先の日曜日の前後、当ブログの閲覧ページの上位に
「米海軍スプリングフェスタに行った」
というエントリが上がってきたので、
そろそろスプリングフェスタの日がまたやってくるのだな、と思っていました。
今年のスプリングフェスタは当方怪我療養中である上、歯の治療中に
薬液だかなんだかが喉に流れ込んだせいで(たぶん)咳が止まらなくなり、
塗炭の苦しみを味わって(ちょっと違う?)いる真っ最中だったので
全く参加するつもりはありませんでしたが、それにしてもこの日曜、
昼すぎまで暴風が吹き雨が降り地震もちょっとあったりと盛りだくさんで、
行った人も現地の米軍軍人も大変だったのではないかと思われました。
どなたかこの日横須賀米海軍基地に行った方、おられますか?
さて、昨年秋に参加し、他のイベントエントリを挟みつつお話しして来た
この米海軍基地における「日米親善ベース歴史ツァー」。(これが正式名称です)
やっと最終回にたどり着きました。
以前にもご紹介したことがある洞窟に作られた施設。
中にはレストランなどもあるそうですが、元々は防空壕です。
アメリカ人が、ここに在るものを破壊せずそのまま利用し、
しかも半世紀以上も当時のままの姿で保存してくれていることは、
今回のツァーでの大きな収穫の一つと言えました。
アメリカ人の美点というか、アメリカが日本に基地駐留をするにあたり、
こちらが感じている以上に関係をうまく維持することに気を遣っていることが
こういった史跡の存続を通じて伝わって来たのでした。
以前コメント欄で、自衛隊と防衛関係者が「自称市民運動家」の類いから受ける
有形無形の嫌がらせについて、たとえばkyari3さんによると当事者の「体感」による認識は、
「自衛隊に反対する人間の方がその他より多いような気がするほど」
ということですが、これを聞きわたしは今更ながらに呆然とする思いでした。
これらの人種の「自衛隊嫌い」は勿論のこと在日米軍に向けても遺憾なく発揮され、
沖縄ではもはやこれらの基地反対派がテロまがいの激しさで 反対運動をしているそうです。
フェンスに赤い(『彼らの』色だそうです。お隣の国と一緒ですね)テープを巻き付け、
それを清掃する日本人のボランティアが怪我をするようにガラス片を仕込んでおく、
基地の周りを人で囲んで皆が「恨」(お隣の国の得意な漢字ですね)という字を書いた紙を持つ。
こんなのは序の口で、米軍軍人に直接嫌がらせをし続けるグループもあるそうです。
ゲートをくぐるときに車に駆け寄って来て乗っているのが女子供であってもおかまいなしに
「ヤンキーゴーホーム!」「オスプレイ反対!」と叫び続けたり、窓ガラスに死体写真を押し付けたり。
こんな下劣で卑怯な嫌がらせに何の正義も正当性もないのは自明の理ですが、
自分の家族までがこんな目に遭わされるとなると、日本勤務は嫌だ、日本人は嫌だ、
とアメリカ軍人たちが思ったとしても無理からぬことです。
しかしながら、アメリカ軍が日本に駐留することが国によって決められているからには、
アメリカ軍人たちは、現地でアメリカ兵たちが問題を起こすことを極力なくし、
日本人との間に軋轢が起こらないように多大な労力を費やして親善イベントを行い、
そのような努力によって理解を求めているように見えます。
そして自衛隊と同じく、極端なくらい気を遣うことで日本社会に対する配慮をしているようにも。
海軍病院の見学のあとは、いよいよ横須賀鎮守府であった建物です。
ところで先ほどの話にも関係するのですが、横須賀鎮守府のアメリカ軍による接収が
どのように行なわれたかご存知でしょうか。
ポツダム宣言受諾後の8月30日、厚木飛行場にマッカーサーが降り立ったこの日に、
横須賀でも連合国軍の進駐が始まりました。
米国上陸部隊が午前9時29分に横須賀海兵団付近(今マクドナルドがあるあたり?)へ、
9時30分には追浜の海軍航空隊へ上陸を開始し、英国上陸部隊が9時40分に猿島へ上陸しました。
この日1日で横須賀に上陸した将兵は17,000人にのぼります。
前日の横須賀連絡委員会からの布告で、市民は上陸当日の外出を禁止されていました。
横須賀鎮守府では、司令長官の戸塚道太郎中将から上陸部隊指揮官バジャー少将に
横須賀軍港の引渡しが行われ、横須賀鎮守府庁舎には米国の国旗が掲揚されました。
ここは何の建物だったかと言うと、まず
雨が降っていてレンズに水滴がついてしまったままですみません。
海軍艦船部と、人事部が
隣の鎮守府本舎から手狭になったため引っ越して来たのです。
最初は鎮守府の三階にあったそうで、建築計画は当初平屋建てでしたが、
この銘板にあるように、会議所を一階に併設することにして二階建てになりました。
鉄骨造で、外壁は煉瓦タイル張り。
建物中央部には柱頭飾りがある大きな柱形が立ち上がりエンタブラチュアを支えています。
三角破風や壁面には装飾が施され、歴史主義建築の伝統を踏襲し、
横須賀鎮守府管内では最も装飾性に富んだ建物となっています。
苔むした石段の見える築山。
これも鎮守府時代から変わらないものと思われます。
歴代大統領と、基地司令部の三役。(って言うのかどうか知りませんが)
昔も会議室でしたが、今もどう見ても会議室。
現在、一階は横須賀米海軍司令部、二階は多目的ホールとなっています。
ここの見学は入り口で解散し「20分後に集合」ということで自由行動でしたが、
二階にいくことは禁じられていたので、一階の通路のみの見学でした。
一階には見学者のために資料が展示されています。
東郷元帥が死去したことを伝える新聞記事。
皇族に使う薨去という言葉を使っているのが目に留まります。
薨去とは親王、内親王、あるいは正三位、従三位以上の位の死去に対して使われ、
東郷平八郎は元帥であり位が後半の条件に相当するので「薨去」が使われたようです。
ちなみに、ヒットラーが1945年4月30日死亡したとき、朝日新聞はそれを
「ヒ総統薨去」
との見出しで伝えました。
ちなみに東郷元帥薨去は昭和9年の5月30日のことです。
資料がおいてあるのはいいのですが、ろくに説明が付されていないので、
これがどのような由来でここにある艦船グッズかは全く分かりませんでした。
もし解説の人がちゃんと説明していたのにわたしが聞いていなかっただけならすみません。
これも全く説明無し。
おそらく平賀工廠勤務の方ならお分かりになるのではないでしょうか。
横須賀のドライドックをジオラマにしたものと思われます。
左側の空母の上にはここぞと色んな種類の軍機が満載されています。
大変な労力が注ぎ込まれていると思しきジオラマですが、残念ながら
ガラスが光ってしまって何がなんだか分かりません。
なぜZ旗がここに。
真珠湾攻撃のときに上がったZ旗・・・じゃないと思う。
コミッショニング・ペナント、就役旗の意です。
ジョージ・パーディ少佐が第二次大戦の部隊で使ったということですが、
ジョージ・パーディで調べても、サイエンティストのことしか出てきませんでした。
アメリカ国旗ですが、紐のように長い旗です。
日本軍人の写真も飾ってあります。
ここでちょっと昔のエントリに挙げた記事をもう一度引っ張ってきますね。
横須賀基地見学記 米軍の意外な日本への軽蔑的態度”
日本の議員(みんす党議員です)の協力の下、環球時報の記者は8月28日に横須賀基地訪問を申請、
同月31日に許可が下り、中国に最も近い米軍空母「ジョージ・ワシントン」に乗船した。
◇日本を象徴する神社は米軍にとって飾り
在日米海軍が直轄する6つの基地のひとつである横須賀海軍司令部の建物は
かつての旧日本海軍の「横須賀鎮守府」の所在地だ。
建物のロビーには両国の重要な海軍将校の肖像画が掛けられている。
ネイランド事務官は19世紀の日本海軍の肖像画を指差し、
「彼らは友だちだ」とし、その横の太平洋戦争時代の日本海軍の将校は「悪人」扱いした。
民主党の議員に口をきいてもらって在日米軍の施設に忍び込んだ中国人が、
アメリカ軍人の日本に対する「軽蔑」だけを、おそらく誘導によって引き出し、
それを得々とこうやって本国に伝えている、という実に不愉快な記事であるわけですが、
このネイランドという事務官が大東亜戦争の将官をどう「悪人扱い」したのか、
それともアメリカ人特有の軽口をそうだと解釈したのかはともかく、
「友達」認定されていたのが、東郷平八郎であり、この加藤寛治であるのは間違いないでしょう。
これは誰でしたっけ・・・有栖川宮威仁親王?
右側の人物が日本人にしか見えなかったので写真を撮ってみましたが、
全員アメリカ軍人で(そりゃそうか)、これは、ここを接収後、
アメリカ軍人の精神的な慰めを急務として(PTSD?)教会が建てられたのですが、
その工事途中、チャプレンつまり従軍牧師が建物の基礎に「タイムカプセル」
(真ん中の人物が持っている)を埋める儀式をしているところだそうです。
タイムカプセルに何が入っていて、いつ開けるのかは全くわかりませんでした。
でた、千羽鶴。
餓えと病気に悩むアフリカ(だったかな)のある地域に、これを送った連中がいて、
現地の人々は「薬なのか、お金なのか」と、一つ一つ鶴を開いて調べた、
(がもちろん何も無かった)という話を、確か犬養道子さんが書いていました。
犬養さんの言いたかったのは、
「災害地に鶴を送るなんてのは自己満足だ」
ってことなんですが、わたしもかなりそう思います。
とにかくこれは、「ボランティアに感謝する」という印だそうです。
誰が誰に感謝してのことかはわかりませんでした。
日本国民の感情に配慮している米軍としては捨てるわけにもいかないので
とりあえずここに掛けておこう、という感じに見えました。
こんなもの貰った方も無下に捨てるわけにもいかないですよね。
世間的には顰蹙を買うかもしれませんが、わたしはこれを「折り鶴テロ」だと思います。
貰った方にそれを「ありがたく思わねばならない」ことを強制するような、
この気持ちの押しつけは、もはや小テロリズムと呼ぶしかありません。
そろそろ集合時間です。
ツァーの見張り、じゃなくて親善のために付き添っている二人の軍人さんは、
こういった施設もよくご存知のようで、世間話に興じています。
フラッシュを焚かなかったので画面が暗くなり、右側の軍人さんの顔がが見えま・・・おっと。
見学の長さは人によってまちまち。
エントランスに敷かれたマット。
歴史的建築物を保護するためにも、こういう配慮をしてくれているわけです。
(というか雨が降ったらきっとここは滑るせいだと思う)
たかが階段なのに、手すりが全て石造りとか、豪華すぎ。
この建物の影に、ふと気づくと大砲がおいてありました。
かなり古い、日清戦争あたりの武器ではないかと思いますが、どうでしょう。
さて、その隣には、旧横須賀鎮守府庁舎があります。
最初の庁舎は明治23年にここに建てられたのですが、関東大震災で倒壊してしまい、
この庁舎の建て替えが済んだのは大正15、1926年のことです。
もちろん進駐軍接収後、現在に至るまでアメリカ軍の司令部庁舎として使われています。
ブルーの旗が掲げられていました。
司令官がいるという印だったかな?(曖昧)
ここに星条旗が揚がったのは昭和20年8月30日のことです。
日本の旗が揚げられるようになったのはいつからだと思いますか?
わたしの推測ですが、これは日本が独立したサンフランシスコ講和条約以降でしょう。
この条約が締結した昭和27年以降、日米安保条約発効によって、
ここに米軍が「接収」から形を変えて「駐留」することになったからです。
両国旗のほかにある青い旗は、国連旗です。
駐留後、どのように内装が改装されたかは、長らく門外秘になっていたようですが、
平成14年(2002年)、施設内のクレーン解体時に許可されて以降、
基地内の施設調査が認められるようになりました。
これで、横須賀市教育委員会が行なう調査結果を、
米海軍横須賀基地当局との間で共有することができるようになったのです。
また、旧横須賀鎮守府庁舎でも改修時等に調査が実施されました。
関東大震災で前庁舎が倒壊したことを受けて設計されたこともあって、
この新庁舎は、耐震設計を施されていることがその際わかりました。
つまりこれは日本の耐震設計の草分けとも言える建築物だそうです。
改装の主なものは、内部の照明器具であったということですが、
こういう外灯はおそらく昔のままであろうと思われます。
上の全体写真を見ていただきたいのですが、三階の右側部分、窓がありませんね。
建物の美観から考えてもあまり行なわれない設計だと思うのですが、これは
米軍が使用するようになってから三階部分の窓のうち八ヵ所が塞がれてしまったのです。
在日米軍が昭和40年(1965年)頃に、アメリカ本国からの要請に基づき、
情報を取り扱う部署がある三階部分について窓を塞ぐ改築をした、という話ですが、
それも詳細は(おそらく機密なので)明らかになっていません。
というわけで、ツァーはいよいよ終わりに近づきました。
ここであらためて、見張り役の軍人さん二人に感想を聞いたりします。
感想ったって、いつもの職場を二人でおしゃべりしながら歩いていただけで、
取り立てて何もなさそうでしたけどね。
それでも、そつなく彼らは
「いつも働いている職場だけれど、初めて見る施設もあった」
なんて言っているではありませんか。
法務部勤務の女性士官、カメラ目線(笑)
最後の見学スポットとなったのは、基地内労働者感謝の碑。
基地内労働者、というのは他でもない日本人労働者のことです。
アメリカ軍がここを接収したあとも、米海軍にそれをする部門が無かったので、
ドックを管理する労働者はそのまま米軍の配下に入り仕事を続けました。
彼らは徹底した職業意識と技術者の矜持を持ち仕事に当たったため、
おそらくアメリカ軍人たちはその姿に感銘を受けたのだと思われます。
この碑の最後には、
「1945年から変わらぬ忠誠とプロフェッショナリズムを基に労働をした
日本人労働者たちに感謝を捧げる」
と書いてあります。
シベリア抑留の労働者たちもそうでしたが、本当に日本人って素晴らしい民族ですね。
そうかと思えばこんなところにタバコのパッケージを捨てるアメリカ人もいると(笑)
というわけで、全行程終了して、帰途についたわたしです。
お土産は、横須賀軍港ツァーの案内所(お土産やになってる)で買った護衛艦カレー。
最後に。
見学した建物に掲げてあった、オペレーション・トモダチへの感謝の言葉。
私たちは東北の大震災と津波被害において米軍の助けを受けている人々に代わり、
「オペレーション・トモダチ」でのあなたがたの偉大な努力と心からのサポートに対し、
心より感謝の意を表したいと思います。
これは素直にわたしも言いたい。
あのニュースを聞いたとき・・・米軍が第七艦隊を出動させる「トモダチ作戦」を発動したとき、
思わず感動と感謝の涙が溢れた日本人はわたし以外にもきっとたくさんいたはずです。