制式機として承認され、
「PS-1型航空機」とよばれることとなりました。

PS-1型の航空機計器板。
「PS」とは「Patrol Seaplane」の意味です。

壮観!PS-16機による編隊飛行です。
これを撮影した飛行機は何だったんだろう・・。

ところでPS-1の横にあったこれ、何だったですかね。
現地でもこれなんですか、と聞いて、さらにはブレード状のものを留めている
理由まで質問した覚えがあるのですが、どうしても思い出せません。

設計図の上にPS-1やらPS-2、二式大艇の模型が。

左上と右上は「晴嵐」とかかもしれません(適当)

水上艇は海の上を飛ぶので、たとえ海面に降りなくても
飛行のたびにこうやってシャワーを浴びなくてはならないそうです。

さて、と言うところで資料館の見学を終え、わたしたちはもう一度
群司令と合流して、お昼ご飯を基地食堂でいただくことになりました。

「隊員と同じメニューを食堂で召し上がっていただきます」

何が食べられるのか、もうワクワクドキドキです。

 

続く。