小学生のころ、「ワシリイの息子」という題の子供向けの本を読みました。
ある日、少年の家にやってきたロシア人の少年。
少年たちの父親は、その昔シベリアで知り合いだった。
抑留されていた父と、コサック兵として囚人の見張りをしていたロシア人ワシリイ。
極寒のシベリアで重労働をする日本人に同情を寄せるワシリイは、
次第に少年の父と心を通わせていく。
戦争が終わり、日本に帰っていった亡き父の友人をはるばる日本に訪ね、
「ワシリイの息子」は、何を伝えようとしたのか―。
この童話によってわたしはシベリアに抑留されていた日本兵のことを知りました。
そこの受労働が過酷なもので、たくさんの日本人が劣悪な環境のもと、
二度と日本の土を踏むことができなかったことを。
この抑留による死者数は事実上34万人、名簿があるのはわずか数万人。
このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証した
ポツダム宣言に背くものでありました。
ロシアのエリツィン大統領は1993年10月に訪日した際、
「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」
と表明しています。
その抑留中に日本人が造った建築物が話題になったことがありました。
中央アジアに位置するウズベキスタン。
8 月末に首都タシケントにある「ナヴォイ劇場」で、
團伊玖磨作曲の「夕鶴」が上演されたときです。
このときに、当時抑留者としてタシケントにいた元陸軍軍人が、
日経新聞に手記を寄せていますので、ご紹介します。
私は客席で感無量の気持ちを抑えきれずにいた。
ナボイ劇場は戦後、旧ソ連軍の日本人捕虜だった我々が
建設に従事したオペラ・バレエ劇場だ。
そこで日本人が作曲したオペラを聞ける時が
80 歳の今日になって来るとは、信じられない思いだった。
ナボイ劇場は延べ床面積 15,000 平方メートル、
観客席 1,400 で煉瓦(れんが)造りのビザンチン建築物である。
1947 年に完成し、同地の大震災の時もほとんど被害がなかったという。
約240人の仲間と第四ラーゲリ(収容所)についたのは45年10月。
まだ25 歳だったが少佐以上の将校が別の場所に送られたため、
私が「タシケント第四ラーゲリー」の隊長となった。
後に収容所の人数は増え450人を超えた。
ナボイ劇場は第二次世界大戦中、建設工事が中断していた。
戦後、現地のウズベク人、ロシア人などが劇場建設を再開し、
捕虜のドイツ人は所内で靴修理に従事していた。
劇場建設に関わった我々の作業は、土木、煉瓦積み、彫刻、鉄工、
配線、大工、左官、電気溶接、測量など多岐にわたっていた。
朝六時に起き、八時から昼の十二時まで作業。
午後は一時から五時まで働き、夕食後から消灯の九時までは自由時間だった。
隊長としては皆が無事に帰国するまで絶望せず、
肉体的にも衰弱せずに過ごすよう気を配らねばならなかった。
将校は私も含め大学や専門学校卒業直後に入隊した20 歳代前半の者が多く、
労働や食事なども仲間と同じだった。
我々の隊は元来飛行機の修理が仕事である。
機械、電気、板金、エンジン、計量器、配管、溶接と専門家がそろっていた。
中でも若松律衛君という大卒の建築技術者がいろいろアドバイスし、
ソ連側も一目置いていたようだ。
私は仲間に以心伝心で疲れぬように働けと伝えたつもりだったが、
それでもソ連側の期待以上に作業は進んだ。
気晴らしの道具もすぐに見つかった。
作業上の床板などで麻雀(マージャン)牌、将棋の駒、碁石などを器用に作った。
麻雀のレートは千点で配給の砂糖小さじ一杯分だった。
さらに現場の資材の利用で舞台、幔幕(まんまく)、衣装、
バイオリンをはじめ楽器類なども作った。
本職の役者がいて演技指導し、「国定忠治」や「婦系図」などを上演した。
こうなるとソ連軍将校が関心を持ち「次は何をやるか」と聞いてくることもあった。
無論,不幸なことに変わりはない。
食事は常に不足して、私も栄養失調で歩くのがやっとの時期があった。
南京虫には悩まされ、月一回のシャワーは石けんを流し終える前に湯が切れた。
冬は建設現場の足場板を持ち帰って部屋の薪にしていたが、
後にばれて厳禁となった。
二人の仲間が事故で亡くなった。
それでもシベリア労働などに比べれば恵まれていた。
現地の人々と風ぼうが似通っていたこともあり、
作業現場では人種差別もなく片言で会話を交わし、良好な関係だった。
47年の完成間近に,バレエなどの練習を見せてもらった仲間もいたという。
ナボイが完成するとみな別々のラーゲリに分かれ、
やがて帰国した.私は 48年7月に舞鶴に到着した。
ウズベキスタンと日本の関係が近くなったのは同国が91年に独立してからである。
民間の日本ウズベキスタン協会が発足し、昨年(平成12年)は
羽田孜元首相とカリモフ大統領との会談がきっかけで夕鶴公演の話が進んだという。
今年(平成13年)5月になくなった團さんも,生前大いに乗り気だったという。
私もかつての収容所仲間とともにタシケントを訪れ、一週間滞在した。
演出家の鈴木敬介氏はナボイ劇場の歴史の重みを感じ、涙混じりでリハーサルをしたという。
当日は一、二階だけではなく普段は入らない三階席まですべて埋まる盛況ぶりだった。
鶴の恩返しをテーマにしたオペラだから、現地の人々にも理解しやすかったのだろう。
最初に10人近くのウズベキスタンの子供たちが日本語で歌を歌う場面があり、
強く心を揺さぶられた。
フィナーレでは観客が総立ちになって拍手していた。
戦争終了後異国で強制労働に従事させられ、
青春の数年間を抑留生活で失ったことは、取り返しのつかぬ損失と思っている。
しかし、今回戦友の墓参りが出来、またナボイ劇場で、
我々の建設当時とほとんど変わらぬ姿であることを確認できたのは大きな喜びだった。
完成時に劇場の庭に植えたポプラやプラタナスの若木が20メートル以上になっていた。
この木が枯れぬよう友好が続いてほしいと願っている。
(元タシケント第四ラーゲリ日本軍隊長 永田行夫陸軍技術大尉)
日本経済新聞,平成13 年9月26日版
タシケントは人口約250万人の大都市で、政治、経済、商工業の中心です。
1966年4月26日にここで大震災が起こりました。
この震災では町の建物のほとんどが瓦礫と化してしまいました。
ところが、ナボイのオペラ劇場など、
第2次世界大戦後シベリアに抑留されていた日本人が
強制労働で建設した建物だけが、この震災に耐え、びくともしませんでした。
何キロにもわたって、舗装の下には煉瓦の敷き詰められた道路です。
それだけではありません。
未だに人々が使用している建物、学校だったりアパートだったり。
そしてこの地方のどこを訪れても、日本人が働いていた様子が語り継がれており、
日本人は勤勉で規律正しい人達だだった、嘘をつかない人々だったと
人々は口をそろえて言うのだそうです。
あるウズベキスタンで生まれ育った人の話です。
「子供の頃、日本人が入っていたラーゲリ(収容所)の近くに住んでいた。
日本人は毎朝、挨拶をし隊列を組んで仕事場に出かけていった。
夕方また隊列を組んで戻ってきた。
ある時お腹が空いていることだろうと思って、
友達とラーゲリの垣根の壊れたところからパンと果物を差し入れた。
そうしたら二、三日後に、手作りの木のおもちゃが置いてあった。
親から、『日本人は規律正しい人々だ。
勤勉で物を作ることがとても上手な人達だ。
そしてお返しを忘れない律儀な人々だ。
あなたも日本人を見習って大きくなりなさい』と言われて育てられた」
タシケントの日本人墓地には強制労働で亡くなった方のうち、
氏名が判明した79名が今も眠っています。
そして劇場敷地内にある記念碑には、
日本語で次のような言葉が刻まれているのです。
「1945年から1946年にかけて極東から強行移送された
数百名の日本兵士が、この
アリシェル・ナヴォイ劇場建設に参加し、その完成に貢献した」
苦しい抑留生活の中でも規律正しく、優しさと日本人としての誇りを失わず、
その高潔な振る舞いで現地の人々に尊敬された抑留兵の方々。
日本人として心から敬意を表し、感謝を捧げたいと思います。