ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海軍機関将兵の履歴~第二術科学校 海軍機関術資料室

2016-03-13 | 海軍

第2術科学校の海軍機関術資料室、残りを一挙に参ります。



案内の自衛官が「ここにあるのは本物です」といっていた東郷元帥の書。
「忍」のあと、戌申夏、とありますが、これは1908年の夏に書かれたということです。
1908年というと、日露戦争の4年後。
日本海大戦を勝利に導いた聖将として、日本中の崇敬をあつめた東郷元帥。
毎日所望されておそらく書を書きまくっていた?頃なので、忍の一字(多分)



こちら定番、「常在戦場」でおなじみの山本五十六の書でございます。
前回「軍人のための信仰」について調べていた時に、

「山本は合理主義者ゆえの無神論者だった。
そのため天命がマイナスに働くようになり、戦運も無かったのだと思う」

と同じ海軍軍人が言っていたという記事を目にしました。

この軍人に言わせると、東郷平八郎にも秋山真之にも信仰があった、だから
戦運に恵まれたが、山本はその信仰心のなさゆえ、ツキに見放されたということらしいです。

板谷隆一海将は海軍兵学校60期のクラスヘッドでした。
真珠湾攻撃の時の「赤城」制空隊長、板谷茂は57期の首席で、彼の兄です。

大和特攻のときには「大和」と運命を共にした「矢矧」乗組でしたが、
命永らえ、戦後海上警備隊が創設されたときに入隊し、2年後に1佐になります。
終戦のときに板谷は大尉でした。
警備隊は旧軍の階級をそのまま受け継いで官階級を充てていたということです。

米国の海軍大学留学後、幹部学校副校長、護衛艦隊司令官、横須賀地方総監と、
兵学校のクラスヘッドは順調に昇進し、1966年(昭和44年)、
第10代海上幕僚長、3年後には統合幕僚議長(今の統合幕僚長)になっています。

そんな板谷の書は「温故知新」。
海軍軍人出身の戦後自衛隊の統幕長の言葉として、ふさわしいものだと思います。



永野修身書、「庶昭忠誠」
李白の詩にある言葉で「庶しょうは忠誠を昭らかにす」



永野の書はもう一つあって、「憑高跳遠」
高きによりて遠くをながむ、つまり高いところから全体を見ること。

永野修身というと、「軍令部総長」「東京裁判」と連想します。
開戦時軍令部総長だった永野は、戦争不可避という状況下で、苦心しながら作戦指導に当たり、
終戦後に戦犯として訴追されたときにも、自らにとって有利になるような弁明はせず、
真珠湾作戦の責任の一切は自らにあるとし、また、記者の質問に対し

「真珠湾は軍事的見地からみれば大成功だった」

と答えるなど最後まで帝国海軍軍人の矜持をもって振る舞いました。

この裁判での姿勢を見たジェームズ・リチャードソン米海軍大将は、
永野を真の武人であると賞賛していますが、
このリチャードソンという人は、真珠湾を海軍艦隊の母港にせよという命令に対し、
防御力に不安があることと、日本を刺激することを理由に反対した人なんですね。

ルーズベルトはこの決定を「日本を挑発し襲わせるための意図を持って」
行ったわけですから、聞く耳持たず当然リチャードソンの反論は却下され、
なんとそれだけでなく、太平洋艦隊司令長官と合衆国艦隊司令長官を解任、
中将から少将に降格!されてしまうのでした。

うーん、ルーズベルトこの。

後任のハズバンド・キンメルはリチャードソンの兵学校の3期も下。
(つまりリチャードソンを貶める意味合いでなされた後任人事です)
キンメルは真珠湾攻撃で被害を甚大にした指揮官として責任を取らされ、
いまだに遺族の名誉回復の嘆願も届け入れられずに今日に至ります。

未だにアメリカ人の間では「偉大な大統領」のベストテンくらいには
ルーズベールトが入っていたりするほど評価されているのですが、
はっきりいってあのときこの民主党大統領が戦争したかったから戦争になった、
というふうにはアメリカ人は考えないってことなんでしょうかね?

まあ、そういうリチャードソン(最終階級は大将)ですから、真珠湾に関して
日本側に肩入れするようなセリフが出てもわたしはあまり驚きません。


永野は、東京裁判継続中の1月2日に肺炎にかかり、病院に搬送される途中で死亡しました。
この裁判中、永野はあるアメリカ海軍の士官に、

「この後、日本とアメリカの友好が進展することを願っている」

と述べたそうですが、こんにちその願い、特に日米両海軍における友好は、
彼の予想したよりおそらくずっと良好な形で実現することになりました。



海軍兵学校で恩賜の短剣なんて、どんなスーパー秀才なんだという気がしますが、
さらに海軍機関学校の恩賜の短剣、つまり首席って、いったい・・、
とついしみじみと考えてしまいますね。

軍需省の航空兵器局の局長にこの久保田芳雄の名前がありましたが、
同じ時期の総務局長には大西滝治郎がなっています。

「海軍反省会」にはしばしば名前が出される久保田氏、戦後はやはり
公職追放に遭われたそうですが、技術士官は少なくとも戦犯には無縁でした。
進駐軍が訪ねてきたのですわ戦犯指名か、と思ったところ、若き日に留学していた
MITの同級生が訪ねてきただけだった、という話を孫にあたる方が書いています。




この階級章は全て本物。レプリカなどではありません。
本物で作られた階級章の見本は、おそらくこれが唯一のものだということです。
(誰かが実際に使っていたものを使って作ったのかどうかまでは聞きそびれました)

だいぶ色あせていますが、機関科と技術科の階級章は紫です。
主計科白、軍医衛生は赤、法務科は緑。

法務中将なんていたんですね。
そういえば、226事件についての映画の話の時に匂坂春平という関東軍法務部長が
首謀者全員死刑という判決を戦後悔やんでいた、ということを書いたことがありますが、
この匂坂裁判長が「陸軍法務中将」でした。

海軍の法務中将には、偶然ここでお話したことのある舞鶴の偉人、
伊藤 雋吉(いとう としよし)男爵がいます。

「水路科」は最高位が大佐だったようですね。



右は海軍機関学校第15期卒、氏家長明中将の奉職履歴。

履歴 氏家長明

このようなことが墨で書かれているわけですね。
氏家中将は海機を卒業して少尉候補生として「須磨」乗組となり、
これが海軍軍人として最初のキャリアとなりますが、左はその任命書です。

幾つかの軍艦に乗り組んだ後は艦政本部一本で、最終的に
佐世保工廠長、目黒の技研所長まで務めました。
終戦時にはすでに予備役に入っていたので、戦後の記録はありません。

なお、氏家の妻は千里ニュータウン開発を手がけ、関西大学を移転した
大阪の実業家山岡淳太郎の娘でした。
そのお相手と結婚に際し、氏家大尉はこのような許可証を残しています。




海軍士官が結婚するには、各方面の許可が必要な時代でした。
外国人とも出世する気がないなら結婚できるなんてとんでもない、
家柄がちゃんとしていなければ海軍大臣の許可が下りませんでしたし、たとえば
芸者さんなどと恋に落ちてしまった士官は、結婚できてもクラス名簿から外される、
などという目にあったといいます。

それを避けるために、しかるべき家に女性を養女として迎えさせ、そののち
嫁にするという手続きをふんでなんとか意思を貫く士官もいました。

これは先ほど名前の出たクラスヘッドの氏家長明が大正2年に結婚したときの許可証。
結婚したのはほとんどの士官がそうであったように大尉のときでした。
(大佐中佐少佐は老いぼれでかといって大尉にゃ嫁があり若い少尉さんには金がない、
という戯れ歌にもありましたね)

ほとんど紙が真っ赤っかになるくらいこれでもかとハンコが押してあります。
本人と海軍大臣のもの以外は参謀長、人事、副官、参謀、艦長、副長、主計長、
人事長、そして横須賀鎮守府司令官。

こういうのもきっと本人が紙を持ってあっちこっちハンコをもらって歩いたのでしょう。
わずらわしいといえばわずらわしいですが、その度に「いやおめでとう」などと
冷やかされたりして、それなりに嬉し恥ずかしなイベントだったのではないでしょうか。




こちらはある海軍機関兵曹の履歴書。
佐世保海兵団に練習兵として入団して以来ずっと佐世保鎮守府で勤務し、
終戦間際の6月に9号輸送艦に乗り組んでいます。

ご存知のようにこの頃、輸送艦に乗り組むというのは死を覚悟する戦況でした。
しかし9号輸送艦は竣工以来、幾多の作戦に従事し生き残った武運の強い艦で、
敵潜と戦闘を行いながらも各種輸送作戦を成功させ、戦後は復員輸送に従事しています。

この機関兵曹の履歴に「復員業務」とありますが、おそらく彼は9号輸送艦に
乗り込んだまま終戦を迎え、その後仕事を行ったものと思われます。

復員任務終了後、賠償艦として米軍に引き渡されたのですが、どういうわけか
米国に回航されることなく太平洋漁業に貸し出され、捕鯨船母船として生涯を終えました。

9号輸送艦に乗り組んだこの機関兵曹も、全戦歴を通じて大変運が強かったといえます。



こちらは海軍機関中尉の教育参考表。勤務評定みたいなものですか。
昭和17年7月から18年9月まで駆逐艦「荒潮」に乗り組んでいたようです。

ということは、18年3月の第81号輸送作戦、米軍通称「ビスマルク海戦」
に参加したということでもあります。
このときの「荒潮」は、戦争中の「生と死の分水嶺」をそのまま表すような
運命の分かれ道を経て生き残っています。
ダンビールの悲劇とも言われた反跳爆撃の餌食となり、「荒潮」は艦橋に直撃弾を受け、
指揮をとる士官がいなくなっただけでなく艦橋が無くなったため操舵不能となり、

そのまま最大戦速で給炭艦「野島(未実装)」へ激突、艦首も大破してしまいました。

駆逐艦隊指揮官木村昌福は撤退命令を出しますが、「朝潮」が現場に駆けつけ、
「荒潮」と「野島」の負傷者を移乗させることに成功しましたが、
「荒潮」乗員たちは「荒潮と共に戦って死ぬ」と言い張ってそのまま船に残りました。

そのとき敵機が来襲し、助けに来た「朝潮」が沈められてしまい、
移乗した多くの負傷兵は戦死するという皮肉な結果になります。 

その後、「荒潮」の乗員と「朝潮」の漂流者は、このダンビールの海で
なんなく(なんとなくじゃないよ)生き残った「雪風」に救助され帰国しています。

それにしても、「荒潮」の乗員が船に残ると言い張って移乗でもめていなければ、
もしかしたら敵機の来襲に遭わずに済んだという可能性
はないのかしら。

この中尉の評定は

「分隊士の職に対しては日常事務全般に対し常に諸法規に照らし処理し
完全ならしむることに努め、十分信頼するに足るに至れり」

に始まり、大変高い評価を受けているということが書かれています。

この中尉は機関科の中尉ですから、ビスマルク海戦で艦橋の兵科士官が全員戦死したあと
指揮を執るべき順位にいたはずですが、前述のように指揮をした士官はいなかったようです。

機関科士官では操舵はできなかったからということでしょうか。



この資料室のすごいところは、海軍機関学校時代の書籍が本棚に保管されていて、
見ることができるものもある、ということでした。

この棚のものはほとんど機関学校で実際に使用されていた教科書です。

ただし、このときの説明によると、ガラスケースに入らないものは劣化が激しく、
見ていただくことはできない、ということです。
これ、できるだけ早くなんとかしたほうがいいのでは・・(お節介)




海軍機関中将の礼服。
ご存知の通り、機関科の最高位は中将です。
岡崎貞吾中将が着用していたもので、遺族から寄付されました。

「昭和8年の観艦式」の項で、このとき予備役だった岡崎中将が、
奉供艦「高雄」に座乗したときの資料をいろいろと見ていただきましたが、
そのときにあった岡崎中将の写真に写っていたのが、これです。



ガラスケースの上に無造作に置いてあった

「井上成美大将 懇談録音(その1)」

まさか、と思って蓋を開けてみたら・・・・、



なんと!いまどき珍しいopen reel式の録音テープでした。
テープは残っていても再生する機械がないと見た。
ああでも聞いてみたい。井上大将の肉声。

と思ったらあった。このときではなく、兵学校入学式の訓示が。

井上成美 訓示http://youtu.be/yUF9Tmp_GM4


ギターを弾いて歌も歌っていたといいますが、なかなかハリのある美声です。

このテープ、こんなところに置いておかないで、デジタル式に落として
(あ、もうダビング済みですか?ならすみません)こちらは劣化しないように
ガラスケースに入れるとかしたほうがいいんじゃあ・・(お節介)



なぜか伊号第33潜水艦の殉職者の名簿(原本)がありました。
どうしてここにあったのかは説明されていませんでした。



戦時下の最新鋭潜水艦として昭和17年6月10日就役、同年9月、
トラック島泊地で工作艦に横付け修理中、連絡不十分のため、
後部のハッチを開いたまま沈下させ、航海長阿部大尉以下33名が殉職した。

引き上げして修理後の昭和19年6月13日訓練中に沈没。
原因は、給気筒頭部弁に丸太が挟まっていることに気づかず急速潜行したため。
104名の乗組員中、2名が救助されただけで、102名が死亡した。

同艦は沈没9年後、引き揚げられ解体前に調査が行われたが、その際
技術大佐3名が艦内で一酸化中毒により死亡するという悲劇が起こった。

一方、浮揚した潜水艦内部、浸水しなかった部分の遺体は損傷が全くなかった。
9年経っているのに腐敗せず、まるでつい最近死んだかのような状態であった。
原因は、艦内の酸素が全部吸い尽くされたため、腐敗菌が繁殖しなかったのと、
水深61mの深さで温度が上がらなかったためで、いわば無菌で冷蔵庫に
真空保存されているのと似たような状態になったのである。

この写真に付けられた説明の抜粋です。



終戦の勅書のコピー。
おいそれとコピーできるものではないので、コピーといえど展示してあります。



勅書の最後には各大臣の自筆署名が。



そして、一部しか写真に撮れませんでしたが、海軍機関学校卒の戦死者。

「摩耶」パラワン方面
「山城」スリガオ水道
「阿武隈」レイテ湾
「加賀」ミッドウェイ
「霞」キスカ湾
「秋風」マニラ西方

「大鳳」マリアナ海西方

先日ここに展示されていた観艦式の航行図を挙げましたが、
そのときに横浜沖で観艦式の列に並んだ軍艦が、聞き覚えのある戦没海面とともに
戦死した機関将校の名前のあとに書かれています。

仔細に眺めると、右から4番目の花咲茂市という士官の名前の下は

「昭19、6、13 伊三三潜 伊予灘」

となっており、戦死ではなく「公死」、殉職と記されています。



「三笠」の模型ですが、何やらすごく気合が入っている模様。
賞状が見えますが、これは、当時吉田茂が会長を務めていた「東郷会」と
「三笠保存会」が主催して行われた船の模型コンクールに出品されたもの。
努力賞を受けたのは、斎藤正善一等海尉(昭和36年当時)ということです。







というわけで、資料室の見学を終わりました。
廊下に出てきたら、お茶汲み室の暖簾が可愛かったので一枚。




資料室のあった建物の前からまたバスに乗り込み、第二術科学校を後にしました。
門に書かれているのは

「潜水医学実験隊」「第二術科学校」「艦船補給処」
「自衛隊横須賀病院教育部」「横須賀造修補給所」

伊33潜の名簿があったことは「潜水医学実験隊」に関係あるでしょうか。
「艦船補給処」というのをどうしても「ほきゅうどころ」と読んでしまう(笑)
お食事どころみたいでなんかほのぼのしますね。



というわけで、書き割りのような第二術科学校にバスの車窓から別れを告げました。
この見学は、防衛団体の顧問である元海将がお話を通してくれて実現したそうです。

空母「ロナルド・レーガン」、そして第2術科学校では
自衛隊の創設の歴史、そして旧海軍機関学校の資料を見た一日。
この後に行われた懇親会で、元海将が

「今日見たことをできるだけ周りの人に話して、伝えてください」

とおっしゃったので、そのお言葉通りブログで長々とお話してきました。
空母に代表される世界一の海軍の「今」と、帝国海軍、そして自衛隊の歴史、
新しきと古きを一挙に目の当たりにした、実に濃密な「海軍三昧」の一日でした。


終わり