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記念艦三笠~海軍音楽隊かく戦へり

2013-09-17 | 海軍

週末は海上自衛隊音楽隊の演奏を堪能したわたしですが、
続けて、今日は旧海軍時代の軍楽隊の話題と参ります。


かねてから読者の方から日本海海戦に三笠乗組で参戦した
元海軍軍楽隊長・河合太郎氏の「軍楽隊員かく戦えり」
という手記を戴いていたので、これをご紹介させていただきましょう。

河合太郎氏は明治17年生まれ。
日露戦争当時、三笠乗り組みの三等軍楽手としてコルネットを吹いていました。
朝8時と日没に君が代を演奏し、戦闘中は戦闘員として無線助手をしたり、
伝令を務めていたそうです。

それではどうぞ。




「軍楽隊員かく戦えり」

5月27日、全艦隊は根拠地鎮海湾を出発、対馬海峡へ向かった。
私たちは出陣の晴れ着にと、戦闘服から褌にいたるまで、
みな新調品に取り替えた。
原籍と自己の戦闘配置を記した小型の木札を肩から掛け、
少量の毛髪と爪とを私用の小箱に納め、死を覚悟して戦いに臨む準備をした。

艦隊は対馬海峡を南下しつつあった。
正午過ぎ「総員甲板に集合」の号令が艦内に伝わった。
揺れ狂う甲板の上では足を支えることも困難なくらいであったが、
みな緊張して後甲板に走った。

「一同に訓示する」

館長伊地知大佐は12インチ砲塔の中段から、
やがて声を新たに厳然として訓示を始められた。
67年を経た今日でも、私はこれを暗唱できる。

「本官は最後の訓示をする。
諸子もすでに承知の通り、今から一、二時間の後には待ちわびた敵
バルチック艦隊といよいよ雌雄を決戦とするのである・・・」


艦長の癖であった右指一本で小鼻を撫でてはにじむ涙を拭き、つづけた。
その終わりの言葉はこうだった。

「諸子の命は本日ただいま、本官が貰い受けたから承知ありたい。
本官もまた、諸子と命をともにすることはもちろんである。
いまからはるかに聖寿の無窮を祈り、あわせて帝国の隆盛と
戦いの首途(かどで)を祝福するため、諸子とともに万歳を三唱したい」と―。




艦長伊地知大佐の訓示が終わってから数時間後、
煙突を黄色に塗った敵艦が姿を現した、
そのとき一人の水兵が大きな声で叫んだ。

「おい、金玉はだらりとしているか。硬くなっている奴は臆病者だぞ」

みな自分のものを点検して大丈夫だといったが、わたしのは平常より
ややという気がしないではなかった。

間もなく戦闘ラッパがなり、もうこれで逢えないぞ、元気で頑張れと
各自の配置に飛んで行った。
いまでもときおり想い出しては、独り笑いをすることがある。



そしていよいよ戦いが間近に迫ったとき、

「皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」

この訓示が私の伝声管に響いてきた。
すぐ砲塔無いはもちろん、各伝声管に伝令した。
下甲板の弾庫で鬨の声があがった。
今こそ命を、国に献(ささ)げるときが来たのだ。
いいあらわし難い感激が若い私の総身をふるわせたことを忘れられない。



太陽は没し暗夜の海を全艦隊は追撃を続けていた。
いたるところ弾痕の刻まれた上甲板で、私は無事であったことを不思議に思った。
中、下甲板は負傷者であふれていた。
浴室に運ばれた戦死者が、まるで鰯でも積み重ねたように見える。
合掌して、冥福を祈った。

水兵たちは明日の戦闘の準備に余念がない。
私たち軍楽隊の健全なものは、負傷者の看護に夜を徹した。
私は二人の重傷者を受け持った。
一人は東北出身の福岡二等水兵。
彼は右足を膝から下と左足首を失っていた。
艦内の温度が高いため折り重なった肉体からはすでに臭気が発している。
耳元で「しっかりしろ。何か言うことはないか」と叫んだが、
彼は目を閉じたまま「遠い、遠い」とつぶやいただけであった。
何が遠いのか、敵艦との距離か故郷か旅路か、今でもわからない。

もう一人は岐阜県出身の吉田菊次郎一等水兵で、
上甲板右舷6インチ砲の射手であった。



激戦中敵弾が命中し、村瀬水兵以外は全員死傷。
彼は両脚をひざ下からもぎ取られ、おびただしい出血で死を約束されていたが、
ときどき大きな声で

「なにくそこの野郎、あっ、命中!弾を早く持ってこい」

と怒鳴った。
それも次第に弱くなり青ざめていた。
「何か言うことはないか」
と聞いても、相変わらず戦いのうわごとである。

急いで軍医長を迎えに行くと、鈴木軍医総監が来た。
色を失った彼の唇がヒクヒク動き、かすかに

「テッ、テッ、テッ・・・・」

ときこえた。
砲撃のうわごとかと思った。
しかし、かれが言いたかったのは

「天皇陛下万歳」

の一言だったのである。
息絶えた骸(むくろ)に私たちは暗然として頭を垂れた。



バルチック艦隊は全滅した。
が、まだ戦時体制である。
聯合艦隊は九州方面の沿岸警備についていた。
9月9日、第一艦隊は佐世保に入港。
東郷長官は秋山参謀その他の幕僚とともに陸路上京された。
兵員は予定作業を終えると、夕刻から半舷上陸外泊を許された。

ひさしぶりに土を踏む喜び。
10日は残りの兵員。
在艦の兵員は、昨夜の思い出を語り合った。
その夜、十時過ぎ、大音響とともに火薬庫が爆発、三笠は爆沈した。


三笠軍楽隊の先任下士官一等軍楽手河野定吉は
九日上陸し佐世保の自宅へ戻った。
かれは大のウナギ好きであった。
夫人はそれを良く知っていたが、満足してくれそうな鰻が見つからず、
明後日の上陸番にはおいしいものをたくさん買っておくことを約束した。
いささか不満ではあったが、かれは夫人の気持ちを察し、山海の珍味で祝杯を挙げた。

翌日帰艦し、その夜、かれは爆死した。

生き残ったかれの親友が自宅を訪れたとき、夫人は真っ赤に泣き腫らした瞼をおさえ、

「ごめんなさい、どんなにか鰻が食べたかったことでしょう。
こんなことになるんだったら諫早まで出かけても買ってくるのでしたのに、
勘弁してください」

と遺骨の無い仏前に泣き伏してしまった。
仏前に供えられたたくさんのかば焼き、その匂いと立ち昇る香の匂いとが混じりあい
悲惨だった、とその友は話してくれた。

三度の爆発で水中に沈んだ三笠は、
満潮時に煙突の半分、干潮時になると上甲板が見えた。
艦の引き揚げ作業に従事しているたくさんの船には、
『三笠引揚御用船』と書いた立札がたっていたが、
何回引き揚げようとしても沈んでしまうので、口の悪い兵隊スズメは、
三笠引揚御用船ではなく三笠引揚用船(ようせん、よう出来ないの意)
とやじった。

その三笠も、いまは横須賀港の岸壁に記念艦として保存されている。

(文芸春秋臨時増刊 昭和47年11月号)



河合太郎氏は戦後呉に在住し、
昭和51年に92歳で亡くなるまで吹奏楽の普及に尽くしました。

91歳の時に瀬戸口藤吉作曲「日本海海戦」を指揮して、
レコード録音を残しています。

現在海上自衛隊呉音楽隊が練習室として使用されているのは
「桜松館(おうしょうかん)」といい、旧海軍が下士官兵集会所に隣接して建てたものです。
ここには小さいながら「河合太郎のコーナー」があり、
河合太郎が使用していたタクトや叙 勲の勲記・勲章、著作物などが展示されているそうです。


亡くなる直前、「日本海海戦」という瀬戸口藤吉の楽曲の録音に
91歳の河合はタクトを取りました。
しかしそのときの演奏が気に入らず、ついには「だめだ!」と叫んで
椅子から立ち、楽団員をはたと睨み据えました。
そのときの河合の姿は海軍軍楽隊長そのもので、軍楽隊の経験を持つ何人かの隊員が
昔を彷彿とし、かつ威儀を正さずにはいられない気迫に満ちていたそうです。