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海上自衛隊資料館に行った

2011-11-07 | 自衛隊

大和ミュージアムから道一本渡ったところにある、この海自資料館ですが、退役した潜水艦
「あきしお」がそのまま展示されていてある意味大和ミュージアムより見学の値打ちがあります。
しかし、こちらは無料。
自衛隊の広報施設なのでお金を取らないのです。
そう言えば陸自の体験型広報施設「りっくんランド」を視察したR4大臣が
「有名なテーマパークはお金を取るけどリピーターが絶えない。こっちも料金取ってはどうか」
とのたまったそうですね。

・・・何でこんな奴が大臣なの?

といまさらなことをいまさら言っても仕方が無いので本題。



この資料館の展示は大まかに言って二部に分かれます。
潜水艦「あきしお」の内部に入り、またその生涯とどうやって潜水艦をここに設置したかを知る部分。
そして、入ってすぐに見るのは「機雷」。
そう、この資料館のメインは、実は自衛隊が行ってきた掃海活動を伝えることなのです。



「飢餓作戦」。(Operation Starvation)
機雷の掃海活動について語るには、まずこの言葉から説明せねばなりません。

これは太平洋戦争末期にアメリカ軍が行った日本周辺を機雷で封鎖するという作戦名です。
日本の内海航路や朝鮮半島航路に壊滅的打撃を与え、
戦後も海自
の戦術思想や日本の海運そのものに影響を残したと言われるこの作戦は、
海で四方を囲まれた国日本を兵糧攻めにするために、
効率よくシーレーンを機雷によって封鎖していくというものでした。

投下された機雷、その数12135個。



終戦後に残された6000個余りの機雷。その残機雷に触れ、三艘の貨客船が沈没、
合計1200名以上の人命が犠牲になっています。
そのため、生き残った海軍の艦艇を使い、飢餓作戦で投下されたもの、そして
防御のために海軍が敷設していた5万5千個の機雷の除去も行われることになりました。
しかし、もともと掃海用に作られたフネではないので、当初は掃海具の投入、揚収を全て人力で行ったそうです。



日本軍の機雷は簡単な構造でしたが、米軍がB29から投下したそれは処分の難しい感応機雷や複合感応機雷で、
そのため危険海域をわざわざ航海し、機雷の有無を確かめる特攻作戦まで取られました。


1954年にはアメリカから掃海用の艦が貸し出されましたが、隊員たちが驚いたのが
「風呂があり、食堂がある」ことだったというのです。
いかに劣悪な環境で彼らが掃海活動に命を懸けなくてはいけなかったのかが分かる逸話です。

そして、77名もが掃海作戦の犠牲となって命を失っています。



爆発により機体がペチャンコになったフロート。
フロートとは、複合掃海時に音響掃海具を吊るして使用するものです。

 

何となく「後から手描きで描いてみました」風の可愛いイラストが・・・。

 

この掃海隊員の中でも「水中処分員」について少し。
「触雷特攻」をしていたころの殉職者は、77名の殉職者のうちのほとんど占めます。

しかし、技術が進歩して遠隔操作による掃海に方法が移行していっても、
やはり人の目に届かない海中では最終的には実際に人間が確認することになります。
1962年から処分員が配置され、確認と機雷破壊を人の手で行うようになるのですが、
これは系緯機雷の処理をする上でやはりその方が確実だったからということのようです。



水中処分員の装備です。
機雷は遠隔から掃射するという方法になっても、その仕上げは処分員が人の手で行います。
この黄色いものは半開式潜水具と言い、機雷の感応を防ぐために気泡が出にくく磁気を極力抑えています。

この装備で彼らはヘッドランプの灯りと手に持ったハンドソナーの反応だけを頼りに、
真っ暗な海中をいつ爆発するかもしれない機雷に向かって降下していくのです。
そして、機雷を見つけると爆薬を取り付けた後避退するのですが、
爆発を避けるためにであっても、上昇のスピードが速いと潜水病になる惧れがあります。

つまり、接敵から避退に至るまで、恐怖心と戦い、かつ冷静を保つ、並々ならぬ精神力が
体力以上に必要となってくるのです。

ここでまったく関係ない映画「海猿」の話を。(先日観たばかりですので)

訓練中脚を挟まれ海底から抜け出せないバディ(パートナー)と取り残された仙崎。
アクアラングは訓練の関係で二人に一つ。
バディは「俺はいいからもうおまえはアクアラングをしょって行け」と合図します。
仙崎はしかし、酸素の無くなるまで一つのアクアラングで海底にとどまることを選びます。

一緒に観ていた息子がこう言いました。
「アクアラングは脚の挟まれた人に残して、仙崎が泳いで海面に出て助けを呼んだらいいんじゃないの」

そう。何故仙崎がバディにアクアラングを残してとりあえず海面に上昇しなかったのか。
彼らは2分以上水中に無呼吸でいられる訓練を受けていたはず・・・。

その答えは、この「潜水病」なのですね。
呼吸が苦しければ一目散に海面を目指すことを余儀なくされ、下手すれば心停止、
良くても視力が失われるなどの重篤な減圧症にかかることになります。

処分員が万が一この減圧症になった場合は、母艦に減圧装置が備えてあり、
ここに収容されて回復を図ったそうです。




しかし、最近では機雷処分具も変遷を遂げ、処分用機雷を搭載して自走し目標に近づく、
海中ロボットに近いものが開発されています。
機雷掃海から掃討戦術に移るとともに高性能化が図られてきました。

最初のS-4型は搭載している艇(はつしま)を目標に近づけ、その真上にこれを誘導して、
処分用機雷を投下し、時限式で爆破処理するものでした。
ペルシャ湾の掃海作業で使用されたのもこの型です。



20ミリ機関砲です。

こちらは水面に浮上した系緯切断した機雷を銃撃で「やっつける」ための機関砲。
機関砲弾を機雷本体に貫通させ水没させるためのものですが、
水没させるだけでは危険性を除去することはできないとして、最近は用いない手法です。

しかし、勝手な予想ですが、一応系緯切断されているわけですから、
危険と隣り合わせで緊張の連続であったであろうこの破壊作業の中では、
隊員たちのちょっとした「息抜き」というか「楽しみ」になっていたと言うことはないでしょうか。
もしかしたら、零戦の20ミリ砲を撃ってみたい、とひそかに憧れている隊員もいたかもしれないし。

 


湾岸戦争当時、各国が軍隊を派遣する中、
国会を中心に自衛隊を「出す」「出さない」で大騒ぎしていた我が日本。
結局憲法9条が足を引っ張り、巨額のお金を出すことで済ませたものの
「日本は血も汗も流さない」と感謝どころか世界からは非難ごうごうでした。
93年、クェート政府はアメリカをはじめ、協力各国に対する謝意を示す新聞広告を出しましたが、
その中に日本の名前が無かったのは有名な話です。

その苦い思いを払しょくするべく国際貢献のアピールを目的に決定した自衛隊のペルシャ湾掃海作戦。
国内反対派からは派遣そのものに対する非難。
国外からは金しか出してこなかった日本がどのような国際貢献するのかという注目。
そんな精神的な重圧に耐え、彼らは文字通り生命の危険を冒して掃海活動をし、
日本の国際貢献を世界に印象付けました。

実はそれまで最も肩身の狭い思いをしていたのが現地の日本企業でした。
「金しか出さない日本とはビジネスはしない」
と日本企業のビジネスマンは名刺も受け取ってもらえない状態だったそうです。

そんな中、ペルシャ湾に颯爽と現れた海上自衛隊。
この任務は公的には戦後初めての海外における作戦任務になりました。


海上自衛隊がペルシャ湾に到着したとき、
冒頭画像の軍艦旗を涙で迎えたのは、他ならぬ現地の日本人であったということです。