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海軍機関学校と「マザー」フィンチ~海軍機関術参考資料室

2016-03-12 | 海軍

旧海軍兵学校であった江田島には何度となく訪れ、それについて
書かれたものや元兵学校生徒の会合に参加するなど、
これも「門前の小僧」とでもいうのか、海軍兵学校のことについては
それなりに知識を蓄えてきたわけですが、同じ海軍の学校でも
機関学校についてはほとんど何も知らず、軍艦のことを調べる過程で
造船についての記述に機関将校が出てきたり、あるいは目黒の自衛隊を
見学した時に敷地で見た実験棟の名残(今も使われていたりする)をみて、
そのぼんやりとした輪郭を思い浮かべる程度でした。


兵学校の同期会には、いわゆるコレス、兵学校と機関学校の同学年が
一緒に参加しており、その一団が「舞鶴」と呼ばれていたことから、
海軍機関学校が舞鶴にあったのだな、と理解しておりましたが、横須賀にも
機関学校があったことは今まで考えたこともありませんでした。

1874年、兵学校がまだ「兵学寮」であった頃、その分校として、

海軍兵学校付属機関学校

という名前でここ横須賀にその学舎が置かれていました。
1925年には舞鶴に移転し、以降「舞鶴」は海軍機関学校の代名詞となります。

前回お話しした芥川龍之介が英語を教えていた1916年(大正15)には、
機関学校は今の三笠公園の近くにあったということです。

今、三笠公園に隣接して神奈川歯科大学と湘南短大がありますが、
そのキャンパスがかつては機関学校の敷地でした。
今もこの校内には桜並木があるそうですが、それは機関学校時代からのもので、
そこだけが往時の面影を残しているのだそうです。

また、赤レンガと石を積み上げた機関学校時代の門柱は、現在も
歯科大学病院の裏手に保存されています。 

舞鶴地方総監に訪問したとき、昔機関学校の講堂だったという建物の
裏の部分が海軍資料館となっているのを見学しましたが、
そこには機関学校の跡を偲ばせる資料はほとんどなかったと記憶します。

というわけで、海軍機関学校独自の資料が集められているのは、
ここ横須賀の「海軍機関術参考資料室」だけなのかもしれません。



胸の軍艦旗マークが、実に洗練されています。

あまりに新しくきれいなので、海上自衛隊のラグビーチームのユニフォーム?
と感違いするくらいですが、これは海軍機関学校47、48期チームのジャージで、
戦後(昭和58年)に作成されたレプリカです。

兵学校生徒がラグビーをしている写真を見たことがありますが、
機関学校では特に闘争心や団結心を鍛えるスポーツであるラグビーが盛んで、
全国でも強豪だった三高(京大)とも定期対抗試合を行っていたそうです。

写真上は、5月27日の海軍記念日に校内試合を行う機関学校生。

帽章の左にあるのは、やっぱりここでも普通に行われていた
短艇競技のメダルです。




昭和13年5月、その三高との対抗試合のときの記念写真。
白いユニフォームの三高生とは仲良く混じっていますが、
誰一人としてニコリともしていないのが時代を感じさせます。

「男がニヤニヤするな!(ましてや軍人ならなおさら)」

という風潮だったんですね。



昭和13年、やはり強豪チームだった明治大学のコーチを招聘して、
神妙な様子で教えを受ける47期生徒。



不思議なキャプションがつけられた写真です。

昭和20年4月19日 「機械熱力学」機関実験場
レイテ海戦の硝煙消えやらぬまま小熊隆大尉(第51期)が
56期生徒に対し、編微分方程式を駆使して講義を行う。
鳥肌が立つ思いであった・・・・

機関将校であった小熊大尉については、ここに書かれている以外のことは
何もわからなかったのですが、この前年の10月23日から25日まで行われた
レイテ沖海戦に参加し、命永らえて帰国後、母校で教えることになったようです。

 編微分方程式は自然科学の分野で流体や重力場、電磁場といった場に関する
自然現象を記述することにしばしば用いられる微分方程式です。

死線をくぐってのち生き残り、今ここで行う講義。
生死の狭間を見、ゆえに生の刹那を知った者の言葉の重みと真剣さを
生徒たちは「鳥肌が立つくらい」感じ取ったということなのでしょう。


小熊隆大尉は人間魚雷「回天」を開発した黒木博司大尉と同期です。
黒木大尉はレイテ沖海戦の1ヶ月前、昭和19年の9月7日、
自らが発案した回天訓練中の事故で22歳の命を終えています。

黒木大尉は16歳で機関学校に合格しているので、同じ歳とは限りませんが、
この小熊大尉も、23歳前後で戦線から戻り、教壇に立っていたことになります。

インターネットを検索すると、たった一つ、安中市の平成21年の市政報告に
小熊隆さんという方が瑞宝単光章(勲6等)を警察功労で受賞した、
というお知らせに行き当たりました。
瑞宝章とは“国家または公共に対し功労があり、公務等に長年従事し、
成績を挙げた者”に叙勲されます。


もしかしたらこの方が65年後の小熊大尉なのでしょうか。



向かいにあった自衛隊の創設資料館にもノートが展示されていましたが、
さすが機関学校だけのことはあって、こちらもノートが何冊も。

授業のノートかと思ったらそうではなく、民間工場を課業で見学し、
それについて見たものを細かく図入りでメモしたものでした。

日本アスベスト会社

住友伸銅工場

京都火力発電所

の三社で、発電所の項には「水源は近江琵琶湖なり」とあります。 



方眼紙にノートを取るのは図が描きやすいからですね。
これは住友で見学した伸銅のための機械の一部(のようです)。



発電機械の諸試験(不蝕試験、絶縁試験、極性試験)図。



英語の試験かと思ったら英語問題が書かれた「材料学」の試験でした。
なんてこった、ってことは答えも英語で書きなさいってことか?

「一般的な原油の精製過程について述べよ」

まあこれだけならそんな難しくはないかもしれないけど、英語でこれを・・。 



「サンブナンの原理」による弾性力学の美しい証明。



さて、この資料室に、このような女性の肖像がありました。
この方、星田光代さんとおっしゃいます。


・・・・と言うのはもちろん彼女の日本名で、本名は

「エステラ・フィンチ」Estella Finch (1869 - 1924)

さんとおっしゃいまして、アメリカはウィスコンシン州出身です。
彼女はニューヨークの神学校を卒業してから、超教派(教派関係なく)
婦人宣教師として24歳の時に日本にやってきました。
彼女は全国で伝道を行っていましたが、日本人の贖罪意識の薄さに失望して
帰国の準備を進めていたところ、横須賀日本基督教会の神父である黒田惟信と出会い、
彼の

「軍人には軍人の教会が必要である」

という説に賛同し、横須賀市の若松町に「陸海軍人伝道義会」を設立しました。
彼女は特に海軍機関学校の生徒への布教を熱心に行いましたが、決して
信仰を押し付けることはなかったそうです。

教会の庭に道場を作り、稽古着や道具を揃えて生徒にはスポーツを推奨し、
生徒を「ボーイズ」と呼んでかわいがりました。

アメリカ人である自分が日本の軍人に布教をするには、まず愛国者になるべき、
と考えた彼女は、国学者であり史家でもあった黒田から日本史を学び、
流暢に日本語を喋り、生活様式もすべて日本式にしました。

日本に帰化し、「星田光代」となったのもそのためです。
帰化したのは40歳の時。
彼女の親しい者(アメリカ人)はこれに反対したそうですが、
彼女は断固これを押し切りました。



機関学校の生徒たちは彼女を「マザー」と呼んで慕いました。

関東大震災のあとは被災地慰問を熱心に行っていた彼女ですが、
体調を崩し、教会の者に見守られながら55歳の生涯を閉じました。

「我邦軍人のために青春を捨て国籍を捨て遂に命そのものさえ捨てたる者なり
その献精の精神『死せりと雖も尚言えり』というべし」

というのが黒田がその慰霊碑に書いた追悼文です。


第2術科学校の資料室に彼女の資料が展示されることになったのは、
横須賀市在住の海野幹郎、涼子夫妻がその遺品を寄付されたからでした。

海野氏は海上幕僚監部技術部長を務めた元海将補。
そして夫人の涼子さんは、黒田惟信の孫娘であったという縁によるものです。

「陸海軍人伝道義会」は黒田が死去した翌年の1936年に解散しましたが、
彼らの布教によって、30年間でおよそ1万人が伝道義会を訪れ、
約1000人の軍人が入信したといわれています。

戦史を当たっていて、将官にクリスチャンが多いと思ったことがありますが、
彼らのうち何人かは横須賀で伝道議会に通って入信したのかもしれません。

井上成美大将もキリスト教徒で、戦後は子供たちに英語を教えながら
神の教えを説くことがよくあったといいます。

「神さまは、どこにいらっしゃるというのではないが、
どこかにいらっしゃる。
必ず見ておられるから、祈りなさい。
感謝しなさい。
財産など残してはいけません」

という言葉をのちのちまで覚えている教え子もいました。

井上大将が横須賀にいるとき、軍人伝道議会に行ったことがあったかも、
という考えは、そう突飛なことでもないような気がします。


続く。